第五章-1
民宿の駐車場に湊が原付を止めると、表に面した部屋のカーテンが開いた。明るい髪色の頭が覗いた。反射する窓の光のせいで表情は見づらかっが、多分驚いて──それからすぐに降りてくるんだろうなと湊は予想してカーテンが閉められた途端に苦笑した。
建て付けの悪い古い引き戸を開けると、フロントには誰もいない。入り口からすべてを見渡せるロビーというには簡素な民宿を見渡していると、奥の階段から足音がした。
「寝起き」
現れた愛奈は備え付けの宿衣を着ていて、細身で髪が明るい愛奈には全体的に似合っていなかった。
「あはは、じゃあ待ってるよ。支度しておいで」
湊がそう言うと何か言いたげだった愛奈が「ちょっと待ってて」と言って再び階段の奥に消えた。その忙しない様子に、人を待たせることに慣れてないんだろうな、と湊は佳帆と比較してしまう。
思い出して──溜息をつく。本当にこれでよかったのか。
愛奈をこの町に残らせて、よかったのだろうか。
ところどころ色の禿げたロビーの椅子に湊が座ると、フロントの奥から男性が出てきた。迎えです、と伝えると男性は頷いて、カウンターに置かれたパソコンで仕事を始める。
パーカーのポケットのスマホが震えた。メッセージの通知を確認しないでいると、また階段を駆け足で降りる音が聞こえてきた。
「外出です」
降りてきた愛奈はフロントに会釈してから「お待たせ」と湊に振り向いた。
「待ってないよ」
急ぐことないのに。湊がそう言うと、愛奈は何も答えず、差し出されたヘルメットを受け取った。
原付の後ろに乗った愛奈は、湊のパーカーの裾を掴んだ。湊は「ちゃんと捕まって」と言うと、愛奈の手を自分の腰に回した。触れたところから熱が篭って、湊はエンジンをかけるとすぐに走り出した。
夏の太陽と雲ひとつない青い空で、ヘッドミラーを見るとヘルメットから漏れた愛奈の明るい髪が風に靡く。太陽の下で毛先が琥珀色に透けて、湊は視線を正面に戻した。駐車場を出て下り坂を降り海と畑を横断する国道四十二号を走る。
──今駅まで送ってほしいと言われれば。
「まずは海に行く前にサーフショップに行きます。昨日みたいにすぐ海に入らないよ」
言いながら、どうするだろうか、と湊は考える。
──愛奈に作る言い訳が思いつかないから、多分このまま素直に駅まで送っていくだろう、と。
「水着買うの?」
「……ああ、水着」
なんとなく間が開いた答えに、湊は愛奈に腰のあたりをつねられる。
「いててつねらないでよ。ウェットスーツを借りに行くんだよ。水着はもちろん下に必要。きみに合うサイズのやつ店に残ってるかな、って考えてたの」
湊が釈明をしている間に、原付は片側一車線の道路をのんびりと進み、昨日立ち寄ったコンビニを超える。
こうして普通に話していると、昨日聞いた話がすべて嘘みたいに思える。
そのまま少し走ると、黄色い建物が文字の消された看板の向こうに見えてきた。
「サーフショップ、普段は午後からなんだけど、海の家がない田舎だから夏だけは早く開いてて、ウェットやボードのレンタルとかやってるの」
湊が原付を止めたのは、黄色い正方形の建物の駐車場だった。アルファベット三文字が青文字で書かれているだけで、傍目には何の店かわからない。
「これ、サーフィンのお店なんだ」
愛奈の言葉に、自分もヘルメットを脱ぎながら湊が答える。
──馬鹿馬鹿しいだろうか。問題から目を背けて。
「うん。そう、なんの店か分かりづらいよね。昔からやってるサーフショップなんだよ」
湊が先に店内に入ると、愛奈も後に続いた。
扉を開く頃には、いやこれでいいと迷いを消した。──今はまだ、これでいいはずだ。
モラトリアムをくれよ。
二人が入った店内にはサーフボードだけではなく、水着やウェットスーツ、スケートボードなども並んでいる。
「おーいらっしゃい」
雑多にポスターやステッカーが貼られたカウンターで、色黒の男が小さく手を上げた。短髪の黒髪でアロハシャツを着た男は店主で、湊とは顔見知りだった。
湊は後ろの愛奈を見た店主に、余計なこと言うなよ、という念を飛ばす。
「……連れは初心者?」
「そうっす。今日はこの子のウェットスーツ借りたくて」
湊がサーフィンを始めてからこの店に来るようになり、知り合ってからもう五年ほど経っている。自然と気心の知れた口調になった。店主は了解、と言ってカウンターから出てきた。
「様子を見ると初心者かな? 3ミリのSでいいよな」
店主は並んだウェットスーツの中の一つを取り出して愛奈に翳した。それでいいだろう、と湊が頷く。三ミリとはウェットスーツの生地の厚さのことで、一般的に三ミリと五ミリのものが多い。当然薄い方が暑い季節用だ。
「湊……くんは着ないの?」
「あー俺はいいよ。女の子は絶対着なきゃだめだよ。クラゲとかいるし怪我防止にね」
ウェットスーツの厚みはそれだけ動きにくさになる。
「ボードひとつ軽い気持ちで始めたサーフィンだったからね……ウェットスーツに慣れないままになっちゃった」
商品の棚を物色する湊と水着を選ぶ愛奈の店内を横断する会話に、カウンターに戻った店主がさりげなく混ざる。
「湊はそろそろボード替えたほうがいいって。ディックブリューワー渋くてかっこいいけどさ、年季入ってきたろ、よく綺麗に使い続けたよ」
「いやー金ないっす」
海水に浸るサーフボードは劣化する。頻度が多ければ一年、そうでなくとも三年から五年で買い替える必要が出てくる。
サーフボードの価格帯は五万円から二十万円ほどで、学生の湊には大きな金額だが安いモデルなら手が届かない金額ではない。
「……まあー、来年就職するんでそん時買おうと思いますよ」
「え!? お前就職組なの? 進学したいって言ってたじゃん」
はは、と笑いながら、自分はそんなことを口に出して言ったことがあったっけと考える。言っていたのかもしれない。中学生の頃。
「やー、まあ、俺不良なんで」
カウンターにやってきた愛奈に、湊と店主との会話が区切られる。愛奈が財布を出した。
「水着決まったんだね。ウェットの他にボードのレンタルはどうする?」
「大丈夫です」
店主にそう言った愛奈に、湊は横から口を挟まなかった。
それから湊は愛奈とともに再び原付で移動し、浜辺に来た。店内でウェットスーツに着替え、湊と共に砂浜に来た。
ガードレールの切れ目から入った浜辺にはちらほらと人の影があり、海にはオットセイのように黒い点になったサーファーの姿があった。湊はサーフボードを持ち上げると海を眺める。
「サイドオフショアかー、うーん、トロい波」
浜辺に向かって進む湊に、愛奈が後ろから聞いた。
「そのボード、古いの?」
「うん。俺が中学の時の父親のお古だから、もしかしたら十年近くになるかも」
サーフィンはボードの性能や状態にも大きく左右される。それを思うと愛奈には自分のものではなく劣化していないサーフボードをレンタルさせたほうがよかったかもとも思ったが、水着含め数千円の出費をさせているのである。愛奈の懐具合がわからず何も言えなかった。
「……俺んち」
言い始めたのは、昨日愛奈の話を聞いたからだった。
「父親いないんだ。俺が十歳の頃に離婚して……これ荷物の中の残ってたサーフボードなんだ」
白いサーフボードは日焼けしてクリーム色に近い。元の色はもう覚えていない。ワックスの後の残るデッキは薄いクリーム色で、すっかり見慣れた色だ。
「妹がいるからさ、母親一人じゃ大変でばあちゃんとじいちゃんがいるこっちに引っ越してきたんだけど、ゲーセンもカラオケもイオンもめっちゃ遠い田舎でしょ? やることなくて。母親が中学生になったらいいよ、って言ったからさ、中学から始めたんだ。何にもわからなくて……ここで映画なら師匠との出会いがあるんだろうけど、俺はユーチューブ見て独学でここまでやってたって感じ」
湊は苦笑まじりに話して、砂浜の上にサーフボードを置いた。陸から海に向かって吹く風を背中で浴びるように伸びをする。
「ちなみに高校生に上がった時にじいちゃんは死んで、それからおばあちゃんの調子が悪くなってきて……最近は俺のこともじいちゃんだと間違えちゃう時があるから困っちゃうよ」
あげく、愛奈さえも見間違えた。適当に入った話の出口がとんでもないとこに行き着いて湊は被りを振る。
「って、ごめん俺の話長くなっちゃったね!」
「ううん、別に」
話し過ぎてしまったと愛奈の顔を見ると、特に不満の色も浮かべていなかった。仕切り直すつもりで愛奈に向き直る。
「よしじゃあトレーニングしよっか。はい準備体操。海にすぐに入れると思わないでね」
「えっ」
嫌そうな顔をした愛奈に、湊の表情が緩む。
「すぐ入れるわけないでしょ! 昨日のは特例中の特例なんだから。まずは両手を砂について、足裏で砂浜を蹴ってボードに乗る体制を覚えてもらいます」
湊の説明に「地味だなあ」と愛奈は言ったが、それでも言われた通りに体を動かして、二人が海に入るのは三十分ほど経ち砂浜に人が増え始めた時だった。
「まずはボードに寝て、波のパワーに乗ることを覚えるよ」
湊が先にボードを持って入り、愛奈に先ほど教えたパドリングの動きを復習する。腹這いになって腕で水を漕ぐことだ。足がつく範囲だが、これでも波打ち際までは四、五メートルほどある。初心者の体に波に乗った脱力を覚えさせるには十分な距離だ。
「力を抜いて、波のパワーに乗る感じでね、まずはスープに合わせて進めるかってとこ」
「何スープって」
「この崩れた波のこと」
絶え間ない白波は低く穏やかで、サーファーの湊としては物足りないが、初心者には最適だ。口に入ってきた塩水が塩辛い。そろそろかな、と生まれたばかりの波を見ながら愛奈にサーフボードに乗るように言う。
「スープが来たら、スープに合わせて、まずは滑るだけ。押される感覚を大事にね──ほら来るよ」
「う、わああ」
愛奈は開けた口から小さな悲鳴を漏らしながら、白く崩れていく波に押し出され進んだ。ほんの数秒後には、波打ち際でサーフボードから落ちて砂浜に投げ出される。
「安定するようになったら立つ練習だからね」
湊は軽く泳ぎながら砂浜に戻ってくると、顔の水気を手で拭う愛奈に笑いかけた。
「先、長そう」
「そんなことないよ」答えながら、湊は愛奈の口に入った髪の一筋を手に取った。「一瞬だよ」
それからしばらく同じ動きを繰り返し、立ち上がる練習を始めたのは愛奈が水に入った三十分後だった。
「立ち上がる時は重心が大事。重心はおへそね」
「見ないでよ」
「見てな……仕方ないだろ!」
砂浜で立ち上がりに必要な動きを練習してから、湊は愛奈の腰深くまでボードを泳がせて進む。進もうとするも砂浜に押し返してくるような波に、足を取られないようにして水の中を進んだ。そろそろかな、と湊はボードを砂浜に向けて愛奈に乗るように指示する。ボードに乗ってぐらぐらと体を揺らしながら、愛奈が湊に言った。
「押して教えてくれるからいいけど、波に乗るタイミング、難しくない?」
湊は愛奈を見ず、水平線からやってくる波を見る。後の中の白線は何本もあるが、いずれも違う形をしている。
「……タイミングが大事だけど、必要なのはどの波に乗るか選び取ることだ。落ち着いて自分に合う波を待つんだ」
さあ、と湊が言うと、愛奈は正面を見た。傍から見た顔は神妙で、一度も笑ってないな、と気付く。真面目だな。
「下を向いちゃダメだよ。安定したら両足をいっきに出して立つんだ!」
そして愛奈が乗るサーフボードを、白い波と共に砂浜に向かって押し出した。
湊が砂浜に戻りながら見ている愛奈は予想通り、ボードから後ろに倒れ落ちて、心配と共に微笑ましさが湧く。
「疲れた?」
「まだ大丈夫。早く……」
波打ち際で片手でボードを持ちながら愛奈が目を擦る。
「早く一人で、立てるようになりたいから」
その顔が昨夜水から上がった時とはまったく違う顔で、湊は思わず笑ってしまった。
波の中を進む愛奈の足が遅くなったことに気がついて、湊は「終わろうか」と愛奈に声をかけた。
「まだ立てるようになってない」
僅かに目を見張って愛奈を見た。愛奈が粘ろうとするのが湊には意外だった。
「このボード薄いしパドリングが上手くできるようになっただけでも上等だよ」
「けど、いつまでいるかわかんないし」
帰る場所がないと言っていたのに、ここではない場所に行く気か。湊はぐっと言葉を飲んだ。
「……疲れたと思ったら続けちゃだめだ、海は怖いから」
朝早く合流してから、数時間が経っていた。サーフショップでウェットスーツを返してコンビニに寄りながら、愛奈に聞いた。
「……民宿でいいのかな」
「うん。ドライヤー早くしたいし」
「そっか」
湊がその返事をしたときには、帰りたいと愛奈に言われても、もう駅まで送っていく気にはならなくなっていた。
自宅に戻ってからやっとスマホを開く。ラインのメッセージは佳帆からだった。
『おはよう湊! 宿題進んでる?』
写真時間は愛奈と海にいた時間だ。着替えながら、早く返しておけばよかったな、と湊の指が数時間分重くなる。
『音声入力うま。笑』『宿題はやってないけど今から行くね』
と送信すると、すぐに既読がついた。続けて送信する。
『絵文字打てるの?』
『笑ってる顔の絵文字を入力する』『だめだった笑』
佳帆のアイコンは二年生になって変わった新しいクラスの友人との並んでいる影で、怪我一つない顔だった。これを入力しながら笑っている顔を想像したが、病室で傷のできた顔しか思い浮かばなかった。
母親が夜勤で家にいることを確認し、妹と祖母たちを置いて病院に向かった。太陽が高く伸び始めた時間で、道路を走る湊の耳にはエンジンよりも蝉の声が大きく感じた。
病院内に入った途端、クーラーの冷気に包まれて全身から熱が消えていく。三階で降りると、ナースステーションに立ち寄った。
「奥の榧下佳帆の部屋、今誰か来てます?」
「朝早くにご両親が来てたけど、さっき帰っちゃったわねえ」
話しかけた看護師になんてことない顔で告げられて、湊はほっと胸を撫で下ろした。あんな話し方で別れた後だ、紗代子とも父親とも顔を合わせづらい。とはいえいつまで避ければいいのだろう、とも思う。
──愛奈がここを離れるまでか。それとも。
答えが出ないまま、佳帆の病室の前に立った。親から何も聞いてないでくれ。そう願いながら扉を開けた。
「おはよー」
「あっ、湊! おはよってかこんにちはだよ」
佳帆の笑う様子に、よかった、と安心する。相変わらず両腕はギプスで固定され、足下の布団も膨らんでいるが、調子は良さそうだ。この様子じゃ両親から愛奈のことを聞いていないだろうと湊は判断してベッドに寝そべる佳帆に歩み寄る。
「遅かったからめっちゃ勉強してると思った」
「自分の分はやってないけど二年の分くらいは教えられるよ。勉強しようか?」
喋りながら丸椅子に座ってベッドサイドのキャビネットを見る。引き出しの中にはノートが入っているはずだ。先日来た佳帆の友人たちが夏休みに入る数日前の授業のノートを置いていったと聞いている。
湊の言葉に「えーやだあ」と言うと「タブレット取ってえ」と言った。わざわざタブレットがベッドテーブルではなくキャビネットの上に置かれていたのは佳帆の両親だろうか。花瓶に活けられている花が変わっていた。黄色とオレンジのガーベラは佳帆の印象に似合っている。
「今日は何見るの? ドラマの続きかな?」
そう言ってホーム画面を操作しようとすると、佳帆は「もう全部見たからいいよ」と湊に言った。
「そうだ、ねえ、サーフィンの映画見つけたよ! 観る?」
「観てみようかな」
湊は佳帆の提案に頷いて、漫画ばかり読んでいる自分に気遣ってくれたんだろう、と映画アプリを開く。
「んーとブルークラッシュっていううちらが生まれた頃くらいの映画なんだけど……」
「へえ。洋画なんだ。佳帆がそういうの観るの珍しいね。いつも嵐主演キャー! とか言ってるのに」
「シックストーン出んのやばあー!? みたいなね」
湊の軽い調子に、佳帆は合わせてくすくすと笑う。その笑う顔を見ながら、やっぱり妹みたいなもんなんだよなあ、と思う気持ちが顔を出す。──彼氏なんて。
「あーこれね、見つけた。金髪女子じゃん、女の子主役なんだ。吹き替えでいい?」
「ねーなんか強そうだよねー。吹き替えでおけ」
佳帆と喋りながら映画のバナーを見つけタップする。有料の映画サブスクは広告なしに本編が始まる。
主人公が過去のサーフィンを思い出しながら目覚めて始まり、早朝の海の景色に佳帆が事故に会った日の朝を思い出した。冷房のよく効いたこの部屋に来ると、首にかけたネックレスを冷たく感じる。
──けど、望まれたから。
望まれたからしょうがないだろう。俺の家族だから、佳帆は身を挺してくれたんだ。
自分たちが住む場所とは全く違う遥か遠い自然の海に、今日浴びた波が脳裏に被る。ちょうど笑いをとるシーンで海に投げ出された愛奈を思い出して、口元の緩みを隠さずに済んだ。
──飛びたいって言ってたな。
一体なんのことだったんだろう、とまるで映画のワンシーンのような、昨夜の愛奈の言葉について考えた。
次の日湊が民宿に来ると、ロビーの椅子でちょうど愛奈が座って欠伸をしているところだった。
「よく眠れた?」
「あんまり」
だいぶ打ち解けたのか「おはよ」という朝の挨拶は愛奈からだった。それでも表情はむすっとしている。これがデフォルトだとするともったいない。
「映画観てた」
「映画」
湊が復唱すると、愛奈は続きを待つように湊を見上げた。
「……そういえば、映画の雑誌買ってたよね」
「え、なんで知ってんの」
「ほら初めて会ったとき」
佳帆の──愛奈のといっていいかわからない──家の玄関先でぶつかったことを思い出す。玄関に落ちたビニール袋から見えた雑誌には「SCREEN」と書かれていた。漫画以外読まない湊はシブい雑誌だなと印象に残っていた。
「あれあな……湊、くん、だったんだ」
名前の呼び方はやっぱりぎこちない。うん、と言った湊に愛奈は原付に向かう足を止めた。
「やっぱり覚えてなかった? だから病院からの帰りに声かけたんだよ」
「……なんで、あの家にいたの?」
愛奈の顔つきは神妙のままで、声の調子も変わらない。なのに返事に少し悩んだ。出会った日に問われていれば、こんな些細な質問にも悩まなかったのに。
「畑のバイトだよ」
湊の答えを聞くと、ああそう、と言って愛奈は再び原付に向かって歩き出した。
「じゃあ、よろしく」
そう言った愛奈に、これ以上聞かれなくてよかったと思ってる自分に湊は気が付いた。昨日よりは言葉少なくサーフショップに寄って、それから浜辺に来た。
海に来れば、波のさざめきが沈黙を誤魔化してくれるのでちょうどよい。
「じゃあ今日は立つ練習しようか。まず陸で動きを反復して、それから海入るよ」
波さえ見ていれば、胸の中に渦を巻く感情に向き合わなくてもいい。陸上での動きを終えて二人は波に入る。サーフボードを波に入れ沖に向かいながら愛奈に動きを説明する。
「じゃあ俺が押し出すからスープに乗って、手をついて両足を一斉に出して立ち上がってね」
言うほど簡単ではない。ボードに寝そべった愛奈は「わかった」とだけ答えて、顔にかかる水飛沫に目を閉じなかった。
「あの波だ。行くよ──ほら」
白い波と共に湊が押し出し、愛奈の乗るボードが前に進んだ。
立ちあがろうとして引けた腰にボードが後ろに倒れ、波に飲み込まれ顔を出す。何度も立ちあがろうとしては水の中に転倒するのを見ているうちに、湊も調子が乗ってくる。
「両足を出すタイミングを一緒じゃなくて、右足からにしてみようか。それで足裏で体を支える。重心がかかとにあるから後ろから倒れちゃうんだ」
「わかった」
言われたことに素直に応じようとする愛奈は湊にとって教えやすかった。佳帆は一度サーフィンに誘っても「私向いてないからあ」で勉強を教える時もすぐに投げやりになりがちなのだが、愛奈は愚直だと言えるほどに真面目だった。
育ってきた環境だろうか、と思う。父親の違いかもと想像できるほど、大人ではなかった。
時折砂浜で動作を見直しながら、熱さを放つ太陽の下で繰り返し波に挑む。
「立つ時に下を見ないで! 正面を見続けるんだよ!」
回数を重ねるごとに姿勢が良くなる愛奈に、次で立てるだろう、と湊は思った。愛奈が腕で水をかき波に乗ろうとする。
両足をボードに置き腰を上げ、曲がった腰で立ち上がるとふらついた。ボードが波に飲まれて、海の中に倒れた愛奈がすぐに顔を出す。
それならまた沖に戻ると、愛奈をボードに乗せて波を選ぶ。繰り返し訪れる白波の中から、目を細めて愛奈を任せる波を選び取った。
「正面だよ。下を向かないで、前だけを見てね」
行くよ、と押し出す。いけるだろう、と確信する湊の前で、波に押されながら腹這いの愛奈が、立ち上がり波を割って進んだ。
「ほら! ほらできてるよ!」
声は届いているかわからない。砂浜に戻りながら、湊は言わずにはいられなかった。
波が砕けると同時に、愛奈が砂浜に投げ出された。
「立てた!」
濡れた顔に満面の笑みで、波打ち際に戻ってきた湊に言った。笑った、と湊の胸から急速に温度が広がった。
「やったね!」
弾んな湊の声に気が付いたように、ハッと愛奈の表情が戻る。
「もっと笑っていいのに。喜んでよ!」
「うん」
抑えたトーンに戻った愛奈の声に、ああだめかな、と思った。けど嫌々やってるんじゃなくてよかった、と湊が髪をかきあげたときだった。
「嬉しい」愛奈が湊に微笑んだ。「できた」
凍ればいいのに。波も、その濡れた顔も。なのに自分の中で体温が上がったのを感じた。
うん。
と自分が答えた瞬間、足裏に打ち寄せる波に時が進んでいるのを感じた。息を吸い込んで膨らんだ胸に、今はもう尖った破片ではないネックレスが触れている場所から痛みを感じた。
「ああ……うん、すごい、すごいね。上手くなったよ」
「ありがとう」愛奈がサーフボードを持ち上げて立ち上がる。「やっと立てた」
そのままサーフボードを渡されて、これで終わりと言われることが怖くなって、湊は視線を外した。
「……ところであの、飛んでるって、なんだったの?」
やや上の空で質問をした湊に、愛奈が「ああ」と思い出したような顔をした。それから少し俯く。あ、これ恥ずかしがってるんだ。と、その表情にまた、しまった、という気持ちになった。しまった、また新しい表情を知ってしまった。
「タイタニックって、知らない?」
「あーあの、えんだああってやつね」
「それはボディーガード」
すぐ飛んできた指摘に、違ったか、と湊が苦笑する。飛んできたタイトルはまったく覚えがない。けれどタイタニックの名前くらいは知っている。主題歌までは思い出せない湊の前で、愛奈の唇が小さく開いた。
「ゆあーふぃー、ぜずのっしんぐあいふぃー……って……豪華客船が沈む映画」
波を五線譜のように眺めながら、ゆったりとしたメロディで誦じた。拙い英語の発音は湊には意味が理解できなくて、曲にはピンと来なかったが、付け足された説明でわかった。
「ああ、知ってる知ってる」
洋画のラブストーリーだろ? 映画本編を観たわけではない。今度こそ浅い知識を飲み込んだ湊の前で、愛奈が続けた。
「あれでね、ジャックっていう男の人がヒロインを船の先に立たせて支えるシーンがあるの。遮るものがない風を浴びたヒロインは、水の上を飛んでいるように感じるのよ」
へえ、と湊は記憶に知っている画像を思い出す。SNSで見たジャケットか何かの、西洋の美男美女が寄り添う写真と、沈没間際の船のデッキで楽器を演奏する紳士たちの切り抜き動画。
「サーフボードが船みたいに思えて、同じように……立てると思ったの」
なるほど、と湊は頷く。
「俺もあのとき、サーフボード、船みたいだなって思ったよ」
けれど海の上というよりは、夜空の中を泳いでいるような感覚だった。これはボードを支えていた自分だけかもしれないな。言わずに愛奈に笑いかける。
「沈没は嫌だけどね」
そう言って湊が肩を竦めると、愛奈は笑った。
「そうね」
また笑った。丸い目は、目を細める笑顔が映える。
言おうとしてやめる。顔を褒めるのはよくないかもしれないと思った。
「感覚覚えてるうちに、もう一回やってみようよ」
言いながらも、飛べてしまったら繋ぎ止められないだろうと、これ以上教えたくない気持ちが混じった。




