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第3話 女神さまは服を着ない

 廊下の奥で、浴室の扉が開く音がした。


 俺はフライパンの火を弱め、目玉焼きの縁にフライ返しを差し込む。


 昨夜は、寝つくまでにいつもの倍かかった。


 それでも女神さまは、家の物を壊さず、俺の部屋にも入らず、朝まで貸した部屋で眠っていた。今朝は給湯器を最高温度にすることもなく、一人で風呂まで済ませたらしい。


 決めることさえ決めておけば、案外どうにかなるのかもしれない。


 ――と、思っていられた時間は、十秒に満たなかった。


「女神さま、朝食がもうすぐ――」


 振り向いた俺は、その先を言えなかった。


 女神さまが、濡れた足で廊下を歩いてくる。


 腰まで伸びた銀髪は水を含み、いつもより重たげに肌へ張りついていた。毛先から落ちる雫が、床に点々と跡を作っている。


 昨夜の白銀の衣装は、ない。


 タオルも、ない。


 ほかに身体を隠すものも、何ひとつ、なかった。


 濡れた銀髪の隙間からのぞく白い肩。細い腰。すらりと伸びた脚。そして――


 見ていたのは、ほんの一瞬だったはずだ。


 その一瞬で、見えすぎた。


「…………」


「おはよう、ハル」


 女神さまは、昨日食器を運んだ時の百倍堂々としていた。


 一拍遅れて、心臓が跳ねた。


 俺はフライ返しを置き、火を止め、音がするほどの勢いで壁へ向き直った。


 見えなくなった。


 のに。


 消えない。


 水を含んだ銀髪。白い肩。何ひとつ隠していなかった、細い輪郭。


 さっきの一瞬が、瞼の裏どころか、頭の中心に直接焼きついている。


 忘れろ。今すぐ忘れろ。


 そう命じれば命じるほど、頭のどこかが、拾い集めた断片を勝手に組み立て直そうとする。一瞬しか見えなかったからこそ、続きを確かめたがっている部分すら、ある。


 何を確かめる気だ。馬鹿か俺は。


 駄目だ。絶対に振り向くな。


「服を着てくださいっ!」


 自分でも驚くほどの大声が出た。


「急に叫ばないで。朝から騒がしいわね」


「騒ぎますよ! なんで、何も、その――着てないんですか!」


「浴室から出ただけでしょう」


「だから服を……いや、タオルでも何でもいいので、とにかく隠してください!」


 壁しか見ていないのに、顔が燃えるように熱い。


 ……昨日までの女神さまは、正直、現実から少し浮いた存在だった。


 空間の亀裂から降ってきて、光ひとつで壊れた物を直す。人間離れした顔で、当たり前のように女神を名乗る。姿こそ同年代の少女でも、俺の中でのこの人は「女の子」というより、神話の頁から抜け出してきた偶像に近かった。


 触れようとしたら、手が透けて通るんじゃないか。そのくらい、遠い存在。


 ――違った。


 風呂に入れば髪が濡れる。肌には水滴が残る。あれだけ堂々としていても、目に焼きついたその姿には、確かな体温があった。


 銀髪の隙間に見えてしまった、確かな二つの膨らみと、その頂点の――


 いやいやいやいや。やめろ。思い出すな。アホか俺は。


 ともかく、つまり、要するに、結局のところ、そういうことだ。


 あの人は、触れられない遠くの偶像なんかじゃない。


 同じ年頃に見える、一人の、生身の女の子だ。


 その女の子が、昨夜はこの家で眠り、今朝は同じ家の風呂に入り、何の警戒もなく俺の前まで歩いてきた。


 少なくとも本人は、今夜もここにいる気でいる。


 俺は――この人と、同じ家で寝泊まりしている。


 昨日から分かっていたはずの事実が、今の一瞬のせいで、急激に重さを持った。


 家の中では誰の目も気にしなくていい。あの完璧な朝は、昨日で終わったらしい。終わったどころか今は、視線の置き場まで自分で管理しなければならなくなっている。


 背後で、裸足の足音がひとつ、近づいた。


「そこから動かないでください!」


「なぜ?」


「なぜでもです!」


 足音は、止まった。


 言えば止まってくれる。……それを安心材料に数えていい状況なのかは、非常に疑わしい。


「昨日、人間は公共の場で身体を隠すと話していたでしょう」


「家の中でも隠してください」


「ここは公共の場ではないわ。外から閉じられた、あなたの住居でしょう?」


「そうですけど、俺が! 俺が、います!」


「それが何か問題なの?」


 本気で分かっていない声だった。


 俺をからかって楽しんでいるんじゃない。反応を試したわけでもない。ただ、隠す必要を感じなかったから、そのまま出てきた。


 ……それが分かったところで、こっちの心拍数は一つも下がらないんだが。


「神界では、服を着ないんですか」


「着るわよ。衣服は神格や神職、権能、儀礼上の立場を示すものだもの」


「身体を隠すためじゃなくて?」


「そういう役目もあるけれど、第一ではないわね。神界の衣服は、礼節と装飾の意味が強いの」


「じゃあ、外では着るんですよね」


「当然でしょう。議場や儀式で何も身につけないなど、礼装を拒む無礼な振る舞いよ」


「なら、今も着てください」


「ここは議場でも儀式の場でもないわ」


 理屈が、女神さまの中では一分の隙もなく通っているらしい。


 人間が外で身体を隠すことは知っている。男女で着替える場所を分けることも、異性の裸が特別に扱われることも、知識としては全部ある。


 ただそれは「外で守る人間の作法」であって、閉ざされた私的空間に持ち込む理由がない。たぶん、そういう整理なんだろう。


 そして現時点の俺は、身体を隠すべき相手に数えられていない。


 喜んでいいのか傷ついていいのか、まったく分からない扱いだった。


「俺は、その……男です。女神さまとは異性なんです」


「知っているわ」


「知ってるなら、どうして――いや、もういいです。とにかく、家の中でも俺がいる時は服を着てください」


「あなたは、私の身体を見て困るの?」


「困ります!」


 考えるより先に答えていた。


 困る。ものすごく困る。


 それなのに頭の隅では、何がどう困ったのかをもう一度確かめようとしている。だからやめろと言っているんだ、俺の脳。


「人間の男は、美しい女を見れば喜ぶものではないの?」


「そんな単純な話じゃ……いや、喜ぶとか喜ばないとか、今はそういう話をしてません」


「でも、あなたも私を美しいと思っているのでしょう?」


 否定しようとして、言葉が詰まった。


 美しい、の一語で、追い出しかけた光景がまた戻ってくる。濡れた銀髪も、白い肌も、その先の輪郭も。


 やめろ。今それを再生する必要は、どこにもない。


 けれど、忘れようとすればするほど、細部ばかりが鮮明になっていく。


 こんな状況でも、女神さまが綺麗だということだけは、嫌でも分かる。分かるから心臓がうるさくて、顔が熱くて、振り向くことすらできないんだ。


 ……ここで嘘をついたら、たぶんもっと面倒になる。


「そ、それは……思ってますけど」


「そう」


 背後で、女神さまの声がわずかに弾んだ。


 ……今、ちょっと嬉しそうだったな?


「なら、なぜ見ないの?」


「な、なら、じゃありません。綺麗なら勝手に見ていい、とはならないでしょう」


「私は構わないと言っているのよ」


「女神さまが構わなくても、俺が困るんです」


 背後が、静かになった。


 浴室の換気扇と、トースターの余熱の音だけが聞こえる。


「……よく分からないわ」


「今は分からなくてもいいです。やめてください」


 少しの間があって。


「分かったわ」


 不満まみれの声だったが、拒絶ではなかった。


 俺は、詰めていた息をようやく吐いた。


「そこにいてください。タオルを持ってきます」


「ここで待つの?」


「お願いします」


 女神さまに背を向けたまま、キッチンを出る。


 位置を目で確かめられないせいで、ダイニングチェアの脚に足の小指をぶつけた。


「痛っ……」


「前を見て歩けばいいでしょう」


「見られないから困ってるんです!」


 声の位置を頼りに距離を取り、横を通り抜ける。ちらっと視界に入れれば一発で済むのに、それをやったら、何のためにここまで壁と睨めっこしてきたのか分からなくなる。


 洗面所の収納から、大判のバスタオルを一枚引っ張り出した。


「これを使ってください」


 背を向けたまま、腕だけを後ろに伸ばす。


 タオルの向こう端をつかまれた。……が、なかなか手から離れていかない。


「女神さま?」


「美の女神を前にして、ずいぶんな態度ね」


「美の女神でも何でも、まず隠してください」


「私の姿を見ない方が、よほど礼を失しているとは思わないの?」


「思いません」


「少しも?」


「少しもです」


 今度こそ、タオルが手から抜けた。


 布の擦れる音を聞きながら、俺は洗面所の壁の一点を見つめ続けた。我ながら、今この瞬間、世界で一番真剣に壁を見ている男だと思う。


「もういいわよ」


「本当に巻きました?」


「ええ」


「きちんと?」


「あなた、私を疑いすぎではないの?」


「今朝の実績がありますから」


 呆れたようなため息が聞こえた。


「巻いたわ。これで満足?」


 恐る恐る、振り返る。


 女神さまは、胸元から身体に大きなタオルを巻きつけていた。濡れた銀髪からは、まだ雫が落ちている。恥じらいは相変わらず一グラムもなく、むしろ「失礼なのはあなたの方よ」と言いたげに、紫色の瞳を細めていた。


 隠れている。今度は、本当に。


 それでも視線を下げる勇気は出ず、俺は女神さまの顔だけを見た。


 その紫色の瞳が、俺の顔をじっと観察している。


 ……ばれてるよな、そりゃ。


 赤い顔も、整いきらない呼吸も、隠せた気がまったくしない。


 女神さまの唇の端が、ほんの少し持ち上がった。


「顔が赤いわよ、ハル」


「誰のせいだと思ってるんですか」


「私でしょう?」


 一切の迷いなく答えられた。


「昨夜からあなた、ずいぶん平然と私に物を言うんだもの。人間の男として何か足りないのかと思っていたわ」


「余計なお世話です」


「でも、きちんと私の美しさに乱されるのね。少し安心したわ」


「何に安心してるんですか」


「私の美しさにも、あなたの感覚にも、問題はなかったということでしょう」


 俺をここまで取り乱させたことが、美の女神としての小さな勝利として記録されたらしい。


 挑発するような微笑みが、いかにも満足げで、大変に腹立たしかった。



「……もう、裸で出てこないでくださいね」


「それは、今決めた規則に従うわ」


 俺の反応を面白がってはいても、わざと繰り返して困らせる気まではないらしい。そこだけは、ありがたい。


 居心地の悪さから逃げるように、俺は床に残った水滴へ目を落とした。


「新しいルールを追加します」


「また?」


「家の中でも、共用部分では服を着る」


「私とあなたしかいないでしょう」


「俺がいるから必要なんです」


「あなたは見ないのではなかったの?」


「見ないために、壁を見て歩く生活が嫌なんです」


「不便ね」


「誰のせいだと思ってるんですか」


 俺はリビングに戻り、冷蔵庫のメモ用紙に「共用部分では服を着る」と書き足した。


 書いてしまえば、次からは「守るか守らないか」の話にできる。何が飛び出すか分からないまま毎朝を迎えるより、ずっといい。


「それから、風呂を出る前に身体を拭いてください。床が濡れてます」


 女神さまが廊下を振り返った。


 浴室からキッチンまで、点々と水滴の道ができている。


「乾かせば済むでしょう」


「誰が乾かすんですか」


「ハル」


「自分で拭いてください」


 髪用のタオルをもう一枚渡す。


「脱衣所で身体と髪を拭く。そこで服を着てから出る。使ったタオルは洗濯かごへ。床には置かない」


「一度にいくつ増やすつもり?」


「必要なだけです」


「人間は、身体を洗うだけでずいぶん面倒な手順を踏むのね」


「あと、俺が風呂に入っている時は、浴室に入ってこないでください」


「入る理由がないわ」


「理由がなくても決まりです」


「私を何だと思っているの?」


「知識はあっても生活経験のない女神さまです」


 眉が、ぴくりと動いた。


「今、聞き捨てならないことを言わなかった?」


「共同生活に必要な認識です」


 昨夜と同じ、まっすぐ見据えてくる目。


 また怒らせたか――身体は勝手に強張る。強張ったが、今さら曖昧にはできない。


 ここは俺の家で、何が起きるか分からないまま俺だけが一日中気を張って暮らすのは無理だ。絶対に無理だ。今朝の一件で確信した。


 女神さまは俺の顔から、冷蔵庫のメモへ視線を移した。


「……細かすぎるわ」


「守ってください」


「人間界にいる間は、あなたの言う手順に従えばいいのでしょう」


「はい」


「ただし、不要と判断したものは改めさせるわ」


「その時は、勝手に変えずに相談してください」


「注文が多いわね」


 不満はある。それでも昨夜と同じで、最後には受け入れた。



 決めてしまえば、どうにかなる。


 今度こそそう思いかけたところで、俺は目の前の重大な問題に気づいた。


 女神さまが、まだタオル一枚である。


「とりあえず、服を着てきてください。昨日の白銀の服、脱衣所にあるんですよね」


「あるわ」


「じゃあ、それを」


「今は身につけられないわね」


「どうしてですか」


 女神さまは洗面所へ戻り、ほどなく白銀の衣装を腕に掛けて戻ってきた。


 見て、言葉に詰まる。


 薄い布の裾や脇に、細かな裂け目が走っていた。銀色の表面はところどころ輝きを失い、縁からは糸とも光ともつかないものが、かすかにほどけている。


「降りてきた時に傷んだのよ」


「……直せないんですか」


「本来なら、この程度は神力で整えられるわ」


「今は?」


「力を大きく消耗していると言ったでしょう。完全に直すには時間が要るわね」


 女神さまは傷んだ衣装を一瞥して、未練の欠片もなく脇に置いた。


「そんな状態の礼装を身につける気はないわ」


「気位の問題じゃなくて、着られる服が一枚もないのが問題なんです」


「用意すればいいでしょう」


「誰が」


「ハル」


「そう言うと思いました」


 この人は昨夜から、悪い方向にだけは一度も期待を裏切らない。


「……服を買いに行く必要がありますね」


「人間界の衣服には興味があるわ。私にふさわしい物を選びなさい」


「その買い物に着ていく服が、ないんです」


 女神さまは、自分の身体に巻いたバスタオルを見下ろした。


「これでは駄目なの?」


「駄目です」


「身体は隠れているわ」


「その格好で外を歩いたら、今度こそ本当に警察を呼ばれます」


「人間の規則は面倒ね」


「規則以前の問題です」


 通販なら家から出ずに済むが、今日着る物には間に合わない。女性服のサイズも分からない。必要なのは、今この瞬間の一枚だ。


「……俺の服を貸すしかないか」


 自室から無地のシャツと、部屋着のスウェットを持ってくる。


 着るところを見る気は、当然ない。少し離れた位置から、合いそうかどうか身体の幅に重ねて見当をつける。


 ――駄目だ。すぐに首を振った。


 身長差はそれほどでもない。問題は肩と腰回りの形だ。ズボンは紐を締めても歩いているうちに危ういし、シャツ一枚では論外だ。


 女神さまは俺の服を見下ろし、容赦なく言った。


「私に似合うとは思えないわ」


「今は似合うかどうかを聞いてません」


「美の女神が身につける以上、常に重要な問題よ」


「着られないなら、その問題以前です」


 俺はシャツとズボンを畳み直した。


 ほかに、今すぐ使える女性物の服。


 この家で思い当たる場所は――一つしか、なかった。


     ◇


 両親の主寝室へ移動する。


 女神さまも、タオルを巻いたまま後ろをついてきた。「共用部分では服を着る」と決めた五分後にこれである。着る服そのものがないのだから、どうしようもない。


 部屋の壁際には、大きなクローゼット。


 父の服はほとんど赴任先へ持っていったが、母の服は、季節外れの物や向こうで使わない物が残っている。


 ……母さんに連絡して、許可を取るべきだ。それは分かってる。


 分かってるんだが、何と説明する?


 空間の亀裂から降ってきた女神さまが全裸で風呂から出てきたので、服を貸してもいいですか。


 正直に言えば、心配した母さんが海外から飛んで帰ってきかねない。かといって「女の子に服を貸したい」とだけ言えば、たぶん余計に問い詰められる。


 時差的に、今すぐ連絡できる時間かどうかも分からない。


 ……だからといって、無断で借りていい理屈にはならないんだけどな。


 誰にも踏み込ませたくなかったこの家で、俺は昨日から、予定になかったことばかり決めている。


 女神さまを泊めること。


 両親の寝室を貸すこと。


 そして今度は、母さんの服を借りること。


 追い出してしまえば、全部しなくて済む。


 でも、着る物もない相手をタオル一枚で外に放り出すなんて、もっとできなかった。


 俺は閉じたクローゼットの前で、両手を合わせた。


「……母さん、ごめん」


 背後から、タオル姿の女神さまが覗き込んでくる。


「何を謝っているの?」


「あなたが気にしなくても、俺は気にするんです」

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