第5話 何も知らない方が安全だから
フカの言葉が、鍵をかけたばかりの玄関に残った。
理解していることと、味方であることは別だ。
それならアクアリアさんは、どちらなのだろう。
考えても答えは出ない。女神さまも何も言わず、自分の部屋へ戻っていった。閉じた扉の向こうからは、物音一つ聞こえなかった。
それから、窓の外がすっかり暗くなるまで、俺たちはほとんど言葉を交わさなかった。俺は宿題を開いて、三問だけ解いて、閉じた。夕焼けは消え、リビングの窓には室内の明かりだけが映っている。
◇
約束の時刻が近づいた頃、女神さまは淡い色の部屋着から自分の服へ着替えて戻ってきた。
白いブラウスに淡い青のカーディガンを重ね、淡い色のスカートを穿いている。土曜日に、二人で選んだ服だ。あの時は買い物疲れの象徴だったものが、今夜は出発の支度に見える。水明川へ行く準備らしい。
ソファに置いた学校鞄へ手を伸ばしたところで、女神さまが俺を見た。
「ハル、あなたはここに残りなさい」
「俺も行きます」
ほとんど反射で答えていた。
形のいい眉がわずかに上がる。
「これは神界の問題よ」
「でも、相手は追手なんですよね」
「あなたには関係ないわ」
切り捨てる声だった。
関係ない、の一言が、思ったより深く刺さった。
関係ないと言うなら、最初から俺の部屋へ降りてこなければよかった。食事も服も、寝る場所も、全部一人で何とかすればよかったのだ。
――そんなことができないから、ここにいるのだけれど。
女神さまの目が、俺の制服姿を一度なぞる。すぐに逸らされた視線が、人間を巻き込みたくないと言っているようにも見えた。
もちろん、本人はそんなことを口にする気などないらしい。
「人間が一人増えたところで、何ができるというの。私一柱で十分よ」
案の定、返ってきたのはいつもの尊大な言い方だった。
「じゃあ、せめて何が起きているのか教えてください。アクアリアさんは、誰のことを言ってたんですか。どうして女神さまは――」
「知れば、あなたも神界から無関係ではいられなくなる」
続きは許さないと言うように、女神さまが言葉を重ねた。
「何も知らない方が安全よ。あなたはここで、いつもどおりにしていればいいの」
いつもどおり。
神さまが訪ねてきて、フェレットにしか見えない境界神使まで家にいる時点で、何がいつもどおりなのか分からない。
それでも俺には学校があり、父さんと母さんがいて、この先も人間として暮らしていく。
知らずに済むなら、その方がいい。
玄関の呼び出し音が鳴った。
画面に映ったのはアクアリアさんだった。約束した時刻になったのだろう。
俺が解錠すると、少しして黒いパンプスの音が廊下を近づいてきた。
リビングへ入ったアクアリアさんは、学校鞄のそばに立つ俺と、出かける格好の女神さまを順に見た。
「晴くんも来るつもり?」
「そのつもりでした」
「でした、ということは、止められたのね」
眠たげな青い目が女神さまへ流れる。女神さまは腕を組み、否定しなかった。
アクアリアさんが俺へ視線を戻す。
「私からも勧めないわ。普通の生活へ戻りたいなら、ここで終わりにした方がいいわ」
静かな声だった。脅すような響きはない。
「エルミナをここへ泊めた数日間くらいなら、あなたの記録から消せる」
「記録から……?」
「神界のことを忘れて、明日からまた学校へ行けるわ」
明日になれば、いつもと同じ教室で授業を受ける。放課後にはまっすぐ帰り、一人分の夕食を用意する。
父さんと母さんが海外赴任から戻るまで、当たり前に続くと思っていた毎日だ。
俺が今夜行ったところで、アクアリアさんの力に対抗できるはずもない。女神さまと知り合って、まだ数日しか経っていない。正式な監察官であるアクアリアさんは、女神さまを傷つけないとも言っている。
何より、女神さま自身が来るなと言うのだ。
「……分かりました。俺は家にいます」
口にしてみれば、それが一番まともな判断に思えた。
女神さまが俺を見る。
ほんの一瞬だった。
残れと言った本人なのに、紫色の瞳には、言葉と噛み合わないものが浮かんだ気がした。
確かめる前に、女神さまは顔を背ける。
「それでいいのよ」
アクアリアさんが小さく頷いた。
「賢明ね。では、行きましょうか」
二人が玄関へ向かうと、フカもローテーブルから飛び降りた。
「アクアリア監察官。おれ様も同行する」
けれど、白い身体が廊下へ入るより先に、女神さまが振り返った。
「フカ、あなたはハルと家に残りなさい」
「なぜおれ様が――」
前足が床へ張りついたように止まる。フカは一歩踏み出そうと身体を傾けたが、その足は動かなかった。
「ハルに何かあったら困るもの。あなたには、ここで守らせるわ」
「待て、エルミナ様!」
女神さまは答えず、靴を履いて玄関を出た。アクアリアさんも後に続き、扉が静かに閉じる。
鍵のかかる音がした。
リビングへ戻ると、冷蔵庫の低い唸りと時計の音だけが聞こえた。
静かだ。
俺は学校鞄をソファへ置き、明日の時間割に合わせて教科書を出した。次は制服を着替えて、米を研ぐ。風呂を洗う。決まった手順を一つずつ進めれば、今日も「何もなかった日」の形へ戻せる。何百回もやってきたことだ。
数日前まで、これは俺が望んでいた静けさだった。
学校のことを誰にも尋ねられない。「普通だった」と答えなくていい。自分で決めた順番どおりに家事を済ませれば、何も起きないまま一日を終えられる。
誰もいないから、余計なことを考えずに済む。
そういう静けさだった。
けれど今、同じ静けさの中に、女神さまのマグカップが乾いたまま置いてある。テーブルの端にはフカの小皿。ソファには、俺のものではない位置に寄ったクッション。
物だけが残って、声だけが抜け落ちている。
同じ「誰もいない」なのに、数日前の静けさと同じ音がしなかった。
俺は出しかけた教科書を鞄へ戻した。ファスナーを閉めて足元へ下ろし、ソファへ腰を下ろす。手だけが先に、日常へ戻ることをやめていた。
アクアリアさんは正式な監察官だ。女神さまを傷つけないと言った。俺が行っても何もできない。関わらなければ、普通の生活へ戻れる。
女神さま本人にも、来るなと言われた。
動かない理由なら、いくらでもある。
どれも正しい。
正しいから、ここに残ると決めた。
それなのに、座り直しても、同じ場所に何かがつかえている。
関わらない方が安全だから。
余計なことをすれば、自分まで巻き込まれるから。
自分一人が何かをしても、どうせ変わらないから。
……この理屈の並びに、覚えがある。
中学の頃、周りが何を考えていたのかは知らない。けれど、机の落書きを黙って消している時も、隠された持ち物を一人で探している時も、教室の誰もが視線を逸らしていた。
あの時の俺は、下を向くしかないと思っていた。反発すれば、もっとひどくなる。そうやって耐えることしかできなかった。
誰かに助けてほしかったのかと聞かれたら、今でも分からない。ただ、逸らされた視線の数だけは、なぜか今でも数えられる気がする。
そして今夜の俺は。
標的にされている側じゃない。
目を逸らす側だ。
安全な部屋で、正しい理由を並べて、誰かが連れていかれるかもしれない夜を「何もなかった日」の形に押し戻そうとしている側だ。
その事実が、腹の底に重く沈んだ。
女神さまは自分で水明川へ行った。神界へ帰ると決めたのなら、俺が止める話ではない。
けれど、あの人は本当に帰りたいのか。
戻りたくない理由は言わなかった。追手についていくことを、どう思っているのかも聞いていない。
残れと言った時の視線だけで、助けてほしいと決めつけることもできない。
分からない。
だったら、本人に聞くしかない。
膝へ手を置き、立ち上がろうとした時だった。
「お前はそれでいいのか」
顔を上げると、フカが俺の前にいた。
「俺が行っても、何もできない」
「その通りだ」
迷いのない肯定が少し腹立たしい。
「お前は何もできない」
「二回も言う必要あるか?」
フカは俺の不満など気にした様子もなく、淡い金色の目を細めた。
「だが、あいつが帰りたいかどうかを聞いた人間は、お前だけだ」
やっぱり、そこだった。
フカに答えを教えられたわけではない。さっきから俺の中にあった疑問を、先に口にされただけだ。
「どうしてそんなことを言うんだよ」
フカにとって、女神さまが神界へ帰れば任務は終わる。額の印だって、戻った先なら解除できるかもしれない。
俺を向かわせる理由はないはずだ。
「別に、お前を焚きつけるつもりはない」
白い尾が床を一度叩いた。
「あいつは高慢で、自分勝手で、おれ様へこんな印までつけた」
額の銀青色の境界紋の上に重なる銀紫色の印が、部屋の明かりを受けて淡く光る。
「だが、戻りたくないという言葉だけは嘘ではない」
フカはそれだけ言うと、俺から顔を逸らした。
自分の意思を封じられている本人が、封じた相手の意思だけは嘘ではないと言う。
その一言の重さを、量り間違えたくなかった。
戦うことはできない。行ったところで、足手まといになるかもしれない。
それでも、聞くことはできる。
女神さまを勝手に助けに行くのではない。帰るか残るか、その答えを俺が決めるのでもない。
本人の答えを聞きに行く。
俺はソファから立ち上がり、学校鞄を肩へかけた。玄関の小物入れから自転車の鍵を取ると、フカが後ろをついてくる。
「何をしに行く」
スニーカーへ足を入れながら答えた。
「エルミナさんに聞く」
口にした名前が、自分でも少しだけ照れくさかった。
これまでと別の相手を呼んだわけではない。ただ、「女神さま」という肩書きではなく、今から意思を聞く一人の相手として呼び止めるなら、その名前の方がいい気がした。
言い直す気にはならなかった。
フカは何も言わない。
「来るなら、早くしろよ」
俺が玄関を開けると、その白い身体も当然のように外へ出た。
「ついてくるのか?」
「勘違いするな」
フカは不機嫌そうに鼻を鳴らす。
「おれ様は命令されたからついていくだけだ」
確かに、女神さまはフカへ俺を守れと命じていた。置いていこうとしても、たぶん無理なのだろう。
◇
マンションの駐輪場から自転車を出し、前籠を指さす。
「じゃあ、ここに乗ってくれ」
「おれ様を荷物扱いするな!」
夜の駐輪場に怒声が響いた。幸い、近くに人はいない。
「走ってくるのか?」
「なぜおれ様が人間の乗り物と競走せねばならん!」
「なら籠しかないだろ」
睨み合った末、フカは俺の足元から跳び上がった。鞄へ爪をかけ、肩越しに白い顔を出す。
「落とすなよ、人間」
「つかまってるのはそっちだろ。……落ちるなよ、フカ」
返事の代わりに、耳元で荒い鼻息がした。
俺は自転車へ跨がり、夜の住宅街へ漕ぎ出した。
水明川までは遠くない。冷え始めた風が頬を撫で、制服の裾を揺らす。背中ではフカの爪が鞄に食い込み、曲がるたびに肩へ重みが寄った。
ペダルを踏みながら、頭の隅で誰かが言っている。まだ引き返せる。帰って教科書を並べ直せば、明日はいつもの一日だ。
その声に、返事はしなかった。ペダルだけを踏んだ。
川沿いへ近づくにつれ、建物の間から水の匂いが流れてくる。上流側の遊歩道は、駅に近い場所ほど明るくない。等間隔の街灯が、黒い川面へ細長い光を落としていた。
自転車を止めたのは、遊歩道へ下りる坂の手前だった。
その先の景色が、おかしい。
川沿いの一角を囲むように、透明な水の膜が立っている。街灯も木々も遊歩道も透けて見えるのに、膜の内側だけが、水底を覗き込んだようにわずかに揺らいでいた。
向こうから歩いてきた人が、その場所へ近づく。けれど水の膜には目も向けず、何かを思い出したように道を折れ、遠回りして去っていった。
俺のいる側には川の流れる音がある。それなのに、透明な膜の向こうからは何の音も届かない。
肩の上で、フカが低く言った。
「水鏡の帳だ」
白い身体が強ばり、俺の肩へ爪が食い込む。
「もう始まっているぞ」




