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第2話 名前で呼べない幼馴染

 翌日になれば聞く。


 昨日の夜は、確かにそう決めた。


 決めた時は、それで少し眠れるようになった。決意というのは便利だ。実行する前の晩までは、何の元手もいらない。


 問題は、翌日が本当に来ることだった。


「では、五分だけ。近くの席同士で、プリントの答えを確認してくれ」


 四時間目の国語。


 佐伯先生の指示で、俺たちは配られたプリントを机の中央へ寄せた。


 前の席のエルミナさん。斜め前の星野さん。隣の山本と、後ろの田中。


 机を動かすほどではない。椅子の向きだけを少し変えれば、五人で同じ紙を見られる。


「一問目、これで合ってるよな?」


 山本が自分の答えを指す。


「本文の言葉を使うなら、こっちじゃないか」


 田中が隣の行を示した。


「理由は同じでしょう。何が違うの?」


「設問が『本文中から抜き出せ』だから」


「自分で考えた言葉では駄目なのね」


「この問題では、そうです」


 エルミナさんへ答えながら、俺は解答欄へ視線を戻した。


 必要なことだけ話す。昨日までと同じ運用だ。五人になっても、やることは変わらない。


「次、二問目だね」


 星野さんが資料をめくる。


 重なっていた一枚が机の端でずれた。彼女の指先が追うより先に、紙が床へ滑りかける。


「紬、それ――」


 言ってから、止まった。


 短い呼び名だった。


 力もいらない。息と同じ長さで、するりと出る。


 昔は一日に何十回も使っていた。だから口の方が、まだ置き場所を覚えている。


 出す前には、何も感じなかった。


 出した後で、教室の空気が全部こっちを向いた気がした。


 星野さんの手も止まっている。


 紙は机の角へ半分だけ残り、落ちずに揺れていた。誰か拾え。頼むから、この間を埋めてくれ。


「……星野さん、その紙」


 言い直した二回目は、喉のどこかで角ばった。


「あ……うん」


 星野さんは紙を押さえ、元の束へ戻した。


「ありがとう、日高くん」


 いつもより小さい声だった。


 山本が星野さんと俺を順番に見る。何かを聞きそうに口を開き、それから閉じた。空気の読めないやつだと思っていたが、読むときは読むらしい。今読まなくていい。


 田中も俺へ一度だけ視線を向けたが、何も言わず自分のプリントへ戻る。


 エルミナさんだけは、紫色の目でまっすぐ俺を見ていた。


「三問目、いきましょう」


 俺が言うと、全員の視線が紙へ戻った。


 心臓は、まだ通常運転に戻っていなかった。


 たった一言で、この騒ぎだ。


 考えるより先に出たくせに、もう一度出そうとすると、どこにも見当たらない。


 星野さん。


 言い直した方だけが、耳の奥で妙に違和感を持っていた。


     ◇


 放課後、帰り支度をしていると、教卓から佐伯先生に呼ばれた。


「日高。このファイルを保健室の水瀬先生へ届けてくれないか」


「はい」


 頼まれてしまったものは仕方がない。


 受け取ったファイルは二冊。断る理由を組み立てるほどの重さでもなかった。朝のうちに候補から外れておく手順は、先生からの直接指名には効かない。仕様の穴だ。


「御影も、水瀬先生から呼ばれている。ホームステイ関係の書類らしい」


「分かったわ」


 エルミナさんが席を立つ。


 俺たちは並んで本館一階へ下りた。


 保健室では、水瀬先生が机の上へ何枚もの紙を広げていた。白衣の袖を軽くまくり、深い青緑の髪を低い位置で束ねている。


「ありがとう、晴くん。ファイルはそこへ置いて」


「佐伯先生からです」


「ええ。御影さんの分と、晴くんの生活状況の確認書ね」


 また書類が増えている。


 神だの神授者だのとは関係ない。人間の社会で暮らす以上、神さまでも紙へ名前を書かされる。世界の秘密より、書類の総量の方がよほど手強い。


「エルミナは少し残ってちょうだい。確認するところがあるの」


「どのくらいかかるの?」


「少しかかるわ。たぶん」


 たぶん、が信用できない。この人の「少し」で三十分待たされたことがある身としては。


「先に昇降口へ行っています」


「分かったわ、ハル」


 保健室を出て、校庭沿いの廊下を歩く。


 そのまま昇降口へ向かうつもりだった。


 乾いた破裂音のような合図が、グラウンドから聞こえるまでは。


 足が勝手に窓へ寄った。音に引かれただけだ。そういうことにして、俺は立ち止まった。


 陸上部が、短距離のスタート練習をしていた。


 星野さんは制服から練習着へ着替え、スタートラインへ両手をついている。短い栗色の髪が、走り出す前の風にわずかに揺れた。


 合図が鳴る。


 小柄な身体が低く飛び出した。


 最初の数歩で加速し、上体が起きるにつれて歩幅が広がる。足音が続けてトラックを叩き、あっという間に前の選手との差を詰めた。


 速い。


 教室で見る星野さんと、走っている星野さんは、別の生き物みたいだった。


 練習を見るのは初めてではない。前に見た時も、昔から変わらない負けず嫌いな顔をしていた。


 けれど今日は、走り終えるたびにストップウォッチの表示を確かめている。その数字へ悔しそうに眉を寄せ、すぐスタート地点へ戻る。休む素振りがない。


 中学の頃より、確実に速くなっている。


 俺が下を向いていた間も、この人はずっと前に進んでいたわけだ。当たり前のことなのに、当たり前として飲み込むには少し時間がかかった。


 それと、もう一つ。


 練習着から出た右脚に、テーピングがあった。


 昨日、体重を逃がした方だ。


 気のせいではなかった。


「日高くん」


 横から声をかけられ、振り向く。


 黒い髪をポニーテールにした女子が立っていた。前に中庭で星野さんと話していた、小川さんだ。彼女も陸上部の練習着で、首へタオルを掛けている。


「こんにちは」


「こんにちは。紬、見てたの?」


「通りかかっただけです」


 嘘ではない。通りかかって、止まって、しばらく動かなかっただけだ。後半を省略すると、こんなに便利な文になる。


 小川さんは俺の返事より、俺が見ていた先を確かめた。


 星野さんは、ほかの部員とスタート用の器具を片づけ始めている。


「日高くんって、紬の幼馴染なんだよね」


「昔から家が近いだけです」


 すらすら出た。この返事だけは、何年も使い込んで角が取れている。


「紬も、だいたい同じこと言うんだよね」


 言葉が止まった。


 昔から知っているだけ。


 家が近いだけ。


 似ているどころか、ほとんど同じだ。


 同じ言い訳を、別々の場所で、二人で大事に使い回している。それは偶然と呼んでいいものなのか。


「脚が気になるなら、本人に聞けばいいんじゃない?」


 小川さんの視線が、星野さんの右脚へ向く。


「同じ部活なら、小川さんの方が分かるでしょう」


「私は分かるよ。でも、日高くんが気にしてるかどうかは、私の話じゃないでしょ」


「俺が聞いたら、迷惑かもしれないので」


 小川さんは少しだけ眉を上げた。


「迷惑かどうかくらい、紬が自分で決めるでしょ」


 それだけ言って、星野さんたちの方へ戻っていく。


 責められたわけではない。星野さんが何を考えているのかも、何も教えられていない。


 本人に聞けばいい。


 言われたのは、それだけだ。


 女神さまに言われた時は、まだ思えた。神さまの理屈だ、人間の事情は分かっていない、と。


 同じ内容を、首にタオルを掛けた同級生に言われると、その逃げ道ごと消える。


 どうして、みんな同じところへ戻ってくるんだ。


 ……同じところに、答えがあるからだとしたら、ずいぶん嫌な話だった。


     ◇


 昇降口でエルミナさんを待っていると、部活動を終えた生徒たちが校舎へ戻ってきた。


 その中に星野さんがいた。


 制服へ着替え直し、通学鞄を肩へ掛けている。短い髪は、汗を拭いたあとでも少しだけ湿って見えた。


 星野さんも俺に気づいた。


 一瞬だけ歩みが遅くなる。


 それでも、今度は引き返さなかった。


「まだ帰ってなかったんだ」


「エルミナさんを待っているので」


「そっか」


 会話はそこで切れた。


 星野さんが自分の下駄箱を開ける。上履きを脱いで右足を床へついた時、ほんの少しだけ動きが慎重になった。


 昨日と同じだ。


 聞く。


 そう決めたのは俺だ。昨日の夜の俺が、今日の俺に押しつけた仕事だ。文句は言えない。


「脚、大丈夫ですか」


 星野さんが顔を上げた。


「……気づいてたの?」


「昨日、少し庇っていたので。今日はテーピングも」


「大したことないよ。練習で少し張ってるだけ」


「なら、いいですけど」


「うん」


 また会話が切れる。


 けれど、今度の沈黙は、用件が終わったからだけではない気がした。


 星野さんはローファーへ履き替えても、その場から動かなかった。


「日高くん、御影さんと一緒に住んでることなんだけど……」


「それは政府の支援対象になっているホームステイで、水瀬先生が後見人として――」


 途中で止めた。


 説明なら、もうしている。引き出しを開ければいつでも出てくる、折り目のついた説明だ。水瀬先生が後見人で、両親も承諾していて、制度上の問題はない。


 全部言える。全部言えるのに、星野さんがまだ、何を聞きたいのか言っていない。


 質問の前に回答を渡すのは、答えではなくて、蓋だ。


 ――なら、あなたはどうしたいの?


 ――迷惑かどうかくらい、紬が自分で決めるでしょ。


 今度は、最後まで言わなかった。


「……星野さんは、何を聞きたかったんですか」


 星野さんが瞬きをする。


 通学鞄の持ち手を握る指へ、少しだけ力が入った。


 口を開いては、閉じる。


 俺は待った。


 待つというのが、こんなに体力を使う作業だとは知らなかった。急かさない。先回りしない。ただ立っている。それだけのことに、背中が汗をかいた。


「……今は、いい」


 小さな返事だった。


「そうですか」


 その時、廊下の奥から足音が近づいてきた。


「ハル。待たせたわね」


 エルミナさんが銀色の長い髪を揺らし、こちらへ歩いてくる。


 星野さんは彼女を見て、わずかに肩を強張らせた。


「御影さん。じゃあ、あたし先に帰るね」


「ええ。また明日、ツムギ」


 星野さんは俺にも小さく頭を下げ、昇降口を出ていった。


 今は、いい。


 つまり、もう聞かれたくないということかもしれない。


 そこまで考えて、止めた。


 星野さんは、そうは言っていない。「今は」と言った。言っていない部分まで俺が書き足すのは、もうやめると決めたはずだ。


 聞き返しても、答えがすぐ返らないことはある。


 俺だって、二週間以上そうだった。人のことは言えない。


     ◇


 校門を出ると、雨上がりの道に薄い水たまりが残っていた。


 エルミナさんは水たまりを避け、俺の隣へ並ぶ。


「今日は、ツムギの答えを先に決めなかったのね」


「結局、答えてはもらえませんでしたけど」


「それでも、あなたがツムギの答えを作るよりは美しいわ」


「何も解決していませんよ」


「ええ。何も解決していないわ」


 あっさり認められた。


「そこは否定しないんですね」


「事実だもの」


 慰める気は一切ないらしい。この人のこういうところは、たまに助かる。励まされたら、たぶんもっと惨めだった。


 エルミナさんは濡れた路面を見ながら歩く。


「でも、授業中には、自然に『紬』と呼べていたでしょう」


 足が止まりかけた。


「聞いていたんですか」


「同じ机を見ていたのだから、聞こえるわ」


「あれは、間違えただけです」


「呼べるのに、呼ばないのね」


 間違いだと言ったのに、訂正として受け取られていない。


 しかも、反論の言葉が出てこない。間違いというのは、出ないはずのものが出ることを言うのか。それとも、出るはずのものを引っ込めていることを言うのか。


「昔と今の間に、何があったの?」


「……話したくありません」


「そう」


 それだけだった。


「聞かないんですか」


「今、聞いたわ」


「答えるまで、という意味です」


「話しなさいとは命じていないもの」


 エルミナさんは前を向いたまま、歩き出す。


 俺も少し遅れて、その隣へ戻った。遅れた半歩の分、水たまりを一つ余計に踏んだ。


     ◇


 夜。


 自分のベッドへ入っても、なかなか眠れなかった。


 目を閉じる。


 教室の笑い声が聞こえた気がした。


 空になった下駄箱。


 机へ書かれた言葉。


 俺の席へ向かおうとして、一度足を止め、それでも踏み出した紬。


 その顔を見て、俺は言った。


 ――もう俺に話しかけないで。


 あの時は、それしかないと思った。


 三年経って、口はまだ「紬」の置き場所を覚えていて、頭はまだ、あの言葉の置き場所を決められずにいる。


 今の星野さんへ、同じ言葉をもう一度言えるか。


 答えは出なかった。


 ただ、あれしかなかったと、以前ほど簡単には思えなくなっていた。


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