第3話 毛玉にも夕食は必要らしい
週明けの月曜日。
学校では今日も、余計なことをせず、誰にも注目されずに一日を終えた。
もっとも、いつもの「無事」とは中身が少し違う。授業の合間も、掃除の時間も、頭の隅ではずっと同じことを考えていた。今ごろ家はどうなっているんだろう。女神と高位精霊を、施錠一つで留守番させている。考えれば考えるほど、施錠の意味がなかった。
だから帰り道は、我ながらいつもより早足だったと思う。
そのささやかな心配が正解だったと知るのは、玄関の鍵を開けた瞬間だった。
「だから、それはおれ様の知識だと言っている!」
「私の中へ入った以上、私の知識でもあるでしょう」
「盗んだ側が堂々と所有権を主張するな!」
リビングから、二人分の声が飛んでくる。
……家は無事だった。無事なのは、たぶん建物だけだけど。
女神さま一人でも静かな生活からはだいぶ遠ざかった。それが今では、口の悪い高位精霊まで増えている。学校で守り抜いた平穏が、玄関のドア一枚で跡形もない。
靴を脱いでリビングへ入ると、女神さまは淡い色の部屋着でテーブルの前に座り、フカは向かいの椅子へ前足を掛けていた。
土曜日の夜に施された強制従属印を巡る問題が、解決したわけではない。フカの額には銀青色の紋様が残ったままで、女神さまも印を消していない。
それでも、留守の間に家が壊されるような事態にはならなかったらしい。言い争える程度の距離感には、なっているらしい。
「ハル。あなたのスマートフォンを貸しなさい」
女神さまが、帰宅したばかりの俺へ手を差し出す。
「おかえりより先にそれですか」
「帰ってきたことは見れば分かるわ。それより、確認したいことがあるの」
「何をです?」
「通信、撮影、情報の検索、商品の購入、動画の視聴、ゲーム。それから、個人同士で情報を公開し合うSNSという仕組みね」
一息で並べられた。
二日前まで、この人はスマートフォンを「小さな板」としか認識していなかったはずだ。それが今や、家電量販店の店員みたいな語彙で用途を列挙してくる。
俺は学校鞄を置き、ポケットからスマートフォンを出した。ただし、手渡さずにテーブルの自分側へ置く。
「もう整理できたんですか」
「すべてではないわ。けれど、あの夜よりはずっとましよ。ばらばらだった知識が、用途ごとにつながってきたもの」
女神さまが自分の額へ指を添える。印が定着した時のように苦しそうな様子はなく、紫色の瞳もしっかり俺を見ていた。
「人間の学校、流行、買い物の仕組み、映像や物語。言葉だけ知っていたものにも、ようやく具体的な形ができたわ」
「おれ様が人間界で集めた知識を、勝手に使っているだけではないか」
フカが椅子へ掛けた前足へ力を込める。
「そもそも、どうしてフカがそんなに人間界へ詳しいんだ?」
「境界神使が、人間界のことを何も知らずに務まると思うな。任務でこちらへ来たことなら何度もある」
フカは椅子の上へ跳び乗り、胸を張った。
「その姿で街を歩いてたのか? まさか、人間に化けられるとか」
「誰が人間などに化けるか! おれ様はこの姿のままだ!」
そこはかなり大事らしい。白い尾が、抗議するように椅子の座面を叩く。
「境界潜行という術がある。自分の存在を人間界の表面からわずかにずらせば、普通の人間にはおれ様の姿が見えず、意識にも上らなくなる」
「姿を消せるのか?」
「人間の認識から外れるだけだ。神や精霊の目まではごまかせん。それに、声を出したり、物へ触れたりすれば解除される。偵察用の術だ」
少なくとも、白いフェレットが映画館の座席を走り回って騒ぎになることはないらしい。よかった。人間界の平和のためというより、想像したら笑いそうになったからだ。
「境界潜行で街の構造を調べ、公共の設備や店にある機器を観察する。映画館や劇場にも入った。テレビ、動画、新聞、雑誌。人間の文化を理解するには必要な調査だ」
「人に見つからないのをいいことに、映画館や劇場へ入り込んでいたのでしょう」
「文化調査と言え!」
「捨てられた雑誌や新聞を拾って読んだこともあるようね」
「人がいなくなってから潜行を解いて回収した! 資料の再利用だ!」
女神さまが、本人の説明では抜け落ちる部分を淡々と補っていく。
補うたびに、立派だった「任務報告」が一枚ずつ剥がれていくのが、聞いていて気の毒なような、面白いような。
「学校で使われる言葉や流行にも詳しいわ。インターネット、通販、広告、恋愛を扱う漫画や映像作品まで、ずいぶん熱心に調べているようね」
「それも任務に必要な研究だ」
「店の裏へ捨てられた食事を持ち出したことも?」
フカの小さな耳が、ぴたりと止まった。
「……現地での栄養補給だ」
「神界では食事が必要ないんだろ」
「味と安全性を確認しただけだ! 盗み食いではない!」
任務だけでなく、本人も人間界の新しい物へ興味があるらしい。
恋愛漫画と店の残り物が、境界を守るためにどこまで必要なのかは分からないが。
「でも、女神さまにフカが見たものまで見えているわけじゃないんですよね」
「ええ。私に流れ込んだのは、物事の意味や使い方といった知識だけよ」
女神さまは、テーブルのスマートフォンへ視線を落とした。
「フカがどこでそれを知り、その時に何を見て、どう感じたのかまでは分からない。使い方を知ったからといって、私が使った経験を得たことにもならないわ」
「当然だ。おれ様の経験まで奪われてたまるものか」
フカが鼻を鳴らす。
女神さまは何か言い返そうとして、ふと口を閉じた。
紫色の瞳が、テーブルの隣にある椅子へ移る。二日前、ノートパソコンを見るために、女神さまが俺のすぐ隣まで寄せてきた椅子だ。
次に、洗面所へ続く廊下を見る。
嫌な予感がした。
この視線の動き方には覚えがある。何かを順番に照合している時の動き方だ。そして照合されている項目に、俺が関係していない可能性は低い。
「ハル」
「何ですか」
「人間は、家の中であっても、同居している異性の前では裸体を隠すのね」
「今さらそこを確認します?」
「神界から持っていた知識は、輪郭だけだったのよ。人前では身体を隠す。男女で着替える場所を分ける。そういう規則があることは知っていたわ」
女神さまは、自分の中にある知識を確かめるように言葉を区切った。
「けれど、閉ざされた住居の中で、たった一人の異性を相手にする場合も同じだという感覚はなかった。どの程度の距離や行動が、親しい関係を意味するのかもね」
「つまり?」
「あの朝、私が何も身につけずにあなたの前へ出た時――」
「具体的に振り返らなくていいです」
思ったより大きな声が出た。
忘れようとしても消えてくれない光景に、わざわざ言葉で輪郭を与えないでほしい。
頭の奥で開きかけた記憶の蓋を、俺は壁の時計へ意識を向けて無理やり押さえた。秒針。今は秒針だけを見ろ。カチ、カチ、カチ。よし。何も見えていない。俺は何も思い出していない。
「やはり、あなたがあれほど動揺したのは、人間の男性として自然な反応だったのね」
女神さまは、そんな俺をじっと観察して、結論まで出してきた。
「自然というか、普通です」
「採寸を頼んだことも?」
「普通は同年代の男に頼みません」
「女性用下着の売場へ呼んだことも?」
「大声で呼ばないでください」
「画面を見るために、すぐ隣へ座ったことも?」
「それは場合によりますけど、今まとめて検証するのはやめてもらえますか」
ひどい聞き取り調査だった。
しかも調査官は、頬を赤くするでもなく、目を伏せるでもない。恥ずかしがっているのは検証される側の俺だけで、女神さまはただ、今まで意味を持たなかった出来事を、人間の基準の上へ一つずつ置き直しているらしい。
この温度差が、一番困る。
「あの店員が、私たちを恋人だと判断した理由も分かったわ」
「あれは女神さまが俺を売場へ呼び込んだからです」
「それだけではないのでしょう。二人で服を選び、あなたが代金を払い、荷物を持って歩いていた。それらをまとめて、そう見えたのね」
「そういうことを友達や家族にする人もいます。絶対に恋人という意味じゃありません」
「あなたが、ずいぶん強く否定していたことも覚えているわ」
「事実じゃないことを訂正しただけです」
「そう」
短く返した女神さまの目が、ほんの少しだけ細くなる。
その反応の意味を考える前に、女神さまは隣の椅子へ手を掛けた。床を擦る音を立てて、俺から手のひら一つ分ほど遠ざける。
「このくらいなら問題ない?」
「その確認のために近くへ座らなくていいです」
「面倒なのね、人間の距離というものは」
「女神さまが今まで気にしなさすぎたんです」
「知識が足りないまま、あなたに余計な混乱を与えたことは認めるわ。今後は区別します」
謝罪ではなかった。それでも、あの女神さまが自分の行動を認めて椅子を離したのだ。人間界に降りて三日目にしては、大きな進歩と言っていい。
これで少しは落ち着いた共同生活になるかもしれない。
「それで、スマートフォンを貸しなさい」
前言を撤回したくなるまで、三秒もかからなかった。
「俺が見ているところでなら」
「私を信用していないの?」
「勝手に買い物をされたら困るので」
「購入には認証が必要なことくらい知っているわ」
「それはおれ様の知識だぞ!」
また同じ言い争いが始まった。
俺は制服のまま二人の間に立っているのが馬鹿らしくなり、先に着替えることにした。
◇
夕食の支度を始める頃には、リビングに豚肉と生姜の匂いが広がっていた。
キャベツと玉ねぎを切り、肉と一緒に炒める。味噌汁とご飯も用意する。
一人分で完成していたはずの台所仕事に、女神さまの分が増えた。今日からは、さらに小さな一皿まで加わりそうだ。まな板の上の計算が、三日で二回も書き換わっている。
「ハル、味を濃くしすぎないでちょうだい」
女神さまがキッチンの外から口を出す。
「まだ味つけしてません」
「先に言っておいただけよ」
「人間。肉を焦がすなよ」
今度は足元から声が飛んでくる。
監督が二人に増えた。作っているのは俺一人なのに。
「食べないなら関係ないだろ」
「誰が食べないと言った!」
「言ってないなら、食べるのか?」
「高位精霊は、人間のように食事を取らなければ動けない存在ではないと言っている!」
フカは小さな鼻を動かしたあと、取り繕うように顔を背けた。
その鼻が、さっきから肉の匂いの方向を正確に追っていることには、たぶん本人だけが気づいていない。
「女神さまも最初は似たようなことを言ってたな」
「私は言っていないわ。人間界の身体に食事が必要だと分かれば、きちんと受け入れたもの」
「最初の空腹を理解できてませんでしたよね」
背後から反論はなかった。
代わりに、フカの腹の辺りから小さな音がした。
フカの耳が伏せられる。
「今のは?」
「霊核の調整音だ」
「そんな音がするんですか?」
「しないわね」
「エルミナ様は黙っていろ!」
女神さまの説明では、神界の精霊は周囲の神気を取り込めるため、食事も睡眠も必要としないらしい。
けれど、人間界で形のある身体を保っている今は、神々と同じように現界制約を受ける。神気だけでは足りず、空腹も疲れも感じるという。
土曜日の夜から食事のことを聞くたび、フカは必要ないと言い張っていた。どうやら、その意地も腹の音までは黙らせられなかったらしい。
「それなら、食べたい時に言えばいいだろ」
「おれ様は食べたいなどと言っていない」
「じゃあ、いらないのか?」
「すでに用意したものを捨てるのは、人間界の資源管理として不適切だと言っている」
「まだ皿にも載せてないぞ」
ここまで意地を張られると、聞いている方が疲れる。
疲れるのに――嫌いになれない意地の張り方だった。誰かに似ている気がする。テーブルの向こうで「私は最初から素直だったわ」という顔をしている誰かに。
俺は肉と野菜を食べやすい大きさにして、小さな皿へ取り分けた。
テーブルの端へ置くと、フカが皿と俺の顔を交互に見る。
「おれ様を獣扱いするな!」
「じゃあ、人間用の皿にするか?」
「大きすぎるだろうが!」
「どっちなんだよ」
面倒になり、そのまま小皿を置いた。
俺と女神さまも席へ着く。フカはしばらく皿の周りを歩き、匂いを確かめていた。
「毒見くらいはしてやる」
誰のための毒見なのかは聞かなかった。
フカが肉を一切れ口へ入れる。
忙しなく動いていた耳と尾が、同時に止まった。
「どうだ?」
「…………」
返事はない。
代わりに、二切れ目が消えた。続いて野菜を食べ、また肉へ戻る。
「安全性は?」
「今、慎重に確認しているところだ。話しかけるな」
俺と女神さまが食べ終わる頃には、フカの小皿もほとんど空になっていた。
もう十分だろうと思い、皿へ手を伸ばす。
フカが前足で縁を押さえた。
「待て。まだ確認が終わっていない」
「ただ気に入っただけでしょう」
女神さまが平然と指摘する。
「違う! おれ様は境界神使として、この家の食事に危険がないか確かめているだけだ!」
「じゃあ、最後まで確認してくれ」
「言われるまでもない」
フカは残っていた一切れまで食べ切り、空になった皿の前で胸を張った。
確認、ご苦労さまです。俺はそう思うだけにして、口には出さずに皿を下げた。
◇
食器を片づけたあと、俺は空き部屋兼物置の段ボールを壁際へ寄せた。
フカはこれまで、寝床を決めようとするたびに「高位精霊に睡眠は不要だ」と拒み、結局はリビングのソファの背で身体を休めていた。現界制約があると分かった以上、いつまでもそのままにはしておけない。
人が一人眠れるほどの場所を空け、押し入れから使っていないクッションと小さな毛布を持ってくる。クッションの上へ毛布を畳むと、フカの身体にはちょうどいい大きさになった。
「今夜から、ここを使ってくれ」
「おれ様をペット扱いするな!」
予想どおりの反応だった。
「大きさに合わせただけだ。嫌なら客用布団を出すけど」
「最初からそうしろ」
いったん毛布とクッションを脇へ置き、客用の敷布団と掛け布団を運ぶ。
部屋へ広げると、それだけで空けた床のほとんどが埋まった。
フカは敷布団へ上がり、中央まで歩く。四方を見回したあと、長い尾を落ち着かなさそうに揺らした。
「これは人間用だろう!」
「どっちなんだよ」
「高位精霊にふさわしい寝床を用意しろと言っている!」
「うちに高位精霊用の布団はない」
客用布団を片づけ、元のクッションを戻す。
「寒ければ毛布を使えばいい」
「命令するな」
「命令じゃない。使うかどうかは、フカが自分で決めればいい」
フカが口を閉じた。
淡い金色の目が、俺をじっと見上げる。
強制従属印の命令を使えば、女神さまはフカをこの上で眠らせることもできるのかもしれない。飯を食え、そこで寝ろ。命令一つで、この家の夜は静かになる。
だからこそ、だ。
こんなことまで、誰かに決めさせる必要はない。何を食べて、どこで寝るか。それくらいは、本人のものであっていいはずだ。
フカは俺を睨んだまま、しばらく動かなかった。
やがてクッションへ前足を載せ、柔らかさを確かめるように何度か踏む。続いて毛布の匂いを嗅ぎ、白い身体をその上へ落ち着けた。
「これは仮の寝床だ。勘違いするな」
「分かったよ」
本人の言い方と違って、重くなっていたまぶたはもう半分ほど閉じかけている。
それでも、そこにいるのは飼い始めたペットではない。
口が悪くて、注文が多くて、自分の意思を持った小柄な同居人だ。
部屋を出ようとすると、背後からフカの声がした。
「安心するのは早いぞ」
振り返ると、フカはクッションの上で身を起こしていた。
半分閉じかけていたはずの目が、開いている。
「おれ様が戻らなければ、次は正式な監察官が来る」
廊下にいた女神さまの足が止まった。
「強いのか?」
「少なくとも、この女神より人を騙すのはうまい」
女神さまの紫色の瞳が、わずかに曇った。
いつものように言い返すこともない。部屋着の袖をつまんだ指が、そのまま静止している。
「その監察官を知ってるんですか」
「ハル。もう休みなさい」
答えの代わりに、冷たい声が返ってきた。
それだけで十分だった。
誰が来るのか、何も知らない人の反応ではない。
自分の部屋へ戻ってからも、ベッドの中でしばらく天井を見ていた。女神さまの静止した指。フカの開いた目。この家の夜は、たった三日で、眠る前に確認することが増えすぎている。
◇
翌朝。
顔を洗おうと洗面台の蛇口をひねると、鏡の表面に小さな水紋が広がった。
眠気で見間違えたのかと思い、顔を近づける。
何も触れていない鏡へ、二つ目の波紋が重なる。
「女神さま?」
廊下へ呼びかけながら水道を止めた。
蛇口の先に残った一滴が落ちる。
下ではなく、横へ。
透明な雫は重力を無視して洗面台の縁まで滑り、そこで止まった。
背筋を、水温より冷たいものが走る。
背後から、低いうなり声が聞こえた。
いつの間にか洗面所の入口に来ていたフカが、白い毛を逆立てている。
「来たぞ」




