第1話 御影エルミナになる日
「それでは説明します。本日から、あなたは人間界において御影エルミナです」
宮本さんは、そう言ってノートパソコンの画面をエルミナさんへ向けた。
うちのダイニングテーブルは、完全に占領されている。
ノートパソコンが二台。薄い端末が一台。書類を綴じたファイルがいくつも。端には、持ち込まれた鞄と、飲みかけらしいコーヒーまで置かれている。
コースターを差し出すべきか、さっきから少し迷っている。国家の重要案件の最中でも、テーブルの輪染みは輪染みだ。
普段なら朝食や夕食の皿が並ぶ場所だ。
そこへ今は、戸籍、住民票、学籍、保険といった、俺が日常生活でなるべく意識せずに済ませてきた単語が並んでいた。
五月に入り、水明川の一件からは数週間が過ぎている。
右手の包帯はもう外れた。全身を引き裂かれるようだった痛みも消え、学校へ通い、料理をして、洗濯物を畳むくらいなら何の問題もない。
つまり、ようやくいつもの生活が戻ってきたところだった。
それなのに今、国家機関の職員がうちで女神の身分を作っている。
いつもの生活とは何なのか。最近、よく分からなくなってきた。
「御影エルミナ」
向かいに座るエルミナさんが、画面に表示された名前を読み上げる。
今日は銀髪を下ろしたまま、俺と買いに行った淡い色の服を着ている。腰近くまで伸びた髪が椅子の背を覆い、書類だらけのテーブルから一人だけ浮いて見えた。
「エルミナが名であることは分かるわ。御影というのは何?」
「姓です。日本社会では必要になります」
宮本さんは一切もったいぶらず、次の画面へ進んだ。
肩までの黒髪。濃い色のスーツにスラックス。目の下には薄い隈があり、何本もケーブルを差した端末を迷いなく操作している。
特領室という名前を初めて聞いた時は、もっと物々しい人が来ると思っていた。
黒い車から黒い服の人たちが降りてきて、身分証を一瞬だけ見せる。そんな、映画でしか見たことのない光景だ。
実際に来たのは、休日出勤が続いていそうな会社員だった。目の下の隈に、なぜか少し親近感が湧く。この人もたぶん、うちの女神さまの案件で寝ていない。
「まず、御影エルミナさんの人間界での経歴を確認します」
「私の経歴を、あなたが確認するの?」
「私たちが作成しましたので」
エルミナさんの眉がわずかに寄る。
宮本さんは気にせず、紙の資料も一部ずつ俺たちの前へ配った。
「海外生活の長い帰国生徒。保護上の事情により、過去の経歴の詳細は非公開。神奈川県立朝凪高等学校へ、二年生として編入。国内後見人は水瀬亜玖璃さん。ホームステイ先は日高家です」
同じ高校。
数週間前に聞かされていた話なのに、正式な書類の文字で見ると逃げ道がなくなる。あの夜は「そういう話が出ている」だった。今日からは「そう決まっている」だ。
「待ってください」
宮本さんの指が、端末の上で止まった。
「別の学校にはできませんか」
「できません」
考える間もない即答だった。
「水瀬さんが養護教諭として勤務し、御影さんの後見人と日高さんの国内生活責任者を兼ねます。お二人の学校生活に責任を負える体制として、朝凪高校が最も適しています」
筋は通っている。
だからといって、こちらに都合がいいわけではない。
「それなら、別の学年にしてください」
「なぜ私がハルと違う学年へ入る必要があるの?」
エルミナさんが、ようやく画面の名前から顔を上げた。
「同じ学年である必要もないでしょう」
「あります。書類上、御影さんは日高さんと同年齢で、作成した学籍もそれに合わせています。学年だけを変えれば、過去の在籍記録や履修状況との不整合が増えます」
宮本さんの口から、また仕事が増えそうな言葉が出てきた。
「一年でも三年でも――」
「二年生です」
取りつく島もない。
学校を変えるのは無理。学年を分けるのも無理。
俺は今、目立たない生活を守るための交渉を、国家機関を相手にやっている。冷静に考えると、何かの間違いだと思う。でも降りるわけにはいかない。
少しずつ退路を塞がれ、残った一線を守るために口を開く。
「じゃあ、せめて別のクラスにしてください」
今度は、宮本さんもすぐには否定しなかった。
「学級については、学校側の最終決定前です。希望として伝えることはできます」
「お願いします」
「晴くん、そこまでしなくてもいいんじゃない?」
ソファにいたアクアリアさんが、少し呆れたように言う。
「別のクラスにしてもらえるなら、同じ学校でも受け入れます」
「同じ家で暮らしているのに?」
「家と学校は別です」
自分でも、声が固くなったのが分かった。
家の中なら、何が起きても外へ広がる前に対処できる。食事の時間も、買い物へ行く時間も、なるべく今までの手順へ戻せる。
けれど学校には、教室があり、廊下があり、何百人もの目と口がある。
そこで一度でも目立てば、なかったことにはできない。
「分かりました。朝凪高校には、別の学級を希望すると伝えます」
宮本さんが端末へ何かを打ち込む。
ようやく、一つだけ残せた。
「エルミナさん」
「何?」
「学校では、俺に話しかけないでください」
紫色の瞳が、わずかに細くなる。
「一度も?」
「はい。廊下ですれ違っても、見なかったことにしてください。俺もそうします」
「私たちは互いを知っているのに?」
「学校の人たちには、知られる必要がありません。話があるなら、家に帰ってから聞きます」
「ずいぶん不自然ね」
「その方が、余計なことを聞かれずに済みます」
俺が誰にも注目されず、余計なことをせず、平穏無事に一年を終えるために守ってきた席と距離感。そこへエルミナさんを近づけないための、最低条件だった。
「約束してください」
少しの沈黙。
エルミナさんは俺を見たまま、あっさりと頷いた。
「分かったわ。学校では話しかけない。すれ違っても知らないふりをする。それでいいのね」
「絶対に、です」
「ええ」
返事があまりに軽くて、俺にとってそれがどれだけ重要な約束なのか、伝わっていない気がした。
買い物の予定を一つ足すくらいの声だった。こっちは、二年三組の席を丸ごと懸けているのに。
もう一度言い直させようか、と思って、やめた。同じ言葉を二回言わせても、重さは増えない。
それでも、約束は約束だ。
そう思うことにした。
「政府の生活支援対象として登録済みです。出自や経歴について、学校関係者が通常の範囲を超えて照会することは禁止されています」
「通常の範囲って、どこまでですか」
「帰国前はどこに住んでいたのか、以前の学校はどこか、なぜこの時期に編入するのか。そういった質問を、同級生が本人へすることまでは止められません」
「止められないんですね」
「人の口は、私たちの管轄外です」
いちばん何とかしてほしい部分だった。
「学校へは、外交上の特別事情がある帰国生徒として通知しています。校長以外には、必要以上の情報を渡していません。御影さん本人も、神界については話さないでください」
「分かっているわ」
エルミナさんは答えながら、一枚の紙を持ち上げた。
住民票、と上に印字されている。
「これがあれば、私は人間界にいることになるの?」
「少なくとも、朝凪市に住む御影エルミナさんが行政上存在することになります」
「妙ね」
白い指が、紙の上の名前をなぞる。
「神界なら、名簿から私の名を消したところで、私がエルミナであることは変わらないわ。神核そのものが、私が何者かを示すもの」
少し考え、宮本さんへ紫色の瞳を向ける。
「紙に書かれなければ、私は存在しないことになるの?」
「行政上は、かなりそれに近いですね」
冗談の気配はなかった。
「正確には紙だけでなく、複数の行政記録とデジタル情報が一致していることが重要です。戸籍、住民票、保険、口座、学籍。どれか一つだけあっても、社会の中では不自然な存在になります」
「人間は、ずいぶん多くの場所へ自分を残さなければならないのね」
「そして、残した記録が食い違うと、私の仕事が増えます」
宮本さんがコーヒーへ手を伸ばす。
たぶん、最後の一言がいちばん切実だった。
存在とは何か、という女神の問いに、行政記録と残業で答える人間界。この食卓の会話としては、たぶん今までで一番かみ合っている。
「それで、なぜ御影なの?」
エルミナさんはまだ納得していなかったらしい。
宮本さんが別の資料を開く。
「既存の住民記録や過去の経歴と衝突しにくく、日本人の姓として成立し、海外生活が長かったという設定にも不自然すぎない候補から選びました」
「候補はほかにもあったの?」
「ありました。ただし、今から変更すると住民登録、保険、口座、学籍、通信契約、そのほか関連記録をすべて修正することになります」
声は平坦だが、変更するなという意思だけはよく伝わった。
エルミナさんは気にした様子もなく、もう一度、自分の名を口にする。
「御影エルミナ」
今度は、音を確かめるように少しゆっくりと。
「御影、エルミナ」
紫色の目を細める。
「悪くないわ。私に相応しい響きね」
「気に入っていただけて何よりです。変更されると関連記録を全部作り直すことになるので」
宮本さんが、この部屋へ来て初めて心から安心した顔をした。
「ここへ署名をお願いします。練習用ではないので、今決めた名前で書いてください」
「当然でしょう」
差し出されたペンを取り、エルミナさんが紙へ向かう。
最初の一画だけ、ほんの少し手が止まった。
それから、御影エルミナ、と一文字ずつ書いていく。
フカから文字の知識は得ている。書き方が分からないわけではない。それでも、自分の名を人間界の書類へ残すのは初めてなのだろう。
あの止まった一画の間に何があったのかは、俺には分からない。分からないが、ずっと名乗ってきた名前の隣へ、今日渡されたばかりの姓を並べる瞬間が、何でもないはずはないと思う。
書き終えると、エルミナさんはペンを置き、署名を見下ろした。
満足そうに頷く。
人間界で勝手に割り当てられた姓なのに、もう自分のものとして受け入れているらしい。
そういうところは強い人だと思う。
俺なら、新しい名前を渡されても、まず目立たずに済むかを考える。
「続いて、水瀬亜玖璃さんの登録内容です」
「私の分は、もう済んでいるでしょう?」
ソファへ座っていたアクアリアさんが、気だるそうに顔を上げた。
深い青緑の髪は低い位置で一つに束ねられ、長い毛先が肩越しに流れている。人間界の姿にもすっかり馴染んで見えるが、この人も水を司る女神だ。
「済んでいるからこそ、関係者全員へ確認していただきます」
宮本さんは画面を切り替えた。
「氏名、水瀬亜玖璃。書類上の年齢は二十九歳。神奈川県立朝凪高等学校の養護教諭。住居は、学校近くの政府借り上げ一LDKです」
「広くはないけど、一人で暮らすには十分よ」
「家賃は政府負担ですが、公共料金と私的な支出はご自身で管理してください」
「分かってるわ」
「酒代も私的な支出です」
「……分かってるわよ」
今、わずかに間があった。
水明川で結界を三重に張った上級監察官の返事に、間があった。
「水瀬さんには、御影エルミナさんの国内後見人、日高晴さんの国内生活責任者、神界事件の情報秘匿責任者を兼任していただきます」
「俺の親権者になるわけではないんですよね」
「親権者は、引き続き海外にいるご両親です。水瀬さんは、学校への連絡、国内での生活監督、緊急時の医療同意などを担当します」
水環牢の前では、アクアリアさんは間違いなく頼れる人だった。
俺の身体へ残った神力を抜き、傷を処置し、周囲の記録まで片づけた。危険が起きた時、この人以上に頼れる大人はたぶんいない。
危険が起きていない時まで頼れるかは、別の問題だ。
「水瀬先生、本当に大丈夫なんですか」
口にしてから、自分の呼び方が変わったことに気づく。
アクアリアさん――水瀬先生は、少し面白そうに俺を見た。
「あら。もう先生って呼んでくれるのね」
「学校に来るんでしょう」
「そうね。それで、何が?」
「書類とか、連絡とか」
水瀬先生は笑った。
「そういうことは特領室が何とかしてくれるわ」
「何とかするのは主に私たちです」
宮本さんが無表情で言う。
水瀬先生は、何も言わずに目を逸らした。
「水瀬さんには、後見人として署名が必要な書類を期限内に確認していただきます」
「はいはい」
「返事は一度でお願いします」
「はい」
どちらが先生なのか分からなくなってきた。
「次に、御影さんへお渡しする物を確認します」
宮本さんは足元の鞄から、いくつもの封筒と箱を取り出した。
まず、黒い画面のスマートフォン。
次に、学生証、健康保険証、銀行口座の案内、交通系ICカード、デビットカード。少し離れた壁際には、制服の入ったカバーと、教科書を詰めた箱、ノート、筆記用具、通学用の鞄まで用意されていた。
何もなかったところへ、御影エルミナという一人分の生活がまとめて運び込まれてくる。
一ヶ月前にも、似た光景を見た。あの時は二人で選んで、二人で運んだ。今日は封筒と箱で届く。同じ「一人分」でも、ずいぶん様子が違う。
「ずいぶん多いのね」
「学校生活を始めるために必要な物です」
エルミナさんは、最初に健康保険証を手に取った。
「これは?」
「病院で、保険診療を受けるために使います」
「私は人間の病気にはならないわ」
「行政記録上は人間ですので、必要です」
「使わない物まで持つの?」
「使わずに済めば、それが一番です」
次に交通系ICカードを光へ透かし、デビットカードの表と裏を眺める。
学生証は一度見たが、すぐに封筒へ戻した。
そして、スマートフォンを手に取る。
「これが、私の物になるのね」
「契約名義も御影エルミナさんです。基本的な通信設定は済んでいますが、個人用の初期設定はあとで行ってください」
エルミナさんの指が側面のボタンを押す。
暗かった画面に光が入り、いくつかの案内が表示された。
迷いなく指を滑らせる。
実際に触るのは初めてのはずなのに、動きだけは慣れて見えた。フカから流れ込んだ知識のおかげだ。
「映像作品を見るための契約もできるのでしょう?」
「できます。ただし、有料のサービスは内容と料金を確認してからにしてください」
「ここに候補が表示されているわ」
「今は選ばなくて結構です」
「すべて選べば、見られる作品も増えるでしょう?」
「選ばなくて結構です」
宮本さんの返事が少しだけ強くなった。
エルミナさんは不満そうだったが、スマートフォンを置いた。視線はまだ画面へ残っている。
教科書よりずっと気に入ったらしい。
分かりやすい。
「生活支援費について説明します」
宮本さんが、数字の並んだ一枚を俺たちの間へ置いた。
「御影さんには、特領室から毎月八万円を支給します。晴さんの家へ入れる食費と光熱費、衣類、学用品、交通費、医療費、小遣いを含みます」
八万円。
数字を見た瞬間、頭の中で費目の枠が勝手に並び始めた。食費、光熱費の増加分、消耗品、服、交通費、予備。多いようで、好きに使える金額ではない。こういう計算だけは、考える前に終わっている。
分け方を半分まで組んだところで、宮本さんが俺を見る。
「実際の家計管理は、日高晴さんにお願いします」
「俺ですか」
「一人暮らしの家計を継続して管理できており、御影さんの日常的な支出も把握できるのは、現状では晴さんです」
「私の後見人はアクアリアなのでしょう?」
「水瀬さんは監督と承認を担当します」
「お金の管理は?」
「晴さんです」
「なぜ私の金銭をハルが管理するの?」
紫色の瞳がこちらを向く。
「あなたに貨幣感覚がないからです」
「持っている金額の範囲で使えば問題ないでしょう」
「先ほど、動画配信サービスをすべて契約しようとされましたので」
宮本さんが補足する。
エルミナさんは何も言わなくなった。
「それでも、ご本人が自由に使える範囲は必要です。デビットカードには、月二万円の利用上限を設定してあります」
「残りの六万円は、ハルが使うの?」
「あなたの食費や光熱費、必要な買い物に分けて管理します。俺が勝手に使うわけじゃありません」
「でも、何を買うかはハルが決めるのでしょう?」
「必要な物は相談します。慣れてきたら、分け方も見直せばいいでしょう」
最初から好きに使わせたら、来月までの生活費が数日で消える。
だからといって、全部こちらで決めればいいわけでもない。フカの寝床と同じだ。決めてしまえば早い。早いだけで、正しくはない。
俺は一枚の紙を引き寄せた。
「まずは食費と光熱費を計算します。残った分を、衣類や学用品にどれくらい使えるか一緒に決めましょう」
「私が必要だと思った物を、ハルが認めなければ?」
「理由を聞きます」
「聞いたうえで駄目だと言う可能性もあるのね」
「月八万円で百万円の宝石を買おうとしたら止めます」
「まだ買うとは言っていないわ」
「今、少し考えましたよね」
エルミナさんは答えず、スマートフォンの箱へ視線を移した。
考えたらしい。
「晴くん、御影さんの支援費と日高家の生活費は、記録を分けておいてね」
水瀬先生が口を挟む。
「分かりました」
「私の家計も、そのうち――」
「自分で管理してください」
「まだ最後まで言ってないじゃない」
言い終わる前でも分かる。
「続いて、フカの人間界での登録です」
名前を呼ばれ、窓際のクッションで丸くなっていた白い身体が起き上がった。
「ようやく、おれ様を高位精霊として正しく記録する話か」
「いいえ」
宮本さんは即答した。
「公的には、御影エルミナさんが飼育する白いフェレットとして登録します」
「おれ様は飼育されていない!」
フカがクッションの上で毛を逆立てる。
真っ白な毛並みの中、額の銀青色の紋様がよく見えた。淡い金色の目が宮本さんを睨み、長い尾が勢いよく左右へ振られている。
どう見ても、怒っているフェレットだった。
「内部記録には、境界院所属の境界神使であることも、強制従属印が未解除であることも残しています。これは一般社会での登録です」
「ならば、境界神使と書けばいいだろう!」
「一般の行政窓口へ説明できません」
「そもそも、おれ様はエルミナ様の所有物ではない!」
フカがエルミナさんを指すように前足を上げる。
エルミナさんは言い返さなかった。
フカの額にある紋様は光っていない。それでも、あの印が消えたわけではない。エルミナさんの命令へ逆らえず、帰るか残るかも自分では決められないままだ。
飼育という一語が、単なる外向けの処理では済まないことくらい、俺にも分かる。
だからだろう。この言い合いだけは、笑って聞けなかった。
「公的な飼育責任者は御影エルミナさんです」
宮本さんは淡々と書類を確認する。
「誰が責任者だ! おれ様の行動は、おれ様が決める!」
「動物愛護法上の責任者は御影エルミナさんです」
「だから、おれ様は動物では――」
「狂犬病予防接種はフェレットには不要です」
「話を聞け!」
フカの声がリビングへ響いた。
宮本さんは眉一つ動かさない。
話す精霊へ動じないどころか、怒鳴られても書類の該当欄を確認している。
特領室の人たちは、もっと大変なものを普段から相手にしているのかもしれない。
「飼育場所は、この部屋で間違いありませんね」
「今はそうだ!」
「食費は御影さんの生活支援費から支出します」
「食事を用意しているのは俺ですけど」
「記録上の支出元と、調理担当は別です」
そこまで分ける必要があるのか。
「晴。今夜の肉を減らすなよ」
「減らさないよ」
「おれ様は量の確認をしただけだ。飼育されているわけではないからな」
「分かってる」
フカはまだ不満そうに鼻を鳴らしたが、毛の逆立ちは少しだけ収まった。
「最後に、日高さんのご両親への説明内容を確認します」
その一言で、今度は俺の背筋が伸びた。
女神の戸籍より、フェレットの登録より、正直これが一番緊張する。
「父さんと母さんには、どこまで話したんですか」
「政府の支援を受けている、海外生活の長い少女を、期間限定でホームステイさせると説明しています。神界、神授者、境界院については伝えていません」
宮本さんが、両親の同意書を俺の前へ置く。
画面越しの署名だが、父さんと母さんの名前が確かに並んでいる。
見慣れた二人の名前が、この書類の山の中にあるだけで、少し変な感じがした。あっちの世界とこっちの世界が、一枚の紙の上で初めて隣り合っている。
「水瀬亜玖璃さんが行政上の責任を負うこと、御影さん本人にも生活支援費が支給されること、緊急時には特領室が対応することも説明済みです」
「それで、二人は何て?」
「お父様は、費用、責任範囲、緊急連絡先、滞在期間の見通しを確認したうえで承諾されました」
父さんらしい。
驚いたはずなのに、まず確認するところが具体的だ。
「お母様は、晴さんが同年代の少女との同居を本当に受け入れたのか、何度か確認されました」
「……そこですか」
「そこでした」
否定できない。
俺が誰かを家へ入れたこと自体、両親には大事件なのだろう。
まして相手は同年代の女の子だ。母さんが何も聞かずに済ませるはずがない。
「後日、御影さんも交えてビデオ通話を行う予定です」
「私も話すの?」
エルミナさんが顔を上げる。
「ホームステイ先のご家族です。一度も顔を合わせない方が不自然でしょう」
「それは構わないわ。ハルの両親なのでしょう?」
「神界の話はしないでくださいね」
「先ほども聞いたわ」
「自分を美の女神だとも言わないでください」
「事実を伏せる必要があることくらい理解しているわよ」
「人間の男は私の美しさに逆らえない、とかもです」
「それは説明ではなく、私への評価でしょう?」
「それを言わないでほしいんです」
母さんの前でそんなことを言えば、話がどこへ転がるか分からない。
「母さんは、たぶん細かく聞きます」
「何を?」
「どの部屋を使ってるか、食事はどうしてるか、学校の準備はできてるか、困ってることはないか。その辺り全部です」
「答えれば済むことでしょう」
「それだけで済めばいいんですけど」
エルミナさんが、なぜか少し楽しそうに俺を見た。
母さんからどんな質問をされるのか、知識としては持っていても実感はないらしい。
俺には実感しかない。
今から気が重かった。
そのあとも、署名は続いた。
エルミナさんが御影エルミナと書き、水瀬先生が後見人として水瀬亜玖璃と書く。俺も説明を受けた確認欄へ、自分の名前を書いた。
右手でペンを握っても、もう痛みはない。
数週間前、この手には包帯が巻かれていた。
エルミナさんにここにいてほしいと伝え、差し出された力へ自分から触れた。その結果、俺の身体には今も神力の通る道があるらしい。
けれど、書類の上では何も見えない。
そこに並ぶのは、日高晴という人間の名前と、御影エルミナという帰国生徒の名前だけだ。
あの夜のことを知らない誰かが読めば、ただのホームステイの書類。それでいい。俺たちの事情は、紙に残らない場所にだけあればいい。
「以上で、本日の署名はすべて完了です」
宮本さんが一枚ずつ確認し、書類をファイルへ戻していく。
占領されていたテーブルの面が、少しずつ見えてきた。
エルミナさんは、残された持ち物へ手を伸ばす。
最初に取ったのはスマートフォンではなかった。
透明なケースへ入った学生証だった。
濃紺のブレザーに白いブラウス。胸元には青と銀のリボン。写真の中でも長い銀髪と紫色の瞳はひどく目立っていて、とても普通の転入生には見えない。
その横に、御影エルミナ、と印字されている。
「これが、人間界での私ということね」
「書類の上では」
エルミナさんは少し考えたあと、学生証を通学用の鞄へ入れた。
「なら、本物にすればいいだけでしょう」
宣言でも、強がりでもない。決まったことを読み上げるだけの声だった。
……この人は、たぶん本当にそうする。
問題は、その「本物の御影エルミナ」が、どれくらい目立たずにいてくれるかだ。
鞄に収まった学生証を眺めながら、俺は約束の軽い返事を、もう一度だけ思い出していた。




