第5話 戦争より先に商人が逃げる
攻城まで、あと二十九日。
敵兵は一人も来ていない。城内の市から逃げたい反物商と、そこへ麦を売りに来た食料商が、一台ずつしか通れない門へ両側から荷車を押し込んでいた。
その脇で建具商が、扉付きの枠を城壁に立てかけていた。『非常口、本日開通』という札が掛かっている。扉を開けた先も城壁だ。
「門が混んでいるなら、出口を増やすべきです」
「壁に穴がないだろう」
「穴は別売りになります」
「扉を先に売るな」
建具商は値札へ『穴、納期は要相談』と書き足した。
「私が先です。昨日から城内の宿に泊まっています!」と反物商。
「私は今朝からここまで走ってきました!」と食料商。
「先にいた者が先です!」
「だったら私も城の中に住みますよ!」
「今から入る人に言われても!」
エドは二台の間へ入った。
「片方が少し下がれば通れます」
「下がった方が負けでは?」
「戦っていません」
「来月は戦うのでしょう?」
「今、ここで始めるな」
敵国レグナードの使者が三十日後の攻城を告げたのは昨日。城主グレンは十日前から行方不明だ。城を出る列と、食料商や剣商が並ぶ入城の列に挟まれ、城内へ届ける粉も薬も止まっている。
新米城兵のロッテが、傷一つない兜を抱えて駆け寄る。
「エド様! 馬車を押し戻すため、城兵を呼びますか」
「まず御者に馬を動かさせて」
「馬は動けます。御者が首を縦に振りません」
「では御者を説得して」
「先ほどから馬には話しています!」
「御者に!」
ロッテは御者たちへ向き直った。
「どちらか、馬に下がるよう命じてください!」
「お前も馬から離れろ!」
*
ロッテが門番の記録板を掲げた。
「出る方は十二台、入る方は九台です。今、両方に番号を振っています!」
「どちらを先に通すんだ」
「一番からです!」
「両方に一番がいるだろう」
「公平にしました!」
その公平さが、門の下で向かい合っていた。
そこへ侍女長マルタが帳面を持って現れ、反物商に荷をほどかせた。
「城で必要な食料や薬を持ち出していないか確かめます」
「反物しかありません」
「反物の下は?」
「反物です」
「その下は?」
「荷台です」
「荷台の下は?」
「車輪です! どこまで検めるんですか!」
「では、持ち出す食料はありませんね」
マルタは今度は、城へ入ろうとする食料商の車輪を見た。
「泥を落としてからお入りなさい」
差し出された布巾を、食料商は受け取れずにいた。車輪は四つ、後ろの列にも荷車が八台ある。
反物商が荷台を片づける前に、食料商が麦袋を門の下へ降ろし始めた。積荷の確認を求められたと思ったらしい。剣商も一本ずつ鞘から抜き、見せようとする。
「門前で店を開かないでください!」
「買われる前の検品です」と剣商が言う。
「誰も買うと言っていません」
「では試し斬りだけでも」
「なお悪い!」
エドは商人たちに荷を戻させ、ロッテを門脇へ呼んだ。
「荷を調べる場所を脇へ移す。まず歩いて出る人、それから城内へ届ける粉と薬。荷車は一台ずつ交互に通す。順番を書いた札を渡せ」
「私の反物も包帯になります!」と反物商が言う。
「まだ切っていないだろう」
「今ここで切ります!」
「逃げる前に商品を全部切るな」
「私の剣なら包帯を切れます」と剣商が言う。
「はさみでいい」
「はさみも積んでいます!」
「では、はさみだけ先に届けろ。剣の車は列に戻せ」
剣商は自分の正直さを少し悔やんだ。
反物商は札を握ると、ようやく車を脇へ寄せた。食料商も下がる。親子連れが二台の間を抜け、薬の車が門をくぐった。
動きだした、と思ったところで、ロッテが駆け戻ってきた。
「食料商が、自分の一番を剣商に売りました」
「順番を売るな!」
「札は売っていないそうです。『先に行ける気持ち』を売ったと」
「札を返してもらえ」
財務官補佐のイルマが横から手を出した。
「代金はいくらでした?」
「徴税するな。まず門を通す」
イルマは帳簿を閉じた。代わりに、順番札へ『譲渡無効』と大きく書いた。
「待たされた時間の補償は?」と食料商が尋ねる。
「門を塞いだ時間の使用料と相殺します」とイルマが答えた。
食料商は麦袋を担いで、急に仕事へ戻った。
反物商も自分の札を見つめていた。門を出る親子連れが、荷の上の厚い布に目を留めたのだ。
「私の順番、後ろへ回してもらえますか」
「さっきまで一刻も早く逃げたかったんだろう」
「あの布が売れたら逃げます。ほかにも買う方がいれば、そこは様子を見て」
「お前まで城門で店を開くな!」
*
そこへ、食料商が麦袋を一つ持ってきた。袋には『来月の値段』と書いた札が結わえてある。
「来月、戦争になるかもしれないんでしょう。今買えば安心です」
「今から来月の値を取るのか」
「早めにお届けしています」
「麦を?」
「値上げを」
イルマが札を裏返し、昨日の市の値を書いた。
エドもうなずいた。噂だけで食料の値を上げさせるわけにはいかない。
「城内にある食料は、この値を上限とします。新しく運んだ品は、実際の運賃だけ上乗せを認めます」
「剣は食料に入りますか」と剣商が尋ねた。
「食べられますか?」
「無理です」
「では入りません」
剣商はすぐに自分の剣へ『来月の値段』と書いた。イルマは城の買い付け帳簿を開く。
「お支払いも来月でよろしければ」
剣商は札を外した。
午後には、麦の値を据え置いて袋だけ小さくする商人が現れた。イルマが秤を持って行く。
「持ち運びやすくしました」
「麦も軽くなっています」
「そこが工夫です」
イルマは袋を一つ開き、中身だけを量った。
「では、持ち運びやすくなった分だけ値を下げましょう」
商人は元の大袋を探し始めた。
エドは家ごとに一度に買える食料の量を決め、売り手に購入者の名を書かせた。買い占めた者への違反金を記そうとすると、イルマが先に『通常の三倍』と書く。
「高い」
「戦時特別収入です」
「まだ戦時ではない」
「では戦時前特別収入」
「名前を変えるな」
イルマは三を二へ直した。
「譲歩しました」
「顔では分からなかった」
「数字を見てください」
結局、買い占めに限り二倍。門と市場へ先に掲示し、昨日の取引には適用しないことにした。
イルマは昨日の帳簿をそっと閉じた。
*
記録官コレットが避難者名簿を持ってきた。出る人には行き先、城へ入る人には頼る相手を書いてもらう。家族の名も同じ行に並べた。
「三人で出て、一人だけ戻ったら?」
「戻った人に印をつけて」
「ほかの二人は?」
「分からなければ空欄だ」
門の向こうで、母親が子を荷車へ抱き上げていた。エドは名簿を閉じず、コレットの前へ戻す。
「まだ帰るかもしれない」
コレットはうなずき、空欄をそのまま残した
門脇では、城兵隊長ドーガンが香辛料を積んだ車を止めていた。持ち主は城内に店を構えるレグナード商人で、家族を連れて逃げるか迷っているらしい。
「帰国するなら、今だ」
「妻と子はここにいます。妻は注文の八袋を配ってから、一緒に避難すると」
「八袋のために残るのか」
「妻と子のためです。荷を置いて逃げると言ったら、妻が配達先を私の上着へ縫いつけました」
男が上着の裏を見せた。八軒の名前と受領印を押す欄が書かれた紙が、縫い付けられている。
「脱げ」
「替えの上着にもあります」
ドーガンはしばらく男を見た。
「敵へ城の様子を知らせる者もいる」
「レグナード出身というだけでは追い出しません」
エドが言うと、ドーガンは「荷は調べろ」と短く返した。
「もちろんです。全員と同じように。残るなら家族で登録し、出るなら三人で通れるようにします」
エドの父ローデンが、二人の背後から口を開いた。
「先代も、戦後最初の交易を守った。門を閉ざしたままでは、和平したことを互いに信じられん、と」
エドは、荷車の行列を見た。今は開けたままでも信じてもらえるか怪しい。
「この商人は、どう記録する?」
ローデンが尋ねる。
「城内に残る商人として。家族も一緒に」
「よし。書式はお前が作れ」
「そのために話しかけたんですか」
「先代の志を引き継いでいる」
父はそう言って、白紙をエドへ渡した。
息子へ渡すところまで含めて、継承する気らしい。
*
夕刻には、門の下に荷車一台分の道が戻った。まだ列は残っているが、粉と薬は城へ入り、避難する人も順に出ていける。
その道が、また止まった。
建具商が扉付きの枠を城壁から外し、門の通路の真ん中に立てていた。荷車の前で扉を大きく開けて、満足そうにうなずいている。
「壁に穴を開けなくても設置できる場所を見つけました。追加料金はいただきません!」
「その穴が、さっきから皆の通っていた門だ!」
「はい。城門の穴に私の扉をつけました。これで非常口が完成です」
先頭の荷車の車輪が枠につかえ、どの車も通れない。
「お前は引っ込んでろ!」
「承知しました!」
建具商は開いた扉の陰へ引っ込んだ。扉は門の真ん中に残っている。
「扉ごと脇へ!」
建具商は枠ごと扉を抱えて脇へ寄った。待ちかねた荷車が、ようやく門を抜ける。
エドが詰所の机に座ると、イルマが帳簿の上にパンを置いた。
「数字が見えない」
「朝から何も食べていません」
「どけてくれ」
「食べればどきます」
エドはパンを取った。イルマはその空いた場所へ帳簿を引き寄せる。
「食費は給与から引きます」
「順番札には課税するくせに」
「あれは未遂です」
パンはまだ温かかった。イルマの帳簿の横にも、小さなパン屑が落ちている。
「お前も食べろ」
「食べました」
「その一口だけだろ」
エドはパンを半分に割り、彼女の帳簿の上へ置いた。
「あなたの分が減ります」
「夕食は取る。お前も来い」
「その時間を予定表に入れておきます」
イルマは帳簿をずらして、パンの場所を空けた。
「備蓄と費用は?」
「出ていった食料と、今日入った麦を差し引きました。食料も予算も、通常の籠城なら三十日持ちます」
「それはいい知らせだ」
「通常であれば」
イルマは『攻城による損害』の欄を開いた。内訳には『敵軍の襲撃』と『城主帰還』が並んでいる。後者の見積額は空白だった。
「何だ、この二行目は」
「城主様が帰った際の損害です。額はまだ読めません」
「帰ってくる城主を攻城側に数えるな!」




