第5話 ツムギという幼馴染
日高くんが振り返った。
驚いたように見開かれた目は、あたしの顔を認めた途端、すぐにいつもの静かなものへ戻っていく。
その切り替えの速さを、あたしはたぶん、クラスの誰よりも知っている。
「星野さん。どうしてここに?」
その呼び方に、胸の奥がちくりと痛んだ。
分かっていたことなのに。毎回ちゃんと痛むんだから、心臓というのは学習しない。
「日高くんが御影さんを連れていくのが見えたから。なんか、気になって……。ごめん、邪魔だった?」
本当は、もっと自然に言うつもりだった。
たまたま見かけたから。二人とも怖い顔をしていたから。転校してきたばかりだし、何か困っているのかと思ったから。
理由ならいくらでも並べられる。ここまでの廊下で、実際いくつも並べてきた。気になったら足が先に出るのは、スタートの癖と同じで直らない。
なのに日高くんの前に立った途端、どれも言い訳みたいに思えて、最後には謝っていた。
……ううん。本当は分かってる。半分は心配で、もう半分は、二人きりでどこかへ行くのを見過ごせなかっただけ。後の半分の名前は、考えないことにする。
「いえ。別に、邪魔ということは」
日高くんはそう答えたけれど、声は固い。
隣に立つ御影さんへ目を向ける。
同じ制服を着ているはずなのに、まるで違う服みたいだった。腰まで流れる銀色の髪。まっすぐこちらを見る紫色の瞳。あたしよりずっと背が高くて、ただ立っているだけなのに、この薄暗い踊り場まで彼女のために用意された場所みたいに見える。
教室で初めて見た時から、綺麗な人だとは思っていた。
近くで見ると、もっと駄目だった。
あたしは自分の短い髪も、走るためについた筋肉も嫌いじゃない。小さい頃からずっとこの身体でやってきたし、走っている時には軽い方がいいとさえ思う。
それでも日高くんの隣に並ぶ御影さんを見ると、自分だけ子供っぽくて、どこにでもいる普通の子に思えた。
しかも彼女は、あたしが声をかけるだけでもこんなに迷う相手を、迷いなくここまで連れ出している。
そのことの方が、見た目の差よりもずっと苦しかった。
「やはり、あなたはハルを特別に見ているのね」
「えっ」
いきなり何を言い出すの、この人。
心臓が大きく跳ねた。慌てて否定しようとしたのに、喉が詰まって声にならない。
「そ、それは――」
「御影さんの勘違いです」
あたしの声より先に、日高くんの言葉が落ちた。
「星野さんとは関係ありません。昔、家が近かっただけです」
息の仕方を忘れそうになった。
昔、家が近かっただけ。
……うん。
知ってた。
今の日高くんにとって、あたしがそれだけなのは、ずっと前から知ってた。
知ってたことと、本人の声で聞くことが、こんなに違うなんて聞いてない。
「あ、あはは。御影さんって、案外そういうこと気にするんだね。別に、あたしたちは……」
明るく笑おうとした。
いつもみたいに。何でもないことにするために。
でも、続きが出てこない。
あたしの「いつもの」は、こんなところで在庫切れを起こすらしい。
御影さんの紫色の瞳が、あたしの顔から日高くんへ動いた。ほんの少しだけ眉が寄る。
何か言われると思って、身構えた。
「昼休みが終わるわ。教室に戻りましょう」
それだけ言って、御影さんは階段を下り始めた。
あたしが何を答えかけていたのか、もう確かめようとはしなかった。
日高くんも、何も言わずにその後を追う。
少しだけ遅れて、あたしも二人の背中についていった。
遠くで鳴った予鈴の音が、やけに大きく聞こえた。
◇
午後の授業は、ほとんど頭に入らなかった。
黒板を見ていても、斜め後ろの気配が気になる。
振り返れば日高くんがいる。御影さんは、その一つ前の席。
話しかけようと思えば、すぐにでも話しかけられる距離なのに、昼休みの言葉が邪魔をした。
昔、家が近かっただけです。
ノートを取る手に、無駄な力が入る。シャーペンの芯が、今日はもう二回折れた。
六時間目が終わる頃には、あたしは日高くんに一度も声をかけられないまま、御影さんの銀色の髪ばかり見ていた。
最悪。
こんなの、御影さんには何の関係もないのに。
放課後の掃除は、出席番号ごとの班で場所が決められている。
今日のあたしたちの担当は教室の後ろ半分。机を前へ寄せ、床を掃き、最後に雑巾をかける。日高くんと御影さんも同じ班だった。
ほうきを取りに行く子。机を動かし始める子。窓を開ける子。
みんながそれぞれ動き出す中で、御影さんだけが教室の後ろに立っていた。
腕を組んでいるわけでも、嫌そうな顔をしているわけでもない。ただ、何をすればいいのか分からないという顔で、周りを見ている。
「御影さん、掃除の仕方分からない?」
近くにいた女子が遠慮がちに声をかけた。
御影さんがそちらを見る。それだけで、声をかけた子の背筋が伸びた。
「何をすればいいのか、まだ説明を受けていないわ」
「そ、そっか。えっと……」
その子は手に持っていたほうきと御影さんを見比べた後、困ったようにあたしを見た。
分かる。
転校してきたばかりの、息を呑むほど綺麗な子。しかも立ち方も喋り方も堂々としていて、気軽に「これやって」とは言いにくい。
だけど、だからって見ているだけでいいわけじゃない。
あたしは予備のほうきを一本抜き、御影さんへ差し出した。
「御影さんもやりなよ。全員でやるんだから」
教室の空気が、わずかに止まった。
御影さんはほうきを受け取らず、あたしを見る。
「私に命令しているの?」
「命令とかじゃなくて、当番だから。分からないなら教えるよ。でも、みんなが動いてるのに一人だけ立って見てるのは違うでしょ」
「私は、何をすればいいのか知らないと言ったのだけれど」
「だから教えるって言ってる。知らないことを責めてるんじゃないよ。知らないままで何もしないのは駄目だって言ってるの」
言い切ってから、少し強すぎたかもしれないと思った。
昼休みのことがなければ、同じ言い方をしただろうか。
たぶん、もう少し柔らかく言えた。
御影さんはあたしの手元のほうきを見た。次に、机を動かしているクラスメイトたちへ視線を向ける。
「知らない相手を笑うのではなく、教えることを選ぶのね」
やがて、ほうきの柄へ白い指が伸びた。
「それは美しいと思うわ」
「……何、それ」
「褒めたのよ」
「分かりにくいよ」
「なら、もっと分かりやすく言うわ。教えてちょうだい」
お願いしているはずなのに、どうしてこんなに偉そうなんだろう。
「窓側から廊下側に向かって掃いて。ごみを最後に後ろの扉のところへ集めるから」
「分かったわ」
御影さんは短く答え、ほうきを動かし始めた。
初めてだと言う割に、持ち方がおかしいわけではない。ただ、二、三度掃いたところで、廊下側へ集めたほこりを窓側へ押し戻した。
「あ、そっちじゃない」
「先ほどと同じように掃いたわ」
「向き。こっちに集めるの。行ったり来たりさせたら終わらないでしょ」
あたしがほうきで床をなぞって見せると、御影さんは手元を見下ろした。
「なるほど。目的地を決めずに動かしても、散らしているだけということね」
「そういうこと」
次からは、一度も間違えなかった。
窓から差し込む光を受けて、長い銀髪が揺れる。ほうきを持って床を掃いているだけなのに、やっぱり絵になるから腹が立つ。掃除中まで絵になる必要、ある?
その後、机を動かす段階になると、御影さんは掃除の済んでいない列へ先に机を寄せようとした。
「待って。そこに置いたら掃けなくなる」
「では、どこへ?」
「先にこっちの列を終わらせて、空いた方へ順番に寄せるの」
「最初にすべて動かした方が早いのではないかしら」
「動かす場所がないから言ってるの。教室、そんなに広くないでしょ」
「……それもそうね」
言い返してはくるけれど、理由が分かれば従う。
分からないくせに自分のやり方を押し通す人ではないらしい。
床を掃き終え、今度は雑巾がけになった。
御影さんがバケツから引き上げた雑巾から、ぼたぼたと水が落ちる。
「それ、もっと絞って」
「絞ったわ」
「全然足りない。そんなびしょびしょのまま拭いたら、乾かないし滑るよ」
「この程度なら、いずれ乾くでしょう」
「誰かが転んでからじゃ遅いでしょ」
また声が尖った。
御影さんは少しだけ目を細めたものの、黙って雑巾を絞り直す。
「このくらい?」
「うん。それなら大丈夫」
今度の雑巾からは、水が垂れなかった。
「ハル。そちらの机は、もう動かしてもいいの?」
御影さんが教室の反対側へ声をかける。
机の脚を持ち上げていた日高くんが、こちらを見た。
「はい。そちらは終わっています」
「そう」
たったそれだけ。
授業でも行事でもない、ただの教室掃除の途中の会話。
なのに、御影さんは当たり前みたいに名前を呼んで、日高くんも当たり前みたいに返事をする。
あたしが五年かけて失くした距離を、この人は転入二日目で持っている。
「御影さん、自分のところ、まだ拭き終わってないよ」
自分でも分かるくらい、きつい声が出た。
「分かっているわ。動かす順番を確認しただけよ」
「だったら、先に手を動かして」
「そうするわ」
御影さんはそれ以上言い返さず、雑巾を床へ戻した。
悪いのはあたしだ。
掃除をちゃんとやってほしいという気持ちに、嘘はない。でも、今の言い方はそれだけじゃなかった。
御影さんが日高くんの名前を呼ぶたびに、胸の奥で何かが軋む。
日高くんが彼女に返事をするたびに、そこへ入り込めない自分を見せつけられた気がする。
嫉妬。
こんなにはっきり自覚してしまえば、もう別の名前では呼べなかった。
認めるのは悔しい。でも、認めないでごまかす方が、もっとダサい。
だからといって、掃除をしなくていいことにはならない。
自分の感情が混じっているから黙るなんて、それも違う。
あたしは雑巾を動かした。御影さんも隣で床を拭く。
気まずい沈黙。
その向こうで、重たい机が床を擦る音がした。
顔を上げると、日高くんが教卓を一人で運ぼうとしている。
「また一人でやろうとしてる」
考えるより先に、声が出た。
口が勝手に、五年前の距離で喋った。
日高くんの動きが止まる。
しまった、と思った。
昔なら、そう言って隣へ回り込めた。日高くんが何かを一人で抱えようとするたび、勝手に手を出して、二人で運んだ。
今は違う。
日高くんは教卓の端を持ったまま、あたしを見る。
「これくらい一人でできます」
「……そっか」
です、ます。
あたし相手に。
丁寧な言い方は、距離の分だけ丁寧だった。
それ以上、近づけなかった。
御影さんが雑巾を動かす手を止めている。
「あなた、ハルのことをよく知っているのね」
「別に」
「今の言い方は、今日知り合った相手にするものではなかったわ」
「家が近かったって、さっき日高くんが言ってたでしょ」
「それだけではないのでしょう?」
逃げ道を塞ぐみたいに、紫色の瞳があたしを見つめる。
どうしてこの人は、聞きにくいことほど真っすぐ聞くんだろう。
「……家が近くて、小さい頃から一緒に遊んでたの。幼馴染。それだけ」
「幼馴染」
御影さんは確かめるように繰り返した。
「それなのに、なぜ二人とも名字で呼び合っているの?」
答えられなかった。
日高くんも、何も言わない。
教卓を運ぶ音だけが、短く教室に響いた。
「あなたの名前は、星野紬で合っているわね」
「そうだけど」
「ツムギ」
「ちょっと。いきなり名前で呼ばないでよ」
「同じ名前の者もいないのに、名字で呼ぶ必要はないでしょう」
「必要とかじゃなくて、そういうのは、もっと仲良くなってから呼ぶものでしょ」
「なら、今から仲良くなればいいでしょう」
あまりにも迷いのない返事だった。
勝手。強引。人の気持ちへ土足で入ってくるみたいで、やっぱり苦手。
そう決めてしまえば簡単なはずなのに、昼休みの御影さんの顔を思い出す。
あたしが笑えなくなった時、彼女はそれ以上聞かなかった。
掃除だって、分からないことには言い返してきたけれど、理由を説明すれば直した。同じ失敗は繰り返さなかった。
ただ偉そうで、迷惑な人。
それだけではないらしい。
それだけの人だったら、どんなに楽だったか。
掃除の終了を知らせるチャイムが鳴った。
「ツムギ。この雑巾はどこへ戻すの?」
呼ばれたと思った時には、もう振り返っていた。
……あたしの身体は、あたしより先に、返事をすることに決めたらしい。




