第4話 理解のある追手
「来たって、正式な監察官が?」
洗面所の入口にいるフカへ聞き返した。
「そうだ」
フカは逆立てた毛を戻さない。淡い金色の目が、鏡の波紋と、横へ滑った水滴を交互に追っている。
「どこにいる?」
「人間界へ入ったのは間違いない。だが、今この部屋の前にいるという意味ではない」
「じゃあ、いつ来るんだよ」
「そこまで分かれば苦労はせん」
分からないのか。
相手はもう人間界にいる。いつ来るかは分からない。つまり、今この瞬間から「いつでもあり得る」が始まったということだ。安心できる要素を探したが、洗面台の縁で止まったままの水滴くらいしか目に入らなかった。それは安心の材料ではない。
「ハル、学校へ行く支度をなさい」
廊下の向こうから現れた女神さまが、いつもと変わらない声で言った。
「今の話、聞いてましたよね?」
「聞いていたわ」
「追手が来てるんですよね?」
「だから何?」
どうしてそこで首を傾げられるんだ。
「だから、学校へ行ってる場合じゃないでしょう」
「大丈夫よ。私が対処するわ」
女神さまは言い切った。
「相手の目的は私よ。人間のあなたがここに残っても、邪魔になるだけでしょう。普段どおり学校へ行きなさい」
邪魔。
言い方は腹が立つが、否定はできない。
俺に神と戦う力はない。残ったところで、できるのは警察を呼ぶことくらいだ。警察へ、女神を連れ戻しに別の女神が来ましたと説明して、信じてもらえるとは思えない。通報の練習を頭の中でしてみて、三秒でやめた。
「お前が心配するようなことではない」
フカまで口を挟んだ。
「正式な監察官は、理由もなく人間へ危害を加えるような野蛮な連中ではない。狙われているのはエルミナ様だ」
「でも、人を騙すのがうまいんだろ」
「危害を加えないことと、信用できることは別だ」
余計に不安になった。
女神さまの顔には、いつもの自信が戻っている。けれど、俺が見ていることに気づくまで、部屋着の袖をつまんだ指だけが動かなかった。
やはり、誰が来たのか知っている。
大丈夫だという言葉を、そのまま信じていいのかは分からない。
それでも、俺がここにいる方が危険だというのは正しい。学校を休んで残っても、女神さまを守れるわけではない。
「……本当に、大丈夫なんですね」
「誰に向かって聞いているの。私は大神格よ」
根拠になっているような、なっていないような答えだった。
「分かりました」
納得したわけではない。
ただ、今の俺にできる一番まともな判断が、登校することだった。それが悔しいのか情けないのか、考える前に時間が来た。
「でも、誰か来ても、俺が戻るまでは玄関を開けないでください」
「私に留守番の注意をするつもり?」
「俺の家ですから」
女神さまは気に入らなそうに眉を寄せた。
「言われなくても分かっているわ」
フカにも同じことを言おうとすると、先に鼻を鳴らされた。
「おれ様を子供扱いするな」
「なら、ちゃんと止めてくれよ」
「お前に言われるまでもない」
二人分の返事を聞いて、俺は学校へ行く支度を始めた。
玄関を出る直前にも、女神さまは大丈夫だと言った。
扉が閉じても、その言葉より、止まっていた指先の方が頭に残った。
◇
その日の学校では、何も起きなかった。
授業中、動きを止めた女神さまの指先が何度も頭へ浮かんだ。そのたびに黒板の文字を一字ずつノートへ写す。手を動かしていれば、顔には出ない。教師に顔色を聞かれるのも、山本たちに事情を尋ねられるのも避けたかった。
心配そうな顔で一日を過ごせば、誰かが理由を聞いてくる。理由を聞かれて、答えられる中身は一つもない。だったら、いつもどおりの俺でいるのが一番安い。こういう計算だけは、昔から得意だ。
窓へ雨粒が逆さに流れることも、水道から女の声が聞こえることもない。山本と田中に声をかけられ、必要な分だけ返事をして、誰の記憶にも残らない一日を終えた。
少なくとも、今すぐ何かが起きるわけではなかった。
そういうことにしておきたかった。
◇
マンションの八階まで戻り、玄関の前で鍵を取り出す。
差し込む前に、ドアノブを引いた。
動かない。鍵はきちんと掛かっている。
朝、俺が出る時にも確認した。女神さまとフカにも、誰か来ても開けるなと言ってある。だから大丈夫のはずだ。ここまでは、俺の決めた手順のとおりに世界が動いている。
それなのに。
「だから、私はあなたを責めに来たわけではないの」
扉の向こうから、知らない女の声がした。
低く落ち着いた、大人の声だ。
「では、何をしに来たの。まさか昔話をするためではないでしょう」
答えたのは女神さまだった。
背中に汗が浮く。
俺の家は八階にある。玄関には鍵が掛かっている。バルコニーから普通に入れる場所でもない。
普通でない方法なら、一つだけ心当たりがある。
正式な監察官。
朝、フカは来たと言った。
鍵は、掛かっていた。掛かっていることを、この手で今確かめた。それでも中に誰かがいる。俺の家の安全確認の手順は、今日、初めて何の意味もなくなった。
俺はスマートフォンを握ったまま、できるだけ音を立てずに鍵を開けた。金属の擦れる音が、廊下でやけに大きく響いた気がした。
玄関には、見覚えのない黒いパンプスがあった。女神さまの靴の隣へ、初めからそこが自分の場所だったみたいに揃えて置かれている。
つまり、女神さまが入れたのか。
それとも神にとって、うちの鍵なんて掛かっていないのと同じなのか。
どちらにしても安心できない。
廊下を進み、リビングを覗く。
女神さまは淡い色の部屋着で、ローテーブルの前に座っていた。背筋を伸ばし、腕を組んで、向かいのソファを睨んでいる。
フカはテーブルの端だ。白い尾を身体へ引き寄せ、毛をわずかに逆立てていた。
そしてソファには、知らない女がいる。
二十代の終わりくらいに見えた。袖を軽くまくった白衣の下に、深い青緑のブラウス。濃い灰色の膝丈スカートと黒いタイツ。低い位置で緩くまとめた長い髪は、深い青緑から毛先の濃紺へ変わり、ソファの背へ波のように垂れている。
俺の家のソファで、俺の家のクッションに背を預けて、まるで十年前からこの席の常連みたいに。
眠たげな深い青の瞳が、俺を見つけた。
女が親しげに微笑む。
「お帰りなさい、晴くん」
足が止まった。
自分の家で、会ったこともない相手に帰宅を迎えられる。
女神さまの時とは違う意味で、気味が悪い。
「誰ですか」
握ったスマートフォンが、手の中で滑りそうになる。
「どうして俺の名前を知ってるんですか」
「この部屋の主の名前くらい、来る前に調べてあるわ」
女は悪びれもしなかった。
来る前に調べた。
それで安心できるはずもない。
「質問の答えになってません」
「そうね。順番が逆だったわ」
女がゆっくり立ち上がる。俺より明らかに背が高い。気だるそうに見えるのに、姿勢が変わるまでの動きは、水が器に沿って形を変えるみたいに滑らかだった。
「アクアリア。水と流動と浄化を司る女神よ」
深い青の目がわずかに細くなる。
「境界院の上級監察官でもあるわ」
やっぱり、フカが言っていた追手だ。
鏡に浮かんだ波紋。横へ滑った水滴。
朝から水がおかしくなっていたのは、この人が近くまで来ていたからなのだろう。
「アクアリアさんが、女神さまを連れ戻しに来たんですか」
「それを決めるために来た、と言った方が正確ね」
「言い方を変えただけでしょう」
女神さまの声が鋭くなる。
アクアリアさんは気を悪くした様子もなく、またソファへ腰を下ろした。
「そう怖い顔をしないで。月晶宮で何度も会った仲じゃない」
「境界院の仕事で出入りしていただけでしょう。親しいように言わないでちょうだい」
「親友だなんて言っていないわ。ただ、何も知らない相手ではないというだけ」
二人は以前から知り合いらしい。
女神さまは警戒している。それでも、フカが来た時のように、問答無用で力を使おうとはしていない。
アクアリアさんも帰還を命じず、組んだ脚へ片手を置いたまま女神さまを見ていた。
「男神たちにうんざりしたんでしょう」
女神さまの眉が動く。
「月晶宮で、あなたが一人だったことも知っているわ」
「分かったようなことを言わないで」
「全部分かるとは言っていない。でも、人間界へ逃げたくなる気持ちまで、理解できないとは言わないわ」
女神さまは言い返さなかった。
腕は組んだままだ。けれど、張りつめていた肩がほんの少し下がる。
男神たち。
一人だった。
どちらも、女神さまからは聞いていない話だ。
人間界へ来た理由を尋ねても、男神たちに言い寄られるのが嫌になったとしか答えなかった。あの言い方の後ろに、まだ何かある。それをこの人は知っていて、女神さまの反応が、それを否定していない。
アクアリアさんの言葉は、警戒を解かせるためだけの嘘ではないらしい。
だからといって、この人が何をするつもりなのかは分からないままだ。
「晴くんは、つい数日前まで普通の高校生だったのよね」
急に名前を呼ばれ、鞄を持ったまま姿勢を正した。
「今も、そのつもりですけど」
「神界の争いとは無関係で、たまたま降りてきたエルミナを家へ置いただけ」
「たまたまという部分は合ってます」
「なら、ここから先は知らない方が安全かもしれないわ」
脅すような声ではなかった。
むしろ俺を心配して、本気で言っているように聞こえる。
俺は神界のことを何も知らない。女神さまと暮らし始めて、まだ四日だ。何かできるわけでもない。今朝も、水滴一つを見ただけで身構えるしかなかった。
ここで関わるのをやめれば、明日も普通に学校へ行ける。
余計なことを知らず、誰にも注目されず、一日を無事に終えられる。
俺がずっと守ってきた生活。
俺が一番うまくやれる生き方。
それを、初対面の女神が、まっすぐ差し出してくる。
知らない方が安全だという言葉は、正しい。
正しすぎて、すぐには何も返せなかった。
アクアリアさんの視線が、俺からテーブルの上のフカへ移る。
「境界神使までいるのね。ずいぶん丸くなったんじゃない?」
「誰が丸くなった! 人間界の仮肉体が少し違って見えるだけだ!」
「フカ、今はそこじゃないだろ」
俺が口を挟むと、アクアリアさんが首を傾げた。
「フカ?」
「人間界では、そう呼ぶことにしたの」
女神さまが平然と答える。
「真っ白で、ふかふかしているでしょう」
「勝手に付けられた名だ! おれ様の正式な霊響名ではない!」
フカがテーブルを前足で叩く。
アクアリアさんは、怒りで少し膨らんだ白い毛と、ふさふさした長い尾を見比べた。
「確かに、見た目にはよく似合っているわ。かわいらしい呼び名ね」
「似合っていない!」
「そう。では、人間界にいる間はフカと呼ぶわね」
「話を聞け!」
短いやり取りの間だけ、アクアリアさんの口元に笑みがあった。
女神が二人がかりで定着させた呼び名だ。フカ、諦めてくれ。俺はもう半分祈るような気持ちで見ていた。
けれど、フカの額へ視線を留めた瞬間、その笑みが消えた。
眠たげだった目が、冷たい水底みたいな色へ変わる。
「エルミナ。これはあなたがやったの?」
「必要だったからよ」
女神さまは目を逸らさずに答えた。
アクアリアさんがフカの前へ膝をつく。
「フカ。印を調べたいわ。触れてもいい?」
フカの耳が一度伏せられた。
「……構わん、アクアリア監察官。見ての通りだ。さっさと解除しろ」
拒まれていないことを確かめてから、アクアリアさんはフカの額へ指先を近づけた。
触れる前に、聞いた。土曜日の夜には、なかった手順だった。
銀青色の境界紋へ触れた途端、空気がわずかに湿る。細い髪が、水の中にあるようにゆっくり揺れた。
フカは身体を固くしている。それでも逃げようとはしない。
しばらくして、アクアリアさんの指が離れた。
「大神格の神力が、霊核へ直接つながっている。外から無理に剥がすのは危険ね」
「お前でも解除できないのか」
「できるかどうかだけなら、できるでしょうね」
アクアリアさんが立ち上がる。
「でも、安全にはできない」
さっきまでの気だるさは、声からも消えていた。
「霊核を傷つけるかもしれない。記憶が欠ける可能性もあるし、神力の経路が断ち切られれば、人間界で身体を保てなくなることも考えられるわ」
フカの尾が、テーブルの上で動きを止めた。
記憶が欠ける。
身体を保てなくなる。
詳しい仕組みは分からなくても、失敗したら取り返しがつかないことだけは分かる。
「エルミナ本人に解除させるのが一番安全よ」
「解除する気はないわ」
女神さまの返事には、迷いがなかった。
アクアリアさんが静かに振り返る。
「必要なら、他人の自由を奪ってもいいということ?」
女神さまが腕をほどいた。
「フカが居場所を知らせれば、私は連れ戻される」
「ええ」
「私は自分の意思を守っただけよ」
「自分の意思を守るために、フカの意思を消したのね」
言葉が、静かな部屋へ落ちた。
土曜日の夜、俺も同じ矛盾を女神さまへ突きつけた。あの時の俺は、勢いのまま口にしただけだった。同じ内容を、この人は落ち着いた声で、逃げ道を一つずつ塞ぐ順番で言う。
女神さまの紫色の瞳が、ほんの一瞬だけ俺を見る。
それからフカへ移った。
何かを言おうとして、唇を閉じる。
フカはアクアリアさんのそばへ寄ろうとはしなかった。強制従属印を解けないと知った今も、助けを求めるような目を向けてはいない。
淡い金色の瞳で、二人の女神を黙って見ている。
「ここで話を続けるのはやめましょう」
先に沈黙を解いたのは、アクアリアさんだった。
「水明川の上流側へ来て。今夜、二人で話したいの」
「なぜ場所を変える必要があるの?」
「ここは晴くんの家よ。神界の処分を決める場所ではないわ」
「場所を変えれば、何が違うの?」
「水明川なら、周囲の認識と記録を遮断したうえで話せる。どんな結論になっても、この家や住民に影響を残さずに済むわ」
「私の答え次第では、力を使うつもりなのね」
「力ずくで連れ戻すつもりはないわ。でも、監察官として必要な措置まで放棄するとは言えない」
アクアリアさんは、言葉を区切って続けた。
「まずは話を聞かせて。そのうえで、どう処理するか決めたいの」
どう処理するか。
人を相手にした言い方には聞こえない。
それでも、女神さまは怒らなかった。
「それに、あなたが恐れている相手へ、すぐ引き渡すつもりもない」
女神さまの指が、部屋着の袖をつかんだ。
さっきまでより強く。
表情は変わっていない。けれど、袖をつまむ指先だけが白くなっている。
恐れている相手。
この女神さまが、恐れている。
誰のことなのか、俺には分からない。男神たちの中の誰かだろうか。
尋ねれば、答えが返ってくるかもしれない。
ここから先は、知らない方が安全。
アクアリアさんの言葉が、頭の中で繰り返される。
俺は結局、何も聞けなかった。
ただ、アクアリアさんがその相手の存在を知っていることと、その一言が女神さまの強がりを止めたことだけは分かった。
長い沈黙のあと、女神さまが袖から指を離す。
「いいわ。今夜、水明川へ行く」
「話が早くて助かるわ」
アクアリアさんが立ち上がる。フカのそばを通る時だけ、わずかに足を止めた。
「今はその印へ逆らわないで。霊核へ余計な負担をかけるわ」
「命令されなくても分かっている」
フカは吐き捨てたが、アクアリアさんは言い返さなかった。
玄関まで歩く間も、彼女は初めて来た家とは思えないほど落ち着いていた。
パンプスを履き、扉へ手をかける。
「では、日が落ちてから。水明川の上流側で待っているわ」
女神さまが無言で頷く。
扉が閉まる。
廊下を遠ざかる靴音が聞こえなくなるまで、誰も口を開かなかった。
俺は玄関の鍵をかけ直した。
カチリ、と鳴った音は今朝までと同じで、今朝までと同じ意味は、もう持っていなかった。何度確かめても、これで安全になった気がしない。
足元に来たフカへ、声を落とす。
「信用していいのか?」
「信用するな」
返事には迷いがなかった。
「嘘をついてるのか?」
フカは閉じた扉を見上げたまま答えた。
「理解していることと、味方であることは別だ」




