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第2話 命令に逆らえない

 青白い残光が、目の奥に貼りついていた。


 まばたきをしても消えない。今しがた見たものが何だったのか、頭がまだ整理を拒んでいる。


 フカはリビングの床から少し浮いたまま、動きを封じられていた。四本の足が空を掻き、長い尾が激しく振られる。さっきまで光っていた額の紋様は、もう沈黙していた。


「貴様、おれ様に何をした!」


 淡い金色の瞳が、女神さまを射抜く。


 怒鳴ることは、できるらしい。考えることも、怒ることも。


 けれど、逃げられない。


 女神さまは伸ばしていた手をゆっくり下ろした。


「強制従属印よ」


「強制……?」


 聞き返した俺へ、紫色の目が向く。


「正式な眷属契約ではないわ。眷属契約には、原則として双方の同意が必要だもの」


「じゃあ、何をしたんですか」


「本人の同意を得ず、命令へ逆らう能力だけを一時的に封じたの」


 さらり、と言った。


 明日の朝食の話でもするみたいな声で。だから余計に、言葉の中身が頭へ届くまで時間がかかった。


「命令へ逆らう能力って……」


「人格も記憶も感情も消えないわ。思考も発言も自由よ。私を嫌うことも、怒鳴ることもできる。ただし、私が与えた命令には逆らえない」


「ふざけるな! それのどこが自由だ!」


 フカの叫びへ、女神さまは答えなかった。


 指先を軽く払う。フカを宙に固定していた力が消え、白い身体が床へ落ちた。


 前足が滑る。フカは身体をひねり、どうにか四本の足で踏みとどまった。そのまま着地の勢いを殺さず、開いた窓へ向かおうとする。


「境界院へ私の居場所を知らせないこと」


「断る!」


 フカは叫ぶと同時に前足を上げ、額へ力を集めようとした。


 けれど、銀青色の紋様は光らない。


「なぜだ……動け!」


 持ち上げた前足が震える。フカは歯を食いしばり、必死にその位置へ留めようとしていた。


 それでも、足は少しずつ下がっていく。


 本人が下ろしたのではない。見えない手に上から押さえられるように、肉球が床へついた。


「これは、おれ様の身体だぞ!」


 爪が床を引っ掻く。声は拒んでいる。逆立った毛も、伏せられた耳も、激しく揺れる尾も、何一つ従っていない。


 身体だけが、フカを置き去りにしていた。


「命令はあなたの霊核へ刻まれているわ。何度試しても、境界通信は使えない」


「今すぐ消せ!」


「それはできないわ。解除すれば、あなたはまた境界院へ連絡するでしょう」


「当然だ! それがおれ様の任務だ!」


 フカが女神さまへ飛びかかろうと身を沈める。


 女神さまは退かなかった。背筋を伸ばし、顎を引いて、いつも通りに堂々と――いや、違う。


 いつも通りに見せるのが、うますぎるのだ。姿勢のどこにも隙がないのに、呼吸だけが浅い。堂々としているのではなく、堂々という形を保っている。俺には、そう見えた。


「追加するわ。勝手にハルの家から離れないこと」


 今にも跳びかかろうとしていた白い身体が、ぴたりと止まる。


「ハルへ危害を加えないこと。ハルの生活を意図的に破壊しないこと」


「誰がこの人間など――」


「追手、または神界に関係する者の接近を感知した場合は、私たちへ警告すること」


 フカの爪が、また床を掻いた。


「それから、ハルが重大な危険に陥った場合は、可能な範囲で保護しなさい」


「勝手に決めるな! おれ様は一つとして承諾していない!」


「承諾を求める印ではないもの」


「なら、なおさら眷属契約よりたちが悪いではないか!」


 女神さまは何も返さない。


 ……途中から、命令に俺の名前が増えていることには気づいていた。


 危害を加えるな。生活を壊すな。危険なら守れ。忠誠を誓えとも、敬えとも命じていない。思考や言葉も奪っていない。命令は必要な範囲へ絞られている――ようには、見える。


 でも、範囲の問題なのか。これは。


「それ、本人が嫌だと言ってても、従わせられるんですか」


 女神さまが俺を見る。


「そうよ」


「フカが自分で解除することは?」


「できないわ。解除できるのは、印を施した私だけよ」


 俺はフカへ目を戻した。


 白い身体は怒りで膨らみ、尾の先まで震えている。ついさっきまで、俺の家のリビングを取り仕切る顔で胸を張っていた高位精霊が、今は自分の前足一本、思い通りにできない。


 見ているだけで、胸の奥がざらついた。


 何が正しいのかは、分からない。


 フカが連絡すれば、女神さまの居場所は神界へ知られる。戻らないと言い切ったあの声のところへ、正式な追手が来る。ほかに止める方法があるのかと聞かれたら、俺には何一つ出せない。


 それでも――嫌だと叫んでいる本人の身体が、本人を無視して従っていく。その光景を「神界の問題」の棚へ載せて片づけることは、できなかった。


「あなたが神界でされそうになったことと、何が違うんですか」


 言った瞬間、心臓が強く打った。


 相手は、高位精霊を宙に縫い止められる人だ。それに俺は普段、こういう言葉を飲み込んで生きている。誰かの機嫌を試すくらいなら、黙っている方が安い。そのはずなのに、飲み込む前に声になっていた。


 女神さまの紫色の瞳が、わずかに見開かれる。


 言ってから、自分が事情を何も知らないことを思い出した。


 神界で何があったのか。誰が女神さまを連れ戻そうとしているのか。戻ったあと、何を強いられるのか。


 俺は知らない。


 それでも、これだけは見えている。


「帰りたくないっていうあなたの意思を、向こうは無視するんでしょう」


 女神さまの唇がわずかに動き、止まった。


「今あなたがフカにしてるのも、同じじゃないんですか」


 しばらく、返事はなかった。


 夜風が、開いたままの窓から入り込む。カーテンが揺れ、女神さまの長い銀髪をさらった。部屋の空気だけが動いて、誰も動かない。


「……同じではないわ」


 ようやく返ってきた声は、いつもより低かった。


「私はフカを所有しようとしているわけではない。人格も感情も奪っていない。私へ忠誠を誓わせるつもりもない」


「でも、身体は従わせてる」


「このまま連絡されれば、私は連れ戻されるのよ」


 言葉が鋭くなる。


 女神さまの手が、淡い色の部屋着をつかんだ。今日、店であれだけ吟味して選んだばかりの、新しい布を。


「追手が来てからでは遅い。これは私と、あなたの安全を守るために必要な措置よ」


 俺まで、その理由の中へ入れられている。


「俺を守るためなら、フカが嫌がっててもいいんですか」


「そうは言っていないわ」


「じゃあ、消せますか」


 女神さまは答えなかった。


 消せないのか。消したくないのか。その二つの違いさえ、今の俺には分からない。


 女神さまの言う必要性は、否定しきれない。代わりの方法も出せない。何の力もない俺が、安全な場所から正しさだけを口にするのも、何かが違う気がする。


 それでも、必要かどうかと、フカが嫌がっているかどうかは、別の話のはずだ。


「必要だったとしても、フカが嫌がってることは変わらないでしょう」


 女神さまの指から、つかんでいた布が離れる。


 一度だけフカへ向いた目が、俺と合う前に床へ落ちた。


 印を消す気配は、なかった。



「下等生物め」


 今度はフカの怒りが俺へ向いた。


「お前がこの女神を匿ったせいだぞ!」


「俺のせいにされても困る。俺だって、ほとんど何も知らないんだ」


「何も知らずに大神格を家へ置いたのか!」


「置いたというか、勝手に降りてきたんだよ」


「なら追い出せ!」


「追い出せる相手に見えるか?」


 俺とフカの視線が、同時に女神さまへ向いた。


「何かしら」


 女神さまの声は、もう普段通りに戻っている。この切り替えの早さだけは、たぶん神界でも上位だと思う。


「……そういうところだぞ」


 フカが吐き捨てた。


「人間というものは、危機管理能力まで下等なのか」


「普通の危機管理で女神を追い出せるなら、やり方を教えてくれ」


「まず事情を聞き出せ。お前は自分が何へ関わったのかすら理解していないではないか」


 そこは、反論できない。


 腹は立つ。立つが、フカの言う通りだった。それに――さっきから少しずつ分かってきたことがある。フカは、俺を見下すしゃべる動物というだけじゃない。境界を守る役目があって、そのためにここまで来て、任務を果たそうとして、嫌なものを嫌だと言っている。


 少なくとも、誰かの都合で行き先を決めていい相手ではなかった。



「……何?」


 女神さまが片手で額を押さえた。


 銀髪の隙間から見える眉が、苦しそうに寄っている。


「女神さま?」


「静かにして。急に、頭の中へ……」


 言葉の途中で、フカの額の紋様が淡く明滅した。


 銀青色の線から女神さまへ、ごく細い銀紫色の光が伸びる。見えたのは一瞬だけだった。


 女神さまは目を閉じ、額を押さえる指へ力を込めた。


「印が定着したせいね。私とフカの間に、神力の通る経路ができている」


「さっき言ってた、眷属契約ですか」


「違うわ。正式な神路ではない。印を維持し、命令を伝えるためだけの、不自然に細い経路よ」


 女神さまの呼吸が浅くなる。


「映像、言葉、道具の使い方……人間の街、学校、網のようにつながる情報。順序もなく流れ込んでくるわ」


 フカの耳が跳ね上がった。


「おれ様の知識まで勝手に覗くな!」


「覗いたわけではないわ。印を通じて流れ込んできたのよ」


「同じことだ! 今すぐ止めろ!」


「すぐには無理ね。量が多すぎて、私にも整理できないもの」


「知識って、記憶まで見えてるんですか」


 女神さまは目を閉じたまま、かすかに首を横へ振る。


「入ってくるのは知識の断片だけよ。フカが何を経験して、どう感じたかまで見えているわけではない」


「だから許されると思うなよ」


 フカは低く吐き捨て、開いた窓へ向き直った。


 一歩。


 前足が窓の方へ進む。


 二歩目は、床へ貼りついたように動かなかった。


 フカは肩を震わせ、無理に身体を押し出そうとする。爪の先が床を擦るだけで、白い身体は少しも前へ進まない。


 女神さまが額から手を離す。


「今夜はこの家にいなさい」


「断る!」


 叫びとは反対に、フカの身体が窓へ背を向けた。


「やめろ……!」


 前足が、一歩戻る。


 フカは首だけを窓へ向け、四本の足へ逆らおうとしている。それでも次の足が上がり、また一歩、リビングの中央へ近づいた。


「止まれ! おれ様は、戻らない!」


 言葉は、最後まで自由だった。


 だからこそ。


 足音だけが、命令に従っていた。


 一歩ずつ。


 止まろうとするたび、白い身体はフカ自身を裏切った。


 俺は、何も言えなかった。


 というより――どの口で言うんだ、と思った。フカを止める機会なら、たぶん俺にもあった。窓を開けたのは俺で、印が刻まれるのを黙って見ていたのも俺だ。今さら審判みたいな顔だけするのは、一番ずるい。


 リビングの中央まで戻ったフカは、爪を床へ立て、悔しげに身を震わせた。


 女神さまは、俺の視線を避けるように顔を背けた。


 その横顔は、勝った側の顔をしていなかった。

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