第2話 約束は一つも残らない
そして、「御影エルミナ」を本物にするための最初の日が来た。
俺はその朝も、目覚ましが鳴る五分前に目を覚ました。
顔を洗い、米を炊き、味噌汁を温める。卵焼きは二人分。弁当には、昨夜のうちに下味をつけておいた鶏肉を焼いて詰めた。
いつもと同じ時刻に始め、いつもとほとんど同じ手順で終える。
今日がどんな一日になるとしても、朝まで変える必要はない。むしろ、こういう日ほど手順が大事だ。手が普段どおりに動いている限り、俺の一日はまだ普段の側にある。
「もう食べられる?」
振り向くと、エルミナさんがリビングへ入ってくるところだった。
濃紺のブレザーに白いブラウス、灰色のプリーツスカート。胸元の青と銀のリボンまできちんと整っている。腰近くまで流れる銀髪に、まっすぐ伸びた背筋。その格好は間違いなく、毎日見ている朝凪高校の女子用の制服だった。
なのに、なんだこれは。
本当に、うちの制服なのか。
毎日見ているものとは、まるで別物に見える。このままスーパーモデルか何かとして、制服姿でランウェイを歩いていてもおかしくない。そうとすら思えてしまう。
気づけば、たぶん三秒は普通に見ていた。三秒は長い。
そのまま感想を口にするのは、何となく負けた気がした。
「やっぱり女子の制服なんですね」
「……発言の意味が分からないわ。説明してもらってもいいかしら?」
「いや、その……神様なんだから、性別ってものが存在しなかったりするのかなー、とか?」
「私に男子生徒の制服を着ろと言うの?」
何も言えない。
男子用のブレザーとスラックスを着たエルミナさんを想像する。目立たなくなるどころか、今とは別の意味で全校の注目を集めるに決まっていた。
「私がそんなものを着ていたら、かえって目立つと思うのだけど。目立つなと言ったのは、あなたではなかったかしら?」
正論すぎて、何も言い返せない。
神様だから性別がないかもしれないなんて、本気で考えていたわけじゃなかった。
制服姿を見た瞬間、目の前のエルミナさんが、俺と同じ学校へ通う現実の同年代の女の子なのだと、妙に強く意識してしまった。
それを認めたくなくて、とっさに性別なんて話へ逃げただけだ。
もちろん、そんなことを本人へ言えるはずもない。
「……朝食、冷めますよ。鞄は準備しましたか」
我ながら、ひどい誤魔化し。
「学生証も教科書も入れたわ」
「筆記用具は?」
「入っているわよ」
「上履き」
「それも」
「学校へ着いたら――」
「ハル」
エルミナさんが、ため息交じりに俺の言葉を止めた。
「昨日から何度同じことを確認するつもりなの?」
「大事なことなので」
「学校ではあなたに話しかけない。見かけても知らないふりをする。覚えているわ」
「俺たちは別のクラスになるはずです。廊下で会っても、そのまま通り過ぎてください」
「分かっていると言っているでしょう」
返事は昨日と変わらず軽い。
けれど、今度は自分の口で全部言った。忘れていたという言い訳はできないはずだ。
俺はテーブルへ朝食を並べ、最後に弁当箱を二つ置いた。
紺色が俺の分。白がエルミナさんの分。中身は同じでも、外から見分けがつくようにしてある。
「これは鞄へ入れてください。昼まで傾けないように」
「そのくらい分かるわ」
窓際のクッションから、フカが顔だけを上げた。
「人間の学校へ行くだけで、ずいぶん騒がしい朝だな」
「騒がしくならないために確認してるんだよ」
「もう十分騒がしいぞ」
否定できないのが腹立たしい。
食事を終え、時計を見る。
予定どおりの時刻。
「俺は先に出ます。エルミナさんは、水瀬先生が迎えに来てから出てください」
「一人でも行けるわ」
「初日だけです。学校側への挨拶もあるそうなので」
水瀬先生から、そう連絡が来ていた。養護教諭として出勤するついでに、後見人としてエルミナさんを連れていくらしい。
同じ家から二人で出るところを見られる心配もない。
別のクラスで、学校では他人。
そこまで守れれば、まだ何とかなる。
「行ってきます」
「ええ。あとで――」
エルミナさんが途中で言葉を切った。
俺が見返すと、少しだけ眉を上げる。
「何でもないわ。行ってらっしゃい」
約束を覚えている。
その時は、そう思った。
◇
朝の二年三組は、いつもと変わらなかった。
山本がサッカー部の朝練についてぼやき、後ろの席では田中が文庫本を読んでいる。俺は一限目の教科書とノートを机へ出し、鞄を横へ掛けた。
窓際、後ろから二番目。
一年と少しかけて手に入れた、教室で一番目立たない席だ。
前の席は、昨日まで空いていた。
誰かが転校したわけではない。机の数に余裕があったから、使われていなかっただけだ。
今日は別の誰かが座るのかもしれない。
そう考えて、すぐに打ち消す。
エルミナさんは別のクラスになる。宮本さんは、学校へ希望を伝えると言った。
「なあ、日高」
隣から山本が身体を寄せてきた。
「今日、転入生が来るって本当か?」
「知らない」
「二年らしいぞ。女子って話もある」
「山本の情報、いつも肝心なところが抜けてるよな」
「転入生が来るって肝心なところは押さえてるだろ」
田中が本から目を上げずに口を挟む。
「性別まで分かっているなら、山本としては十分な成果だ」
「お前ら、俺を何だと思ってるんだよ」
噂好き。
口にはしなかった。
「あと、こっちはまだ出回ってない方の情報な」
山本が声を落とした。出回らせる側の人間が何を言っているんだ。
「保健室の先生も、今日から新しい人になるらしい」
「へえ」
「二組の奴が朝、職員室の前で見たってさ。とんでもない美人だったって。大人の、こう、格が違う感じの」
知っている。
というか、うちのソファに座っていた。
「おい日高、反応薄くないか。美人だぞ。保健室だぞ」
「保健室は具合の悪い奴が行く場所だろ」
「健康な奴が行っちゃいけない決まりはない」
田中が本を閉じないまま言った。
「初日から用もなく行けば、悪い意味で顔を覚えられるだけだぞ」
「お前はどうしてそういう考え方なんだよ」
始業のチャイムとほぼ同時に、佐伯先生が教室へ入ってくる。
銀縁の眼鏡の奥に、普段より少し疲れた顔。手には出席簿と、見慣れない薄いファイルを持っていた。
「席に着け。出席を取る前に、転入生を紹介する」
教室中の声が一度に大きくなる。
俺だけ、動けなかった。
転入生。二年。女子。この学校に来る予定の転入生を、俺は一人しか知らない。でも、あの人は別のクラスのはずで――
「静かにしろ。御影、入っていいぞ」
開いた扉から、銀色の髪が現れた。
見間違える余地などない。
エルミナさん。
彼女が一歩入るだけで、さっきまでのざわめきが止まった。何十人分もの視線を受けても歩調は変わらない。教壇の横へ立ち、佐伯先生からチョークを受け取る。
黒板に、御影エルミナ。
白い文字が並んでいく。
同じ学校なのは受け入れた。
同じ学年も、仕方がないと思うことにした。
けれど、同じクラスだけは違う。あれだけは通ったはずの、最後の一線だったはずだ。
「御影エルミナよ」
エルミナさんが教室を見渡す。
「海外で暮らしていた期間が長くて、日本の学校へ通うのは初めてなの。知らないことは、その都度尋ねるわ」
昨日、特領室から教えられた内容を、必要な分だけ話している。
神界にも、自分が女神であることにも触れない。
そこは守っている。守ってほしい約束の番号が、根本的に違うだけで。
「質問は休み時間にしろ。御影の席は、窓側の後ろから三番目だ」
佐伯先生が指したのは、俺の前。
別のクラスどころか、この教室で俺に最も近い空席だった。
エルミナさんが通路を歩いてくる。
こちらを見ない。
視線はまっすぐ自分の席だけへ向いている。
せめて、知らないふりをする約束は守るつもりらしい。
俺の机の横を通り過ぎる。
そのはずだった。
足が止まる。
紫色の瞳が、俺へ向いた。
「ハル。ここが私の席で合っているの?」
教室中の視線まで、一緒にこちらへ向いた。
首の後ろが一気に熱くなる。視線は数じゃなく、重さで来る。俺はそれを知っている。
斜め前の席から、星野さんもこちらを見ていた。
星野紬。短い栗色の髪の、陸上部の子。クラスの半分も顔と名前が一致していない俺が、考えるより先に名前ごと認識してしまう、数少ない相手だ。
理由を探すと、昔まで遡ることになる。だから、探さない。
目が合いそうになると、すぐに前へ向き直る。
俺も見なかったことにした。ほかの視線はただ数が多いだけだが、あの席からの視線だけは、種類が違う。どう違うのかまでは、言葉にしないでおく。
「……前を見れば分かるでしょう」
「確認しただけよ」
「御影、座れ」
佐伯先生に促され、エルミナさんは何事もなかったように椅子を引いた。
俺の前の席へ。
「それから日高」
できれば、今は名前を呼ばないでほしかった。
「御影は校内のことが分からない。水瀬先生から、転入前の準備をお前が手伝っていたと聞いている。今日の放課後、一通り案内してやってくれ」
また、視線が増える。
断れば、理由を聞かれる。
引き受ければ、最初から知り合いだったと認めることになる。
選べる形をしているだけで、答えは一つしかなかった。
「分かりました」
「ハルなら、その方が早いわね」
前の席から、当然のように声が飛んでくる。
別のクラス。
話しかけない。
目が合っても、知らないふり。
朝のホームルームが終わる前に、一つも残らなかった。
チャイムが鳴った瞬間、エルミナさんの席は人に囲まれた。
どこの国にいたのか。日本語はどこで覚えたのか。髪は染めているのか。好きな食べ物は何か。
次々に飛ぶ質問へ、エルミナさんは答えられるものだけを選んで返していく。
「いくつかの土地で暮らしていたわ。詳しくは話せないの」
「髪は生まれつきよ」
「好きな食べ物は、今のところ肉料理ね」
人間界へ来たばかりだとは言わない。神界の話にも寄らない。
今のところ肉料理、の内訳が俺の献立の履歴であることも、幸い誰にも分からない。
それなのに、山本が俺を振り返った。
「日高。お前、御影さんと知り合いなのか?」
「水瀬先生に頼まれて、転入の準備を少し手伝っただけだよ」
完全な嘘ではない。
「少し?」
エルミナさんがこちらを向いた。
嫌な予感。
「ハルは私の食事や持ち物を整えているわ。生活費の使い方も、この人が決めるの」
「待ってください」
「事実でしょう?」
「説明を省きすぎです」
周囲の目が、エルミナさんから俺へ移る。
山本の顔には、質問がいくつも浮かんでいた。
「どういう関係なんだ、それ」
「水瀬先生が後見人で、その手伝い。御影さんは日本での生活に慣れてないから」
「でも、食事まで日高が?」
「手続きの日に用意しただけだよ」
これも、嘘ではない。
毎日用意していることを言っていないだけだ。嘘をつかずに事実を減らす技術だけが、午前中ですでに上達し始めている。
「ハル」
エルミナさんが不満そうに眉を寄せる。
「何ですか、御影さん」
「その呼び方はやめなさい」
「学校では、そう呼びます」
「私の名はエルミナよ」
「名字もあなたの名前です」
「日本で使う姓でしょう。あなたまで使う必要はないわ」
その言い方だけでも、俺とほかの生徒を分けるには十分だった。
「日高だけ呼び方が違うのか?」
案の定、山本が拾う。
「ええ。ハルはハルでしょう」
説明になっていないのに、特別扱いであることだけはよく伝わった。
予鈴が鳴り、集まっていた生徒たちは名残惜しそうに自分の席へ戻った。
助かった。
一時的にだが。
その後も、星野さんの視線は何度かこちらへ向いた。けれど、声をかけることも、近づいてくることもなかった。
前の席で、エルミナさんの目がわずかに動く。
俺ではなく、前へ向き直った星野さんを追っていた。
二限目と三限目の間、俺は教室を出た。
用事はない。
次の授業も同じ教室だ。
ただ、席にいるとまた質問される。廊下を一周し、予鈴の直前に戻ればいい。
階段へ向かおうとしたところで、背後から足音が近づいた。
「ハル」
聞こえなかったことにして歩く。
「ハル」
二度目も聞こえない。
「日高晴」
フルネームで呼ばれ、近くを歩いていた一年生までこちらを見た。
心臓に悪い呼び出し方だった。
立ち止まるしかない。
「学校では話しかけない約束でしたよね」
声を落として振り返る。
エルミナさんは手ぶらだった。
「別のクラスになると思っていたから承知したのよ」
「話しかけないことと、クラスの話は別です」
「同じ教室で、席まで前後なのに、互いを知らないふりをする方が不自然でしょう」
「だからって、みんなの前でハルと呼ばないでください」
「名前で呼んでいるだけよ」
「俺は目立ちたくないんです」
「あなたは、他人が自分をどう見るか気にしすぎではないの?」
「今はその話をしてません」
少し強くなった声に、エルミナさんの眉が動いた。
「では、何の話をしているの?」
「約束の話です」
「その約束は、あなたが教室から出ていく理由にはならないでしょう」
「……何のことですか」
「次の授業も同じ教室なのに、教科書も持たずに出ていったわ」
見られていたらしい。
「廊下を一周して戻るだけです」
「何のために?」
「少し歩きたかったからです」
「教室でも、私と目を合わせようとしなかったでしょう」
今度こそ、言葉が止まった。
「私を避けているの?」
「御影さんじゃなくて、質問してくる人を避けてるんです」
「私について聞かれるからでしょう」
「分かってるなら、教室で余計なことを言わないでください」
「私が事実を話したせいで、あなたが逃げることになったということね」
「だから、逃げてません」
予鈴が鳴った。
「戻りますよ」
「ええ」
結局、教室までの廊下をエルミナさんと並んで歩くことになった。
逃げた意味は、きれいになくなった。
しかも向こうは、約束を破っている自覚より、俺の行動への疑問の方が大きいらしい。理屈は通っている。通っているから、余計に腹の置き場がない。
昼休み。
朝に作った弁当を机へ出す。
今日は山本と田中が購買へ行っている。二人が戻る前に食べ始めれば、午前中の続きを聞かれる時間も減る。
蓋へ手を掛けたところで、前の椅子が回った。
「ハル」
白い弁当箱を持ったエルミナさんが、俺の机へ向き直っている。
「前を向いて食べてください」
「一人で食べろというの?」
「ほかの人に誘われていたでしょう」
「知らない人ばかりの中で食べるより、あなたと食べる方がいいわ」
悪気のない声だった。
だから余計に困る。怒る準備をしていた場所に、怒れないものを置かないでほしい。
「俺も、エルミナさん以外は全員知ってるわけじゃありません」
「今、名前で呼んだわね」
「小声です」
「なら問題ないでしょう」
何も解決していない。
エルミナさんは俺の返事を待たず、白い弁当箱の蓋を開けた。
鶏肉、卵焼き、青菜の和え物、ミニトマト。
当然、俺の弁当と同じ中身。
「ハル」
「今度は何ですか」
「私の方が鶏肉が一つ少ないわ」
「その分、一つが大きいです」
「大きさまで数えたの?」
「詰めたのは俺ですから」
言ってから気づいた。
遅かった。
「やっぱり日高が作ったのかよ!」
購買から戻った山本が、後ろに立っていた。
田中も、俺とエルミナさんの弁当を見比べている。
「同じ献立。調理担当も同じ。朝から二人分か」
「たまたま今日だけ」
「たまたまではないわ。食事はいつもハルが作っているもの」
エルミナさんが訂正する。
「御影さん」
「何?」
「少し黙っていてください」
「なぜ?」
「お願いします」
山本が向かいの空席を引き寄せた。
「日高。話せない事情があるなら引くけど、どこまで聞いていいんだ?」
「説明するようなことはないよ」
「そう言われても、弁当を二つ作ってきたのは気になるだろ」
その通りだった。
俺が山本の立場でも気になる。気になるが、俺は聞かない側の人間だ。世の中の大半は、聞く側らしい。
逃げ道が、また一つ消えた。
放課後になる頃には、朝より多くの生徒が俺とエルミナさんの関係を知りたがっていた。
何を聞かれても、転入準備を手伝っただけだと答えた。
繰り返せば、そのうち飽きる。
そうなるまで、同じ返事以外はしない。
「日高。御影の案内、頼んだぞ」
佐伯先生が教室を出る前に念を押す。
「はい」
断れない仕事だけが残った。
俺は校内案内図を一枚取り、エルミナさんを連れて教室を出た。
図書館、体育館、特別教室、職員室、保健室。
なるべく短い経路で回る。人の多い部活動の時間を避け、渡り廊下も端を歩いた。
それでも、隣にいるのはエルミナさんだ。
銀髪が視界へ入っただけで振り返る生徒もいる。俺が半歩先を歩けば、案内していることまで一目で分かる。経路をどれだけ工夫しても、隠せないものは隠せなかった。
「ここが保健室です。水瀬先生がいるので、体調が悪ければ来てください」
「私が人間の病気になることはないわ」
「学校では言わないでください」
「今は誰もいないでしょう」
「水瀬先生がいます」
閉じた扉の向こうから、何か重い物が床へ落ちる音がした。
聞かなかったことにする。
「これで必要な場所は全部です」
「校庭は?」
「教室から見えます」
「部室棟」
「入る部を決めてからで十分です」
「中庭も見ていないわ」
「明日以降、自分で行ってください」
言葉が少しずつ短くなる。
自分でも分かるくらい、削れる音がしている。
エルミナさんは案内図を畳み、俺を見た。
「ハル。怒っているの?」
「怒ってません」
「そう」
あっさり引き下がった。
信じたわけではないだろう。俺の顔をしばらく見たあと、先に昇降口へ向かって歩き出す。
その背中を追いながら、今日の出来事を頭の中で順番に並べた。
別のクラスにはならなかった。
目が合えば、向こうから声を掛けられた。
俺との関係を聞かれれば、隠すどころか余計な事実まで足された。
昼には、弁当を二つ作ったことまで知られた。
偶然で済むものは、一つもない。
「帰りも別です」
靴を履き替えるエルミナさんへ言う。
「分かっているわ。私は水瀬先生と帰ることになっているもの」
「そうですか」
水瀬先生。
別のクラスを希望すると、宮本さんは確かに端末へ入力した。この人も、その場で聞いていたはずだ。
なのに、どうしてこうなった。
聞くなら、学校ではない。
ここで問い詰めれば、それこそ人目を集める。
俺はエルミナさんを残し、一人で昇降口を出た。
◇
帰宅すると、制服のまま台所へ入った。
米を研ぎ、炊飯器へ入れる。朝に使った弁当箱は、二人分まとめて洗えばいい。夕食は予定どおり、冷蔵庫にある野菜と豚肉を使う。
手を動かしていれば、いつもの順番へ戻れる。
今朝もそう思って、手順どおりに朝を終えて、それから先は何一つ手順どおりに進まなかった。それでも、俺にはこれしかない。
包丁を出す。
まな板を置く。
冷蔵庫を開けたところで、玄関の鍵が回った。
「ただいま」
エルミナさんの声。
返事をする前に、フカがリビングから走っていく足音が聞こえた。
「学校という場所は、思っていたより面白いわね」
機嫌のいい声が近づいてくる。
面白い。
あの一日が、この人の中ではそう整理されたらしい。
俺は冷蔵庫の扉を閉めた。
予定どおり夕食を作る。
その前に、一つだけ済ませなければならない。
「エルミナさん」
「何?」
「話があります」




