第4話 学校では御影さん
翌朝、家を出るまで、エルミナさんは昨夜の話に一度も触れなかった。
俺も触れなかった。
いつもの時刻に朝食を出し、弁当を二つ用意して、別々に家を出る。会話は必要なことだけ。前日の朝より、よほど静かだった。
同じ静かさでも、中身が違う。何も話すことがない静けさではなく、話していないことが一つ、テーブルの真ん中に置いてある静けさだった。
だから学校でも、少しは距離を取ってくれるかもしれない。
そう考えたのは、教室の扉が開くまでだった。
エルミナさんは、入口で声をかけてきた生徒たちへ一人ずつ挨拶を返した。そのまま窓際まで歩いてきて、俺の机の横で止まる。
「おはよう、ハル」
昨日より、よく通る声。
教室にいた何人かが、すぐにこちらを見た。
頭の中で、二つの分岐が一瞬で展開される。
返事をすれば、俺とエルミナさんが親しく話すのは当たり前になる。
無視すれば、挨拶をした転入生を理由もなく冷たく扱う奴に見える。
どちらを選んでも、俺が望んだ距離には戻れない。逃げ道の計算は俺の特技のはずなのに、その特技が「逃げ道はない」と即答してくる。
「……おはようございます、御影さん」
「ええ」
エルミナさんは、それ以上何も言わなかった。勝ち誇るでもなく、自分の席へ鞄を置く。
ただ挨拶をしただけ。
それが一番、困る。
「昨日より普通になったな」
隣で山本が言った。
「何が」
「お前らの挨拶」
「普通なら、わざわざ言うなよ」
「普通じゃなかった昨日があるからだろ」
返す言葉がない。
前の席では、エルミナさんが一限目の教科書を机へ出していた。こちらを振り返りもしない。
昨夜、あれだけ話した。
それでも、約束を守る気はないらしい。
俺の考え事を断ち切るように、山本が椅子ごと寄ってきた。
「聞けよ日高。昨日の放課後、保健室へ行ってきた」
「どこか悪かったのか」
「頭痛。……保健室へ着くまでは、あった気がする」
仮病としてもまだ弱い。
「で、入って三秒で言われたんだよ。『仮病ね。教室へ戻りなさい』って。こっちはまだ一言も喋ってないんだぞ」
「診察が早くて良かったな」
「書類を書きながらだぞ。ほとんど顔も上げてないのに、全部見られてた気がするんだよ。……あの先生は本物だ」
何の本物かは知らないが、本物ではある。
聞けば、サッカー部でも何人か同じ手を使って、全員同じ速さで追い返されたらしい。新しい保健室の先生の評判は、たった一日で「美人だが難攻不落」に固まりつつあった。
一限目は数学だった。
授業の後半、教師が黒板へ問題を書き、数人を指名した。エルミナさんもその一人になった。
迷わず席を立ち、黒板の前へ行く。チョークを動かしたのは数回だけだった。
書かれたのは、答えだけ。
「御影。答えは合っているが、途中の式も書いてくれ」
「必要なの?」
「どう解いたのかを確認する問題だからな」
「正しい答えが出ているのに?」
「答えだけなら、偶然でも書ける」
エルミナさんは納得していない顔で黒板を見た。
教師が教科書の例題を示すと、ようやく同じ形の式を書き足していく。席へ戻ったあとも、しばらく自分のノートと教科書を見比べていた。
俺には関係ない。
そう思って、次の問題へ目を落とす。
「ハル」
小さな声だった。
それでも、静かな教室では近くの席まで聞こえる。
顔を上げないでいると、前の机からノートが少しだけはみ出してきた。
「この式は、どこから書けばいいの?」
聞こえなかったふりはできる。
その場合、エルミナさんはもう一度呼ぶだろう。昨日の廊下と同じように、今度はフルネームで。
何より、分からないところを尋ねている転入生を、目の前で無視することになる。
隣の山本まで、こちらの返事を待つ顔をしていた。
どこへも逃げられない配置だった。
俺は身を乗り出さないまま、シャープペンシルの先で教科書を指した。
「この例題と同じところからです。使った公式を書いて、数字を当てはめればいいんですよ」
「答えへ着くまでに、こんな遠回りをするのね」
「採点する人に、考え方が伝わるようにするためです」
「正しいだけでは足りないということ?」
「伝わらなければ、正しいかどうかも判断できませんから」
エルミナさんは一度だけ俺を見た。
「そう。それなら意味は分かるわ」
ノートを引き戻し、今度は途中の式から書き始める。
「ありがとう、ハル」
最後に名前をつける必要はなかったと思う。
けれど、礼を言われたあとで、それを注意するのもおかしい。
結局、黙るしかなかった。
三限目の国語は、佐伯先生の授業だった。
教科書に載っている短編について、登場人物が最後に黙った理由を説明している途中で、エルミナさんが口を開く。
「その解釈は一つではないでしょう」
佐伯先生が説明を止めた。
「御影。発言する時は手を挙げなさい」
「内容ではなく、手順の問題なの?」
「まずは手順の問題だ」
エルミナさんは少し眉を寄せたあと、素直に口を閉じた。
それから右手を挙げる。
「では質問よ。その解釈は一つではないでしょう?」
教室のあちこちで、小さな笑いが起きた。
肩へ力が入る。
机の下で、拳を一度握って、開いた。
誰も俺を見ていない。
笑われているのは俺じゃない。
からかう声ですらない。
分かっている。
分かっていても、笑い声へ身体が先に反応する。頭の許可を待たずに、肩が、背中が、勝手に構える。
エルミナさん本人は、周囲など気にせず佐伯先生だけを見ていた。
「一つの読み方としては成立する。別の解釈があるなら、本文を根拠に説明してみろ」
「ええ。ここで相手の言葉を否定していないからといって、受け入れたとは限らないわ。言い返すことを諦めただけとも読めるでしょう」
佐伯先生は黒板へ向き直り、今の意見を短く書き足した。
「その読み方もできる。ただし、今のように根拠を示すこと。感想だけでは解釈にならない」
「分かったわ」
特別扱いも、遠慮もない。
エルミナさんも、注意された手順には従っている。
こちらが腹を立てるための、分かりやすい理由はどこにもない。
それなのに、俺へ向けられる声だけが重かった。
……言い返すことを諦めただけとも読める、か。
黒板に書き足された一行が、変なところへ引っかかって、しばらく消えなかった。
休み時間になると、何人かがエルミナさんの席へ集まった。
さっきの解釈について話す生徒。海外の学校でも同じような授業をするのかと尋ねる生徒。次の歴史で使う資料を教える生徒。
エルミナさんは相手を選ばずに話していた。分からないことは尋ね、教えられれば礼も言う。
俺だけに頼っているわけではない。
だからこそ、俺へ声をかけた時だけ無視すれば、その不自然さが余計に目立つ。
四限目の歴史では、出来事の順序と年代を結びつけるのに苦労していた。授業が終わる頃には、ノートの端へ自分なりの年表まで作っている。
学校へ馴染もうとしているのは分かる。
その中に、俺まで入れようとしなければいいだけなのに。
昼休みのチャイムが鳴る。
教室が一斉に騒がしくなる前に、俺は前の席へ声をかけた。
「御影さん」
自分から呼ぶのは、これが初めてだった。
エルミナさんが振り返る。
「何?」
「少し、来てください」
「どこへ?」
「人のいないところです」
言った瞬間、隣で椅子を引いていた山本の動きが止まった。
誤解を招く言い方だった。
分かっている。ほかに言いようがなかった。
「分かったわ」
エルミナさんは理由を聞かず、立ち上がった。
結局、俺の方から二人のつながりを認めるようなことをしている。
本当に、どちらを選んでも同じだった。
◇
向かったのは、昨日の校内案内で通った旧館だった。
特別教室が並ぶ三階の一番奥。その先の階段は屋上へ続いているが、扉には鍵が掛かっている。昼休みにわざわざここまで来る生徒はほとんどいない。
こういう場所を把握しているのは、案内図を作った側の数少ない特権だった。使い道が「女神の呼び出し」だとは、昨日の俺も思っていなかったけど。
踊り場へ着いてから少し待つと、階段を上がる足音が聞こえた。
エルミナさんが姿を見せる。
「それで、話は何?」
「今朝から、わざとやってますよね」
「何を?」
「俺に話しかけることです」
「挨拶をして、分からないことを尋ねただけよ」
「昨日、あれだけ話したでしょう」
「ええ。聞いたわ」
「なら、どうして」
「聞いたからよ」
迷いのない答えだった。
「理由を知らなかった時は、あなたが少し人目を避けたいだけなのだと思っていた。だから約束を軽く考えた。それは昨日、認めたでしょう」
「だったら、今度こそ守ってください」
「嫌よ」
短い拒絶。
けれど、声に怒りはなかった。
「理由を知った今は、守るべき約束だと思わないもの」
「どうしてですか」
「あなたが私へ求めているのは、学校であなたをいないものとして扱うことよ」
「そこまで言ってません」
「言ったわ。誰にも気にされない方がいい。最初からいないものとして扱われた方がましだと」
昨夜、自分で口にした言葉。
否定できない。
自分の言葉を、一晩置いて、人の声で聞かされる。この威力を、俺は知らなかった。
「私は、あなたが自分をいないものにする手伝いをするつもりはないわ」
「俺は、そんな話をしてるんじゃありません」
「同じ話よ」
「違います。俺は学校で余計なことを言われないために――」
「昨日も言ったでしょう」
エルミナさんの紫色の瞳が、まっすぐ俺を捉えた。
「あなたのその感情は、美しくないわ」
また、それだ。
「意味が分かりません」
「言葉どおりよ」
「俺が怖がってるのが、みっともないってことですか」
「違うわ」
「じゃあ、何が美しくないんですか」
一歩、距離を詰める。
自分から人へ詰め寄るなんて、俺のやることじゃない。分かっていて、足が勝手に出ていた。
エルミナさんは動かなかった。
「誰とも関わりたくないと思うことですか。自分をいないものにしたいことですか。それとも――」
下の階から、上履きが床を擦る音がした。
誰かいる。
振り返るのと、声が届くのはほとんど同時だった。
「……日高くん?」
階段の下で、手すりを握ったままこちらを見上げていたのは、星野さんだった。




