第3話 女神さまは見過ごせない
眠れないまま、どれくらい経ったのか。
時間を確かめたら負けな気がして粘っていたが、そろそろ負けを認めて枕元のスマートフォンへ手を伸ばしかけた時、扉が二度叩かれた。
「ハル。起きている?」
返事をしなくても、明かりがついていることは廊下から分かる。
「起きています」
「話があるわ」
今度は、エルミナさんの方からだった。
ベッドを出て扉を開けると、長い銀髪を下ろしたエルミナさんが立っている。眠そうな様子はない。
俺が眠れていないことまで見抜いた、という顔でもなかった。この人の場合、本当に自分が話したいから来ただけだろう。時計を確認する習慣は、女神さまにはまだ根づいていない。
リビングへ移ると、ソファの端で丸くなっていたフカが片目を開けた。
エルミナさんは俺と向かい合うように座る。
「ツムギを水明川へ誘おうと思うの」
最初の一言で、嫌な予感は十分だった。
「どうしてですか」
「あなたたちが話せる場所を作りたいからよ」
十分どころではない。満額回答だ。
「それは余計なお世話です。本人が話したくないと言ったのに、どうしてそこまで」
「ツムギは『今は、いい』と言ったのでしょう」
エルミナさんは、俺が話した言葉をそのまま返した。
「二度と話したくないとは言っていないわ」
反論が、喉の手前で止まる。
俺もさっき、ベッドの中で同じところまで考えて、同じところでやめた。
今は、いい。
それを、もう聞くなという意味へ勝手に変えてはいけない。
分かっている。
分かっていることと、エルミナさんに二人の間へ入られることを受け入れられるかは、別の問題だ。
「だからといって、今なら話したいという意味でもありません」
「ええ。だから、本人に選ばせればいいわ」
「誘うこと自体が、答えを求めることになるでしょう」
「誘われたら、断れないの?」
「断りにくいことはあります」
「なら、断って構わないと伝えるわ」
「言えば済む話じゃありません」
声が固くなった。
自分でも分かるくらい、返す言葉が次々に湧いてくる。誘うな。踏み込むな。関係ない。
……この湧き方は、いつもの俺の、あの速さだ。
気づいたところで、止まれるわけでもなかったが。
エルミナさんは俺を見たまま、少しだけ眉を寄せた。
「ハルは、ツムギが話したくないと思っているの?」
「分かりません」
「なら、なぜ止めるの?」
「分からないからです。何があったのかも知らないのに、エルミナさんが動かすことじゃない」
「あなたは知っているのに、何もしないでしょう」
「何もしないと決めるのも、俺の――」
選択です。
そう続けるつもりだった。
言葉が、途中で自分の重さに耐えられなくなった。
決めた覚えなんて、なかった。
今の星野さんへもう話しかけないでと言えるのかさえ答えられないまま、ただ動かずにいる。それを選択と呼ぶのは、動かないことへ立派な名前を貸してやるだけだ。
「他人の縁は境界の綻びとは違う。外から無理に引っ張れば、余計に絡まるぞ」
ソファから低い声がした。
フカは顔だけを上げ、長い尾の先でクッションを一度叩く。
「フカ。あなたまで止めるの?」
「止めてはいない。だが、お前は気になったものへすぐ手を伸ばしすぎる」
「見過ごすよりはいいでしょう」
「見ていることと、引っ張ることは同じではない」
エルミナさんはすぐに言い返さなかった。
膝の上で重ねた指へ目を落とし、考えている。
人から何かを言われて、黙って考える時間。この人には、それが少しずつ増えた気がする。増えたからといって、俺の都合のいい答えへ変わるとは限らないけれど。
「なら、私は話す場所を作るだけにするわ」
ほら来た。やはり、やめるという答えではなかった。
「ですから、それを――」
「話したくなければ、そこで帰ればいいでしょう。それもあなたたちの選択よ」
まっすぐ言われる。
話すことを選ばなくてもいい。会うことを断ってもいい。会った後で、帰ってもいい。
出口を全部開けたまま、場所だけを作る。
そこまで残されると、俺にはもう、星野さんのためだという看板で止めることができなかった。残っているのは、俺が怖いという、看板にできない理由だけだ。
「……星野さんが断ったら、それ以上誘わないでください」
「分かったわ」
「過去のことも、エルミナさんから聞かないでください」
「それも約束するわ」
「俺も行きます」
口にすると、エルミナさんがわずかに目を見開いた。
言った俺も、半分驚いていた。今のは、どの理由の棚から出てきた言葉だ。
「あなたが星野さんと二人で、何を話し始めるか分かりませんから」
「ええ。そういうことにしておくわ」
何が言いたい。
聞き返す前に、エルミナさんは立ち上がった。
「話は終わりよ。おやすみなさい、ハル」
始めたのも終わらせたのも、この人だった。
静かになったリビングで、フカが俺を見る。
「お前も難儀だな」
「誰のせいだと思ってるんだ」
「少なくとも、おれ様ではない」
それだけは、たぶん正しかった。
◇
翌日の昼休み。
弁当箱の蓋を閉じたエルミナさんは、そのまま星野さんの席へ向かった。
予告どおりとはいえ、迷いがない。準備運動くらいしてほしい。こっちの心臓のために。
「ツムギ。日曜の午後は空いている?」
星野さんが箸を止める。
「日曜? 午前は部活だけど……どうして?」
「水明川へ行きたいの。川沿いの公園を、人間の案内で見ておきたいわ」
「御影さん、水明川には行ったことないの?」
「あるわ。でも、水瀬先生から、この街の地理をもっと覚えるように言われているの」
嘘ではないのだろう。
ただし、それが今回の理由の全部でもない。表向きの理由と本当の理由を同じ顔で言えるあたり、この人は着実に人間界へ順応している。喜んでいいのかは別として。
「ツムギは、あの辺りをよく走るのでしょう。普段どこを走っているのかも案内してちょうだい」
「それなら、日高くんの方が詳しいんじゃない? ずっとここに住んでるし」
星野さんの視線が、一瞬だけ俺へ向く。
「ハルも来るわ」
「え?」
今度は、はっきり目が合った。
驚いている。
当然だ。俺だって、昨日の夜に同じことを聞かされたら、同じ顔をしたと思う。というか、した。
「日高くんも?」
「はい。エルミナさん一人では、何をするか分からないので」
「私は川を見にいくだけよ」
「そういうことになっています」
「なっているのではなく、そうなのだけれど」
星野さんは俺たちを交互に見た。
断る言葉を探しているのか、別のことを考えているのかは分からない。
分からないまま、待つ。先に決めるのは、もうやめた。
「嫌なら断って構わないわ。けれど、あなたは断りたい顔には見えない」
「そういう言い方、ずるくない?」
「断りたいの?」
「……そうは言ってないけど」
星野さんの指が、閉じた弁当箱の縁をなぞる。
しばらくして、短く息を吐いた。
「日曜は、午前中で部活終わるから。午後なら行けるよ」
「では、決まりね」
エルミナさんは満足そうに頷いた。
星野さんはもう一度俺を見た。
今度は、俺も視線を逸らさなかった。
何を話すかは決まっていない。話すかどうかさえ決まっていない。
それでも、日曜に会うことだけは、俺たちがそれぞれ選んだ。
◇
日曜の午後。
朝まで残っていた雨は上がり、雲の切れ間から薄い光が落ちていた。
水明川へ向かう道を、エルミナさんと星野さんが並んで歩く。
俺はその少し後ろで、小動物用のハーネスをつけたフカを抱えていた。
公的には、エルミナさんが飼っている白いフェレット。今日も、その設定で通すことになっている。
星野さんが数歩先へ出たところで、フカが俺の胸元へ鼻先を寄せ、俺にだけ届く小声を漏らした。
「なぜおれ様が人間の散歩へ付き合わされる」
「俺に聞くな。エルミナさんに言え」
俺も二人へ聞こえないように返す。
「人前で話せないことを知っていて言うな」
「自分で歩けば、少なくとも散歩には見えるぞ」
「おれ様を紐で引くつもりか?」
腕の中で白い身体が動く。
その気配に気づいた星野さんが振り返った。
「フカ、降りたいのかな」
「たぶん、機嫌が悪いだけです」
「ちょっと撫でたら落ち着く?」
星野さんが手を伸ばす。
前に家へ来た時は、自分から頭を近づけていたくせに、フカは俺の腕の中で器用に身体をひねった。指先が届く前に、白い頭が反対側へ逃げる。
「この子、ほんとに気が強いね」
「そうですね」
正体を知っている側としては、それ以外に答えようがない。
フカが俺の腕へ爪を立てた。
肯定するな、と言いたいらしい。事実だろうが。
「ツムギは、水明川のどの辺りを走るの?」
エルミナさんが尋ねる。
「学校の練習じゃなくて、自分で走る時?」
「ええ」
「堤防の道かな。信号が少ないし、距離も分かりやすいから」
「ハルも、そこを走るの?」
「俺は走りません」
「昔は日高くんと、遊びに来ることはあったけど」
「そうです。走るためではありません」
会話は、そこで止まる。
エルミナさんが質問をすれば、俺も星野さんも答える。けれど、俺たちだけの言葉は続かない。
エルミナさんという中継地点を経由すれば届く。直通の線だけが、まだ切れたままになっている。
歩く速さは同じなのに、星野さんとの間には、名字と敬語の分だけ距離があった。
堤防へ上がると、水明川が見えた。
雨の後で水の量は少し増えている。川沿いの遊歩道には、自転車や、犬を連れた人の姿があった。
星野さんが堤防を下りた先にある、小さな公園を指す。
「あそこ。小さい頃、よく遊んでたんだ」
「ツムギが?」
「うん。日高くんも一緒に」
ブランコと滑り台。川側を囲う低い柵。
遊具は新しくなっているけれど、並びは大きく変わっていない。
放課後に鞄を家へ置いて、そのまま走ってきた道。何度も競争して、何度も負けて、紬が帰ると言うまで付き合わされた場所。
覚えている。
口にはしなかった。この記憶に触ると、名字と敬語では持てない重さのものが、一緒に出てきそうだった。
「昔、ここで転んで川に落ちかけたことがあって」
星野さんが柵のそばで足を止める。
「紬が柵へ登ったから――」
声に出してから、止まった。
また、だ。
記憶の中の呼び方のまま、口が動いた。
星野さんがこちらを見る。
驚いた顔のあと、ほんの少しだけ、昔の笑い方に近い表情になった。
「晴が服を泥だらけにして引っ張ってくれたんだよね」
紬。
晴。
懐かしい呼び名が、二人分並んだ。
昔は毎日、この順番で呼び合っていた。柵のこっちと向こうで。今と同じ川の音の中で。
それだけで、今いる場所と昔の景色が一瞬重なる。
重なったまま、続けばいいのに。
――先に目を逸らしたのが、どちらだったのかは分からない。
「……日高くん、覚えてたんだ」
「星野さんが、川へ落ちかけた話をしたので」
「うん。そうだね」
名字へ戻る。
一度昔の呼び方が出たぶん、ほんの数秒前よりも、遠くなった気さえした。近さを確かめた直後の距離は、確かめる前より応える。
エルミナさんは何も言わず、俺と星野さんを見比べていた。
紫色の目が、いつもより少しだけ細くなる。
問い詰められると思った。
けれど、エルミナさんが抱き上げたのはフカだった。
「飲み物を買ってくるわ」
「俺も行きます」
「来なくていいわ」
反射的に踏み出した足を、言葉一つで止められる。
「私は二人の過去を知らない。だから、これ以上は私がいるべきではないでしょう」
エルミナさんは、腕の中で不満そうに身をよじるフカを抱え直した。
それから星野さんへ顔を向ける。
「話したくなければ、帰って構わないわ」
「御影さん……」
「ただし、ツムギが何を言うかまで、あなたが先に決めるのはやめなさい」
今度は俺へ向けられた言葉だった。
「分かっています」
「なら、私は何も言わないわ」
エルミナさんは公園を出て、遊歩道の先にある自動販売機へ向かう。
腕の中のフカが肩越しに俺を見た。
あれはたぶん、置いていくなという目だ。境界神使でも、この場から逃げる役には立たないらしい。
銀色の髪と白い尾が、声の届かないところまで離れていく。
俺と星野さんだけが残った。
川の流れる音が聞こえる。
遊歩道を自転車が一台通り過ぎ、そのタイヤの音も遠ざかる。
星野さんは柵へ手を置いたまま、川を見ていた。
帰ってもいいと言われている。俺も、ここに残れと命じられたわけではない。
何も話さず、エルミナさんたちを追えばいい。そうすれば、少なくとも今日これ以上、昔のことへ触れずに済む。
帰る理由なら、いつもの速さで、いくらでも並べられたはずだった。
並べなかった。
今日は、取りに行かなかった。それだけが、これまでと違った。
星野さんも帰ろうとはしない。
それを、話したいという意味だと決めることはできない。ただ、今ここに残っている。
俺も同じだった。
長い沈黙のあと、星野さんの指が柵から離れた。
こちらへ身体を向ける。
「日高くん。あたし、ずっと謝りたかったことがある」




