第6話 水の檻
フカの爪が、制服越しに肩へ食い込んでいる。
透明な水の膜の向こうでは、街灯も遊歩道もわずかに揺らいでいた。見えているのに、そこだけが川の底へ沈んでいるようだった。
「中へ入れるのか?」
「おれ様を誰だと思っている」
フカは鞄の上から地面へ跳び下り、水の膜へ近づいた。
俺は自転車を坂脇の柵へ寄せ、後輪の錠のつまみを押し下ろす。急いでいるのに一度で下り切らず、指先が金具の上で滑った。
こんなところで手間取っている場合じゃない。そう思うほど、指はうまく動かなかった。頭より先に、身体が今から行く場所を分かっているらしい。
……というか、この状況で律儀に施錠している俺は何なんだ。神さまの結界の前で、盗難の心配。我ながら、しみついた平和が抜けない。それでも、かけずに置いていく方が落ち着かないのだから仕方なかった。
ようやく錠が落ち、抜いた鍵をポケットへ押し込む。学校鞄は背負ったまま、フカの隣へしゃがんだ。
「破るのか?」
「馬鹿を言うな。アクアリア監察官の結界を、おれ様一人で壊せるものか」
フカの額にある銀青色の紋様が淡く光る。淡い金色の瞳には、細い光の輪が幾重にも浮かんだ。
「結界にも境目はある。外と内を分ける以上、完全に継ぎ目を消すことはできん」
フカは鼻先が触れそうな距離から、水の膜に沿ってゆっくり歩いた。長い尾の先にごく細い光が残り、水面のような揺らぎへ一本の線を描いていく。
数歩進んだところで、前足が止まった。
「ここだ。おれ様が隙間を広げる。離れるなよ、人間」
「分かった」
紋様の光が強まる。透明な膜の一部が左右へ揺れ、細い切れ目が生じた。
フカが身体を滑り込ませる。俺も切れ目が閉じる前に、その後へ続いた。
水へ飛び込むような感触を覚悟したが、服も髪も濡れなかった。冷たいものが一瞬だけ頬を撫で、次の瞬間には背後で透明な膜が閉じていた。
川の音が消えている。
膜の外では確かに流れていた水音も、遠くを走る車の音も聞こえない。街灯の光まで薄い水を通したように滲み、遊歩道の空気は不自然なほど静まり返っていた。
「外側の帳だけではない」
フカが声を落とす。
「水鏡の帳が、外の人間の認識や記録、通信を歪める。その内側に静水圏を重ねている。音も光も神力も衝撃も、ここから外へ逃がさないための結界だ」
何が起きても、外には届かない。
そう考えた途端、胃の底が下がるような感じがした。ここで何を叫んでも、膜一枚向こうの世界には、今夜も普通の夜が流れている。
その奥で、青い光が走った。
遊歩道を少し進んだ場所に、二人の姿がある。
アクアリアさんは川を背にして立ち、片手を前へ差し出していた。低い位置で束ねた長い髪が、風もないのに水中へ沈んだようにゆっくり揺れている。
その正面にいる女神さまの周囲では、透明な水の輪が幾重にも回っていた。
「境界院上級監察官アクアリアの権限により、あなたを一時拘束します」
家で聞いた気さくな声とは違う。硬く澄んだ言葉が、静まり返った空間へ響いた。
水の輪が上下左右へ広がり、女神さまを中心にした球形の檻を作る。
思わず足が前へ出た。
けれど、水は銀髪にも服にも触れていない。身体から少し離れた位置で絶えず循環し、女神さまのいる空間だけを遊歩道から切り取るように囲っている。
女神さまが片手を上げた。指先から銀紫色の光が放たれ、水の壁へぶつかる。
破裂音はしなかった。
光は水の流れへ沿って細く引き伸ばされ、球の表面を一周すると、川の方角へ散って消えた。
大神格の力が、音もなく受け流された。あの夜、フカを宙へ縫い止めた力が、だ。
「水環牢まで使ったか」
フカが低く吐き出す。
女神さまは水の向こうからアクアリアさんを睨んだ。
「私を理解しているように振る舞ったのは、警戒を解くためだったのね」
「騙したことは否定しないわ」
アクアリアさんの声には、もう軽さがなかった。
「理解していると言ったことは嘘じゃないわ」
差し出した手を下ろさないまま、女神さまを見返す。
「でも、理解しているから見逃すとは言っていない」
「私を神界へ連れ戻すつもり?」
「あなたの裂界降臨で、神界と人間界の境界は傷ついている。大神格が許可なく人間界へ留まり続ければ、境界院だけでは済まない政治問題になるわ」
透明な水の輪が、一定の速さで回り続ける。
「あなたを狙う別の神が、この世界へ来る可能性もある。そうなれば晴くんだけでなく、あのマンションの住民まで巻き込まれるかもしれない」
女神さまの紫色の瞳が、ほんの一瞬揺れた。
俺の家だけの話ではない。
隣の部屋にも、下の階にも、何も知らずに暮らしている人がいる。毎朝エレベーターで会釈するだけの人たちの顔が、順番に浮かんだ。アクアリアさんの言葉は、俺を諦めさせるための脅しではなかった。
「境界院として放置はできない。ただ、正式な手続きを踏めば、あなた自身の意思を主張する余地は残せる」
「余地、ね」
女神さまの口元に、冷たい笑みが浮かんだ。
「戻った先で、私の意思が本当に尊重されると思っているの?」
アクアリアさんはすぐには答えなかった。
「必ず守れるとは言わないわ」
静かな返事だった。
「それでも、境界を傷つけたまま、人間の家へ隠れ続けることを認めるわけにはいかない」
どちらが正しいのか、俺には分からない。
女神さまを帰せば全部解決する、なんて単純な話ではない。けれど、帰さずにいれば安全だとも言えない。
だから、決めに来たんじゃない。
「待ってください!」
静水圏の中では、自分の声が思いのほか裸で響いた。掠れていたことは、言ってから気づいた。
二人の視線が同時にこちらへ向く。
アクアリアさんの目が見開かれた。女神さまも、いつもの威厳を忘れたように俺を見ている。
「ハル……?」
俺はフカと一緒に二人の方へ進んだ。膝が少し固い。心臓の音が、静まり返った空間では自分にまで聞こえる気がする。止まりそうになる足を、歩くことだけ考えて前へ出す。
「来ない方がいいと言ったでしょう」
「言われました。でも、聞かないといけないことがあるんです」
「どうやって帳を越えたの?」
アクアリアさんの目がフカへ移る。
「おれ様は境界神使だ。隙間を見つけるくらい造作もない」
フカは胸を張ったが、アクアリアさんは責めなかった。小さく息を吐くと、俺へ向き直る。
「エルミナさんと話をさせてください。まだ、連れていかないでください」
「私はエルミナを傷つけていない」
アクアリアさんは水の檻へ視線を向けた。
「水環牢は、エルミナの身体ではなく、周囲の空間だけを切り離しているの。水は触れない。呼吸も体温も奪わないし、神力を吸い取ってもいない。内側から放たれた力を、水の循環へ逃がしているだけよ」
実際、女神さまの服も髪も濡れてはいない。苦しそうに息をしている様子もなかった。
「あなたの家へ置いておくより、神界へ戻した方が安全よ」
アクアリアさんは俺を脅すのでも責めるのでもなく、事実を確かめさせるように言った。
「これ以上関わらなければ、あなたは普通の高校生へ戻れる」
背中には学校鞄があり、ポケットには家と自転車の鍵が入っている。
ここから帰ればいい。明日はいつもどおり学校へ行き、放課後には一人分の夕食を作る。父さんと母さんへ突然増えた同居人を説明する必要もない。神や精霊の事情へ命を懸けることもない。
誰にも注目されず、余計なことをしない。
つい何日か前まで、これからも毎日そうであればいいと思っていた。
「帰りなさい、ハル」
水の向こうから、女神さまが告げた。
「でも――」
「あなたには関係ないと言ったでしょう」
冷たい声が、俺の足を止める。
女神さまはここまで自分で来た。助けてほしいとは言っていない。アクアリアさんは女神さまを傷つけていないし、住民を守らなければならない理由もある。
もしかしたら、女神さまは本当に帰るつもりなのかもしれない。
俺を遠ざける声の奥に何があるかなんて、俺には分からない。守るためかもしれない、なんて考えるのも、結局は俺の勝手な想像だ。想像で人の行き先を決めるのは、水の檻と、どれだけ違う?
本人が帰りたいなら、俺が止める理由はない。
帰りたくないなら――その時は、聞かなかったことにはできない。
だから、確かめに来たのだ。
一度だけ息を吸う。
「帰りたいんですか」
女神さまの表情が止まった。
「神界に、自分から帰りたいんですか」
返事はない。
水の輪だけが、透明な檻の表面を巡っている。
アクアリアさんは口を挟まなかった。女神さまの答えを待つように、差し出していた手をわずかに下げる。
女神さまは俺から目を逸らした。下ろした手が、淡い青のカーディガンの裾をつかむ。
長い沈黙だった。
いつものように命じることも、俺には関係ないと言い直すこともしない。
神界へ戻ることには、単なる反抗では説明のつかない何かがある。そう感じても、それが何なのかは分からない。女神さまも、話そうとはしなかった。
やがて、紫色の瞳が俺へ戻る。
「帰りたくない」
命令でも、強がりでもない、小さな声だった。
この人の、こんな声を聞いたのは初めてだった。
その一言が、静まり返った空間の中で、やけにはっきり聞こえた。
理由はまだ分からない。何をすればいいのかも分からない。
でも、聞いてしまった。
ここで帰るのは、知らなかったからじゃない。
聞いたうえで、聞かなかったことにするということだ。
それがどういうことか、俺は知っている。
俺はアクアリアさんへ向き直った。
「じゃあ、俺は帰れません」




