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第3話 その感情は、美しくない

 エルミナさんの足が、台所の手前で止まった。


 肩に掛けていた通学鞄を下ろさないまま、俺を見る。


 台所で切り出す、と決めていたのは、手元に道具があれば声を抑えられる気がしたからだ。


 その計算は、始まる前から外れる予感がしていた。


「今日の学校のことです」


「やはり怒っていたのね」


「怒ってません」


「その言葉を、今日だけで何度聞いたと思っているの?」


 数えてはいない。


 けれど、否定するたびに説得力がなくなっているのは分かった。


 玄関から戻ってきたフカが、俺とエルミナさんを見比べる。そのまま何も言わず、廊下へ引き返していった。


 気を遣われたらしい。


 あいつにまで。


「どうして、同じクラスになったんですか」


「学校がそう決めたからでしょう」


「本当に、それだけですか」


 紫色の瞳が、わずかに細くなった。


 何も知らない顔ではない。


「水瀬先生と何か話しましたよね」


「なぜ、そう思うの?」


「帰りは水瀬先生と一緒だと言った時、隠していることがあるように見えました」


 ただの勘だった。


 けれど、エルミナさんは否定しなかった。


「今朝、あなたが家を出たあとよ。水瀬先生から、私のスマートフォンへ連絡が来たの」


「何て?」


「『晴くんには悪いけど、ひとまとめになっておいてくれた方が守りやすい』と」


 ひとまとめ。


 俺とエルミナさんを、一か所に。


 昨日、宮本さんが端末へ打ち込んだ「別の学級を希望」の一行は、俺の知らないところで、たった一本の連絡に上書きされていたわけだ。


「それで?」


「同じクラスにする案へ同意するか尋ねられたから、構わないと答えたわ」


「構わない?」


 自分の声が、思っていたより低く響いた。


「俺が別の学校にしてほしいと言ったのを聞いてましたよね。別の学年も無理で、せめて別のクラスにしてくれって。学校では話しかけないでほしいとも言いました」


「覚えているわ」


「覚えていて、構わないと思ったんですか」


「同じ教室にいれば、何かあった時に互いの場所がすぐ分かるでしょう。水瀬先生が私を監視しやすいという意味もあったのでしょうけれど、それも今の立場なら不思議ではないわ」


「俺にとっては不思議かどうかの話じゃありません」


 言葉が止まらない。


「俺には何も言わずに二人で決めて、教室に入ってきて、みんなの前でハルと呼んで。廊下でも呼び止めて、弁当まで俺が作ったって話して」


「どれも事実でしょう」


「事実なら、何を言ってもいいんですか」


 エルミナさんの眉が寄った。


「あなたは、同居していることを知られたくないと言ったわ。私はそれを話していない」


「時間の問題でしょう。今日一日で、どれだけ聞かれたと思ってるんですか」


 静かな部屋に、自分の声だけが大きかった。


「私も大勢から質問されたわ」


「あなたは平気でしょう」


 口にした瞬間、部屋の空気が変わった。


 半分は八つ当たりだと、言った自分が一番知っていた。それでも、言葉はもう戻らない。


「どういう意味?」


「見られるのにも、話しかけられるのにも慣れてるじゃないですか。今日だって楽しそうだった」


「慣れていることと、望んでいることは同じではないわ」


 冷えた声。


 けれど、止められなかった。


「少なくとも、俺みたいに困ってはいなかったでしょう」


「だから、あなたの約束を軽く考えていいと思ったわけではないわ」


「考えたから破ったんじゃないですか」


 エルミナさんの指が、通学鞄の持ち手を強く握った。


「なぜ、そこまで言われなければならないの」


 声は大きくない。


 怒鳴っているのは、たぶん俺だけだった。


 耳の奥で、自分の声の残りがまだ鳴っている。こんな声、家の中で出したのはいつ以来だろう。


 エルミナさんは一度息をつき、鞄をソファの脇へ置く。


「私は、あなたを困らせるために同じクラスを選んだのではないわ。あの約束が、あなたにとってそこまで重いものだとも知らなかった」


「大事だって言いました」


「理由は聞いていない」


「言う必要がないからです」


「では、理由も知らない私が、あなたの望んだとおりに判断できなかったことだけを責めるの?」


「約束を守るのに、理由なんていらないでしょう」


「あなたが私に求めたのは、同じ学校で互いを知らないものとして扱うことよ。普通の頼みではないわ」


「それでも、約束しましたよね」


「ええ。軽く考えていたことは認めるわ」


 そこで初めて、エルミナさんは言葉を切った。


「だから聞いているの。あなたは、なぜそこまで目立つことを嫌うの?」


「俺の問題です」


「今日のことで私を責めるなら、もう私にも関係があるでしょう」


「ありません」


「あるわ」


 即答だった。


「同じ家で暮らして、同じ学校へ通っている。私が話しかけただけで、あなたは一日中、自分を押し殺していた。あれを見て、関係がないとは思えないわ」


「押し殺してなんか」


「教室で誰かが笑うたび、肩に力が入っていた」


 息が止まった。


「廊下でも、ほかの生徒がこちらを見るたびに歩く速度が上がった。私とは目を合わせず、用もないのに教室から出ていった」


「見すぎです」


「目の前の席にいるもの。見えるわ」


 逃げ道を一つずつ塞がれていく。


 美と調和の女神。この人の目は、たぶん俺が隠せているつもりのものを、最初から全部見ている。


「誰に、何をされたの?」


「何も」


「嘘ね」


「昔のことです」


「なら、話せるでしょう」


「話したくありません」


「なぜ?」


「話したくないからです」


「答えになっていないわ」


 俺はエルミナさんから目を逸らし、冷蔵庫へ手を掛けた。


「夕食を作ります。話は終わりです」


「終わっていないわ」


「俺の中では終わりました」


「では、私は何も知らないまま、明日からあなたの機嫌だけを読めばいいの?」


「学校で関わらなければいいだけです」


「また、それね」


 冷蔵庫の取っ手を握ったまま、動けなくなった。


「あなたは何も言わず、何も聞かず、私が離れていればそれでいいと言う。私が理由を知らずに選んだ結果は責めるのに、知るための話はしない。ずいぶん勝手ではないの?」


「……分かってますよ」


「何を?」


「勝手なのは」


 分かっている。


 理由を話さず、約束だけ守れと言っている。知らなかったと言われれば、それ以上責められないことも。


 それでも、口にしたくなかった。


 話せば、またあの教室へ戻る気がする。


 机に書かれた文字。


 なくなった筆箱。


 背中から聞こえる笑い声。


 取っ手を握る手のひらが、嫌に湿っていた。


「ハル」


「……中学の時、少し目をつけられただけです」


「何をしたの?」


「別に。困ってる人がいたら手伝ったり、頼まれたことを引き受けたりしてました」


「それで、なぜ目をつけられるの?」


「いい人ぶってるのが気に入らなかったらしいです」


 あの言葉を、自分の口で言うのは久しぶりだった。声にすると、当時と同じ温度で喉を通っていく。


「最初は聞こえるように言われるだけでした。そのうち、机に書かれたり、物を隠されたりして。何をしても笑われました。何もしなくても、今度はそれを笑われた」


 エルミナさんは何も言わない。


 だから、続けるしかなくなった。


「周りも見てるだけでした。関われば自分も何かされるんだから、当たり前です。俺だって今なら、そうするかもしれない」


 ……言ってから、少しだけ嘘だと思った。でも、訂正はしなかった。


「それで、目立たないようにしたの?」


「反応しないで、誰とも深く関わらないようにして、自分から何もしなくなったら、少しずつ減りました」


 相手が飽きたのか、面倒になったのか。俺はそう思っている。


「だから、今のままでいいんです。誰にも気にされなければ、何も起きない。学校でまでエルミナさんと関わったら、全部崩れるんですよ」


「私と関わることが、そんなに嫌なの?」


「そういう話じゃありません」


「では、どういう話?」


「誰かに見られて、勝手なことを言われて、笑われるくらいなら、最初からいないものとして扱われた方がましだって話です」


 言い切ると、急に力が抜けた。


 何を言っているんだろう。


 こんなことを話すつもりではなかった。三年間、誰にも言わずに済ませてきたことを、帰宅して三十分の台所で。


 エルミナさんはしばらく動かなかった。


「もう一つ、聞いてもいいかしら」


「……まだあるんですか」


「今日、あなたに特別な視線を向けている女の子がいたわ。何か関係があるの?」


 誰のことか、聞き返す必要はなかった。


 斜め前の席から、何度もこちらを見ていた星野さん。


「関係ない」


 考えるより先に、そう答えていた。


 声だけが先に出た。どうしてこんな速さで出たのかは、考えないことにした。


 エルミナさんは俺の顔を見たまま、しばらく黙った。


 やがて、ソファの脇に置いた鞄を持ち上げる。


「その感情は、美しくないわ」


 それだけ言って、俺の横を通り過ぎた。


「……何ですか、それ」


 返事はない。


 共用廊下を進む足音。少しして、エルミナさんの部屋の扉が閉まった。


 誰にも気にされない方がましだと言ったことか。


 星野さんとは関係ないと言い切ったことか。


 どちらを指したのか、俺には分からない。


 残された台所には、出したままの包丁と、何も載っていないまな板。


 夕食は、まだ形にもなっていなかった。


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