第3話 俺より強いやつ
「まず、“強いやつ”の定義を決めましょう」
エドはグレンの置き手紙を卓上へ置いた。
さっきから何度読んでも、字は増えていない。
『俺より強いやつに会ってくる』
行き先も、相手の名も、帰る日もなかった。
「人物とは限りませんな」
ローデンが言った。
「父上まで、それを言いますか」
「先代は、“強い酒がある”と聞いて三日いなくなった」
「今回も酒という可能性が?」
ルーファスが尋ねる。
「酒なら、留守を頼むとは書かん」
窓際に立つドーガンが腕を組んだ。
「熊なら?」
「書くかもしれん」
「剣士なら?」
「書かんかもしれん」
「判断の基準は何です?」
「グレン様だ」
基準としてまったく役に立たなかった。
エドはこめかみを押さえ、卓上の紙を裏返した。
「城主様が失踪前日に何をしていたか、分かる者はいませんか」
「おります」
声は、ルーファスの真後ろからした。
彼が振り返る。
扉の脇に、薄い記録板を胸へ抱えた少女が立っていた。飾り気のない服に、指先だけが黒く汚れている。いつ入室したのか、エドにも分からなかった。
「記録官のコレットです」
エドが紹介すると、コレットは小さく一礼した。
「いつから、そこに?」
ルーファスが尋ねる。
「“強いやつ”の定義からです」
「最初からではありませんか」
「呼ばれるまで待っていました」
「呼ばれましたね、今」
コレットは記録板を開いた。
「城主様は失踪前日の夕刻、城下の酒場《跳ね鹿亭》にいました。旅商人三名と同席し、『東で一番強いものを知らないか』と質問しています」
「そこです」
ようやく行き先へつながる言葉が出た。
エドは身を乗り出す。
「商人は何と答えた?」
「東街道の傭兵団長。引退した騎士。樵を三人追い回した大熊。国境近くで開かれる武術大会。あと、レグナードの蒸留酒です」
「多いな」
「酔っていたので」
「グレン様は、どれに反応した?」
「全部に」
「全部にかぁ」
手掛かりが五つに増えた。
絞り込むための聞き取りだったはずなのに、捜索範囲だけがきれいに広がった。
*
次に向かったのは厩舎だった。
飼葉と革の匂いが満ちる中、グレンの愛馬が奥の馬房からエドを見た。
城主が帰らないことなど気にしていない顔で、干し草を噛んでいる。
「連れていっていないのですか」
ルーファスが言った。
「連れていっていません」
背後から声がした。
エドたちが振り返ると、飼葉桶を抱えた厩務員のテッサが立っていた。
袖を肘までまくり、編み上げた靴には藁がついている。
彼女は客人へ一礼する前に、馬の鼻先を撫でた。
「前の晩、城主様に頼まれました。この子を三日休ませろ、と」
「三日で戻る予定だった?」
「城主様の三日は、日数ではありません」
「では何です?」
「気持ちです」
「ちょっと何言ってるかわからない」
ルーファスが先に言った。
エドは彼を見た。
言いましたね。
ルーファスの視線が返る。
十日も城主を見失っている方には譲れません。
今度の会話は、双方にきちんと通じた。
「徒歩で出たのは確かか?」
ドーガンが尋ねる。
「裏門の衛兵が見ています。夜明け前、大剣だけ背負って出たそうです」
「なぜ止めなかった」
「城主様でしたので」
テッサは愛馬の首を軽く叩いた。
「この子なら、私が駄目と言えば動きません」
「グレン様は?」
「動きます」
馬より扱いにくい城主だった。
愛馬を残し、徒歩で東へ出た。
それだけでも無謀だが、無一文でなければ、まだ捜しようはある。
「旅費なら出ていません」
背後から平らな声がした。
「なんで皆、後ろから話しかけてくんの?」
振り返ると、帳簿を抱えたイルマが厩舎の入口に立っていた。財務官補佐の濃色の上着には皺一つなく、靴先だけが厩舎の土を避けるようにぴたりと止まっている。表情も帳簿の表紙ほど動かなかった。
「まさかと思って確認しました。十日前から、城主様名義の出金はありません」
エドは希望を捨てきれずに尋ねた。
「手持ちは?」
「前日に市場で串焼きを二本買っています。残額は銅貨七枚です」
「東街道をどこまで行ける?」
「食事をしなければ、かなり遠くまで」
「人間は食事をする」
「城主様が、その点を覚えていれば」
イルマは帳簿へ視線を落とした。
「あと、地図の購入記録もありません」
「持って出た可能性は?」
「執務室の地図は全部あります」
「馬なし、金なし、地図なし」
ルーファスが指を折る。
エドは続きを待った。
「からの~?」
「大剣があります」
ドーガンが答えた。
「続きが悪化しました」
*
午後、エドたちは記録庫へ移った。
東街道の地図を卓上いっぱいに広げ、その横へ通行証台帳を置く。
グレンの行き先候補には、傭兵の駐屯地、元騎士の村、大熊が出た山、武術大会の町、蒸留酒の産地が並んだ。すべて東にある。東という共通点は見つかったが、東は広かった。
「通行証四一七の控えはこちらです」
コレットが一枚の紙を差し出した。
紙質、透かし、印。どれも辺境伯府の正式なものに見える。
イルマは台帳の該当箇所を指した。
「四一六の次が、四一八です」
「四一七だけがない?」
「番号を書き飛ばした記録も、破棄した記録もありません。用紙の受け払いでは一枚減っています」
ルーファスが控えと台帳を見比べる。
「つまり、正式な用紙が一枚なくなり、同じ番号の通行証が国境で使われた」
「はい」
「誰が持ち出したかは?」
「記録がありません」
「誰が印を押したかは?」
「記録がありません」
「分かったことは?」
「記録がないことです」
コレットは、記録官として実に正しい答えを返した。
グレンは東へ向かったらしい。
王女を通した通行証も、東の国境で使われた。
手掛かりは二本になった。
どちらも、同じ方角へ伸びていた。
エドは地図の上で東街道を指先になぞった。道は国境を越え、その先でいくつにも枝分かれしている。
「王女殿下の件と、グレン様の失踪に関係があるとは限りません」
自分で口にしてから、ルーファスを見る。
ルーファスは何も言わなかった。
結論というより、願望だと分かっている顔だった。
*
夕刻、ドーガンが鐘楼へ上がろうとした。
「何をするつもりです」
「戦時用の鐘を鳴らす」
「まだ戦争ではありません」
「来月、軍が来る」
「来ないようにするための三十日です」
「準備は今日から要る」
「住民へ説明する前に鐘を鳴らしたら、城下が混乱します」
ドーガンは鐘楼への階段に片足をかけたまま、城門の外を見た。
エドもつられて振り返る。
夕市を畳む商人たちが、街道の方角を気にしていた。荷車へ商品を積む者。宿へ駆け込む者。城門の衛兵へ何かを尋ねる者。
そのざわめきの中から、途切れ途切れに言葉が届いた。
王女。軍。国境。来月。
誰かが、はっきりと戦争と言った。
鐘は、まだ鳴っていない。
噂の方が先に、城下へ響いていた。
「どうすんの、これ」




