表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
20/23

第4話 学校では御影さん

 翌朝、家を出るまで、エルミナさんは昨夜の話に一度も触れなかった。


 俺も触れなかった。


 いつもの時刻に朝食を出し、弁当を二つ用意して、別々に家を出る。会話は必要なことだけ。前日の朝より、よほど静かだった。


 同じ静かさでも、中身が違う。何も話すことがない静けさではなく、話していないことが一つ、テーブルの真ん中に置いてある静けさだった。


 だから学校でも、少しは距離を取ってくれるかもしれない。


 そう考えたのは、教室の扉が開くまでだった。


 エルミナさんは、入口で声をかけてきた生徒たちへ一人ずつ挨拶を返した。そのまま窓際まで歩いてきて、俺の机の横で止まる。


「おはよう、ハル」


 昨日より、よく通る声。


 教室にいた何人かが、すぐにこちらを見た。


 頭の中で、二つの分岐が一瞬で展開される。


 返事をすれば、俺とエルミナさんが親しく話すのは当たり前になる。


 無視すれば、挨拶をした転入生を理由もなく冷たく扱う奴に見える。


 どちらを選んでも、俺が望んだ距離には戻れない。逃げ道の計算は俺の特技のはずなのに、その特技が「逃げ道はない」と即答してくる。


「……おはようございます、御影さん」


「ええ」


 エルミナさんは、それ以上何も言わなかった。勝ち誇るでもなく、自分の席へ鞄を置く。


 ただ挨拶をしただけ。


 それが一番、困る。


「昨日より普通になったな」


 隣で山本が言った。


「何が」


「お前らの挨拶」


「普通なら、わざわざ言うなよ」


「普通じゃなかった昨日があるからだろ」


 返す言葉がない。


 前の席では、エルミナさんが一限目の教科書を机へ出していた。こちらを振り返りもしない。


 昨夜、あれだけ話した。


 それでも、約束を守る気はないらしい。


 俺の考え事を断ち切るように、山本が椅子ごと寄ってきた。


「聞けよ日高。昨日の放課後、保健室へ行ってきた」


「どこか悪かったのか」


「頭痛。……保健室へ着くまでは、あった気がする」


 仮病としてもまだ弱い。


「で、入って三秒で言われたんだよ。『仮病ね。教室へ戻りなさい』って。こっちはまだ一言も喋ってないんだぞ」


「診察が早くて良かったな」


「書類を書きながらだぞ。ほとんど顔も上げてないのに、全部見られてた気がするんだよ。……あの先生は本物だ」


 何の本物かは知らないが、本物ではある。


 聞けば、サッカー部でも何人か同じ手を使って、全員同じ速さで追い返されたらしい。新しい保健室の先生の評判は、たった一日で「美人だが難攻不落」に固まりつつあった。



 一限目は数学だった。


 授業の後半、教師が黒板へ問題を書き、数人を指名した。エルミナさんもその一人になった。


 迷わず席を立ち、黒板の前へ行く。チョークを動かしたのは数回だけだった。


 書かれたのは、答えだけ。


「御影。答えは合っているが、途中の式も書いてくれ」


「必要なの?」


「どう解いたのかを確認する問題だからな」


「正しい答えが出ているのに?」


「答えだけなら、偶然でも書ける」


 エルミナさんは納得していない顔で黒板を見た。


 教師が教科書の例題を示すと、ようやく同じ形の式を書き足していく。席へ戻ったあとも、しばらく自分のノートと教科書を見比べていた。


 俺には関係ない。


 そう思って、次の問題へ目を落とす。


「ハル」


 小さな声だった。


 それでも、静かな教室では近くの席まで聞こえる。


 顔を上げないでいると、前の机からノートが少しだけはみ出してきた。


「この式は、どこから書けばいいの?」


 聞こえなかったふりはできる。


 その場合、エルミナさんはもう一度呼ぶだろう。昨日の廊下と同じように、今度はフルネームで。


 何より、分からないところを尋ねている転入生を、目の前で無視することになる。


 隣の山本まで、こちらの返事を待つ顔をしていた。


 どこへも逃げられない配置だった。


 俺は身を乗り出さないまま、シャープペンシルの先で教科書を指した。


「この例題と同じところからです。使った公式を書いて、数字を当てはめればいいんですよ」


「答えへ着くまでに、こんな遠回りをするのね」


「採点する人に、考え方が伝わるようにするためです」


「正しいだけでは足りないということ?」


「伝わらなければ、正しいかどうかも判断できませんから」


 エルミナさんは一度だけ俺を見た。


「そう。それなら意味は分かるわ」


 ノートを引き戻し、今度は途中の式から書き始める。


「ありがとう、ハル」


 最後に名前をつける必要はなかったと思う。


 けれど、礼を言われたあとで、それを注意するのもおかしい。


 結局、黙るしかなかった。



 三限目の国語は、佐伯先生の授業だった。


 教科書に載っている短編について、登場人物が最後に黙った理由を説明している途中で、エルミナさんが口を開く。


「その解釈は一つではないでしょう」


 佐伯先生が説明を止めた。


「御影。発言する時は手を挙げなさい」


「内容ではなく、手順の問題なの?」


「まずは手順の問題だ」


 エルミナさんは少し眉を寄せたあと、素直に口を閉じた。


 それから右手を挙げる。


「では質問よ。その解釈は一つではないでしょう?」


 教室のあちこちで、小さな笑いが起きた。


 肩へ力が入る。


 机の下で、拳を一度握って、開いた。


 誰も俺を見ていない。


 笑われているのは俺じゃない。


 からかう声ですらない。


 分かっている。


 分かっていても、笑い声へ身体が先に反応する。頭の許可を待たずに、肩が、背中が、勝手に構える。


 エルミナさん本人は、周囲など気にせず佐伯先生だけを見ていた。


「一つの読み方としては成立する。別の解釈があるなら、本文を根拠に説明してみろ」


「ええ。ここで相手の言葉を否定していないからといって、受け入れたとは限らないわ。言い返すことを諦めただけとも読めるでしょう」


 佐伯先生は黒板へ向き直り、今の意見を短く書き足した。


「その読み方もできる。ただし、今のように根拠を示すこと。感想だけでは解釈にならない」


「分かったわ」


 特別扱いも、遠慮もない。


 エルミナさんも、注意された手順には従っている。


 こちらが腹を立てるための、分かりやすい理由はどこにもない。


 それなのに、俺へ向けられる声だけが重かった。


 ……言い返すことを諦めただけとも読める、か。


 黒板に書き足された一行が、変なところへ引っかかって、しばらく消えなかった。



 休み時間になると、何人かがエルミナさんの席へ集まった。


 さっきの解釈について話す生徒。海外の学校でも同じような授業をするのかと尋ねる生徒。次の歴史で使う資料を教える生徒。


 エルミナさんは相手を選ばずに話していた。分からないことは尋ね、教えられれば礼も言う。


 俺だけに頼っているわけではない。


 だからこそ、俺へ声をかけた時だけ無視すれば、その不自然さが余計に目立つ。


 四限目の歴史では、出来事の順序と年代を結びつけるのに苦労していた。授業が終わる頃には、ノートの端へ自分なりの年表まで作っている。


 学校へ馴染もうとしているのは分かる。


 その中に、俺まで入れようとしなければいいだけなのに。


 昼休みのチャイムが鳴る。


 教室が一斉に騒がしくなる前に、俺は前の席へ声をかけた。


「御影さん」


 自分から呼ぶのは、これが初めてだった。


 エルミナさんが振り返る。


「何?」


「少し、来てください」


「どこへ?」


「人のいないところです」


 言った瞬間、隣で椅子を引いていた山本の動きが止まった。


 誤解を招く言い方だった。


 分かっている。ほかに言いようがなかった。


「分かったわ」


 エルミナさんは理由を聞かず、立ち上がった。


 結局、俺の方から二人のつながりを認めるようなことをしている。


 本当に、どちらを選んでも同じだった。


      ◇


 向かったのは、昨日の校内案内で通った旧館だった。


 特別教室が並ぶ三階の一番奥。その先の階段は屋上へ続いているが、扉には鍵が掛かっている。昼休みにわざわざここまで来る生徒はほとんどいない。


 こういう場所を把握しているのは、案内図を作った側の数少ない特権だった。使い道が「女神の呼び出し」だとは、昨日の俺も思っていなかったけど。


 踊り場へ着いてから少し待つと、階段を上がる足音が聞こえた。


 エルミナさんが姿を見せる。


「それで、話は何?」


「今朝から、わざとやってますよね」


「何を?」


「俺に話しかけることです」


「挨拶をして、分からないことを尋ねただけよ」


「昨日、あれだけ話したでしょう」


「ええ。聞いたわ」


「なら、どうして」


「聞いたからよ」


 迷いのない答えだった。


「理由を知らなかった時は、あなたが少し人目を避けたいだけなのだと思っていた。だから約束を軽く考えた。それは昨日、認めたでしょう」


「だったら、今度こそ守ってください」


「嫌よ」


 短い拒絶。


 けれど、声に怒りはなかった。


「理由を知った今は、守るべき約束だと思わないもの」


「どうしてですか」


「あなたが私へ求めているのは、学校であなたをいないものとして扱うことよ」


「そこまで言ってません」


「言ったわ。誰にも気にされない方がいい。最初からいないものとして扱われた方がましだと」


 昨夜、自分で口にした言葉。


 否定できない。


 自分の言葉を、一晩置いて、人の声で聞かされる。この威力を、俺は知らなかった。


「私は、あなたが自分をいないものにする手伝いをするつもりはないわ」


「俺は、そんな話をしてるんじゃありません」


「同じ話よ」


「違います。俺は学校で余計なことを言われないために――」


「昨日も言ったでしょう」


 エルミナさんの紫色の瞳が、まっすぐ俺を捉えた。


「あなたのその感情は、美しくないわ」


 また、それだ。


「意味が分かりません」


「言葉どおりよ」


「俺が怖がってるのが、みっともないってことですか」


「違うわ」


「じゃあ、何が美しくないんですか」


 一歩、距離を詰める。


 自分から人へ詰め寄るなんて、俺のやることじゃない。分かっていて、足が勝手に出ていた。


 エルミナさんは動かなかった。


「誰とも関わりたくないと思うことですか。自分をいないものにしたいことですか。それとも――」


 下の階から、上履きが床を擦る音がした。


 誰かいる。


 振り返るのと、声が届くのはほとんど同時だった。


「……日高くん?」


 階段の下で、手すりを握ったままこちらを見上げていたのは、星野さんだった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ