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第8話 私たちは、何なの?

 日高くんの家から、あたしの家までは二百メートルくらいしかない。


 小さい頃なら、走ればすぐだった。


 今日も、道の先にはもう見慣れた屋根が見えている。それなのに足だけが重くて、なかなか近づいてこなかった。走るのだけが取り柄の足が、今日は仕事をしない。


 御影さんが、日高くんの家に住んでいる。


 ホームステイ。水瀬先生が後見人で、日高くんのご両親も知っている。


 ちゃんと理由があることは聞いた。


 それでも、何度考えても胸の奥が落ち着かない。


 毎朝、同じ家で目を覚ます。


 日高くんが朝食を作るところを、御影さんは見ている。学校へ持ってくる二つのお弁当も、あの台所で作られている。


 学校では別々に帰っても、最後には同じ玄関へ戻る。


 制服ではない御影さんを、日高くんは知っている。


 学校では見えない時間を、二人は毎日一緒に過ごしている。


 想像しようとしたわけじゃない。


 止めようとしても、勝手に浮かんでくるだけ。


 食卓に並んだグラス。日高くんが御影さんへ遠慮なく注意する声。御影さんが当然みたいに「ハル」と呼ぶ姿。


 あの家には、もう二人の生活があった。


 フカもいたけど。


 真っ白で、ふわふわで、あんなにかわいい子まで一緒にいるのはずるいと思う。


 ――いや、今はそこじゃない。


 撫でたかった。


 本当は、ものすごく撫でたかった。


 でも日高くんに見られていると気づいた瞬間、手を引いてしまった。


 昔なら、あんなことは気にしなかったはずなのに。


 日高くんの前で笑うことまで、今のあたしは許可がいるみたいに迷ってしまう。


 家へ着く。


 ほんの二百メートル。


 近いままなのは、住所だけだった。


     ◇


 夕食を終えて自分の部屋へ戻ったあと、扉が軽く叩かれた。


「紬、入っていい?」


「うん」


 仕事を終えて帰ってきたお母さんが、開いた扉から顔をのぞかせる。


「パン、どうだった?」


「おいしいって言ってたよ。日高くん、何度もお礼言ってた」


「晴くんらしいね。元気そうだった?」


「うん。ちゃんとご飯も作ってた」


「それは聞くまでもなかったかな。エルミナちゃんは、どんな子だった?」


 答えようとして、少し迷った。


「綺麗な子」


「それは見れば分かるよ」


「あと、偉そう」


「あら」


「人のこと、いきなり名前で呼ぶし。聞きにくいことも普通に聞くし。掃除のやり方も知らなかったし」


 並べるほど、悪口みたいになる。


 でも、違う。


「……教えたら、ちゃんとやる。分からないことを分かったふりもしない。陸上のことも、変な聞き方だったけど、本当に知りたかったみたい」


「ふうん」


 お母さんは、それ以上エルミナさんのことを聞かなかった。


 代わりに、あたしの顔をじっと見る。


「何?」


「何かあった?」


「別に」


 返事が早すぎた。


 自分でも分かるくらい。


 お母さんも気づいたはずなのに、追いかけてはこなかった。


「そっか。なら、今日は聞かない」


「今日は、って何」


「話したくなった日に聞くってこと」


 お母さんはそれだけ言って、扉を閉めた。


 こういうところは、本当にかなわない。聞かないでいてくれる優しさに、聞いてほしい夜もあるなんて、娘の勝手すぎて言えないけど。


 静かになった部屋で、机の上へ視線を落とす。


 日高くんの家は、ここからでもすぐ近くにある。


 窓を開けたって見えない程度の距離。でも、小さい頃なら約束をしなくても行き来していた距離。


 それなのに、あたしは中学に入ってから一度も、あの家の中へ入っていなかった。


 日高くんが作った壁。


 あたしはずっと、その外にいた。


 入れてもらえなかった。


 それだけじゃない。


 今日だって、残ろうと思えば残れたのに、自分から帰った。フカへ手を伸ばしたのに、自分から引っ込めた。


 壁の前まで来るたび、嫌われるのが怖くて、あたしも一歩下がっている。


 たった二百メートルより、その一歩の方がずっと遠かった。


     ◇


 翌朝。


 教室へ入ると、日高くんはもう席にいた。


 一瞬だけ目が合う。


「……おはよう」


 声を出す前に、日高くんは机の上のノートへ目を落とした。


 昨日のあたしが、変な顔をしていたから。


 御影さんとの同居を知って、あたしが余計な反応をしたから。


 だから、また避けられた。


 そう思うと、今さら声をかけることもできない。


 あたしは何も言わず、自分の席へ向かった。


 御影さんが振り返る。


 最初に日高くんを見て、次にあたしを見る。


 紫色の瞳が、二人の間を測るみたいに動いた。


「おはよう、ツムギ」


「……おはよう、御影さん」


 返事をすると、御影さんは小さく頷いた。


 日高くんへは、結局何も言えなかった。



 昼休み、真奈が二年三組まで迎えに来た。


 教室では話しにくくて、二人で中庭へ移る。


「それで、昨日、本当に日高くんの家へ行ったの?」


「お母さんに連れていかれただけだけどね」


「御影さんもいたって?」


「うん。いたっていうか、住んでた」


 真奈の手が止まる。


「住んでた?」


「ホームステイなんだって。水瀬先生が後見人で、日高くんのご両親も知ってる。変なことじゃないよ」


「変なことかどうかを聞いてるんじゃないんだけど」


 真奈は少しだけ声を落とした。


「紬は、平気なの?」


「何が?」


「何がって……分かってるでしょ」


 分かっている。


 分かりたくないだけ。


「あたしと日高くんは、そういうのじゃないから」


「紬」


「昔から知ってるだけだよ」


 口にした瞬間、喉の奥が硬くなった。


 昔、家が近かっただけです。


 日高くんに言われた言葉と、ほとんど同じ。


 あんなに苦しかった言葉を、今度は自分で選んだ。


 自分たちの間にあったものを、小さくして、何でもなかったことにするために。


 言われるより、自分で言う方が痛いなんて、誰か先に教えておいてよ。


「でも、紬は――」


 真奈は途中で言葉を止めた。


 あたしの顔を見て、息をつく。


「……今は、やめとく」


「何それ」


「紬が自分で分かってることを、私が説明しても仕方ないでしょ」


 真奈は残っていた昼食へ手を伸ばした。


 あたしも同じようにしたけれど、味はよく分からなかった。


 教室へ戻ると、日高くんは自分の席で本を開いていた。


 御影さんは、その一つ前の席から何かを尋ねている。


 日高くんは短く答えた。


 昨日までと同じ光景。


 変わったのは、それが同じ家へ続いていると、あたしが知ってしまったことだけだった。


     ◇


 その日の夜。


 夕食の片づけを終えた俺は、使った布巾を所定の場所へ干した。


 洗い物は終わり。明日の朝食の準備も、できるところまでは済ませた。


 いつも通り。


 少なくとも、家の中だけは。


「今日のあなたたちは、昨日より不自然だったわ」


 食卓へ戻ると、エルミナさんが言った。


 フカはもう空き部屋へ引っ込んでいる。リビングには俺とエルミナさんだけ。


「誰の話ですか」


「ハルとツムギよ」


 聞かなくても分かっていた。


「普通だったでしょう」


「朝、ツムギが教室へ入った時、あなたは目を逸らしたわ」


「ノートを見ただけです」


「ツムギは何か言おうとして、やめた。昼休みの後は、あなたの方を一度も見なかったわ」


「よく見ていますね」


「あなたたちが分かりやすいのよ」


 エルミナさんは椅子の背へ身体を預けず、まっすぐ俺を見る。


 また逃がすつもりのない目。


「星野さんは、昨日のことで気まずいんですよ」


「昨日のこと?」


「あなたがここに住んでいると知ったことです。驚いていたでしょう」


「驚くことと、ハルを避けることは同じなの?」


「不快だったのかもしれません。俺に話しかければ、また家のことに触れないといけない。だったら、距離を取った方が星野さんも楽です」


 今日一日、そう考えていた。


 星野さんが話しかけてこないなら、こちらから増やす必要はない。


 互いに余計なことを言わず、同じクラスの生徒として過ごせばいい。


 それが一番、波風が立たない。


「ツムギ本人が、そう言ったの?」


「言われてはいませんけど、昨日の様子を見れば分かります」


「私には分からないわ」


「それなら、この話は終わりですね」


「だから本人へ聞くのでしょう」


 終わらなかった。


「聞いて、嫌だと言わせるんですか」


「嫌かどうかも、まだ聞いていないのでしょう?」


「聞かなくても分かることはあります」


「あなたは、ツムギが何を考えているか分かるの?」


「分かりませんよ」


「では、なぜあなたが答えを決めているの?」


 言葉が詰まった。


 エルミナさんは、星野さんがどう思っているのかを口にしていない。


 嫌っているとも、嫌っていないとも。


 俺が決めた答えだけを、俺へ返している。


「以前、関係がないとも言ったわね」


「今は関係ありません」


「昨日は家へ来たわ」


「麻里さんに連れてこられただけです」


「麻里が帰った後も残ったでしょう」


「エルミナさんが引き留めたからです」


「帰ろうと思えば、帰れたわ」


「何が言いたいんですか」


「関係がないという言葉だけでは、説明できないことが多いと言っているの」


 幼馴染。


 昔、家が近かった相手。


 同じクラスの生徒。


 どれも間違いではない。どれを選んでも、全部を説明できるわけでもない。


「だったら、俺とエルミナさんは何なんですか」


 思ったより強い声が出た。


「同じ家に住んで、俺が食事を作って、学校では前後の席にいる。それだけ並べれば、俺たちだって何と呼べばいいか分からないでしょう」


 エルミナさんが瞬きをする。


 問い返されるとは思っていなかったらしい。


 けれど、目を逸らしはしなかった。


「あなたは、私と神路を結んだ相手よ」


「それなら、神と神授者です」


「それだけではないわ」


 即答だった。


「あなたは、私がここで暮らすために必要なことを教える。食事を作り、私が困れば手を貸す。私が帰りたいのかを、ほかの誰かではなく私へ聞いた」


 一つずつ、確かめるように言う。


「私がここにいたいと答えた時、あなたも、ここにいてほしいと言ったわ」


 水の向こうへ手を伸ばした夜が、頭へ浮かぶ。


 あれは、帰りたくないと言った彼女を置いていけなかっただけだ。


 そう説明しようとして、やめた。


 あの時、自分で言った。


 ここにいてほしいと。


「それを、人間界では何と呼ぶんですか」


「知らないわ。どれか一つの言葉へまとめる必要もないでしょう」


 エルミナさんは少しだけ考えたあと、続けた。


「あなたは、私が選んだ、特別な人間よ」


 胸の奥が、一度だけ強く鳴った。


 けれど、意味はすぐに分かる。


 神路を結んだ神授者。人間界で自分の生活を支える相手。


 ほかの人間とは立場が違うというだけの話。


 そう処理すれば、心臓も静かになる。


 なった、と思う。


「神授者としてなら、特別なのは当然でしょう」


「……あなたは、私の言葉をずいぶん小さく受け取るのね」


 エルミナさんの眉が、ほんの少しだけ寄った。


「ほかに、どう受け取ればいいんですか」


「それを私へ聞くの?」


 自分でも答えを持っていないのかもしれない。


 ただ、俺の答えが気に入らないことだけは分かった。



「アクアリアが私を連れ帰ろうとした時、ハルは私へ尋ねたわね」


 声から、わずかな不満が消える。


「私が、帰りたいのかと」


「聞きましたね」


「あなたが安全だと思う方へ、勝手に決めなかった。なぜ?」


「エルミナさんがどうしたいのかを、聞かないと分からなかったからです」


「ツムギも同じでしょう」


「同じじゃありません」


「何が違うの?」


「星野さんとは、昔にいろいろあったんです」


「それは知っているわ」


「全部は知りません」


「ええ。あなたが話さないから」


 責める言い方ではなかった。


 だからこそ、返す言葉が見つからない。


「簡単に聞けることじゃないんです」


「簡単だとは言っていないわ」


 エルミナさんは、少しだけ声を落とした。


「人と関わって、また傷つくことを、あなたが怖がっているのは分かる。私には、その怖さのすべては理解できない」


 紫色の瞳は、逸れない。


「けれど、あなたが怖いことと、ツムギがどうするかをあなたが決めることは、同じではないでしょう」


 否定しようとした。


 星野さんを巻き込みたくない。


 これ以上、気まずい思いをさせたくない。


 また何かを求めて、迷惑をかけたくない。


 理由なら、いくらでも出てくる。


 どれも、星野さんの口から聞いたものではなかった。


 ……この理由の出てき方にも、覚えがある。水明川へ行かない理由を並べていた、あの夜と同じ速さだ。


「分からないなら、本人へ聞けばいいわ。ツムギの選択まで、先に終わらせるべきではないと思う」


 関わらない方がいい。


 ずっと、それが俺の望みでもあると思っていた。


 でも、それは傷つかないための方法であって、望みとは少し違うのかもしれない。


「ハル。あなたは、ツムギを嫌っているの?」


「嫌ってはいません」


 答えは、迷わず出た。


 自分で驚くくらい、迷わず。


「なら、あなたはどうしたいの?」


 今度は、何も出てこなかった。


 星野さんと関わらないことが、本当に俺の望みなのか。


 俺自身にも、分からなかった。


 秒針の音だけが、答えられない俺の沈黙を数えていた。


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