第7話 晴の家にいる女の子
数日後の夕方。
夕食の献立を決めるため、俺は冷蔵庫の中を確認していた。
豚肉は今日まで。野菜は昨日使った残りがある。味噌汁の具は豆腐とわかめでいい。足りない物を買いに出なくても、予定していた時間には夕食を出せる。
ここ数日は、こういう静かな計算だけで一日が回っている。学校のことを別にすれば、悪くない毎日だった。学校のことを別にできれば、の話だけど。
冷蔵庫の扉を閉めたところで、インターホンが鳴った。
エルミナさんがソファから顔を上げる。
「誰か来たわ」
「今、見ます」
玄関横の画面には、見慣れた顔が映っていた。
星野麻里さん。
近所のパン屋で働いている、星野さんのお母さんだ。晴くん一人だと食事が偏るでしょ、と言って、時々パンを届けてくれる。
売れ残りだから気にしないで、と毎回言うけれど、どう見ても俺のために分けてくれている物が混じっている。
その麻里さんの後ろに、もう一人いた。
制服姿の星野さん。
画面の端で、俯き気味に紙袋を抱えている。
予定外の来客。それも二人。
「誰だったの?」
「近所の人です。パンを届けに来てくれたみたいで」
共用玄関の鍵を開けてから、ソファの背もたれで丸くなっていたフカを見る。
「フカ。人が来たから、喋るなよ」
「分かっている。だが、なぜおれ様が自分の居場所で隠れねばならん」
「隠れろとは言ってない。普通のフェレットらしくしてろって言ってるんだ」
「おれ様のどこが普通だ」
「その返事をしないことから始めてくれ」
フカは不満そうに鼻を鳴らした。
公的には、エルミナさんが飼っている白いフェレット。姿を見られるだけなら問題はない。
人間の言葉を話し、神界の事情に詳しく、普通の人の注意から外れて移動できることさえ知られなければ。
全部隠すには、少し無理のある条件だった。
もう一度鳴った呼び出し音に応じ、玄関の扉を開ける。
「こんにちは、晴くん。急にごめんね」
麻里さんは店の制服のまま、いつもの明るい声で紙袋を持ち上げた。
「今日の分。ちょっと多く余っちゃって」
「いつもありがとうございます」
「こっちも」
短い声と一緒に、もう一つの袋が差し出された。
「……ありがとうございます、星野さん」
「ううん」
星野さんは麻里さんの半歩後ろに立ったまま、俺と目を合わせない。
紙袋を渡した手も、すぐに制服の脇へ戻った。
自分から来たわけではないらしい。
麻里さんに荷物を持たされ、そのままここまで連れてこられた。二人の立ち位置だけでも、それくらいは分かる。
「これだけあれば、しばらく朝食には困りません。本当に助かります」
紙袋を二つとも受け取り、扉を閉められるところまで身体を引く。
用件は終わった。
あとは礼を言って、二人を見送ればいい。
「ハル。夕食は何時になるの?」
家の奥から、よく通る声がした。
麻里さんの目が、俺の肩越しへ向く。
星野さんも顔を上げた。
「今から作れば、いつもと同じ時間です」
「そう」
答えながら、エルミナさんが廊下へ出てくる。
飾り気の少ない淡い色の部屋着。腰近くまでの銀髪も下ろしたまま。制服姿とは違い、完全に家で過ごす格好だった。
最悪のタイミングで、最悪の格好だった。いや、部屋着は何も悪くない。ここが彼女の家なのだから。悪くないことが、今は一番説明しにくい。
「御影さん……?」
星野さんの声が止まる。
エルミナさんは二人を見て、俺の手にある紙袋へ視線を落とした。
「その人たちが、パンを届けに来たの?」
「はい」
「御影さん、どうしてここにいるの?」
星野さんが尋ねる。
学校で話す時より、声が少し硬い。
エルミナさんは、何を不思議がっているのか分からない顔で答えた。
「ここに住んでいるからよ」
間に入る余地もない即答。
「住んで……?」
「誤解しないでください」
誰が何を誤解するのか自分でも整理できないまま、先に口が動いた。
「エルミナさんは政府の支援を受けて、日本で生活しているんです。ホームステイ先として、うちが選ばれただけで」
「晴くんの家が?」
麻里さんも、さすがに驚いたらしい。
「はい。学校の水瀬先生が後見人です。父さんと母さんも事情を聞いて、了承しています」
「そうだったの。晴くんのお父さんたちが知っているなら、私が口を挟むことじゃないけど……びっくりした」
「ですよね」
俺も最初はそうだった。
今でも、これが普通になったとは言い切れない。
「二人で勝手に始めたような話ではありませんから」
念のため付け加える。
「うん。そこまでは思ってないよ」
麻里さんは苦笑した。
星野さんは笑わなかった。
「ホームステイなんだ」
「そうです」
「へえ。そうだったんだ」
明るく言おうとしたらしい声だけが、少し上滑りする。
視線は、エルミナさんの部屋着から、廊下に並んだ室内履きへ。それからまた、俺へ戻った。
「せっかく来たのだから、二人とも上がればいいわ」
エルミナさんが言う。
「パンを届けに来てくれただけです。麻里さんも店があるでしょうし」
「あら。じゃあ、少しだけお邪魔しようかな」
「麻里さん」
「ちょうど休憩の途中なの。すぐ戻るから大丈夫」
そういう問題ではない。
けれど、いつも気にかけてくれている麻里さんへ、玄関先で帰ってくださいとも言えなかった。
「……どうぞ」
道を空ける。
エルミナさんが、自分の家へ客を招くように二人をリビングへ案内する。
実際、今はこの人の家でもある。
分かっているのに、その光景は俺にとっても少しだけ妙だった。
「改めて。御影エルミナよ」
「星野麻里です。こっちは娘の紬。エルミナちゃん、でいいのかな」
「ええ」
麻里さんはエルミナさんの向かいへ座りながらも、何度かその銀髪と紫色の瞳を見ていた。
無理もない。
初めて会った人は、大抵そうなる。
それでも、二人がどういう関係なの、晴くんも隅に置けないね、なんて言い出さないところは麻里さんらしかった。
俺はパンの袋を食卓へ置き、冷蔵庫から麦茶を出した。
「麻里さんも星野さんも、麦茶でいいですか」
「ありがとう」
「……うん」
「ハル。私は紅茶がいいわ」
「もうすぐ夕食なので、今日は全員麦茶です」
「客人へ出すものを決めるのは分かるけれど、なぜ私の分まで決めるの?」
「今からお湯を沸かすと時間がずれるからです。嫌なら水にします」
「麦茶でいいわ」
エルミナさんは不満そうだったが、すぐに引いた。
星野さんが、俺とエルミナさんを交互に見る。
学校では、こんなやり取りはしない。
俺も、教室でならここまで遠慮なく言い返さない。
言ってから気づく。この家の中の俺は、学校の俺より、ずいぶん口数が多い。
「ホームステイって、いつからなの?」
麻里さんに聞かれ、話せる範囲で答える。
「四月からです。手続きが終わったのは最近ですけど」
「食事も晴くんが?」
「今までも自分の分は作っていたので。一人分増えても、手順は大きく変わりません」
「ハルは、変わっていないことにしたがるだけよ」
「余計な説明を足さないでください」
「事実でしょう?」
この前も聞いた言葉だった。
俺が言い返す前に、麻里さんが小さく笑う。
「ちゃんとやれてるみたいで安心した。晴くん、頼まれると何でも一人で抱え込むところがあるから」
「そこまでではありません」
「そういうことにしておくね」
今度は俺が引くしかなかった。
ふと見ると、星野さんは膝の上で両手を重ね、麦茶へ目を落としていた。
麻里さんの言葉へ何か返すでもなく。
ただ、エルミナさんが当然のように使っているカップと、食卓の端に置かれた白い弁当箱を順に見ていた。
弁当箱なら、教室でも見られている。それでも、この家の食卓の上にあるのを見るのは、別なのかもしれない。
……なんて、俺が考えても仕方ないことだけど。
「あ、いけない。そろそろ戻らないと」
麻里さんが壁の時計を見て、立ち上がった。
「紬、私は店へ戻るから」
「じゃあ、あたしも――」
「紬はもう少しゆっくりしていけばいいでしょう」
「え?」
「まだ来たばかりでしょう」
エルミナさんまで、当然のように続ける。
「いや、でも」
星野さんの目が俺へ向いた。
ここで俺が、帰った方がいいと言えば終わる。
麻里さんの前で、星野さんだけを追い返すことになるという一点を除けば。
「晴くんも、別に困らないでしょう?」
「……夕食の準備までは、まだ少しあります」
肯定ではない。
けれど、拒否にもならなかった。
「ほら。じゃあ紬、パンの感想はあとで教えてね」
「それ、あたしが聞くの?」
「持ってきたんだから、そのくらいしてよ」
麻里さんは軽く手を振り、玄関へ向かう。
星野さんも一度は腰を浮かせた。
そのまま後を追うだけの間があった。
けれど、結局、立ち上がらなかった。
「それじゃあね、晴くん。エルミナちゃんも、今度うちの店に寄って」
「ええ。行くわ」
「いつもありがとうございます。店まで気をつけて」
玄関の扉が閉まる。
残ったのは、俺と、エルミナさんと、星野さん。
それから、何も知らない普通のフェレットを装っているフカ。
麻里さんがいた時より、部屋が広く感じられた。
誰も口を開かない。
壁の時計の秒針だけが、勝手に間を埋めている。
星野さんは帰るとも言わず、麦茶のグラスへ指を添えている。
自分で残ったのなら、何か話があるのかもしれない。
そう考えてから、俺はすぐに打ち消した。
聞けば、答えを求められる。
何もなければ、何も増えない。
「前から、気になっていたのだけど」
増やしたのは、やはりエルミナさんだった。
「ハルとツムギは、幼馴染なのでしょう?」
星野さんの指が止まる。
「だったら、どうして名字で呼び合っているの?」
「今はそういう関係だからです」
「そういう関係とは、どういうもの?」
「同じクラスの生徒です」
「幼馴染でもあるでしょう」
「昔の話です」
「それに、ハルはツムギと関係がないと言ったわ」
本人の前で言い直さなくていい。
星野さんは俯いたまま、表情が見えなかった。
「エルミナさん」
「何?」
「昔のことです。話すことはありません」
中学で何があったかは、一部だけ話した。
それ以上を話すつもりはない。
中学の最後に、星野さんとの間で何があったのか。
どうして今の距離になったのか。
どちらも、星野さんの前で口にすれば、自分があの時何を考えていたかまで認めることになる。
「話は終わりです」
「ハルにとっては、でしょう」
エルミナさんは、今度は星野さんを見た。
「ツムギ。あなたも話したくないの?」
星野さんが、ゆっくり顔を上げる。
最初に見たのはエルミナさんではなかった。
俺。
ほんの一瞬だけ目が合う。
すぐに視線は落ちた。
「……あたしからは、言えない」
知らないからではない。
同じことを覚えていて、それでも言わないと決めた声だった。
言わない、ではなく、言えない。
その違いを聞き分けてしまった自分が、少し嫌だった。
エルミナさんはしばらく星野さんを見ていた。
また問い詰めるのかと思ったが、やがて小さく息をつく。
「そう。分かったわ」
それ以上は聞かなかった。
会話が途切れる。
重くなった空気の中で、白い塊だけが動いた。
ソファの背もたれから降りたフカが、床を静かに進んでくる。
淡い金色の目。真っ白な毛。額の銀青色の紋様は光っていない。
「フカよ」
エルミナさんが紹介する。
星野さんが目を見開いた。
「かわいい……!」
さっきまでの硬い声が、一瞬で消えた。
椅子を引くのも忘れたように立ち上がり、フカの前へしゃがみ込む。明るい茶色の瞳が、子どもみたいに輝いていた。
「御影さん、この子、撫でていいかな?」
「私へ聞かなくても、フカが嫌がらなければいいわ」
「ほんと?」
星野さんの手が伸びる。
フカは逃げなかった。
小動物扱いを嫌うくせに、星野さんの指先へ鼻を向け、ほんの少しだけ頭まで近づける。
待っているようにしか見えない。
星野さんらしい声だった。
何かを好きだと思ったら、隠す前に顔が明るくなる。俺が知っていた頃の、星野さんの顔。
その横顔を見ていたせいだろう。
星野さんが、俺の視線に気づいた。
「あ……」
伸びていた手が止まる。
指先がフカの毛へ触れる直前で、ゆっくり引かれていった。
「……ごめん。急に触ったら嫌だよね」
誰へ向けたのか分からない言い訳。
星野さんは立ち上がり、スカートの裾を整えた。さっきまでの笑顔は、もうない。
フカの小さな耳が、わずかに下がる。
動きかけていたふさふさの尾も、床の上で止まった。
鳴くことも、文句を言うこともできず、ただ不満そうに俺を見る。
俺のせいではない。
たぶん。
「せっかくなので、パンを少し食べますか」
俺は空気を変えるため、麻里さんの紙袋を食卓へ置いた。
「夕食前なので、一人一つだけです」
「これがいいわ」
エルミナさんが真っ先に選んだのは、渦巻き状に成形されたパンだった。
「一番美しい形をしているもの」
「パンは見た目だけじゃなくて、中身も確認してください」
「これには何が入っているの?」
「シナモンです。肉ではありませんよ」
「では、こちらにするわ」
「選ぶ基準が極端なんですよ」
今度は総菜パンへ手を伸ばしたエルミナさんから、甘い方を受け取る。
「一度選んだなら、それを食べてください」
「味を聞いた後で選び直しただけでしょう」
「あのお店のパンなら、どれもおいしいよ」
星野さんが口を挟んだ。
ほんの少しだけ、いつもの声へ戻っている。
「なら、最初に選んだものにするわ」
「それがいいと思う」
エルミナさんは満足そうに頷いた。
フカが紙袋へ鼻先を近づける。
「お前の分は夕食の時だ。今食べたら残すだろ」
フカが抗議するように前足で俺の足を叩いた。
「駄目」
「少しくらい与えてもいいのではなくて?」
「この前、少しくらいを三回やったのは誰ですか」
「三回までは少しでしょう」
「足したら少しじゃなくなります」
フカを抱き上げ、紙袋から離れたクッションへ戻す。
白い身体は腕の中で不満そうに身をよじったが、人前だからか大人しく運ばれていった。
食卓へ戻ると、星野さんがこちらを見ていた。
「何ですか」
「ううん。何でもない」
すぐに目を逸らされる。
その後も、何度か同じことがあった。
冷蔵庫に入れるパンと、明日の朝に食べる分を分けた時。
エルミナさんが勝手に二つ目へ手を伸ばし、俺が止めた時。
夕食の豚肉をフカの分だけ味付け前に取り分けていると話した時。
星野さんは俺を見る。
けれど、目が合う前に視線を外す。
何を考えているのか、俺には分からなかった。
「そろそろ帰るね」
パンを食べ終えて少しすると、星野さんが立ち上がった。
「暗くなる前に、その方がいいと思います」
引き留める理由はない。
俺は玄関まで見送った。
星野さんはローファーを履き、鞄を肩へ掛ける。扉へ手を伸ばす前に、一度だけ家の奥を振り返った。
エルミナさんの部屋着。
食卓に並んだ四つのグラス。
クッションの上で丸くなるフカ。
この家に、俺以外の生活があることを確かめるような視線だった。
「じゃあ、また学校で」
「はい」
それだけ。
扉が閉まり、廊下を離れていく足音も聞こえなくなる。
「あなた、ツムギが止まった後、残念そうな顔をしたわね。撫でてほしかったの?」
エルミナさんがフカへ尋ねる。
ようやく口を開けるようになったフカは、勢いよく頭を上げた。
「断じて違う。あの人間がようやく高位精霊への礼節を思い出したことへ感心しただけだ」
「耳が下がっていたわ」
「気のせいだ」
「尾も止まっていたでしょう」
「見間違いだ」
「撫でられるのを待って、頭まで近づけていたわね」
「観察していただけだ!」
フカの尾が、クッションを一度だけ強く叩いた。
エルミナさんは、それ以上追及せず、どこか満足そうに目を細める。
俺の頭に残っていたのは、二人のやり取りではなかった。
フカを見つけた瞬間の、星野さんの顔。
あんなふうに笑う星野さんを、久しぶりに見た。
俺が見ていることを思い出すまでの、ほんの短い間だけ。
……あの笑顔を止めたのが、俺の視線だということも、本当は分かっていた。




