第7話 ここにいてほしい
言い切った声は、静まり返った遊歩道へ思った以上に大きく響いた。
言ってしまってから、心臓が追いついてくる。ばくばくと速いくせに、後悔の形はしていなかった。
アクアリアさんの深い青の目が、俺をまっすぐに見つめる。
「帰らないと言って、どうするつもり?」
答えられなかった。
俺には武器もない。神力というものも使えない。水の檻に近づいたところで、何ができるのかさえ分からない。
それでも、足は女神さまの方へ動いた。
「ハル、来ては駄目よ」
水環牢の向こうで、女神さまが俺を止める。
透明な水は彼女の身体へ触れないまま、球の表面を絶えず巡っていた。俺に見えるのは、街灯を歪めながら流れる水だけだ。その中を神力がどう動き、何が空間を区切っているのかは分からない。
分からないなら、せめて確かめるしかない。
右手を伸ばす。
指先が水面へ届く寸前、球の表面がわずかにへこんだ。
次の瞬間、見えない塊が手のひらへ叩きつけられた。
「っ……!」
腕ごと後ろへ弾かれる。
足が地面から離れ、背負った学校鞄を下にして遊歩道へ落ちた。中の教科書が鈍い音を立て、勢いを殺しきれない身体が横へ転がる。
肺から息が抜けた。
吸おうとしても、胸が動かない。開いた口から変な音だけが漏れる。背中には鞄の角が食い込み、右の肘から肩までが痺れていた。
痛い。
当たり前だ。神の作った檻へ、生身で手を出したのだから。
「無理よ」
アクアリアさんの声が降ってくる。
「これは人間が壊せるものじゃない」
そんなことは、俺にも分かっていた。
何か特別な力が目覚めたわけではない。さっきまでと同じ、ただの高校生だ。転んだ背中は痛むし、呼吸を整えなければ起き上がることもできない。
それでも地面へ手をつき、膝を起こそうとした。
「今ならまだ戻れる」
アクアリアさんは水環牢を維持したまま、俺へ言う。
「ここで手を引けば、あなたはただ巻き込まれた人間でいられる」
静かな忠告だった。俺を傷つけようとしている声ではない。
「その壁へ触れ続ければ、神力で肉体が壊れるわ」
起こしかけた膝が止まった。
さっきより強く弾かれたら、次は背中を打つだけでは済まないかもしれない。
怖い。
地面を見て、何も言わず、痛みが過ぎるのを待つ。その間、周りの誰とも目が合わない。そうしていれば、それ以上ひどくならない。
そんな感覚を、身体の方が覚えていた。膝の起こし方より先に、うずくまり方を思い出す自分が、嫌だった。
立たなければ安全だ。
ここで帰れば、これまでと同じやり方で明日からも暮らしていける。
でも、水の向こうから聞いた声まで忘れることはできない。
帰りたくない。
本人がそう言ったのに、聞かなかったことにして帰るのは違う。
これから先、いつでも立ち向かえる人間になれるなんて思わない。次に同じことがあった時も、立てるかどうかは分からない。
それでも、今回だけは。
震える膝を押さえ、もう一度立ち上がった。
「待て、人間!」
フカが俺の前へ飛び出した。白い毛を逆立て、淡い金色の目で水の球を睨む。
「むやみに触るな! おれ様は、お前が重大な危険へ陥れば守るよう命じられているのだぞ!」
「じゃあ、どうすればいい」
「水そのものを破ろうとするな。あれは檻ではない。内と外を分ける境界だ」
フカの額で、銀青色の紋様が淡く光った。瞳の中にも細い光の輪が重なっている。
「水は必ず流れる。流れが戻る場所を探せ」
フカには、俺には見えない何かが分かるらしい。
けれど、すぐに一点を指し示すことはしなかった。境界を読む力があっても、アクアリアさんの術をすべて見通せるわけではないのだろう。
俺は水環牢の周囲をゆっくり歩いた。
球の表面では、細かな波紋がいくつも生まれている。広がった波紋はほかの波と重なり、形を崩しながら流れていく。
どれも同じように見えた。
それでも目を逸らさずに追う。数字なら見られる。数字じゃなくても、順番と繰り返しなら、たぶん俺は人より粘れる。
一つの波紋が球の裏側へ回り、少し遅れて正面へ戻ってくる。別の波紋も同じ道を通り、正面からやや右、俺の肩ほどの高さへ寄っていった。そこでいくつもの揺れが重なったあと、また球全体へ散っていく。
あそこだろうか。
確信はない。俺に分かるのは、水の表面に現れた動きだけだ。
右手を近づける。
今度は弾かれる前に離せるよう、勢いをつけずに指先だけを押し当てた。
触れた瞬間、熱い針を爪の間から差し込まれたような痛みが走った。
「ぐっ……!」
反射的に手を引く。指から手首、肘までが一度に痺れ、腕の感覚だけが遅れて戻ってきた。
「ハル、やめなさい!」
女神さまの声が水越しに響く。
俺は痺れた腕を押さえながら、彼女を見た。
「俺だけじゃ、何もできません」
「何を言っているの?」
「だから、あなたも決めてください」
女神さまの表情が止まる。
俺が勝手に助けると決めて、一人で無理に連れ出すのでは意味がない。それでは、嫌がるフカへ印が刻まれた夜と、同じ形になってしまう。
帰らないことを選ぶなら、そのために力を貸すかどうかも、彼女が決めなければならない。
「俺が勝手に触るのは、もうやめます。力を貸すかは、エルミナさんが決めてください」
「ここにいたいなら、俺に力を貸してください」
「できないわ」
返事は早かった。けれど、拒む声はさっきよりも揺れていた。
「あなたの身体には、神力を通すための道がない。無理に流せば肉が裂ける。神経が焼けて、魂まで傷つくかもしれない」
女神さまの手が、水の内側から俺の右手を追うように上がる。
「意識を失うだけでは済まないわ。最悪の場合は死ぬ。それに、一度こちらと深くつながれば、あなたはもう神界の問題から完全には離れられなくなる」
死ぬ。
その言葉を聞いた途端、口の中が乾いた。
痛いのは嫌だ。
俺は死にたいわけではない。
父さんと母さんには、また会いたい。二人が帰ってきたら、いつもどおり玄関で迎えたい。明日も学校へ行きたいし、誰にも注目されずに一日を終えたい。
普通の生活を、失いたくない。
「……エルミナさんなら、流す力を抑えられますか」
女神さまの目が揺れる。
「抑えるわ。けれど、あなたの身体がどこまで耐えられるかは、私にも分からない」
「流れがずれた一瞬だけにしろ」
フカが水環牢から目を離さずに言った。
「真正面から壊そうとするな。継ぎ目へ一度だけ力を通す。それで駄目なら、すぐに退け」
安全だとは、誰も言わない。
それでも、何も分からないまま何度も壁へぶつかるのとは違う。フカが流れを読み、女神さまが力を抑える。一度だけ、狙った場所へ通す。
失敗するかもしれないし、傷つくかもしれない。けれど、これは確実な死を選ぶことではない。
女神さまは水の向こうで、俺の返事を待っていた。
「後悔するわよ」
「それも俺が決めます」
声は少し震えた。
怖くなくなったわけじゃない。それでも、自分が何を望んでいるかまで、怖さに決めさせたくはなかった。
「俺は、あなたにここにいてほしい」
口にすると、胸の奥にあったものが初めて形になった。
女神さまの事情を全部知っているわけではない。出会ってから、まだ数日しか経っていない。
高飛車で、命令ばかりで、人間の暮らしを何も知らない。家へ来た夜から振り回され続けている。
それでも、同じテーブルで俺の作った食事を食べた。空だったクローゼットには彼女の服が並び、洗面所には彼女が選んだ物が増えた。
そして今夜、誰もいなくなったリビングで、俺は一度だけ先を知った。物だけが残って、声のない家。あれはもう、俺の知っている静けさではなかった。
明日の朝、向かいの椅子が空いていることを、俺は望んでいない。
女神だからでも、大神格だからでもない。
彼女が帰りたくないと言った。その言葉から目を逸らしたくない。
そのうえで、俺自身も彼女に残ってほしいと思っている。
「俺がそうしてほしいんです。あなたは、どうしたいんですか」
女神さまは俺を見つめたまま、動かなかった。
いつもなら、ためらいなく自分の望みを通す人だ。それなのに今は、まるでそんなことを初めて尋ねられたように、紫色の瞳を見開いている。
やがて、水の内側へ上げていた手が、まっすぐ俺へ向けられた。
「私も、ここにいたい」
静かな答えが届く。
その瞬間、女神さまの手のひらに銀紫色の光が灯った。
「エルミナ、待って」
アクアリアさんの声が鋭くなる。
フカも目を見開いた。
「待て、エルミナ様! 人間へ直接そこまでの神力を流すつもりか!」
何が起きるのかを尋ねる余裕はなかった。
女神さまの手のひらから伸びた光が、水の壁をすり抜ける。何かを破った気配はない。細い光は俺の右手の前で一瞬止まり、返事を待つように揺れた。
ここで手を引くこともできる。
女神さまは力を押しつけてこない。最初の夜から命令ばかりだった人が、最後の一つだけは、俺に選ばせようとしている。
俺は痺れた指を開き、自分から光へ手を伸ばした。
指先が触れる。
胸の奥で、何かがつながった。
「――あああっ!」
全身が内側から引き裂かれた。
心臓が一度、大きく跳ねる。次の鼓動から速さを増し、胸骨を内側から叩くように脈打った。
息を吸っても足りない。肺が縮み、喉からかすれた音しか出なかった。
右手の甲から腕へ、血管に似た銀紫色の光が走る。光の通った場所を追うように皮膚が細く裂け、赤い血がにじんだ。肩も背中も脚も、筋肉を内側から無理やり引き延ばされるように痛む。
膝が折れかけた。
「ハル!」
「強すぎる、エルミナ様! 量を落とせ!」
「分かっているわ!」
女神さまの手の光が弱まる。
それでも、一度できたつながりは消えなかった。細い流れが胸の奥から腕へ、脚へ、身体の隅々へ新しい道を刻んでいく。
痛みで視界が白くなる。
やめたい。
もう手を離して、地面へ倒れてしまいたい。
死ぬかもしれないという言葉が、今さら頭の中で何度も響く。
けれど、やるのは一度だけだ。
俺は歯を食いしばり、まだ残っている水環牢へ顔を上げた。
滲んでいた街灯の光が、突然いくつもの線へほどけた。
水の球が消えたわけではない。
さっきまで一枚の表面にしか見えなかったものが、無数の流れに分かれて見える。
水は球の上から下へ落ちているのではなかった。斜めに巡り、裏側へ回り、別の流れと結びつく。透明な細い筋が何重にも絡まり、いくつもの接点で内と外を縫い合わせている。
その中を、色のない何かが流れていた。
目で見ているのかすら分からない。ただ、どこから来て、どちらへ向かい、どこで薄くなるのかが、痛む頭の中へ直接入ってくる。
すべてが分かったわけではない。
見えるのは、この水環牢の流れだけだ。
波紋が集まる場所。何本もの流れが重なり、もう一度全体へ戻っていく継ぎ目。
さっき触れた場所より、ほんの少し下。
そこだけ、ほかと違う。
「フカ……俺の正面、少し右。波が集まってる場所がある」
息の間から、どうにか言葉を押し出す。
フカの瞳に浮かんだ光の輪が、俺の示した一点へ向いた。
「見えているのか、お前に……」
「そこを、ずらせるか」
フカは問い返さなかった。地面を蹴り、水環牢の横へ回り込む。額の紋様から銀青色の光が伸び、長い尾が空中へ輪を描いた。
「一瞬だけだ! おれ様が境界座標をずらす!」
女神さまも、内側から同じ一点へ手を向けた。
水の流れが彼女の銀紫色の光を引き延ばそうとする。けれど今度は、散らされる前から継ぎ目だけへ力を集めていた。
「ハル、もう十分よ!」
女神さまが叫ぶ。
俺の腕を伝って落ちた血が、遊歩道へ小さな点を作っていた。握った指の感覚もほとんどない。
怖い。
痛い。
今すぐやめたい。
でも、やるならここしかない。
右の拳を引いた。
「やめなさい、晴!」
アクアリアさんの声と同時に、フカの輪が水環牢へ重なる。
球の表面が横へわずかにずれた。
俺は拳を打ち込んだ。
水の塊を殴った感触はなかった。
拳に残っていた銀紫色の光が、細い針のように継ぎ目へ入る。内側から女神さまの光が重なり、ずらされた流れの間をまっすぐに貫いた。
水環牢全体を巡っていた流れが、一瞬だけ止まる。
透明な球へ、白い亀裂が走った。
アクアリアさんの視線が、裂けた俺の右腕へ落ちる。水環牢へ向けていた手が下ろされた。
「……そこまでよ」
押し返していた力が消えた。
亀裂は球の反対側まで広がり、幾重もの水の輪を断ち切っていく。けれど大量の水が遊歩道へ飛び散ることはなかった。
透明な水は細かな青い光へほどけ、夜の空気へ溶けるように消えていった。
水環牢がなくなる。
その向こうにいた女神さまが、俺へ駆け寄った。
もう立っていられなかった。
膝から力が抜け、身体が前へ傾く。
銀色の髪が視界いっぱいに広がった。背中と肩へ腕が回り、倒れかけた身体を受け止める。
女神さまが、俺へ触れている。
その腕へ倒れ込んでも、何かに拒まれることはなかった。
「ハル! 目を開けなさい、ハル!」
声が遠くなる。
女神さま――いや。
エルミナさんが、俺の名前を呼んでいた。




