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水槽の中のシーグラス  作者: すずき


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第四章


 成功した、と思った。

 高く昇り始めた太陽の下で、湊は原付で戻ってきた道を走り出す。愛奈を民宿に送り届けた帰り道。原付はバイパスを降りて、先ほど愛奈と言ったガードレールの間の砂浜の入り口を通り過ぎる。

──湊くん、あの子を引き止めて!

 昨日病院でいきなり紗代子にそう言われた時、何が何だかわからなかった。

──戻ってくるように話して!

 そう言われて廊下を早足に進み病院を出れば、歩くのと変わらないスピードで、けれど必死になって走っているつもりであろうアッシュブラウンの髪の後ろ姿。

 一度見た子だ、とすぐに気が付いた。原付で並んで見れば横顔は泣きそうで、佳帆の家で見たときに感じた険はなかった。湊たちがいた浜名病院から最寄りの駅までは徒歩十五分ほどだったが、違う方向に下を向きながら進んでいた愛奈の頼りない印象に、丸め込めるだろうと話しかけると後ろの席に乗せることに成功した。

 薄暮色に染まり始めた空の下で湊が家に帰宅すると、玄関先に母親のものではない軽自動車が止まっていた。湊が原付を止めると、その車の運転席が開く。

「あ、紗代子さん」

 こんにちは、と頭を下げた湊に、紗代子は周囲を気にする素振りを見せた。「あの子は」と聞かれた言葉に「あー」と湊が頬をかく。

「えーっと……なんか帰りたくないとかで……」

 自分の言葉に血の気の引いた紗代子の表情を見て、湊は矢継ぎ早に付け足した。

「ああけど、夜は危ないから出歩くのはやめなよっていって近くの民宿に送りました」

「つまり帰ってないのね?」

「帰って……って……えっと……」

 釈然としない紗代子の言葉と、それでも経緯を詳らかにしない様子に、深入りを躊躇った。

「……とりあえず僕、また明日様子を見に行きましょうか?」

 湊にそう言われれば、お願いね、と紗代子は言った。

「戻って来てくれるように言ってほしい」

「はあ……」

 判然としない湊の返事に、紗代子がダメ押しのように言う。

「佳帆のためにも……うちに来て、って言ってほしい」

 二度と会う気がなさそうだということが伝わっていた女性に、一体何を話せばいいのだろう。

 それでも佳帆のためと言われれば、先ほどと違い「はい」と意思の宿った返事をすることができた。

 そして湊は早朝、サーフボードを待って愛奈を待つに至った。

 二日連続で愛奈を民宿に送り届けた自宅に着くと母親の軽自動車があった。原付を止めると、屋外についた蛇口のホースでサーフボードを洗う。固まりかけた砂を洗い流しながら、明日からはどうしよう、と考える。

 今日一日はこの町に閉じ込めることに成功したけれど、明日はどうやっていてもらおう。

 洗い残しがないかサーフボードをチェックして家に入ると、リビングのソファに布団を被って寝ている母親の姿があった。

「バイト終わり? おかえり」

「ただいま」

 湊は冷蔵庫から麦茶のピッチャーを取り出すと、カップに注いだ。妹たちはまだ寝ているのか部屋でゴロゴロしているのか。二階に意識を集中させた耳に二人の足音が聞こえて、麦茶作っとくか、とピッチャーの中の麦茶を飲み干した。

 麦茶のパックを用意しながら、リビングの母親の布団がもぞもぞと動いている様子に、起きているようだと声をかける。

「今日休みー?」

「うん、そう。俺この後佳帆のお見舞い行ってくるから」

 母親はあくびをしながら頷くと「ごめん、ご飯予約でセットしておいてくれる?」と湊に言った。シンクの中には現れていない炊飯器の内釜があった。

「わかったよ」

 湊は新しい麦茶を作り、炊飯器を洗うと米を原付に乗って病院に向かった。

 病院に着いてナースステーションで言葉を交わし、佳帆の病室に入る。

「仕事やってから来たの?」

「まあそんなとこ」佳帆の言葉に、湊は曖昧に濁すと丸椅子に座る。「病院の中は涼しいね」 

「うん。ずっと涼しい。夏なこと忘れる」

 曖昧に濁した湊の返答に、佳帆は窓を見やって答えた。佳帆の顔の傷は日に日に薄れている。両腕の分厚い包帯から覗く指先も幾分か血色がよくなった。

 親戚の女の子のことは何か聞いているのだろうか。朝のサーフィンのことを思い出して、なんとなく聞くのは憚られた。

「佳帆はなんかしたいことあったの?」

「莉奈たちと出かけるでしょ。それから花火大会も行きたかったな」

「そっか」湊は一度目を伏せて、それから愛奈に微笑みかける。「来年行こうか」

「本当?」佳帆の大きく見開いた目が、日の光に素直に輝く。「嬉しい!」

 うん、と湊は優しく返事をした。

 去年は誘われた花火大会は、二人きりで行きたいと言うその意味を考えて断ったものだった。

 来年。

 自分で言った言葉に、思考に靄がかかるのを感じて思考を振り払うと、来る途中にナースステーションで言われていた言葉を思い出す。

「ずっと病室にいるだろ、屋上庭園行きたいとかない?」

 それは、そろそろ寝てばかりじゃ悪いと看護師たちから言われた言葉だった。ずっと部屋にこもっている。リハビリに向けて動き出さないと、と。

 佳帆は唯一自由な首を左右に振る。それを見て、湊が顔に垂れた髪を耳に掛け直した。

「湊がいてくれるならここで十分なの」

「……そっか。あ、タブレット出そうか? ドラマ全部見た?」

「見たよお。うーん次、次かあ」

 キャビネットの上に置かれていたタブレットをテーブルの上に立てながら「何見る?」と湊は画面を開く。

 佳帆は見ていたドラマのスピンオフだという映画のタイトルを言った。画面を開き映画が始まると、ドラマを見ていなければわからない会話に湊の映画への興味が薄れて行く。今朝のサーフィンの心地よい疲れで重くなる瞼に、民宿の中に戻った愛奈の姿。

 終えると夕方になっていた。薄紫色に染まり始めた空に、面会時間の終わりに気がつく。帰る頃には暗くなっているだろう。

「じゃ、俺帰るから」

 立ち上った湊に、佳帆が名前を呼んだ。振り返ると、胸元のシーグラスのネックレスが揺れた。

「また明日ね」

「うん」

 病室の扉を閉めて空気を吸い込んだ。座りっぱなしだった足の腱を伸ばしてエレベーターのボタンを押した。


 畑と林ばかりの道を抜けると駅を通り過ぎ、山を割って作られた国道四十二号に入る。緩やかな下り坂に、愛奈が泊まっている民宿が見えてくる。

 草だらけでろくに整備されてないガードレールの内側の歩道。歩行者など滅多にいないそこに、細い女性の細い後ろ姿を見つけて、湊は途切れたガードレールの中に原付を突っ込んだ。

「きみ」

 影が溶け始める暗くなり始めた景色の中で、闇に浮く明るいアッシュブラウンと日焼けしていない顔。前から声をかけた湊に、その顔をぱっと上げた。

「あー……」

 愛奈は湊を見つけて、感嘆符とも、あんた、とも、あなた、ともつかない声を漏らした。

「なんで?」

 質問の意図を考えず、ヘルメットを脱いだ湊はただ思ったことを答えた。

「──帰っちゃうかなって……」

「夜になるのに駅まで二時間とか歩かないよ」

 立ち塞がるように現れた湊を呆れたような顔で愛奈は追い抜かした。

「そっか、そうだよね」

 湊は頷いて、そっか、そうだよね、ヘルメットの紐をハンドルにひっかけると原付を押して愛奈を追いかける。原付を押しながら下り坂歩きづらい下り坂は原付を押して歩くには疲れるが、愛奈の横にスピードを合わせた。

 早朝見た時と同じ服装をしていたのは、着替えがないからだろうか。とりあえず乾いたんだな、と湊は安心する。

「じゃあどこ行くつもりだったの?」

「コンビニ。メイク落としとかなんもないから、もう限界」

「俺買ってこよっか?」

 湊は愛奈の疑うような視線を浴びる。

「……ビオレでしょ?」

 それを聞いた愛奈は大きな溜息をつく。

「自分で選ぶ」

「歩いて行くの? 危ないよ?」

「あの道の駅の中にコンビニみたいなんあるでしょ?」

 愛奈が示したのは坂の中腹から見える道の駅潮見坂だった。暖色系の明かりが灯る平たい古風な造りの建物には、藍色と紫色に染まる景色の中で目立っていた。

「あの道の駅、野菜とメダカしか売ってないよ。まともなコンビニは徒歩で三十分くらいかな」

「最悪」

「後ろ乗ってよ」

 問答もなくヘルメットを受け取った愛奈に、原付に跨った湊は俯いて苦笑する顔を隠した。

「バランス取るの上手いよね。バイク乗ってた?」

「ないけど」

「そっか。運動神経いいのか」

 下り坂をすぐに降りて、街灯がついた平坦な道を十分ほど走った。大型トラックが止まるガソリンスタンドを超えて、セブンイレブン前の信号で止まった時、湊が目を見開いた。

「ちょっと待って」

「え?」

 青信号になった途端、湊はコンビニに入りすぐ店の前に原付を止める。愛奈が降りるのを待たずに原付をスタンドで立たせると、コンビニの前の横断歩道に立つ老婆の姿に走り寄った。

「おばあちゃん!?」

「あら」湊の声に上げられた顔は祖母だった。「宏さん?」

 祖母が言った呼び名に、湊の体が硬直した。

「あ、ごめ……」

「あら? あらあらあら!」

 原付を降りた愛奈が様子を伺うよう湊たちに近づくと、祖母は愛奈を見て驚いた顔をした。

「紗代子ちゃんじゃないのぉ!」

「え?」

 湊と愛奈が顔を見合わせた間に、祖母が愛奈に擦り寄った。

「久しぶりねえ、あらこんな細かった? ちゃんと食べてる? こんな腕しちゃってえ。素麺茹でてあげるわ、うち来なさい。ほんと一恵といいあんたたちは食べないんだから、もう」

 一恵というのは湊の母親の名前だった。

 困惑に言葉を決めあぐねる湊より早く、愛奈は湊の祖母に向かって柔和に微笑んだ。

「じゃあせっかくだから素麺ご馳走になっていいですか? お腹空いちゃった」

「そうよねそうよね。子供はなんも我慢せんでいいんだから、ちゃんと食べないと」

 祖母が嬉しそうに来た道へ振り返る。戸惑う湊に、愛奈が強く頷いた。

 湊はそれを見て、原付を取りに戻ると急いで二人に追いついた。

「紗代子ちゃんねえ、いつも心配してるのよ、あんたいつもあざだらけで……今日もこれつけて畑してたの?」

 祖母が愛奈のアームカバーを見て行った。痣だらけ? いつも長袖の紗代子を思い出す。……いや、畑仕事だから虫避けのため長袖なだけだろうし、なにより昔の話だろう?

 湊の前で、愛奈はそばに付き合うように「そうだよ」と穏やかに答えている。

「あんた働き者なのに、どうしてお父さんはそんなひどいだかねえ」

 祖母の話は同じ内容の繰り返しだった。愛奈は、うん、そうだね、うん、と祖母の話を遮ることなく相槌を打っていた。助かる、と思う。──言っていることを否定すると逆上することがあったから。

 歩いて十分ほどで、家に無事に着いた湊は胸を撫で下ろした。

 愛奈はお邪魔します、と白い厚底の靴を揃えて入った。いいの? と視線を投げるが無視される。いるはずの母親と妹たちの姿がなかった。リビングに入った愛奈に合成写真のような違和感を覚える。

「じゃあ素麺作るでね、そこ座って待っとりん」

 湊はリビングの床に正座を少し崩して座る愛奈に「楽にしてね」と声をかけ「ごめん」と謝った。

「いいよ別に」愛奈は湊の顔を見ずに返す。「その方が早いと思ったから」

 点けられっぱなしのテレビから食レポが流れている。この状況に、湊は食欲が湧かなかった。

「……あのさ、紗代子さんって」

「宏さん、新しい胡麻の袋どこだんー?」

 湊が口を開いた瞬間、祖母の声が飛び込んできた。

「あっはーい! 今行く」

 祖母を振り返るとキッチンボードの棚を手当たり次第に開けていた。

「おばあちゃん、ここだよ」

 開けっ放しにされた戸棚の中から胡麻の袋を見つけて渡すと、そうこれこれ、と祖母は受け取り小皿に出した。用意された食器は二人分で、誰と誰が食べることを想定されているんだろう、とぼんやり思いながら配膳を手伝う。コンロの火を消し忘れやしないか、見張っていないと心配だった。

 湊の心配をよそに、祖母はてきぱきと素麺を仕上げ麺つゆと薬味を用意する。

「はーいできたにー」

 祖母が愛奈の前に素麺を置く。湊もテーブルに箸などを用意すると、祖母から「あんたも座りな」と声をかけられ、愛奈の対角に座った。

「紗代子ちゃんも遠慮せんと食べないね」

「はい。いただきます」

 箸を持ち上げた愛奈を見て、湊もすぐに箸を持ち上げる。食事を前にすれば食欲が湧いてきた。テレビでは食レポは終わってスタジオトークが始まっている。

 芸能人たちの笑い声を聞きながら、湊と愛奈が素麺を啜る。祖母は台所に戻ると鍋を洗い始め、リビングに食事の音と水が流れる音と画面の向こうからの笑い声が響く。概ね食べ終えた湊が、やや声を潜めて愛奈に言った。

「紗代子さんって、きみが泊まってる家の……。うちのおばあちゃん、間違えちゃってごめんね」

 湊は言い合えると返事を待ったが、食べ進める愛奈の手が止まらないのを見て、諦めてもう一口啜る。

 しょうがないよ、と愛奈が言った。え、と聞き直すと、愛奈の皿にはまだ半分以上の素麺が残っていた。愛奈が橋を置いて、ぽつりと呟いた。

「私やっぱり、似てるんだね」

「えっどういう──」

 聞こえてすぐに聞いた。今なら教えてくれそうだと思って、すぐに聞いたのに、湊がすべてを言い切る前に祖母の強い声が割って入った。

「ほんと死んだらええ。娘のあんたに言ったらいかんと思うけど、子供に手ェ上げるやつは死んだ方が良いと思っとる」

 テレビから聞こえる笑い声がちょうど、消えていた。

 おばあちゃんがそんなこと言うなんて。本気で怒ってる、と湊は気付いた。アリの巣に水を入れていた時ぶりに見る険しい顔だった。怒ってる。誰に? ──紗代子さん(佳帆の母親)の父親にだ。

 祖母の話を黙って聞いていた佳帆の口が、小さく開いた。

「……ねえ、おばあちゃん」

 口調が、先ほどと違うと湊は感じた。意図的に──紗代子に似せようとしていると。

どんなひどいことされたっけ?」

 湊は思わず箸を止めて、佳帆の顔を見た。穏やかな微笑みは大人びているのに、目の奥がすっと冷たい。──探ろうとしているのだと、湊は佳帆の言葉に気がついた。彼女は紗代子のことを探ろうとしている。

 覚悟を決めた重たい沈黙に、祖母が首を傾げた。

「……おばあ?」

 唾を飲んだ音が誰のものかわからない。魚の小骨がひっかかったような祖母に、湊が言葉も決まらずに取り繕おうとした時だった。

 玄関の扉が音を立てて開く。

「ただいまあー!」

 足音と共に、帰宅を告げる母親の声が耳に届く。連なって、妹たちの声も聞こえる。

「ただいまー」

「たっだいまー」

 その声に、愛奈が弾かれたように顔を上げた。

「あれー? 誰か来てるの?」

 どうしよう、と咄嗟に後ろめたく感じたのは自分だけではなかったようだ。目が合った愛奈の瞳が頼りなく揺れた。リビングの扉が開く。

「──ごめんねえ湊、清香が熱出しちゃって病院に行くことになって──」

 妹たちが入ってくるのに先駆けて、母親が入ってきた。そして視線の照準が、愛奈に合った。

「──さあ……」

 リビングの時が止まった。湊も呼吸を忘れ、愛奈の肩も、アッシュブラウンの髪の先も、凍ったように動かなかった。

「え?」

 目を丸くした母親の言葉に、室内の酸素が少し減る。

「私」

「あーごめんそろそろこの子送らないとー!」

 意を決したように口を開いた愛奈を遮って、湊は湊は立ち上がった。愛奈の腕を掴んで立たせる。

「紗代子ちゃん? 宏さん?」

「お母さん!」

 祖母の言葉に、母親は祖母の肩を掴んだ。

 その呼び名はここにいない二人のものだ。呼び止められやしない。サッとリビングを抜ける。

「じゃあ素麺後で食べるから! 行こっ、愛奈」

 湊は無抵抗な愛奈の腕を掴んで玄関でサンダルを履く。愛奈が靴を履くそぶりに迷った様に見えて、跪いて靴を渡すと一瞬で履いた。

 湊のサンダルと愛奈の白い靴が外に飛び出す。

「ちょっと待って湊」

「うん後で待つねー!」

 母親の飛んできた静止を無視して、湊は「乗って」とヘルメットを愛奈に突きつけて原付に跨った。

 湊の運転する原付は他に走るもののいない家の目の前に出ると、とりあえず海の方に向かった。

 まばらな街灯が照らすアスファルトの上に、二人がなった原付の影が生まれては消える。

 素直に後ろに乗り腰に手を回した愛奈に、湊は運転席から声をかけた。

「……コンビニ、行く?」

 返事はなかった。

「……海、行こっか」

 同じように返事はなかったが、背中に当たったヘルメットの感触に、肯定だと受け取った。

 原付はバイパスの下の国道一号を横切り途切れたガードレールから砂浜に入った。適当に入った場所には、公衆トイレのある場所の遠くで、失敗したかな、と湊は思う。

 堤防の傍の砂利道に道に適当に止めると、愛奈が先に降りた。湊も続いて原付を降りる。 空を見上げて満月だと気が付いた。色濃い二人分の影に、いや、それでよかったと考え直す。──今は人目が少ない方がいいだろうから。

「メローだね」

 遠くの波を見た。愛奈は俯いたままで何も言わない。勝手に顔を覗き込んで顎の下のヘルメットのストラップに手をかける。嫌そうに「ちょっと」と愛奈が咎めて、やっと目が合った。

 海みたいだ、と湊は思った。覗き込んだ瞳は水を湛えているように揺れていた。

「……うん。立ち止まってるのもなんだし、波打ち際歩かない?」

 湊がそう言うと、愛奈は黙って湊の後ろをついてきた。

 階段を登り堤防を越えて、砂浜に向かって歩く。街灯がない場所は、それでも月の光で明るかった。砂浜は乳白色の柔らかい色をしていて、水面は黒ではなく銀のように見えた。

「満月だと夜でもサーフィンできるからいいんだよね。ビーチブレイクはわかりにくいけど、ナイトサーフが好きな人も多いんだよ」

 波打ち際を歩く。遠くバイパスは暗闇に溶けているのに、砂浜はどこまでも白く続いているように思えた。穏やかな波が繰り返し砂浜に遊びにきていた。

「夏だと夜も寒くないし、波の冷たさが気持ちいいんだよね。始めたばっかりの頃満月を待ってやったことがあったな」

 話が上滑りしてるとは感じつつ、自分より年上の女性──しかもただならぬ雰囲気を発している女性に、振れるような話題が見つからず、海のことを独り言のように言うしかなかった。

 気遣いしているような波は、砂浜に二人分の足跡を残す。振り返れば考え込むような愛奈と、大きさの違う足跡が続いていた。

「考えなきゃいけないことがあるとき、サーフィンに来るんだ。もちろんそれ以外の時もだけど。海も結局自然だから舐めてかかると危ないし、目の前の波に集中しなきゃいけない。それでサーフすると、乗り終えた時にはスッキリしてたりするんだよ」

「乗る」

「えっ?」

 もはや独り言のつもりだった。愛奈が何か言ったと、湊は足を止めて振り返る。

「乗りたい、やらせて」

 うわこれ文脈わからなかったら危ない一言だぞ──確認したい気持ちを抑えると、えっ、とかあっ、とかそんな戸惑いが口をついた。

 愛奈は砂浜を見つめている。静かな波にしょうもないことを聞き返すことをためらった。

「うん、ちょっと待ってね。危ないから一人で入っちゃだめだよ」

 立ち止まった愛奈を背に原付に向かって走り出した。いや、本気で?

 サーフボードを持ち上げて来た道を小走りに戻る。俺が乗ってるところを見たいだけ? 乗りたいって言ったよな? 水着は? 準備体操でも?

 ごちゃごちゃしながら愛奈の元に戻ってきたときには、半ばやけだった。愛奈の前にサーフボードを見せる。

「……どうする?」

 服装とか準備運動とか、面倒なことはもうすっとばした。

「海ん中入りたい」

 どうにでもなれとは思いつつ、聞かれれば丁寧乗り方を教えるつもりだった。愛奈は目も合わせずに、湊に要求を伝えた。

 湊は一瞬で考えた。海の危険性、素人の乗り方。──そして目の前の、俯きがちな愛奈の目の奥を。

「……じゃあ俺がボード支えてるから、その上座るっていうのはどう? 一人で乗ろうとして乗れるもんでもないから」

 提案はできるだけの妥協点を見つけたつもりだった。

 知らないぞもう。サーフィンはおろか海水浴にも向かない愛奈の服装にもう何も言う気はなかった。

 湊は上半身に着ていた服を脱ぎサンダルを置くと、愛奈も隣に靴を並べた。湊が浅い波を踏むと、愛奈も躊躇うことなく波打ち際に歩みを進めた。

 服が濡れることを躊躇わず入ってきた愛奈に、もしかして海に入りたかっただけなのでは、と思った。──もしかして。いやそんなこと。一瞬よぎった考えは振り払った。

「絶対離さないから安心して」

 愛奈に向かって言った言葉は、半ば自分に言いかけていた。

 銀色の波を割る。服が肌に張り付いて、冷たいと感じた波の温度に肌があっという間に溶け込む。

「離れないで」

 愛奈の方を振り返りながら、湊の膝が水に浸かるほどに進むと、愛奈の腰ほどの深さになった。

「手を置いて、俺が押すから」

 波の上に寝かせたサーフボードを押さえながら、愛奈に教える。愛奈が腹這いにしがみついた。

「わ、意外と滑らない」

「ワックス塗ってあるからね。跨って座れそう?」

 押し上げる時、水に張り付いて愛奈のボディラインが露骨に浮き出た。見ないように目を逸らして愛奈を乗せる。

愛奈は「このまま浅いところを進もうか」と言った湊に答えない。見上げると、水面を興味深そうに見下ろしては夜空を見上げていた。その様子が先ほどと打って変わって楽しんでるように見えて、湊はサーフボードを離さないようにしながら波の中を蹴るように進む。

 水平線と並行に、砂浜と一定の距離を保ちながら、湊は愛奈を乗せたサーフボードを押す。体にぶつかる波が気持ち良い。月明かりが水の道を照らす。力んでいた愛奈の肩が下がった。

「静か」

「そうだね」

 愛奈の言葉に湊は頷く。夜空の中を泳いでいるようだった。

 大きな波が来たら危ないな。けど悪くない。天の川を渡る彦星はきっと従者をつけているだろう。従者の気持ちだった。

 そして唐突に──愛奈が立ち上がろうとする。

「えっ!?」

 目を見張る湊の前で、愛奈が重心を崩す。

「わっ」

 鮮やかに水面が割れる音が誰もいない砂浜に響く。水柱を立てて愛奈がサーフボードからひっくり落ちた。飛沫がかかったことも気にせず、湊は慌てて水の中に落ちた愛奈に手を伸ばす。

「ちょっ! ちょっと、きみっ」

 愛奈の腕を掴み引き上げて立たせる。頭から水を滴らせる愛奈の顔に、反省の色はなかった。

「なんで立ったの!?」

「ごめん」

 濡れた顔で愛奈は湊に言った。

 前も目が合ったのは濡れてからだ、と愛奈に思った。今日だって目が合ったはずなのに、彼女が自分を確かに見ている、と感じたのは水の中だった。

「立てると……飛べると思ったの」

 むしろ水に落ちたことが不思議なようでさえある言い方に「はあ?」と聞き直したい衝動を抑える。

「何言ってるの。出るよ」

 口をついた言葉はひっこめた言葉とほぼ同義だった。湊はサーフボードと愛奈を掴み、波打ち際に向かう。海で立ちあがろうとした愛奈の言葉に苛立ちを感じる。予想通りじゃないか。──死にたいように見えていたなんて。

 脱ぎ捨てた服と靴から、少し離れていた。

 水から上がると愛奈を掴んでいた手を離す。寒くないか、と思ったが、口を開けば突然の行為を責める言葉しか出てこない気がして、愛奈がついてくる足音を確認しながら無言で砂浜を進んだ。

 全身ずぶ濡れの愛奈が無言で靴を手に取る。

 どうしようかな、と思いながらその濡れていっそう細く見える女の姿に「これ着なよ」と脱ぎ捨てていた服を渡した。

「夏とはいえ冷えちゃうよ」

「あなたは」

「俺は大丈夫。原付のシートの下にTシャツ入れてるから」

 それなら愛奈にはその綺麗な着替えを渡せばよかったかな、と思ったが、すぐに愛奈に布を着せることが重要だと判断した。海に慣れていないであろう愛奈の方が、自分より風邪を引く確率が高いだろうと。

「こんな濡れてるし、どうする? 止まってた民宿よりも、うちに近いし榧下さんの家の方が近いけど──」

「今」

 愛奈が強い口調で、湊の言葉を遮る。

「あの家の人の顔を見たくない」

「……ねえ、親戚の子って聞いてるけど、何があったの? 喧嘩したってこと?」

 話せばわかるよというつもりはなかったが、これまで何も明かさない愛奈の態度がつくづく疑問だった。外泊までして、張る意地が硬すぎるだろうと。

 座り込んだ愛奈に、湊はサーフボードを隣に置いて座った。

「あなたのおばあちゃんに間違えられちゃうなんて、そこまで私似てるんだって思っちゃった」

 靴を見る愛奈の顔が歪んだ。何の話? 聞かなくてもわかった。湊の代わりに波が相槌を打った。

「私、榧下愛奈。……あの人の娘なの」

 佳帆と同じ、榧下という名字。あの人、という言葉が示唆する人は紗代子しか思い浮かばなかった。

「ずっと施設で暮らしてた。面会もなくて、会うこともないまま、そのまま大人になったの」

 それが、と愛奈は続ける。

「それが突然会いたいなんて言われてここに呼ばれたのは──臓器移植のためなんだと思う」

 昨日わざわざ家の前に来た紗代子の言葉を思い出す。──佳帆のために。

 そういうことか、と湊の頭の中で繋がった。

 佳帆のために戻ってきてほしい、とはそういうことか。

 無言の湊に、愛奈は自分の話を続ける。

「私を捨てた後に他の人と結婚して、子供がいるのは知ってたの。けど、まさか」

 愛奈が何も言わない湊を見てふっと笑った。

「事故に遭った娘がいたんでしょ?」

「……佳帆のことか」

 思ったより重い口調になってしまった自分の声に、湊は自分の思考が漏れていないか心配になる。──目の前の一人の女性が、自分の彼女の代わりとして呼ばれたのだろうと。

「知ってるの? 知ってるか、あの人と知り合いなんだもんね」

 田舎だしね、と続ける愛奈の横顔に、その娘が自分の彼女だと言うことは憚られた。

「しばらく一緒に暮らしてみないかって言われて、二十年ほっといて何をいきなりと思ったけど、やっぱり……その、どんな感じかと思って来てみたの。どんな感じかって、家族と暮らすっていうことが、なんだけど」

「……うん」

「一緒に暮らしてる男の人は私の父親じゃないらしいけど、父親と思ってくれていいから、って。どんな人が私の本当の父親なのか聞かなくて……あの人が私のことをどう思ってるかも、聞けなくて」

「うん」

 愛奈の話は一度こそで途切れた。髪の水気を絞ると、それから一度息をして、また続けられた。

「妹がいるって言われて。どんな子なんだろう、って想像した。けどその子は事故で入院してるから、そのうち会わせるよって言われてた。まあなんでそんなタイミングで、って少し疑心暗鬼になったけどね、正直ちょっとは……喜びが勝ってた」

 軽い相槌が打てなかった。二十年ずっと離れていた母親に迎えにこられて、喜びをまったく感じないなんて嘘だろうと思ったから。だから語られるこのすべてが、偽りのない話なんだろうと思った。だからこそやるせなさを感じた。それじゃ、あまりにも酷い。

「何もかも曖昧にされて私はなんのために来たんだろうって考えてたときに病院に行こうって言われて……多分あなたでしょ、あの人と移植がどうのって話してたの」

 頷く愛奈に、病院の談話室で話した相手を思い出す。佳帆にさえ聞かれていなければいいだろう、と話題を出した自分の迂闊さに辟易する。

 愛奈を追いかけてと言った佳帆の母親は、先に行った湊に追いつかないまでも愛奈を追いかけていたのだろうか。

「あの人病気なんだね。ろくにリビングとか降りないから知らなかった。使っていいって言われた空き部屋にずっとひきこもってたし、食事もコンビニで買って一人でとってたし」

 距離感がわからなくて。

 と言った愛奈に、湊の口の中に苦いものが広がる。それはそうだろうな。だってそんなの、ほぼ他人との生活なんだから。

「一週間ぐらいしてからかな、健康診断でも行かないかって言われたの。心配だからって。けど多分あれ……臓器移植には血液検査とか必要なんでしょ? だからそのために病院に行こうって私に言ったんだと思う。だって私風邪引いてたわけでもないし」

「うん」

「病院で待ちながら、妹を見てみようって思って、あの人をこっそり追ったの。会う勇気があったかは今もわからないけど……けどそれであなたとあの人の話を聞いちゃった」

 ごめん、と言えない。軽く謝れない。愛奈の吐露が続いた。

「帰るつもりだった。もう二度と会わないって、喜んだ私が馬鹿みたいだって。私のこと馬鹿にして、娘の予備としか思ってないくせにって」

 なのに、と愛奈は続ける。濡れたまま。髪から伝う水が顎を伝って落ちることにも気に留めず、愛奈は話し続ける。

「なのに──あなたのおばあちゃんの話を聞いたら、あの人のことを知りたくなっちゃった自分がいる」

 月明かりでに平線が色濃くわかる。隣り合っているように見えて、決して触れ合えない空と海。

「このまま帰ったら一生自分のことも知らないままになると思うと、すぐに帰る勇気も、出ない」

 今。

 昨日のように、帰ると言われれば素直に駅まで送って行く気だった。けれども湊がそう思った今になって、愛奈は帰る勇気が出ないと言った。

 帰る場所は、どこなんだろう。質問が自然と口をついた。

「……今までは、どんなところに住んでたの?」

「会社の社員寮。高校卒業して養護施設を出なきゃいけなかったから、住むところができる仕事を見つけるしかなくて」

 高校生に話すのは恥ずかしいな、と愛奈は言って続けた。その顔は確かに年上の女性だった。

「工場だよ。誰でもできるような仕事で、狭いところでずーっと同じことを繰り返す仕事。本当はもっと勉強もしたかったし、本当はもっと、広くて遠いところに行きたかったけど……浜松を離れられなかった」

 愛奈が言った浜松市は湖西市のすぐ隣で、それが育った養護施設の場所なのだろう。

 きっと離れられないと言った理由は、母親が自分を迎えにくるという希望だっただろう。胸に広がる感情が、怒りなのか哀しみなのか、湊にはわからない。

「だから迎えに来られて、仕事辞めて来ちゃった。社員寮出たから、帰る場所なんてなーんもないの! 私を待つ人なんて誰もいないの!」

「そんなことないよ」

 咄嗟に出た言葉だった。それでも湊は、大きな目を見開いて自分を見る顔に、この答えは正解だったと確信する。

「俺は明日、きみとサーフィンがしたいよ」

 満月のせいで夜でも顔が良く見える。それでも、愛奈の顔に残る潮の跡が、海のせいなのか涙のせいなのかわからなかった。

「……私、立てるようになるかな?」

「立てるよ」

 聞こえた声が弱気で、湊は自分の頭より低い位置にある愛奈の頭を思わず撫でた。

「いきなりサーフボードで立つ勇気があったんだから、すぐにできるようになるよ」

 妹たちにするようにしてしまったと、手のひらの髪の感触にすぐ手を離した。海水で濡れた髪は、きっと手櫛で引っかかる。湊は立ち上がりサーフボードを持ち上げる。

「飛びたいんだろ? 明日の朝、迎えに行くよ……どこに帰りたいか、教えて」

 湊が尋ねると、愛奈は泊まっていた民宿に戻ると答えた。

 愛奈の出した答えが間違っている気がするのに何も言えなかった。

 佳帆の母親の肝臓移植。肝臓をあげるはずだった、佳帆の代わりにやってきた愛奈。佳帆のことを思うと、愛奈がこの町にいてもらうことが正しい気もする。

 わからない。何もわからない。帰ると言ってくれればいいのに──俺が引き留めてしまった。

 コンビニに立ち寄ってから民宿に着くと、原付に跨ったままの湊に愛奈が言った。

「着替えが欲しい。あの家に、取りに行って来てくれる?」

「いいよ。箪笥とか漁っていいの?」

「荷物はバッグ一個に入ってるよ」

 わざと軽い調子で言った湊に、愛奈は表情を崩さずに言った。

「出てけって言われたら、すぐに出れるようにしてたの」

 その愛奈の声に、湊はやっぱり妹にするように頭を撫でてしまった。




 自分の家に帰る前に榧下家に寄ると、すぐに紗代子が玄関に出て来た。

「夜にすみません、その……」

 紗代子は心配そうに、突然一人で現れた湊の言葉を待っていた。

「荷物が欲しいそうで、取りに来ました」

 愛奈の、とは言わなかった。名前を言わなくても、それが誰の荷物のことかわかったようだ。

「……入っていいのかしら」

 紗代子の躊躇う様子に、自分の中に湧いた苛立ちを抑えて、湊は柔和に微笑んだ。

「じゃあ僕が入ります」

 お邪魔します、と言って強引に靴を脱ぐ。愛奈に出ていかれることを恐れている紗代子が、荷物を渡したくないことは明白だった。

 階段を上がると二部屋ある。小学生の頃は佳帆の部屋には何度も言っていた。突き当たりは佳帆の部屋。そして隣は使わなくなった健康器具などが置いてある物置部屋だった。

 扉を開く。

 湊の記憶通りにあった健康器具は隅に寄せられていた。小さな折り畳みテーブルはあるものの、布団が敷かれているだけで、雑然と衣装ケースなどが置かれている部屋は子供部屋とは言いづらかった。

 愛奈のイメージに合う服が乗ったエナメル調のボストンバッグを見つけて、中身を見ないように押し込んだ。使い古しだろうショルダー部分が汚れたバッグを持って部屋を出る。

 湊がバッグを持って階段を降りると、項垂れていた紗代子が顔を上げた。

「出て行くって?」

「今はまだどうするべきかわからないって言ってました。……正直、僕も聞いたら驚きが、あって」

 玄関で靴を履いて、紗代子に向き直る。

「僕もこれでいいか、わからないんです」

 向き直った紗代子は、土間に降りた湊と同じくらいの高さになった。紗代子が口を開こうとした時、湊の後ろの玄関が開いた。

「きみは、佳帆がこれ以上傷だらけになるのを見たいのかい?」

 佳帆の父親だった。農作業をしていたのだろうか、服装はところどころ土に汚れていた。

「怪我が治る前に、母親が死ぬのを見せたいのか? そんなことになったら、佳帆の心は今以上に傷だらけになるよ」

 愛奈にとっては他人だが、佳帆の父親。娘を思い出さずにはいられない顔に、声をかけられた湊は目を背けた。

「そもそも佳帆が事故に遭わなきゃ、あの子に声をかけることもなかったんだ……佳帆が十八歳になるのを待つだけだったのに」

「……すみません。失礼します」

 たまりかねて横をすり抜けて玄関を潜った湊に、後ろから佳帆の父親の声がかかる。

「戻ってくるように説得するのがきみの責任だよ」

 ボストンバッグを肩にかけて、湊は会釈だけして原付で駆け出す。

 わかってる。わかってるよ。佳帆が事故に遭ったのは俺のせいだ。

 どうしてこんなことになったのだろう。ヘッドライトの光は手前しか照らしてくれない。

 潮見坂を登り、坂の途中の民宿に着いた。外で待っていた愛奈の姿に少し驚く。

「外で待ってたの?」

「いつ戻ってくるかわからなかったから」

 愛奈の服装はさきほどと変わらない。まだ濡れたままの髪に、着替えしないまでもドライヤーで乾かしとけばよかったのに、と思う。佳帆なら多分湊を待たせてそうしていた。見た目と違って要領よくないんだな、と笑いそうになるのを堪える。

「朝まで戻らなかったらどうするつもりだったの」

「それはさすがに部屋に入るよ。けど、すぐに戻ってくると思ってたから」

 素直な言葉が湊には悔しい。この素直さは紗代子たちに見せていたのだろうか。きっと何も見せてなかったのだろうと話を思い出して思う。一人で食事をとっていたくらいだ、自分を見せるのが怖かったのだろうと。

 ボストンバッグを受け取った愛奈が上目遣いに湊を見た。

「あの人たち、なんて?」

 なんて言おう。さきほどのやり取りのどこを切り取っても、愛奈が傷つく気がした。だから

「……戻りたくない間は、戻らなくていいんだ」

 湊の口からは、そんな感想めいた言葉しか口から出なかった。本心からの言葉のはずなのに、ずっと戻らなくていいとは言えなかった。

「じゃあおやすみ」

「うん、ありがとう」

 愛奈の声を聞いて、湊は消していたヘッドライトを再び点けた。手前しか垂らさないライトに気にも留めない石ころの影がやけに大きく浮かぶ。

「あ、湊……くん」

 聞こえた自分への呼びかけは、名前の後に悩んだようなくん付けがあって、笑みを隠せなかった。

「なあに? 愛奈ちゃん」

 口元の笑みを隠さない湊が言った自分の呼び方に、愛奈が不満そうに口を二、三度開くが、上手い返しが浮かばないようだった。それを見て湊は余計笑ってしまう。

「また明日ね」

 それだけ言って、アクセルを捻った。

 わかってる。佳帆のことを思えば愛奈を説得して戻ってもらうのが正しい。

 なのに。

 下り車線を走りながら、愛奈の顔を思い出す。

 すぐには差し出せないと思った。年上の愛奈は、自分よりも子供だ。親からの愛を何よりも渇望する、自分よりも子供じゃないか。

 そう思って、胸に湧いたものに妹のような存在だとラベリングをつけた。

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