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第6話 走る理由

 掃除を終えて昇降口へ向かう途中、エルミナさんが足を止めた。


 開いた窓の向こうから、笛の音と掛け声が聞こえてくる。


 放課後のグラウンド。


 野球部やサッカー部のさらに外側、トラックでは陸上部が練習を始めていた。


「御影さん、帰らないんですか」


 学校なので、呼び方だけは変える。


 エルミナさんは返事をせず、トラックの一角を見つめている。その視線の先で、短い栗色の髪が揺れた。


 星野さんだ。


 制服から陸上部の練習着へ着替え、ほかの短距離選手と一緒にスタートラインへ並んでいる。


「ツムギは、あれからずっと走っているの?」


「掃除が終わってからですから、まだ始まったばかりだと思います」


「そういう意味ではないわ」


 では、どういう意味なんだ。


 エルミナさんの目は星野さんから離れない。


「百メートルと二百メートルを走り、記録を競うのでしょう。スタート時の反応や姿勢が、その後の加速へ影響することも知っているわ」


「詳しいですね」


「フカから得た知識よ」


 知識ならある。ただし、人間が実際に部活動へ取り組むところを見るのは、たぶん初めてなのだろう。


「少し見ていくわ」


「俺は帰りますよ」


 予定では、掃除が終わったらそのまま帰宅する。買い物は不要。夕食の下ごしらえも、洗濯物を取り込む時刻も決めてある。


 これ以上、学校へ残る理由はない。


「構わないわ。私は一人で見るから」


 エルミナさんがグラウンドへ向かおうとする。


 待て。


 転入二日目の彼女を一人で陸上部へ近づけたら、どうなる。


 練習の真ん中まで歩いていき、思ったことをそのまま質問する姿が簡単に想像できた。悪気がなくても、注目は集まる。止めに入れば、結局俺まで目立つ。


「待ってください。俺も行きます」


「帰るのではなかったの?」


「転入したばかりの人を、一人で部活動へ入らせるわけにはいかないでしょう」


「見ているだけよ」


「あなたの『見ているだけ』は信用できません」


 エルミナさんは少しだけ眉を上げたが、反論はしなかった。


 これは監督だ。


 星野さんの練習を見たいからではない。


 俺はそう決めて、エルミナさんの半歩後ろを歩いた。決めた、という手続きが必要な時点で、何かがおかしい気はした。気のせいということにした。



 グラウンドの端まで来ると、スパイクがトラックを蹴る音がはっきり聞こえた。


 星野さんがスタートラインへしゃがみ、両手をつく。


 少し離れた場所に立つ先輩が、合図代わりに手を叩いた。


 小柄な身体が、弾かれたように前へ出る。


 最初の数歩は低く。そこから徐々に上体が起き、歩幅が広がっていく。


 全力の一本。


 けれど、短い距離を走り終えた星野さんは、すぐに首を振った。


「星野、一歩目で少し上に浮いてる。前へ出る意識」


「はい。もう一本お願いします」


 息を整えながら戻ってくる。悔しそうな顔はしていても、不機嫌に投げ出す様子はない。


 先輩が足の位置を示し、星野さんは頷く。もう一度しゃがみ、同じ場所から走り出した。


「同じことを繰り返しているわ」


「スタートの練習でしょう」


「それは分かるわ。そうではなくて、ただ走ることに、なぜあれほど真剣になれるの?」


 考えるより先に、昔の姿が浮かんだ。


 誰かと競えば、負けたままでは終われない。うまくできなければ、納得するまで繰り返す。


 昔から変わらない顔。


「星野さんは、昔から走るのが好きだったんです」


「今は、どのくらいの記録なの?」


「知りません」


「次の大会で、何を目指しているの?」


「それも知りません」


 答えが二つ続くと、自分でも妙な感じがした。


 走るのが好きだったことは覚えている。負けず嫌いで、できないことほど何度もやるのも知っている。


 でも、高校へ入ってからどれくらい速くなったのか。今、何を目指しているのか。


 何も知らない。


 記録なんて、ただの数字だ。数字なら、俺にも見られたはずだ。


 見ようとしたことが、一度もなかっただけで。


 当然だ。星野さんの生活から自分で離れ、そのまま何年も戻らなかった。残っているのは、離れる前の記憶だけ。


 長い空白。


「幼馴染なのに?」


「昔の話です」


 それで終わらせる。


 終わらせるはずだった。


「……日高くん?」


 練習がいったん休憩へ入り、星野さんがこちらに気づいていた。


 タオルを首へかけ、水筒を持ったまま近づいてくる。視線は俺とエルミナさんの間を一度往復した。


「二人とも、何してるの?」


「御影さんが練習を見たいと言ったので」


「私はツムギが走るところへ興味を持ったの」


「……また名前で呼んでるし」


 小さく息を吐きながらも、昼休みほど強くは拒まない。


「ねえ、ツムギ」


「何?」


 反射的に返事をしてから、星野さんがしまったという顔をした。


 エルミナさんは気にせず続ける。


「あなたは、なぜ同じ場所を何度も走るの?」


「練習だからだけど」


「勝てると決まっているわけではないのでしょう。それでも続ける理由を聞いているの」


 星野さんの目がわずかに細くなった。


「それ、遠回しに意味がないって言ってる?」


「意味がないと思っているなら、そう言うわ。本当に分からないから聞いているの」


 相変わらず、聞き方に遠慮がない。


 星野さんは警戒したままエルミナさんを見る。からかわれているのか確かめるような沈黙。


 やがて、水筒の蓋を閉めた。


「……好きだからだよ。走るのが」


「好きなら、勝てなくても構わないの?」


「構わなくはない。負けたら悔しいし」


 星野さんはトラックへ目を向けた。


「でも、短距離って、頑張った結果が数字で出るんだ。自己ベストが少しでも縮まれば、前より速くなったって分かる。負けても、次はもっと速くなれるかもしれないでしょ」


「次も勝てないかもしれないわ」


「かもしれないね。でも、やめたら速くなることもないじゃん」


 迷いのない返事。


 こういう時の星野さんは、やっぱり昔と変わらない。


「ツムギは、何を目指しているの?」


「今は県大会。あたし、百と二百を走ってるんだけど、まずはどっちかで県まで行きたい」


 県大会。


 初めて聞いた。


「その先も、走るの?」


「選手としてどこまで続けるかは、まだ分からない。でも、将来はスポーツに関わる仕事がしたいって思ってる」


「どんな仕事?」


「怪我をした選手とか、運動を続けたい人を支える仕事。理学療法士かスポーツトレーナーかな。まだ決めきれてないけど」


 それも、初めて知った。


 星野さんは昔から走ることが好きだった。


 だから今も走っている。


 その程度なら、知っているつもりでいられた。


 けれど、県大会も、その先の進路も、俺の記憶にはない。俺が知っている星野さんから離れたところで、本人が考え、選んだものだ。


 知らなくて当然。


 なのに、胸の内側へ小さな引っかかりが残る。


 引っかかりに名前をつけるのは、やめておいた。


「結果が保証されていなくても、自分で選んだことを続けるのね」


 エルミナさんが、まっすぐ星野さんを見る。


「それは美しいと思うわ」


「……また、それ?」


「褒めているのよ」


「今度は、まあ……何となく分かるけど」


 星野さんは困ったように短い髪をかいた。


 褒められるとは思っていなかったらしい。警戒は残っている。それでも、さっきより肩の力が抜けていた。


「ハルも、あなたが昔から走るのを好きだったと覚えていたわ」


 余計なことを言う。


 星野さんがこちらを見た。


「日高くん、覚えてたんだ」


「昔のことですから」


「……そっか」


 ほんの少し、目元が緩んだように見えた。


 でも、それ以上の言葉はない。


 俺も続けない。


 向こうから、練習再開の声が飛んでくる。


「御影さん、もう帰りましょう。これ以上は練習の邪魔になります」


「分かったわ」


 エルミナさんは素直にトラックへ背を向けた。


「ツムギ。練習の途中にありがとう」


「うん。……じゃあ、また明日」


 星野さんはエルミナさんへ返したあと、一拍遅れて俺にも小さく頭を下げた。


「はい。また明日」


 幼馴染ではなく、同じクラスの相手へ返すような言葉。


 星野さんは走って仲間のもとへ戻っていった。


 今度は振り返らなかった。


 グラウンドを離れたあと、俺は先に学校を出た。エルミナさんは水瀬先生と合流してから帰る。


 同じ家へ帰ることまで、学校へ見せるつもりはまだない。


     ◇


 夕食を終え、制服から部屋着へ着替えたあと。


 フカは空き部屋で丸くなっていて、リビングにいるのは俺とエルミナさんだけだった。


 俺は二人分の湯飲みをテーブルへ置く。


「ハルは、ツムギのことをよく覚えているのね」


 座る前に、昼間の続きが飛んできた。


「昔から知っているだけです」


「現在の記録も目標も、将来のことも知らなかったでしょう」


「だから言ったじゃないですか。今の星野さんに、特別な興味があるわけではありません」


「昔のことは、あれほどすぐ思い出したのに?」


「幼馴染なら、そのくらい覚えていても不思議じゃないでしょう」


 エルミナさんは湯飲みに触れず、俺の顔を見ている。


 また、あの目だ。


 言葉そのものより、その奥にあるものを探ろうとする目。


「そんなに気になるんですか」


「ええ。あなたは、関係がないと言った相手のことをよく見ていたから」


「見ていたのは練習です。俺は誰かを特別に見ていたわけではありません」


「私も?」


「はい?」


「あなたは、私にも特別な興味を持っていないの?」


 話が妙な方向へずれた。


「ありませんよ」


 ここで迷えば、また余計なことを言われる。


「同居しているから生活の世話をしているだけです。あなたが美の女神でも、見た目がどうでも、俺には関係ありません」


 言い切った。


 我ながら、いい速度と、いい平坦さだった。完璧な回答のはずだった。


 エルミナさんの紫色の瞳が、わずかに細くなる。


「そう。興味がないのね」


「ありません」


「なら、あの朝のことを思い出すたびに、なぜそれほど分かりやすい顔をするの?」


 身体が固まった。


「……何の話ですか」


「私が浴室から出た朝よ」


 思い出していないと否定するために、何を否定するのかが頭へ浮かぶ。


 濡れた銀髪。白い肩。何ひとつ身につけていなかった姿。


 忘れろ。


 今すぐ。


 壁の時計へ視線を送りかけて、やめた。あの避難所は、テーブルのこちら側からだと、エルミナさんの顔の真横にある。


「思い出してません」


「では、どうして今、私から目を逸らしたの?」


「逸らしてません」


「顔も赤いわ」


「お茶が熱いんです」


「まだ口をつけていないでしょう」


 逃げ道のない正論。


 エルミナさんは椅子へ座ったまま、満足そうに口元を緩めている。


 ただ俺の強がりが崩れるところを、面白がっているだけ。


「その話はやめてください」


「興味がないという話?」


「朝の話です!」


「大きな声を出すと、フカが来るわよ」


 俺は口を閉じた。


 あいつにまで聞かれたら、今後一生からかわれる。


 エルミナさんの笑みが少し深くなった。


 完全に遊ばれている。



「そういえば、スマートフォンの初期設定がまだでしたね」


 俺は棚の上に置かれていた黒い箱を手に取った。


「今やりましょう」


「ずいぶん急ね」


「必要なことですから」


「話を逸らしたのではなく?」


「必要なことです」


 二度言った。


 エルミナさんはまだ笑っていたが、箱からスマートフォンを取り出す。


 通信に必要な設定は、特領室が済ませている。残っているのは、画面ロック、連絡先、個人用の細かな設定。


「まず、画面を開くための番号を決めてください。俺やフカが推測できるものは避けて」


「ハルにも教えないの?」


「あなたの端末ですから」


「管理するのではなかった?」


「管理するのは支出です。中身まで勝手に見るつもりはありません」


 エルミナさんは少しだけ意外そうに俺を見た。


 それから画面を伏せ、自分だけに見える角度で番号を入力する。


 指の動かし方に迷いはない。フカから得た知識があるから、操作方法そのものは理解している。


 けれど、表示される選択肢を一つずつ確認する時間は長い。


 知っている道具と、自分の道具は違うのだろう。署名の時と同じだ。知識と、自分のものにすることの間には、一拍ある。


「次は連絡先です。俺と水瀬先生は入れておいてください」


「ハルは同じ家にいるでしょう」


「外で別行動になることもあります。今日みたいに」


「そうね」


 俺が番号を伝えると、エルミナさんが入力する。


 登録名は、ハル。


 画面の上でも、やっぱりそう呼ぶらしい。


 訂正はしなかった。家の中でまで、御影さんの呼び方に合わせてもらう理由もない。


 続いて水瀬先生の連絡先も登録する。


「これで最低限は使えます。有料のサービスは、勝手に契約しないでくださいね」


「先日も聞いたわ」


「月二万円の上限には、交通費や必要な買い物も含まれます。動画を全部契約したら、ほかに使えなくなります」


「すべてを見る時間もないことは、もう理解しているわ」


 少し不満そうだが、反論はしない。


 エルミナさんが検索画面を開いた。


「何を調べるんですか」


「気になっていることよ」


 銀色の髪が肩から流れ、指先が文字を打ち込んでいく。


 幼馴染。


 検索欄へ、その三文字が表示された。


「幼い頃から親しくしている相手、家が近い友人……ここまでは、ツムギの説明と同じね」


 エルミナさんが画面を下へ送る。


 辞書の説明に続いて、漫画やドラマらしい画像が並んだ。男女が向かい合っていたり、片方が赤い顔で目を逸らしていたりするものばかりだ。


「なぜ恋愛を扱う作品が、こんなに多く表示されるの?」


「創作では定番なんですよ」


「定番なら、現実にも多いということ?」


「同じではないと思いますけど」


 嫌な予感がした。


 俺は湯飲みへ手を伸ばす。


 エルミナさんは画面から顔を上げ、まっすぐ俺を見た。


「幼馴染は、恋愛関係になることが多いの?」


 飲んでいたお茶が、思いきり気管へ入った。


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