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第4話 母さんの服と、美の女神

「あなたが気にしなくても、俺は気にするんです」


 言い切ってから、俺はもう一度、閉じたクローゼットに向かって頭を下げた。


「……母さん、本当にごめん」


「先ほども謝っていたわね」


 背後から、呆れた声が返ってくる。


 当然ながら、母さんからの返事はない。振り返ると、タオルを巻いた女神さまが、濡れた銀髪をもう一枚のタオルで拭きながら俺を見ていた。


「衣服を借りるだけでしょう?」


「母さんの許可を取ってませんから」


「必要なら、後で伝えればいいのではないの?」


「その『伝える』の難易度が問題なんです」


「美の女神エルミナが降臨したと、そのまま伝えればいいでしょう」


「それを信じてもらえると思います?」


「事実よ」


「事実なら何でも通ると思ったら大間違いです」


 試しに、頭の中で電話をかけてみる。


 ――もしもし母さん? 昨日、部屋の空間に亀裂が入って女神さまが降ってきたんだけど、今朝その人が何も着ないで風呂から出てきたから、母さんの服を貸していい?


 ……うん。どこで区切っても、次の便で帰国される。


 じゃあ「女の子を泊めてる」とだけ言えばどうなるか。今度は別方向の質問が、機関銃のように飛んでくる。誰。いつから。どういう関係。なんで黙ってたの。無理だ。防ぎきれる気がしない。


 黙って借りるのは気が重い。でも、タオル一枚の女神さまを放置する選択肢は、それ以上にない。


 俺は覚悟を決めて、クローゼットの扉を開いた。


 防虫剤と、かすかに残った柔軟剤の匂い。


 ……この匂いだけで「ちゃんと食べてるの?」という母さんの声まで再生されるんだから、記憶というのは厄介だ。


 父さんの服はほとんど赴任先へ持っていったが、母さんの服はそれなりに残っている。季節外れのものや、向こうでは着ないと置いていったもの。派手な服はほとんどない。簡素で動きやすくて、色の落ち着いたものばかりだ。


 女神さまが、俺の肩越しに中を覗き込んだ。


「ずいぶん多いのね」


「普通だと思います」


「同じような衣服が何着もあるわ」


「用途と季節が違うんです。洗濯中の着替えも要りますし」


「一着を神力で清めれば済むでしょう」


「済みません。普通の人間は洗濯機を回して、乾くまで待つんです」


「不便ね」


「昨日からそれ、何回目ですか」


 ハンガーを一つずつ確かめていく。


 女神さまは同年代の女子より少し背が高い。母さんとまったく同じ体格ではないが、俺の服よりは絶対に合う。


 白いブラウス。淡い青のカーディガン。丈の長いスカート。部屋着になりそうな、ゆったりしたシャツ。袋に入ったままの新品の靴下。


 順調だ。順調だった。


 下着の引き出しに手を掛けたところで、俺の動きは完全に停止した。


 いや。


 いやいや。これは無理だ。世の中には越えてはいけない一線というものがある。


「どうしたの?」


「……母さんが使っていた下着まで、勝手に貸すわけにはいきません」


「ほかの衣服は借りるのでしょう?」


「同じじゃありません」


「何が違うの?」


「違うんです」


 説明は放棄した。この件で女神さまと問答を続けたら、俺の精神が保たない。


 収納の奥を探すと、未開封のカップ付きインナーが出てきた。買ったまま使っていなかったものらしい。


 新品なら、ぎりぎり許される。たぶん。許されると思いたい。


「とりあえず、今日はこれで何とかしてください」


 選んだ服をベッドの上に並べた。


 女神さまは一着ずつ持ち上げ、生地や縫い目を確かめていく。誰かのお下がりだと知っても、嫌がる素振りはまったくなかった。


「平気なんですか」


「何が?」


「ほかの人が着ていた服ですよ」


「清潔なのでしょう?」


「洗濯はしてあります」


「なら、問題ないわ」


 迷いゼロである。


「神界では、衣服を神力で形づくることも珍しくないもの。どの布を誰が所有していたかということに、人間ほど強くこだわる必要はないわ」


 女神さまは白いブラウスを身体の前に当てた。


「それに、私が身につければ、その時点で私の装いになるでしょう」


「母さんの服です」


「今は私が着るのよ」


「借りるだけです。自分の服が用意できたら、洗って必ず返しますからね」


「あなたがそうしたいのなら、好きにすればいいわ」


 ……どうして貸す側の俺の方が、細かいことに執着している人みたいな扱いになるんだ。


 だが、所有の感覚から根本的に違うのなら、言い合うだけ無駄だ。今は一秒でも早く服を着てもらうのが先である。


「では、着替えるわ」


「俺は外に出てます」


 女神さまが不思議そうに首を傾げた。


「先ほどは裸を見ないようにしていたのに、着替えも見ないの?」


「だから見ないんです」


「そこまで徹底するものなのね」


「普通です」


 少なくとも、俺の中では普通だ。この家の「普通」は昨日から崩壊し続けているが、俺の中の普通くらいは死守したい。


 女神さまが追加の質問を繰り出す前に部屋を出て、扉を閉めた。



 廊下の壁に、背中を預ける。


 ……朝から、起きたことが多すぎる。


 今日は土曜日。本来の予定では、洗濯と掃除を済ませて、あとは静かに過ごすだけの日だった。その予定表のどこにも「女神の全裸に遭遇」とか「母さんの服を無断貸与」とかは書かれていなかったはずだ。


 しかも、まだ朝食すら終わっていない。


 そして今、扉一枚向こうで、昨日会ったばかりの女の子が着替えている。


 女神さま。


 昨日まではその呼び名だけで、現実感のない存在として処理できていた。


 今は駄目だ。「着替えている」と意識しただけで、今朝の光景が頭の奥から出てこようとする。


 俺は廊下の時計を凝視した。


 秒針。一周で一分。実に分かりやすい。偉いぞ秒針。お前は余計なことを何も考えなくていい。


 今の俺に必要なのは、この秒針の境地だ。


 ……ところが、一分経っても扉は開かない。二分目も半分を過ぎた。


「女神さま?」


「何?」


「着られました?」


「今、着ているところよ」


「分からないものがあったら聞いてください」


「必要ないわ」


 返事だけは強い。


 昨夜の家電と同じだ。この人が「知っているわ」と言い張る時ほど、実践できていない可能性が高い。


「前後ろとか裏表とか、大丈夫ですか」


「ハル」


「はい」


「黙って待っていなさい」


「分かりました」


 怒られた。


 俺の母さんの服を借りている真っ最中の女神さまに、俺が。


 さらに待つと、扉の向こうで布の音が止んだ。


「入っていいわよ」


「本当に全部着ました?」


「疑うなら、いつまでも廊下にいればいいでしょう」


 ……さすがに、二度目はないらしい。


 念のため一呼吸置いてから、扉を開けた。


 今度は、きちんと服を着ていた。


 白いブラウスに、淡い青のカーディガン。丈の長いスカートに、新品の靴下。サイズは完璧ではないが、当座は十分だ。


 銀髪はだいぶ水気が取れて、淡い青の肩にまっすぐ流れている。


 ――見慣れた服の、はずだった。


 そのブラウスもカーディガンも、母さんが何度も着ていた。休日の朝、ダイニングでコーヒーを飲んでいた姿まで思い出せる。


 なのに。


 今そこに立っているのは、母さんとはまるで違う、同い年くらいの女の子で。


 昨日の白銀の衣装より、ずっと普通の服で。


 普通の服だから、こそ。


 神話の偶像じゃなく、「この家で服を借りて着替えた、一人の女の子」に見えてしまう。


 母さんの記憶と、今朝生身だと思い知らされたばかりの女神さまが、頭の中でどうしても重ならない。重ならないまま、目が離せない。


 ……また、見つめすぎていたらしい。


「似合っているのでしょう?」


 女神さまが、当然の顔で聞いてきた。


「……まあ、似合ってます」


「ずいぶん歯切れが悪いわね」


「似合ってないとは言ってません」


「なら、もっと素直に認めなさい」


「母さんの服だから、少し複雑なんです」


 女神さまはカーディガンの袖に視線を落とした。


「この衣服を、あなたの母親が身につけていたから?」


「そうです」


「衣服に、その人の記憶が残っているの?」


「そういう力の話じゃありません。見る側が勝手に思い出すんです」


「あなたの中で、この衣服と母親が結びついているのね」


「はい」


「でも、私とあなたの母親は別の存在でしょう」


「それも分かってます」


 分かっているから、落ち着かないんだ。


 見慣れた母さんの服の中に、昨日までこの家にいなかった誰かがいる。それも、目を向けるだけで平静を失わされる相手が。


 自分の家なのに、自分の知っているものが、一つずつ別の意味に塗り替えられていく。


 その感覚を説明できるほど、俺自身の中も整理できていなかった。


「とにかく、母さんに悪いと思ってるんです」


「人間は、衣服一つにずいぶん多くの感情を重ねるのね」


「女神さまが気にしなさすぎるんです」


 女神さまは納得のいかない顔で、もう一度自分の袖を見た。


 それでも、俺がこの服を長く着てほしくないと思っていることは、正確に受信したらしい。


「なら、早く私の服を用意すればいいでしょう」


「簡単に言いますね」


「あなたが嫌なのでしょう?」


 一瞬、返事に詰まった。


 ……この人は、理屈はまるで通じないのに、俺が嫌がっていることだけは絶対に見落とさない。


「……そうです。だから、今日中に最低限の服は用意します」


「最初からそうすればいいのよ」


「女神さまが突然降ってこなければ、必要のなかった出費ですけどね」


「美の女神を住まわせるという価値を、お金だけで測るつもり?」


「お金がないと服は買えません」


「ハルが持っているでしょう」


「少しは申し訳なさそうにしてください」


 無理だろうとは思っていたが、ここまで綺麗に迷いなく言われると、いっそ清々しかった。


     ◇


 リビングへ戻ると、作りかけの朝食はすっかり冷めていた。


 トーストは焼き直し、目玉焼きは電子レンジで軽く温める。女神さまは昨夜より迷いのない足取りで、いつもの席へ着いた。


 ――いつもの席。


 まだ二回目なのに、頭が勝手にそう呼んだ。……おい。誰の許可を得て「いつも」になっているんだ。


「昨日の食事とは違うのね」


「朝食ですから」


「朝と夜で、食べる物を変える必要があるの?」


「決まりじゃありません。家と人によります」


 女神さまはトーストを持ち上げ、表と裏を検分するように眺めた。


「これは、昨夜の米とは別の穀物ね」


「小麦です」


「この黄色い物は?」


「卵を焼いたものです。目玉焼き」


「目玉には見えないわ」


「料理名なので、深く考えないでください」


 一口食べると、女神さまは何も言わずに、もう一口かじった。


 昨夜と同じだ。感想を述べる気は一切ないらしいが、口に運ぶ速度だけは相変わらず正直だった。


 俺は冷めかけの目玉焼きをつつきながら、服の調達方法を考える。


 今日は土曜日。店は開いている。本当なら、試着して買うのが一番確実だ。


 けれど、女神さまには身分証がない。人間の街を生活者として歩いた経験もない。昨夜の家電騒動の実績を考えれば、このまま連れ出すのは不安しかない。


 何より――この人は、目立つ。


 マンションを出た瞬間から視線を集めて、隣を歩く俺まで、まとめて見られる。


 想像しただけで、肩に力が入った。すれ違う人が振り返る。誰かが何かを囁く。その視線の輪の真ん中に、俺がいる。


 ……わざわざ、そこへ飛び込む必要はない。


 家の中で済むなら、それが一番安全で確実だ。


「まずは通販で探しましょう」


「つうはん?」


「仕組み、知りませんか」


「欲しい物を選べば、家まで運ばれてくるのでしょう?」


「そうです。ただし、無制限には買えません」


「なぜ?」


「お金が必要だからです」


「それは知っているわ」


「知識としては、ですよね」


 女神さまの眉が、ぴくりと寄った。


「女神さまは、お金を持っていません」


「ハルが持っているでしょう」


「俺の生活費にも限りがあるんです。必要な物を、使える金額の中で選ぶんです」


「必要なら買えばいいのではないの?」


「全部買ったら、食費と光熱費が消えるんです」


「また得ればいいでしょう」


「そんな簡単に増えたら苦労しません」


 会話だけでは、この人が数字を知っているだけなのか、価値まで分かっているのか判別できない。


 俺はテーブルのメモ用紙に「一万円」「千円」と書いた。


「この二つが違う金額なのは分かりますよね」


「私を馬鹿にしているの?」


「じゃあ、どれくらい違うか、生活の中で想像できますか」


「一万円は千円の十倍でしょう」


「数字としては満点です。一万円あれば、俺一人の食費の何日分かになります。千円でも、昨日の夕食の材料はだいたい買えます」


 女神さまは、紙の上の二つの数字を見比べた。


「一万円の衣服を買えば、その分、食事に使えるお金が減るということ?」


「そういうことです」


「では、衣服と食事の両方を買えるだけ用意すればいいでしょう」


「だから、そのために使う金額を先に決めるんです」


「面倒ね」


「それが家計です」


 神界から降臨した美の女神に、土曜の朝から家計の講義をしている。


 昨日の放課後の俺にこれを話しても、絶対に信じない。というか、信じたくないと思う。



 朝食を片づけて、自室からノートパソコンを持ってきた。


 リビングのテーブルに置いて、電源を入れる。


 女神さまは向かいに座ったまま、起動していく画面をじっと見ていた。


「人間は、この板で商品を選ぶのね」


「板じゃなくて、ノートパソコンです」


「呼び方は知っているわ。実物を使ったことがないだけよ」


「知識と経験が別なのは、もう十分学びました」


 ブラウザを開き、女性向けの通販サイトを表示する。


 画面に商品が並んだところで、俺は向かいへ声を掛けた。


「こっちへ来た方が見やすいですよ」


「そうね」


 女神さまはすぐに立ち上がった。


 俺のつもりでは、椅子を少し寄せる程度の話だった。


 のに。


 女神さまはテーブルを回り込んできて、俺のすぐ隣に腰を下ろした。


 近い。


 肩が触れそうな距離に、淡い青のカーディガンの袖。画面に顔を近づけるたび、長い銀髪がさらりと流れて、俺の腕をかすめそうになる。


 ついさっきまでタオル一枚だった相手だ。しかもその前は――やめろ。思い出すな。


 意識するなという方が、無理だった。


 俺は画面だけを見ているふりをして、椅子をほんの数センチ横へずらした。


 女神さまは気づかない。女性物の服が並ぶ画面を、紫色の瞳で興味深そうに覗き込んでいる。


 これで、家から一歩も出ずに服が買える。


 予定どおり。一番安全で、確実な方法を選んだはずだった。


 それなのに俺の心拍数は、さっきから少しも、安全圏に戻ってこなかった。


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