第1話 何もなかったことにはできない
雨の日は、朝の手順が三つ増える。
洗濯物を最初から室内へ干す。鞄に折り畳み傘を入れる。玄関の棚に、濡れた鞄を拭くためのタオルを置く。
三つだけだ。三つなら、いつもの流れのどこへ挟めばいいか、考えなくても手が知っている。
雨音で目覚めが少し早かったのも、湿気でシャツが背中に貼りつくのも、朝の進行には関係ない。関係ないことにできる程度には、手順というものはよくできている。
梅雨入りしたらしい、と昨日の天気予報が言っていた。
らしい、で十分だ。空は宣言なんか聞いていないし、俺は空の機嫌より弁当の中身を先に決めないといけない。
炊飯器を開け、弁当箱に飯を詰める。
卵焼き。昨日のうちに下味をつけておいた鶏肉。隙間にブロッコリー。
二人分。同じ順番で、同じ隙間を埋めていく。
背後で足音がした。
「おはよう、ハル」
「おはようございます、エルミナさん」
銀色の長い髪を背中へ流したエルミナさんが、台所をのぞき込む。制服にはもう着替えているのに、紫色の目だけがまだ半分寝ていた。
「今日も空から水が落ちているのね」
「それを雨と言うんです」
「知っているわ」
知っているなら言わなくていいと思うのだが、この人は毎朝、世界の現象をひととおり点検しないと気が済まないらしい。女神さまの朝礼みたいなものだと思うことにしている。
エルミナさんは不服そうにテーブルについた。
いつも通りだ。俺は朝食の皿を運ぶ。トースト、目玉焼き、サラダ。天気で変わるのは持ち物だけで、生活そのものは変わらない。
変える必要も、ない。
あの夜から、二週間が経っていた。
――なら、あなたはどうしたいの?
答えはまだ出ていない。
答えの出ないものを朝から相手にしても、弁当は完成しないし洗濯物も乾かない。だから先に、答えのある方を片づける。俺の朝は、そういう設計になっている。
星野さんとは、必要な挨拶をするようになった。
連絡があれば伝える。何かを渡されれば礼を言う。露骨に避けるのをやめただけで、名字と敬語は元の位置に戻ったままだ。
元通り。
なら、これでいい。
……そういうことにしている、という自覚くらいはある。あっても、自覚から次の一歩が生えてくるわけでもないが。
「ハル。この布は、鞄に入れておけばいいのかしら」
顔を上げると、エルミナさんが玄関に置いたタオルをテーブルの端で広げていた。畳み直すつもりらしい。手伝いのつもりなのが、また質が悪い。
「それは学校に着いてから使うので――」
言いながら、手はもう動いていた。
タオルを受け取り、元の形に畳み、玄関の棚へ戻す。帰る前にここから鞄へ入れる。今入れると、折り畳み傘と同じ場所でかさばる。そういう順番で組んである。
「……朝食のあとで鞄に入れてください」
「そう」
エルミナさんは、俺の手元をじっと見ていた。
「何ですか」
「いいえ。続きをどうぞ」
「何の続きです?」
「今、話していたでしょう」
何の話だったか。
思い出すのに二秒かかった。かかった二秒の方に、自分で少し引っかかった。
「学校に着いてから、濡れた鞄を拭くのに使います」
「それは聞いたわ」
なぜか呆れられた。説明は正確だったはずなのだが。
ソファの背もたれで丸くなっていたフカが、ふん、と鼻を鳴らす。
「雨ごときで人間は面倒だな。おれ様なら一滴も濡れずに学校まで走れるぞ」
「フェレットが一匹で学校まで走っていたら、別の騒ぎになるからな」
「おれ様をその辺の獣と同じにするな!」
「走っている姿を見た人には同じだろ」
フカが背もたれの上で毛を逆立てる。
「貴様、神使に向かって――」
「朝から喧嘩をするのは美しくないわ、フカ」
「こいつが売ってきたんだぞ!」
売ったのはどう考えてもそっちが先だ。ただ、ここで参戦すると朝食が冷めるうえ、審判がエルミナさんになる。勝てる法廷ではない。俺は黙って席についた。
食べ終えたあと、エルミナさんの鞄へ折り畳み傘とタオルを入れる。
俺の分と同じものだ。深い意味はない。忘れ物をされて、学校で余計な騒ぎを起こされる方が困る。それだけの話だ。
「私の分も、最初から用意していたのね」
「雨ですから」
「ええ。雨だものね」
エルミナさんはそれ以上、何も言わなかった。
ただ、俺の鞄と自分の鞄を順番に見てから、静かに肩へ掛けた。
その目が何かを数えていた気がしたが、数えられて困るものは入れていない。
入れていないはずだ。
◇
教室には、始業よりだいぶ早く着いた。
雨の日は自転車を使わない。歩くと時間が読めないから、読めない分だけ早く家を出る。結果、教室では一番手の側になる。それでいい。早い分には、誰の目にも留まらない。
席に着き、教科書を机へ入れ、提出物を教卓の箱に置く。今日使うノートを順番に重ね、筆箱を右上へ置く。
これで、授業が始まるまでにやることはない。
ないはずだった。
「山本、ちょっといい?」
教室の後ろから声が飛んだ。
文化委員の女子が、数枚の紙を抱えて山本の席へ来ている。
「放課後、この集計を手伝ってほしいんだけど。もう一人くらいいると助かるんだよね」
「俺はいいけど。もう一人か」
山本が周りを見回す気配がした。
来る。
こいつは近くにいる人間を気軽に巻き込む。悪意なしで巻き込む。悪意がないから、断る側の手札だけが一方的に減っていく。
俺は机の横に掛けた鞄を持ち上げ、廊下側へ出た。
「日高?」
「傘をロッカーに入れてくる」
実際、鞄の脇にはまだ折り畳み傘が入っている。嘘ではない。
嘘ではない、というだけの返事でもある。
俺が教室の後ろまで移動したあたりで、山本の視線は別の男子を捉えた。
「じゃあ、そっち頼める?」
「まあ、いいけど」
話は俺を通らずにまとまった。
頼まれてから断るのは難しい。なら、頼まれる前に候補から外れておけばいい。誰にも気づかれず、誰にも不快な思いをさせず、余計な役目も背負わない。
我ながら見事な省エネだ。
……省エネで浮いた分を何に使っているのかは、考えないことにしているが。
「ハル」
席へ戻ると、前の席からエルミナさんが振り向いた。
「この紙は、いつまでに出すの?」
手にしているのは数学の課題プリントだった。
「来週の月曜です」
「そう。ここは?」
「そこから先は任意だそうです」
「任意?」
「やってもやらなくてもいいということです」
「分かったわ」
それだけ答えると、エルミナさんは前を向いた。
無視はしない。かといって、質問の窓口を山本へ押しつけたりもしない。
今は答える。必要な範囲で。誤解されない距離で。
星野さんに対しても、同じ距離を使っている。
「日高くん、昨日のプリント、先生から返ってきてたよ」
休み時間、星野さんが俺の机へ一枚の紙を置いた。
「ありがとうございます、星野さん」
「うん」
昼休みには、俺が集めたノートを彼女の席へ回す。
「ありがとう、日高くん」
「どういたしまして、星野さん」
挨拶がある。連絡がある。礼もある。
欠けているものは、何もない。
項目だけ数えれば。
「ずいぶん整っているのね」
前の席から見ていたエルミナさんが言った。
「まあ、元々こういうのは得意なので」
一瞬、褒められたのかと思った。思った自分が甘かった。
「整っていることと、美しいことは同じではないわ」
「……何の話ですか」
「今の話よ」
エルミナさんはそれ以上続けなかった。
何をしろとも、どう直せとも言わない。紫色の目を前へ戻し、次の授業の教科書を開く。
説教されるより、そのほうが助かる。
助かるはずなのに、言われた一行だけが机の上に置き去りにされて、休み時間が終わっても回収されなかった。
◇
放課後になると、雨は朝より細くなっていた。
窓ガラスを流れる筋も、途切れ途切れになっている。この分なら、帰りは傘を開かずに済むかもしれない。タオルの出番もなさそうだ。手順が一つ空振りに終わるのは、悪い気分ではない。
教室のあちこちで部活へ向かう生徒が立ち上がり、星野さんも鞄を肩へ掛けた。
陸上部の練習があるのだろう。雨の日にどこで走るのかは知らない。
知らないことを、知らないままにしている。
「じゃあ、また明日ね」
近くの女子にそう言って、星野さんが机の間を抜ける。
そのときだった。
右足。
床についた一瞬だけ、体重が逃げた。
次の一歩は普通だった。顔にも出ていない。歩く速さも変わらない。たぶん、俺以外は誰も見ていない。
「星野さ――」
声は、そこで死んだ。
自分で止めたのか、勝手に止まったのか、正直なところ分からない。
気のせいかもしれない。少し踏み外しただけかもしれない。本当に何かあるなら同じ部活の人間が気づく。顧問だっている。俺が聞けば、まだ気にしていると思われる。
理由は並んだ。四つも。頼んでもいないのに、考えるより早く、揃って。
……この速さには、覚えがある。
星野さんは教室を出ていった。廊下を遠ざかる足音は、もう普通の足音だった。
前の席にいたエルミナさんが、廊下へ消えた背中を見る。
それから、俺が見ていた右足のあたりへ視線を落とした。
何も言わない。
代わりに呼び止めることも、俺を責めることもしなかった。
俺は息を吐いた。
何も起きなかった。そのことに、少し安心している自分がいた。
何もしなかったのは自分だと、同じ息の中で分かってもいた。
安心と後味の悪さが、同じ場所から同時に出てくる。人間の胸というのは、配管がどこかおかしい。
◇
家に帰ると、俺はいつもより早く台所に立った。
明日の弁当の下ごしらえをする。
夕食の片づけが終わったばかりで、本来なら急ぐ時間ではない。急ぐ理由もない。
ないのに、手が先に台所へ向かった。理由は考えない。考えないために立っているのだから、考えたら本末転倒だ。
鶏肉を切り、調味料を並べる。
醤油。酒。みりん。
計量スプーンで量り、袋へ入れる。
口を閉じる前に、もう一度並べた瓶を確認した。
醤油。酒。みりん。
間違っていない。
分かっている。分かっているのに、袋を揉む前にもう一度見た。
三度目を数えたところで、さすがに自分でも様子がおかしいと思った。計量に三回も検算の要る料理は、この世にない。
「ハル」
ダイニングからエルミナさんの声がした。
「はい」
「二週間前の質問に、まだ答えは出ないの?」
包丁はもう洗ってある。火も使っていない。手は空いている。
空いているのに、俺は袋の中の調味料を見ていた。
「分かりません」
「そう」
急かす声ではなかった。
「分からないという答えまで、なかったことにする必要はないわ」
椅子を引く音がして、エルミナさんの足音が廊下へ遠ざかる。
俺は袋の口を閉じた。
調味料を馴染ませるために、両手で揉む。
一度で済むはずの作業なのに、同じ場所を何度も押していた。
窓の外で、雨がまた少し強くなっている。朝より遠慮のない音で、ベランダの手すりを叩いていた。
浮かぶのは、床についた星野さんの右足だった。
ほんの一瞬、体重を避けるように動いた右足。
今日だけでは分からない。気のせいかもしれない。
だから――明日も同じだったら、聞く。
そう条件を付けて、ようやく手が止まった。
止まってから、気づいた。
条件を付けるということは、明日も見るということだ。明日の星野さんの右足を、俺は最初から見る前提でいる。
もう、気にしていないことにはできなかった。




