第8話 追手は保健室の先生になるらしい
意識が戻るより先に、身体の痛みが戻ってきた。
右腕は熱を持って脈打ち、肩も背中も、少し息をするだけで鈍く痛む。手足の先まで重く、自分の身体なのに、どこへ力を入れれば起き上がれるのか分からなかった。
目を開ける。
見えたのは、水明川の街灯ではなく、見慣れたリビングの天井だった。
うちの天井だ、と思った途端、身体中の痛みが少しだけ順番を守り始めた気がした。生きているし、家にいる。確認はそれで十分だった。
俺は自宅のソファに寝かされていた。ブレザーは椅子の背へ掛けられ、白いシャツの右袖が肘までまくられている。手の甲から前腕にかけて巻かれた包帯が、照明の下でやけに白く見えた。
「ハル」
すぐそばから呼ばれる。
顔を向けると、エルミナさんがソファの脇に座っていた。白いブラウスに淡い青のカーディガンという、水明川へ出た時の服装のままだ。長い銀髪も乱れたままで、いつもなら整っているはずの毛先が肩や膝の上へばらばらに落ちている。
完璧に整えていないこの人を見るのは、初めてかもしれない。髪より先に、ここへ座ることを選んだ人の格好だ――と思ってから、自惚れるなと自分に言い直した。
紫色の瞳が、俺の顔から包帯へ移った。
「無茶をしたわね」
叱るような声だった。
けれど、膝の上で重ねられた指には力が入り、白くなった指先がわずかに震えていた。
その指の形なら、もう何度も見てきた。ただ、これまでのそれは、いつも追手や神界の話の途中だった。
「帰りたくないって言ったでしょう」
声がかすれた。喉まで痛い。
それでも言うと、エルミナさんは何も返さなかった。ほんの一瞬だけ、今まで見たことのないものを見るような目をして、それから長い睫毛を伏せる。
「……エルミナさんは、怪我してませんか」
「私は平気よ」
答えたあと、彼女は俺の呼び方を確かめるようにこちらを見た。
何か言われるかと思ったが、すぐに普段の澄ました表情へ戻る。
「自分の心配をなさい。今のあなたは、指一本動かすだけでも痛むでしょう」
「そこまでは――」
左手をついて起き上がろうとした途端、脇腹から背中へ痛みが走った。
「っ……」
「だから言ったでしょう」
エルミナさんの手が背中へ伸びかける。
「そのままでいて、晴くん」
落ち着いた声に止められた。
ダイニングテーブルのそばに、アクアリアさんが立っている。深い青緑の髪は低い位置でまとめ直され、服装も初めて家へ来た時と変わっていない。フカはテーブルの端に伏せ、長い白い尾を苛立たしげに揺らしていた。
「ここまで運んでくれたんですか」
「ええ。あなたの身体へ残っていた余分な神力を抜いて、できたばかりの神脈を応急的に安定させたわ。水鏡の帳と静水圏を解いて、周囲の記録も処理した。鞄と自転車も戻してあるから、今は心配しなくていいわよ」
ソファの向こうを見ると、学校鞄が壁際へ置かれていた。自転車の鍵も、いつもの小物入れに戻っている。
昨日までの俺なら、これで一件落着の風景だった。鞄は定位置、鍵は定位置、家の中は静か。定位置に収まっていないのは、俺の身体と、この状況だけだ。
「ありがとうございます」
「礼を言うのは、全部話してからにしてちょうだい」
アクアリアさんは椅子を引き、俺から少し離れた位置へ座った。
「先に、境界院上級監察官としての判断を伝えるわ。エルミナの強制回収は、いったん保留にします」
エルミナさんの指が動きを止めた。
フカも顔を上げる。
「回収任務を中止するわけじゃない」
アクアリアさんは、俺たちの反応を待ってから続けた。
「現地監察へ切り替えるだけよ」
「それって、エルミナさんはここにいていいということですか」
「今すぐ神界へ連れ戻すことはしない、という意味ではね。正式な調査が終わるまで、私の監督下で人間界への滞在を認めるわ」
「ずいぶん簡単に方針を変えるのね」
エルミナさんの声には、安心より警戒が濃く残っていた。
「簡単に決めたつもりはないわ。あなたは人間へ、自分の意思で神力を渡した。晴くんも危険を知ったうえで受け入れた。その結果、二人の間には正式な神路ができている」
初めて聞く言葉だった。
「神路って、何なんですか」
「神と、神力を受け取る相手を結ぶ道よ。今回のように双方が望み、互いに受け入れた時に成立する」
アクアリアさんの視線が、包帯の巻かれた右腕へ落ちる。
「その道を通すために、あなたの魂と肉体には神脈が作られた。神力の通り道と言えば、分かりやすいかしら」
俺は右手へ意識を向けた。
包帯の下にあるのは、裂けた皮膚と痛みだけだ。水明川で感じた銀紫色の流れは、今は見えない。
「じゃあ、俺も神になったんですか」
「いいえ」
否定は迷いなく返ってきた。
「あなたに神核はないし、神格もない。今までどおり人間よ。神になったから寿命が延びる、なんてこともないわ」
「では、何が変わったんですか」
「神の力を授かり、受け入れられる人間になった。神界では、そういう人を神授者と呼ぶの」
「しんじゅしゃ……」
口の中で繰り返してみても、自分には似合わない言葉だった。テストの答案に書く漢字より、ゲームの画面で見る単語に近い。
「ただし、晴くん自身が神力を生み出せるわけではない。エルミナが送ろうと望み、あなたが受け入れた時だけ、神路を通じて使えるの」
アクアリアさんはエルミナさんへ目を向ける。
「晴くんが勝手に奪うこともできないし、エルミナが一方的に押し込むこともできない。どちらか一方の意思だけでは成り立たない道よ」
それを聞いて、胸の奥へ銀紫色の光が届いた時の感覚が蘇った。
手を引くことはできた。
そのうえで、俺は自分から手を伸ばした。
「でも、使ったらまたこうなるんですよね」
包帯を少し持ち上げる。
「量を誤ればね。人間の身体は、神力を通す前提で作られていない。筋肉、腱、骨、関節、神経、内臓――神力そのものより先に、器である身体が壊れるわ」
身体のあちこちが、その説明に同意するように痛んだ。
「次からは私がもっと正確に調整するわ」
エルミナさんが言う。
「最初だったから、加減を誤っただけよ」
「次がある前提で話さないでください」
「なくすつもり?」
「そういう意味じゃありませんけど」
言い淀む俺へ、アクアリアさんが静かに釘を刺す。
「慣れれば安全になる、とは考えないで。流せる量が増えても、人間の身体であることは変わらないわ」
「分かりました」
「それから、神授者になった以上、あなたはもう神界の事件へ巻き込まれただけの一般人ではない。境界院、人間界側の担当機関、それに神々と関係する者たちから、保護と監察を受ける立場になるわ」
アクアリアさんに、今なら普通の高校生へ戻れると言われたのは、ほんの少し前だ。
もう同じ選択肢はない。
あの扉を閉めたのは、俺だ。
それでいい、と思っている自分と、本当に分かっているのか、と聞いてくる自分が、まだ胸の中に並んで座っている。右腕の痛みと一緒に、その事実がゆっくり沈んでいく。
「後悔している?」
尋ねられ、エルミナさんを見る。
紫色の瞳は俺をまっすぐ見ていた。返事を急かしてはいない。ただ、膝の上の手だけが固く重なっている。
「してません」
あの時に戻っても、たぶん同じことを聞く。
帰りたいのか。
ここにいたいのか。
そして、同じ答えを聞けば、俺も同じように手を伸ばす。
エルミナさんの指から、少しだけ力が抜けた。
「だから、神路を無理に切ってエルミナだけを連れ戻すことはできないの」
アクアリアさんが説明を引き取った。
「できたばかりの神脈ごと傷つければ、晴くんの身体だけでなく、魂へ何が起きるか分からない。エルミナ本人も人間界へ残ることをはっきり望んでいる。それでも強引に帰還させることが、正しい結果になるとは思えないわ」
「あなたが、そんなことを言うのね」
「私だって規則だけで判断しているわけではないのよ」
その時だけ、アクアリアさんの目が、俺たちではない何かを見るように遠くなった。
けれど、彼女はそれ以上の理由を話さなかった。
「ただし、裂界降臨で境界を傷つけたことも、フカへ強制従属印を刻んだことも消えない。滞在を許可して終わりではなく、調査と監察は続ける。それが今回の決定よ」
エルミナさんはしばらく黙っていたが、やがて小さく顎を引いた。
「分かったわ。今は受け入れましょう」
素直に礼を言わないところは、いつものエルミナさんだった。
俺は少し息を吐き、もう一つ気になっていたことを口にする。
「水の檻を見た時、急に流れが分かったんです。あれも神授者になったからですか」
「可能性は高いわね」
アクアリアさんはすぐ断定せず、考えるように指先を組んだ。
「私の見立てでは、エルミナの権能が晴くんの物の見方を通り、別の形で表れた。美や調和を見る力が、あの場では流れの乱れや継ぎ目を見分ける方向へ変わったのかもしれないわ」
「じゃあ、これからも相手の弱いところが見えるんですか」
「そこまで便利なものだと思わない方がいい」
フカがテーブルの上から割り込んだ。
「あの時は、お前とエルミナ様の意思が重なっていた。できたばかりの神路へ神力が流れ、対象も境界を組み合わせた水環牢だった。さらに、おれ様が流れの戻る場所を探せと教えた」
最後の部分だけ、やけに強調された。
「条件がいくつも重なった結果だ。同じことが何にでもできると思うな」
「フカの言うとおりよ」
アクアリアさんが頷く。
「心を読んだわけでも、私の力をすべて見抜いたわけでもない。今の段階では正式な名前をつけられるほど、性質も分かっていないわ」
そう言われると、俺自身にも説明できない。
今は部屋を見回しても、水明川で見えたような流れはどこにもなかった。
「さて」
アクアリアさんの声が少し硬くなる。
「次は、まだ残っている問題を片づけましょう。フカ、もう一度、額を見せて」
「さっきも見ただろう」
「晴くんの神路を安定させた後で、影響が変わっていないか確かめるの」
フカは不満そうに耳を伏せたが、テーブルの端まで歩いた。アクアリアさんが額の銀青色の紋様へ指を近づける。触れはせず、深い青の瞳でしばらく観察してから、エルミナさんへ顔を向けた。
「もう居場所を隠す必要はないでしょう」
静かな声で告げる。
「フカを自由にしなさい」
「解除すれば、境界院へ戻るでしょう」
エルミナさんの返事も、迷いなく聞こえた。
「戻って別の追手を連れてくるかもしれない」
「それを決めるのはフカよ」
部屋が静かになった。
エルミナさんはアクアリアさんを見返している。膝の上にあった片手が、カーディガンの裾をつかんだ。
帰るか、残るか。
俺が水の檻の前で、エルミナさん本人へ答えを求めた時と同じだった。
同じ問いを、この人は問われる側としては受け取れて、フカへ向ける側には、まだなれないらしい。
フカは何も言わない。淡い金色の目だけが、エルミナさんへ向いている。
「今は解除しないわ」
長い沈黙の末、エルミナさんはそう答えた。
「あなたが認めなくても、フカは境界神使よ。任務へ戻る可能性は残っている」
「可能性があるから、選ばせないの?」
アクアリアさんの問いに、エルミナさんの口元が固くなる。
「必要な措置よ」
「……美しくないことくらい、分かっているわ」
それ以上は譲らなかった。
「分かったわ」
アクアリアさんは無理に解除しようとはせず、フカから手を離した。
「強制従属印の継続と、本人の意思に反した拘束。境界法への違反として、正式に記録します」
「好きになさい」
「言われなくてもそうするわ」
フカが身体を反転させ、エルミナさんへ背を向けた。
「おれ様は許したわけではないからな」
「分かっているわ」
「分かっている者のすることではない!」
白い尾がテーブルを強く叩く。
水環牢を壊す時には協力してくれた。それでも、額の印をめぐる二人の対立がなくなったわけではない。
今夜、この家で助かったものと、まだ助かっていないものが、同じテーブルの上に載っている。
「もう一つ確認するわ」
アクアリアさんが二人へ視線を往復させる。
「印を通じて、エルミナへ流れたのはどこまで?」
「人間界に関する情報と、道具を扱うための技術的な知識。社会の決まりや言葉の感覚も含まれているわ」
エルミナさんが答える。
「ただし、フカの人格が混ざったわけではない。フカが何を経験し、その時どう感じたのかも分からないわ。好みや感情、私的な記憶も共有されていない」
「つまり、使い方を知っていても、自分で使った経験があるわけではないのね」
「そうよ」
「おれ様の知識を勝手に使っていることに変わりはないがな」
フカは吐き捨てた。
スマートフォンについて詳しくなっても、実際に触れたことはない。学校を知っていても、通ったことはない。
エルミナさんの知識だけが、生活の経験より先へ進んでいるらしい。
「そこまで確認できれば、人間界側の処理へ移れるわね」
アクアリアさんはテーブルへ置いていた薄い端末を手に取った。
「人間界にも、神や精霊に関わる事態を処理する機関があるの。内閣官房特異領域対策室。長いから、普段は特領室と呼ばれているわ」
「そんな部署があるんですか」
「公表はされていないけれどね。境界院とは以前から連絡経路があるわ。今回も、エルミナが人間として暮らすための記録を整えてもらう」
端末の画面を指で送る。
「人間界での名前は御影エルミナ。住民登録と、これまで海外で暮らしていた経歴を用意する。健康保険、銀行口座、当面の生活支援、それから本人用のスマートフォンも必要ね」
「スマートフォン」
エルミナさんが、その一語だけ繰り返した。
「そこだけ反応しないでください」
「必要な生活道具なのでしょう?」
「使いすぎない約束も必要ですね」
「まだ受け取ってもいないのに、なぜ制限されるの?」
数日前まで使い方すら知らなかった人の台詞とは思えない。
「晴くんのご両親へは、知人の娘をしばらくホームステイさせるという形で説明を整えるわ。生活費も晴くん一人へ負担させない。フカは――」
アクアリアさんが白い身体を見る。
「白いフェレットとして、この家で飼育されている記録にしましょう」
「おれ様はフェレットではない!」
「人間界の記録に、高位精霊とは書けないでしょう」
「だからといって、なぜよりにもよってフェレットなのだ!」
「見た目が一番近いからじゃないか」
「人間、お前まで同じことを言うな!」
怒鳴る声は大きいが、近所へ聞こえない程度には抑えているらしい。その辺りの人間界の常識は、さすがに境界神使だった。
「それで、誰がホームステイの責任者になるんですか」
俺が尋ねると、アクアリアさんは端末を胸元へ寄せた。
「私よ」
「アクアリアさんが?」
「人間界での名前は水瀬亜玖璃。書類上は二十九歳。晴くんの生活上の責任者を引き受けて、エルミナの保護者にもなるわ」
追手として現れた水の女神が、今度は俺たちの保護者になるらしい。
今朝の俺に教えても、絶対に信じない展開だ。今朝の俺は、水滴が横に滑っただけで固まっていたのだから。
「待ってください。俺の責任者って、どういうことですか」
「ご両親が海外にいる間、神授者になった未成年を一人にしておくわけにはいかないでしょう。日常生活と、神力に関係する健康状態の両方を見られる大人が必要なの」
「言ってることは分かりますけど……」
分かることと、受け入れられることは別だった。
「それから、御影エルミナの学校への編入手続きも進めるわ」
「学校?」
「晴くんと同じ高校よ」
身体の痛みを忘れかけた。
「……どうしてですか」
「十代の帰国少女が、昼間ずっと男子高校生の家にいる方が不自然でしょう?」
それは正しい。
正しいのだが、俺の日常へ与える影響が大きすぎる。
誰にも注目されず、余計なことをせず、平穏無事に一日を終える。俺が大切に守ってきた学校生活が、まだ編入もしていないうちから崩れ始めていた。
「学校というものも、一度経験してみたかったの」
エルミナさんは、当然のように話へ加わった。
「知識としては分かっているけれど、実際に通ったことはないもの」
制服姿の生徒たちが行き交う朝の校門。
いつもの教室。
その中に、腰近くまで届く銀髪のエルミナさんがいる光景を想像する。
想像は、そこで打ち切った。続きまで想像したら、今夜は痛みと関係ない理由で眠れなくなりそうだった。
隠れて暮らすのなら、これ以上向いていない人もいない。
「もう一つ、伝えておくことがあるわ」
アクアリアさんが穏やかに微笑んだ。
なぜだか、嫌な予感がした。
「私も、あなたの高校へ養護教諭として赴任するわ」
「……どうして水の女神が、保健室の先生になるんですか」
「浄化と治療に関係する水の女神なのよ。適任でしょう?」
理屈としては、さっきより分かる。
納得できるかは別だ。
「お前の平穏は終わったな、人間」
フカが愉快そうに言う。
「誰のせいでこうなったと思ってるんだ」
「少なくとも、おれ様だけのせいではない」
否定しきれないのが腹立たしい。
「安心しなさい、ハル」
エルミナさんが胸を張る。
「私が学校でも、あなたを守ってあげるわ」
その姿を見て、別の心配が急速に大きくなった。
「お願いですから、学校では目立たないでください」
エルミナさんは、不思議そうに首を傾げた。
「私に、目立たないことなどできると思う?」
何も言えなかった。




