第23話 兄上はお客様です
攻城まであと十六日。
国境検問所の会談室で、クラウスは咳払いをし、机に置いた手を組み直した。
「稽古の話はいったん置こう」
グレンが残念そうに椅子へ座り直す。その隣で、エドは会談の記録を引き寄せた。今度こそ、帰国と通行証の話に進みたい。
「アーデル。帰国する意思はあるか」
「王宮へ戻って、また閉じ込められるのは嫌だ。結婚の相手も、自分で選びたい」
兄の手がほどけた。
アーデルは顔を伏せず、返事を待った。グレンも口を挟まない。
エドはペンを持つ手に力を入れた。ここで本人の希望を消して帰国の予定だけ決めれば、会って話した意味がなくなる。
「その希望は、陛下に伝える」
クラウスはルーファスへ目を向けた。
「今日、帰国に同意したとは書かないように」
「承知しました。姫様のご意向として記録します」
エドも同じ内容を書き留めた。
すべては決まらない。それでも、本人が選んで城にいることと、王宮へ戻るのをためらう理由は、兄に伝わった。
「通行証の発行記録は、引き続き調べます。見つかっていないことを、そのままご報告します」
「こちらも検問の記録を確認しよう。結果はルーファスを通じて伝える」
王太子の返事は簡潔だった。妹の希望を聞いたあとも、調査するべきことを忘れてはいない。
エドは、肩を少し下げた。
話し合う相手としては頼もしい。兄としての質問を始めるまでは。
*
「城での暮らしも、私の目で確かめたい」
クラウスは生活状況の回答を広げた。
「寝具は充分にあると書いてある。部屋の窓や扉は、実際に見ておきたい」
「私が使っている部屋なら、私が案内する」
アーデルの返事に、兄の顔が明るくなった。
「では、確認を済ませたあと、王宮へ一緒に――」
「兄上が私と城へ来るのだ。今日は王宮へ帰らない」
クラウスの笑顔が途中で止まった。
グレンは王太子を見た。
「来てくれ。俺が城主として招く。アーデルが気に入ったところを見てほしい」
エドはすぐに資料の空いた欄へ手を置いた。
「殿下とルーファス殿、護衛二名での日帰りの訪問でしたら、こちらでお迎えできます。千人の護衛は、レグナード側に残っていただきます」
「二人か」
クラウスが窓の外を見た。街道の脇に並んだ護衛たちは、ここからでは列の端まで見えない。
「殿下ご自身の警護です。姫様のために城へ配置する兵ではありません」
エドは、自分が書いた『護衛二名』を指した。
グレンが続ける。
「俺が招いた客だ。俺の城で危ない目には遭わせない」
「その責任を、城主として引き受けるのだな」
「ああ」
グレンの返事には、試合前の浮き立つ声が混じらなかった。
アーデルは机の上で指を組み、グレンを見た。
「兄上のことも、そう言ってくれるのか」
「お前にとって大事な人だろ」
王女の目が少し開いた。それから、うなずく。
「そうだ。大事な兄だ」
エドは、アーデルが机に置いた手の力を抜くのを見た。兄もこの城で歓迎されると聞いて、安心したのだろう。
クラウスも妹を見ていた。口元が緩みかけたが、咳払いをして姿勢を正す。
「護衛は二人としよう。今日、城を確認したら国境へ戻る」
クラウスはルーファスへ、同行する二人の選定と、残る護衛への待機の指示を伝えた。帰還するまでは、レグナード側で通行を妨げずに待つ。エドは、その内容まで記録した。
ルーファスが訪問の取り決めを書いた。
「見ていただくのは姫様のお部屋と食堂、それから通行証の記録を保管する執務室です」
エドが場所を挙げると、王太子はうなずいた。
「妹の生活と、今回の調査について確認する。それでよい」
軍の配置や防衛の計画を見せる訪問ではない。エドも、自分の記録へ目的を書き添えた。
「訪問への合意は、帰国の要求と攻城期限の撤回とは別だ」
クラウスの確認に、エドはうなずく。
今日の訪問は決まった。攻城まで十六日、という期限は続いている。
*
城へ戻ると、エドはグレンに言った。
「殿下のご案内をお願いします。俺は先に、イルマへ報告してきます」
「分かった。あとで執務室へ行く!」
アーデルが兄へ向き直る。
「まず部屋を見せよう。私がここを選んだ理由も話す」
クラウスとルーファス、護衛二人がグレンたちについて行くのを見送り、エドはイルマのいる執務室へ向かった。
彼女は帳簿から顔を上げた。
「お帰りなさい」
「ただいま」
返してから、エドは一瞬、言葉を探した。会談の報告に来たのに、家へ帰ったときの返事が出た。
イルマの口元が、ほんの少し緩んだ。
「こちらへどうぞ。お話を聞きます」
彼女が机の向かいの椅子を示し、エドはそこへ座った。
会談の記録を渡すと、イルマは帰国、通行証、訪問の順に目を通した。
「まだ決まっていないことも、分けて報告します。各部署が違う予定で動かないように」
「頼む。殿下は今日のうちに国境へ戻る」
「宿泊の用意は不要ですね。お茶と、殿下が記録をご覧になる机を整えるよう頼みます」
エドは革袋を膝から下ろした。各部署へどう伝えるかは、彼女に任せられる。会談で強張っていた肩から、ようやく力が抜けた。
「先にお前に話しに来てよかった」
イルマのペンが一度止まった。
「次も、そうしてください」
エドはうなずいた。報告の順番を決めたはずなのに、また彼女に迎えてもらえるのが楽しみになった。
*
報告を終え、アーデルの部屋のある廊下へ向かうと、扉の手前に一行がいた。
侍女長マルタが、小卓に洗面器を置き、水差しと手拭いを用意していた。
「お部屋をご覧になる前に、皆さん、手を洗ってください」
グレンとアーデルが素直に袖をまくった。
クラウスは妹の扉を見た。
「先に、部屋の中を確認したいのだが」
「長い道を来られたのですから、まず旅の汚れを落としましょう。姫様も同じです」
アーデルは手を洗い、兄に手拭いを渡した。
「兄上も、ここではお客様だ。私と同じように、手を洗ってくれ」
王太子は妹とグレンの顔を見比べた。どちらも、順番を変えるつもりはなさそうだった。
「……承知した」
クラウスも袖をまくり、水へ手を差し出した。
手を動かしている間も、目は妹の扉へ向いていた。拭こうとした手拭いを、マルタがさっと取り上げた。
「殿下、扉ばかり見ていないで、ご自分の手を見てください。指の間がまだです」
王太子は指の間を洗い直した。千人の護衛を指揮する人が、今はマルタの言うとおりに手を動かしている。
ルーファスはその横で、自分も袖をまくった。
エドは、その光景に声を出した。
「敵の総大将まで、手洗いを叱られてる!」




