表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
水槽の中のシーグラス  作者: すずき


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

4/7

第三章

 浮いているな、とスマホを覗きつつ窺った周囲の様子に愛奈は思った。

 病院のエントランスは、降り注ぐ白い照明と窓から差す西陽で乳白色をしている。待合の椅子に座る愛奈は、オフショルダーの服を着て非常に若者らしい姿をしている。真っ黒のアームカバーが明るい髪と場所にしては派手目な服装からやや浮いている。

 背もたれのないブロックのように横に長く組み立てられた椅子の端に座りインスタグラムを開いて時間を潰そうとするが、心許ない電波マークといつまでもリフレッシュされないリールに諦めて画面を閉じる。

 受付を見るとここまで自分を連れてきた紗代子がまだ列に並んでいた。老人の列の中で、さほど背の高くない紗代子の身体が高く見える。

 健康診断でも受けないか、と言ってきたのはその家の主人だった。赤の他人と言い切ってしまうと引け目が生まれるその男からな提案に、悩んで愛奈は頷いた。

──だってコンビニ弁当ばかりだから。ほら、今までの生活も大変だっただろうし。

 愛奈がコンビニでの食事を選んでいるのはささやかな反抗心だったのだけれど、それを真っ直ぐに攻めてこないのは非常にらしい(・・・)と思った。何十年と育んだ親子ではない関係らしい(・・・)。

──じゃあ十六時半に予約してあるから、お母さんの運転で行っておいで。

 続けて言われた言葉に、承諾を取る前から予約していたのかと少し不服に感じたが、そこには突っかからずに頷いた。

 家から車で四十分ほど。運転する紗代子から、時折「ちょっと揺れるかも」「曲がるよ」と言われる言葉に頷くだけで会話らしい会話もなかった。

 スマホのホーム画面に並んだアプリの中から青いプライム映画のアイコンをタップする。

 格安SIMのスマホの電波は頼りない二本線になっていたが、続きを見る、に表示された映画はダウンロード済みで問題はないだろうと、再生を開始した。読み込み中の画面の合間に音量を消してマナーモードにしていると、一つ空いた隣に見知らぬ老人が座る。並んでいた紗代子はやっと受付の順番にがきていた。もうすぐ戻ってくるかな、と思って椅子の少し外側に座り直す。一つ開けた隣の席にはおじいちゃんかおばあちゃんかわからない老人が新聞を広げていた。

 再生する洋画のラブストーリーは字幕版なので音を出さなくても問題はない。病院に来る時間になるまで、家で半分ほどまで観ていた。

 ブロンドのヒロインは、タクシーの中で恋人に電話をかけているが、恋人の応答がないままタクシーは目的地に着いてしまう。

 そのまま観ていると、画面の外で紗代子が受付から戻ってくる姿が見えて、映画を一時停止させる。

 戻ってきた紗代子は愛奈の隣に空いた席に目もくれず、「後ろ座るわね」と言って愛奈の後ろに並んだ椅子に座る。後ろに座った紗代子に背中を見られている気がして、一時停止した映画を再開した。

 それはちょうどヒロインが憧れの俳優と出会った場面で、大ファンだと明かしているシーンだった。いきなり撮影所に入ってきたヒロインは、俳優に誰かと問われて、自分が誰かも分からなくるほど頭が真っ白だと答えている。

 愛奈の隣の空いた席に、レスポートサックのバッグをかけた老婆が座った。愛奈とひとつ開けて座っていただろう老人と顔見知りのように親しげに話し始める姿に、居心地の悪さを覚える。

 後ろの席に意識が向いてしまって、手元で再生した映画に集中できない。

「……待ちそうだからちょっと離れるわね」

 ふと愛奈の後ろの席に座っていた紗代子がそう言って立ち上がった。画面に向けた顔を動かさないよう目線で追うと、比較的若く目立つ後ろ姿はエレベーターと表示が示す方向に向かった。売店とは方向が違う。

 館内には、二階以上には透析センターや入院病棟があると初めて来た愛奈にもわかりやすくなっている。一瞬腰を浮かせて、また座り直した。隣で老人たちの話は続いている。

 スマホで再生されていた映画を止めると、バッテリーを節約するためアプリをしっかりと閉じると、ロックをかけて画面を暗くする。それから紗代子が向かった方向に向かう。無関心な看護師とすれ違い、誰もいないエレベーター前に着くと、二機あるうちの一つは一階にあった。もう一つは三階の表示で停まっている。

 スマホの画面を確認した。水中の泡の写真の壁紙。上に向かって明るい方向の水中を、泡が歪な形で目指していく。全体的に青色の画面に表示されている時刻は、十六時十六分。予約の時間まではまだ十分以上ある。紗代子の口ぶりからするに予約時間より遅れるだろう。

 エレベーターの回数表示を見やる。三階にあったエレベーターが四階、五階と上がっていく。

 ふと背後から、中年の男性に「押していいですか」と控えめな声をかけられる。

「すみません」

 答えてやっとボタンを押したとき、エレベーターはちょうど三階を通過してくるところだった。隣のエレベーターも上に向かって動き出していた。

 すみません、と言いながら降りてきた人の中に紗代子の姿はない。先ほどの男性と共に乗り込むと、3のボタンを押した。扉が閉まる前に、4のボタンも光った。あっという間にエレベーターが三階に止まると、愛奈は乗っていた男性に会釈をしてエレベーターを降りた。

 愛奈はすぐ目の前のナースステーションを横切り、並ぶネームプレートを見ながら歩いていく。不釣り合いな足跡だと思う。一歩進むたびに、厚底の靴音が重く落ちる。

 どうしよう、と思いながら歩く。ネームプレートは森やら加藤、鈴木やらありふれた苗字が並ぶ。だから自身と同じその珍しい苗字を見つけたとして、一体どうしよう。その苗字を見つけられないまま角を曲がる。

 曲がるとすぐ、病室の並ぶ廊下の向かいに開けた椅子の置かれた場所があり、そこに紗代子の後ろ姿を見つけて、曲がったばかりの壁に背中を貼り付けた。息を止める。

「ありがとうね」と聞こえた。誰かと話しているようだ、と気付いて耳を澄ます。もしかしたらあの・・・かもしれないと思いながら聴いていると、聞こえたのは低い声だった。

「体調大丈夫ですか。移植が必要って聞きました。それを佳帆が……その、紗代子さんに、移植する予定だったって。だから」

「それはね」

 聞こえたのは探していた名前だった。どういうことだ、

「もう大丈夫なのよ」

 そう聞こえて壁から様子を見たとき、ちょうど振り向いた母親と目が合った。

「愛奈」

 ハッとした顔で名前を呼ばれて、来た道を駆け出した。

 聞こえた単語がバラバラのまま、廊下を走る。

 横切ったナースステーションから看護師の「走らないで!」と注意が飛んできたが、慌ててちょうど開いたエレベーターに乗り込んだ。

 エレベーターが閉まる。回数表様は下に向かっていた。早く。早く着け。

 エレベーターが一階に辿り着き開くと同時に外に飛び出した。

 そういうことだったのか。愛奈は再び病院内を走り出した愛奈は一つの結論に至る。

──私は、そのために呼ばれたのだ。


 道なんてわからない。外を出た瞬間に暑さが肌にまとわりついた。途切れ途切れの白線の中を走る。歩くのと変わりないようなスピードだったが、浅く息をしながら早く離れなければと厚底を履いた足でアスファルトを蹴る。走ってさえいれば駅がどこかに辿り着くはずだ。車が時折通り過ぎる。目的地に向かって走るエンジン音の中から、頼りないエンジンの音が聞こえた。

「きみ、ちょっと待って!」

 頼りないエンジン音を噴かせながら愛奈の横に現れたのは、古そうな原付だった。

「どこ行くの!?」

 相手にはしないと決めて、視線を向けないようにした。ただ急に走ったせいで肺の辺りが痛くて歩を緩めた。走っても追いつかれるだろう。愛奈は走り去るのを期待してゆっくりと歩く。

 減速した原付は早足の愛奈に並ぶように声をかけてきた。

「彼女いるしナンパじゃないよ! 俺事情があって女の子一人で歩いてるの見るの嫌だからさ!」

 ナンパにしては下手な文句だ。話す気はないと短く「駅」と答える愛奈に男は変わらず声をかける。

「ここ、駅まで遠いよ。バスだって病院には一時間に一本しか来なくてここはバスが通らない。あのど田舎病院、待機タクシーないからタクシー来ないよ」

「じゃあ呼ぶから」

 自然な感じ、というよりは気安い感じで話しかけてくる男に愛奈は露骨に顔を背ける。

 早足で歩き出したまま横に並んだ男を振り払う気持ちでスマホを取り出すと、電波表示は頼りなく一本だけ点滅していた。開かないウェブ画面を想像して、愛奈はすぐにスマホをしまう。

「怪しい奴じゃないよ、俺真瀬湊」

 名乗られてやっと、一回り背が高い男を伺い見た。白いハーフヘルメットからは茶髪が覗く、黒いパーカーを着ている若い男性だった。少し開かれた黒いパーカーの胸元からは青いペンダントトップのネックレスが見えた。

 愛奈の視線に気がついたのか、男はわざわざエンジンを切ると原付を降りると手で押しながら愛奈の横に並ぶ。さっと愛奈は顔を背けるが、男は挫けることなく愛奈の横に並んで話しかけてきた。

「榧下さんとこにいた子でしょ?」

 自分のことを知っているのか。顎を引いて睨め付けた。そうすると男の顔は困ったようにへにゃりと緩んだ。いっそう話す気が湧かなくなり早足になった愛奈を、男が重そうな原付を押して追いかける。

「乗ってよ、送ってくから」

「あの家にはもう行かないの」

「え? そうなの? うーん」

 男は唸ると、原付を思い切り押して愛奈の先に進んだ。立ち止まった愛奈の前でヘルメットを脱ぐと、前に突き出す。

「けどさ、周辺にコンビニもないし、こんなとこ歩き続けてたら倒れちゃうからさ、乗ってよ」

 どっか好きなとこ送ってくから。

 付け足された言葉に安心した。あの家じゃないところに行けるのならもうどこでもよかった。

「……あの家じゃない。私、帰るから」

 目の奥がつんとして、愛奈はヘルメットを受け取ると深く被った。

「うんわかったよ」

 男は愛奈の目の前で原付に跨ると「そこの黒いのに気をつけてね」と愛奈に言った。多分側面の黒いキャリアのことだと判断した愛奈は乗り方も聞かずに男の後ろに跨る。

 前に乗る男の背中を掴むと、何か言いたげな素振りがあったが、手を回すことは控えたかった。男はそんな気配を感じ取ったのか同じ結論に至ったのか、アクセルを握り「走るよ」と言って原付を動かした。

 先ほどとは違うスピード感で、変わり映えしない景色が流れ出す。泣かないように、男の背中を掴む手元をじっと見た。

 二人を乗せた原付は雑木林の間の一車線の道路をゆっくりと進んでいく。

 風を浴びて冷静になる頭の中で、愛奈は聞いたパーツを組み立てる。──紗代子。佳帆。移植。

「そういうことね……」

「なんか言った?」

「別に」

 ノーヘルに靡く茶髪が不良っぽいなと思った。軽そうな容姿といい、マイルドヤンキーなのだろうと。それでもどんな人種でもいい。どうせ自分も底辺なのだ。とりあえず病院から、紗代子から離れられれば──それでいい。それでも今更自分が掴まっているこの運転手はなんという名前だっけ、と思い出そうとした。

──湊。真瀬湊。

 名乗るなんてナンパにはない律儀さだ。

「……えーっと」

 愛奈が自分のことを考えていることに気付いたように、運転手が口を開いた。

「名前を聞いてもいい?」

 男が愛奈に聞いたのがわかった。エンジンと風の音で気がつかないふりをする。愛奈はヘルメットを被った頭を黒い服を着た背中につける。

「複雑な事情があって家に帰りたくない気持ちもわかったんけど」

 眉間に力を入れる愛奈に、運転手が背中越しに話しかけた。

「新所原駅通過しちゃってさ」

 親しみのないその名称が最寄りの駅なんだろう。駅を通過していたことに気が付かなかった自分の落ち度に、戻ってよ、と愛奈が言おうか逡巡した一瞬だった。

「夕方以降はほんとこの辺不便だから、とりあえずそこの民宿に泊まって一晩休むのはどう?」

 わかった、と言った声は自分でも苦々しく感じた。男はそれに気がついた様子もなく続ける。

「アメニティとか中は知らないけど、泊まれるところ知ってるからそこまで送るよ」

「わかった」

 頷くと、愛奈は湊のパーカーを握る手に力を込めた。あの家に戻らないで済むのならば、それでよかった。


 何も話さないまま、二十分ほど走り続け平坦だった道を抜けた。交通量の多い下り坂になった。湊の運転する国道一号沿潮見坂の途中にある民宿だった。

「はいここ」

 原付が止まったのは坂の途中の民宿だった。二階建ての白くて小さな建物には、道路に面する壁には霞んだ文字で民宿と書かれており、古めかしい建物はとうてい女性一人であれば絶対に選ばないような宿泊先だった。

 四車線の対向先には同じような古い『あけぼの』と書かれた建物があった。御定食御宴会の文字に、この坂の半ばは通過する旅行者や長距離トラックの運転手たちの休憩場所のようだ。

 愛奈はエンジンの止まった原付をすぐに降りてヘルメットを突き返した。ありがとう、とも言わなかったのは、湊と名乗った男が中までついてくるかもしれないという警戒心だった。

「あなた」

「ん? いや、ここらへん綺麗なホテルとかないんだよ」

 男はそう言ってヘルメットを被り直す。

「え、どうしよう。家に帰りたくなくてどこか一晩泊まるならここしかないかなって思ったんだけど、だめだった?」

「そういうわけじゃなくて」

 ついてくる気配はなさそうだ。そう思って愛奈は言葉を押し留める。単なる親切心?

 やり取りを思い返せば、榧下と苗字を言っていた。知り合いの知り合いだからということなのだろう。

「……どうも」

 結論が出ないまま愛奈が言うと、うんと男とは頷いた。

「うん。じゃあね」

 そう言うと、原付を動かしてすぐに言ってしまった。ちらほらとライトの着き始めた車の列に合流した原付を見て、それを見て、警戒し過ぎたな、と少し申し訳なくなる。けれどこの町に来たのだ、自分の警戒心は解けないだろう。

 愛奈が引き戸を開けて中に入るとフロントにいた男性は予約のない客に驚いたようで、それでも空き部屋ばかりだと愛奈に二階の部屋の鍵を渡した。ところどころ塗装のはげた手すりを伝いフロアマットの貼られた階段を昇る。

 自分の居場所はどこなんだろうと考えながら、愛奈は白い扉のシリンダーに鍵を差し込んだ。狭くて古い部屋は清掃が行き届いているのか心配になる匂いがした。ここまで愛奈を連れてきた男の言っていた通り、気の利いたアメニティなど一つもなく、古い洗面所には下向きに置かれたコップと袋に入った歯ブラシが置かれているだけだった。

 傷だらけの座卓の上のポットと湯呑みにも手をつけず、そのまま愛奈はベッドの上に寝転んだ。簡素なベッドの上で、スマホのバッテリーが半分以上残っていることを確認して目を閉じた。



 カーテンが開け放たれたままの窓からの光で目が覚めた。置かれていた簡素なベッドに倒れ込んでそのまま眠ってしまっていた。スマホを開くと着信が一件来ていた。紗代子からのものだと確認してスマホを再び暗くする。

「はあー」

 すぐに寝てしまった。早く起きてしまった。

 昨日考えようとしていたことを整理しようとして昨夜下敷きにして眠っていた掛け布団を体にかけたが、窓から差す光が眩しくて立ち上がる。カーテンを閉めようと窓辺に立つと海が見えた。青い海の中は時折白い波が砕ける。

 反射して映る自分の顔を見て、メイクを落としていなかった頬を撫でると指先で不快感がベタついた。

 手櫛で髪を整え最低限の支度だけ済ませると愛奈は部屋を出た。財布とスマホさえあればいい。もうどうにでもなる。

 この町から離れた方がいいと、容赦なく部屋の中に降り注ぐ光に顔を顰めた。


 他に客のないフロントで清算の手続きしながらタクシーを頼もうかと財布の中の硬貨を出していると、かけられた予想外の言葉に手が止まった。

「外にいる人、午前四時くらいからお待ちですよ」

「は?」

 言葉の意味を問うもので真偽を問うものではなかったが、フロントの男性は「いや本当に」と言って続けた。

「声をかけたらサーフィンするから早朝は慣れているんです──と言って」

 どういうことかと聞こうとしたところで、フロントの男性に金額を改めて言われて、再び硬貨を数えて取り出す。はいありがとうねと言われて、これ以上フロントに書いても意味がないだろうと確認のため引き戸を開けた。

「おはよ」

 そこには、昨日ここまで愛奈を乗せた茶髪の男性の姿があった。昨日とは違って、黒いパーカーとハーフパンツにサンダルというラフな服装に、昨日愛奈に被せたヘルメットを被っていた。

「足が必要だろ? 乗り心地いいわけじゃないけど乗ってってよ」

 そう言われて昨日とは違うヘルメットを差し出された時、パーカーのチャックの開いた胸元から、鈍く輝く青色のペンダントが着いているのが見えた。茶髪に、昨日はわからなかった茶色い目に自分が映って、昨日の、と呟く。

「そうだよ。覚えてる? 真瀬湊だよ」

 愛奈が頷く前に、湊は人懐こそうな笑みを浮かべた。

「寝起き? 朝ごはん食べた? 乗ってよ」

 昨日一回会っただけなのに、やけに親しげだ。畑ばかりで皆顔見知りだろう土地柄のせいかと愛奈は思う。

「なんで」

「なんでって、足があるかなって」

 確認は意味がなかった。──そうじゃなくて。

「はい、きみのヘルメット」

 湊は無言の愛奈にヘルメットを差し出す。昨日一人で送り届けられ、宿泊施設の前で食い下がることもなかった様子に変なところに連れてくるような度胸はないだろうと、目の前の湊は無害だろうと判断した。

「……駅まで」念を押すようにもう一度言う。「駅までなら、乗る」

「わかったわかったよ、送ってくよ」

 そう言うと湊は降参というように両手を挙げたので愛奈はヘルメットを被る。

「乗りにくいかも。気をつけてね」

 そう言われて原付を見ると、側面には昨日はなかったサーフボードがかけられていた。跨るとサーフボードと原付の間に足を入れた。

 湊が運転する原付は車がまばらな片側二車線の道路の下りレーンに入る。

「昨日は眠れたかな?」

「……おかげさまで」

「寝てなさそうだなあ」

 的外れな言葉に愛奈が視線を逸らすと、目の前に海が飛び込んできた。

 坂の上から見る海は朝の光を反射して輝いている。先ほど窓辺で見た海と違う。愛奈は眩しさに目を細める。白い波が歯を見せて笑っているようだ。

「ねえ、あのさ!」

 風を切りながら背後の愛奈に届く声量は、返事を求めているようだった。

「俺コンビニで朝ごはん買ってきたからさ、海でパン食べない?」

 妙な提案を一蹴しなかったのは、昨日礼の一つも言えなかったからだった。二度とこの地に来ることはないだろうから、罪のない自然くらい見納めにしてはいいかもしれない──坂から見える水面の煌めきは愛奈はそう思わせるには充分だった。

「わかった」

「ありがとう」

 そう言った湊のヘルメットから覗く茶色の襟足が日に透けて輝いていた。暖かそうだと思って、愛奈は俯いて湊の腰に手を回した。


 バイパスを降りると高架下を抜けて浜辺に出た。整備されてなさそうな砂利の駐車場に止めると、愛奈が脱いだヘルメットをハンドルにかけた。湊は自分のヘルメットを脱いでもう片本のハンドルにかけると、座っていたシートを上げて中からコンビニの袋を取り出した。

「浜のほう行かない?」

 そう言ってサーフボードを手に取った湊に、見るだけではない気配を感じた。

 意外と長くなるかもしれない。間を開けてサーフボードとコンビニの袋を持つ湊の後ろを歩きながら、スマホの時間を確認する。バッテリーは半分程度になっていた。低電力モードに変えて階段を登る。

 数段の階段を登ると、遮るもののない潮風が愛奈の髪を撫でた。通り抜けたバイパスの先が遥か遠くに消えている。

 愛奈が砂浜に視線を戻すと、湊が砂浜にサーフボードを寝かせて手を振っていた。微かに湿気を含んだ柔らかな砂が歩きづらく、進むたびに靴の中に砂が入っていく感触がある。

 愛奈がサーフボードの近くに立つと「靴大丈夫?」と言いながらパーカーを脱いで上半身を晒していた。

「この上座んなよ」

 湊はそう言うと浜の上にパーカーを広げた。さすがに気が引けて、愛奈は砂の上にしゃがんだ。

 湊もパーカーを挟んで砂浜の上に座り、ビニール袋を開いて愛奈に渡す。

「……お金」

「いいよ、連れ回してるの俺だし」

 連れ回してる自覚はあるのか。中を見ると四つほど袋に入っのパンが入っていた。いずれも惣菜パンで、どれも好みではなかったが、コロッケパンを選び取りビニール袋を湊に返した。

「え、一個? 足りなくない?」

「足りるよ」

 袋の中を漁る湊を横目に愛奈は袋を開ける。「いただきます」

 アッシュブラウンの髪を耳にかけて、はみ出ているコロッケ部分を食む。湿気たコロッケに味が濃い、と思った。湊もコーンが乗ったパンを食べ始めている。

「いつも朝早いの?」

「そんなに」

 湊からの質問に愛奈は短く答える。去り行く町で、ただの駅までの運転手に、自分のことを答える気はなかった。そもそも湊はよく知らない男だ。

 無言で進む食事の間、風が強くて愛奈は何度も髪の乱れを直した。パンは口中の水分を奪うし、髪の毛が口の中に入るから食べづらい。

 耳に届く波の音と後ろの国道一号とバイパスから聞こえる車の走行音だけが沈黙を誤魔化していた。

 湊はあっという間に二袋目のパンの袋を開けると大きな口で平らげ、ふう、と横に長く息を吐いた。

「強いオフショアでチューブっぽい」その視線の先には海があった。「時間ある?」

 湊の質問に、愛奈は海を見ながら答える。

「……あるけどないから」

「ありがとー!」

 何がありがとうなのか。

 それを聞いた途端、湊はサーフボードを持ち上げると砂浜に向かって走り出した。

 何歳なのだろうか。波打ち際にサーフボードを倒した湊が視界に入る。少し年上っぽいようにも、こうして無邪気な姿を見ると年下っぽい。湊はサーフボードの上に腹這いになると波に向かって進んでいく。

 愛奈はスマホを取り出す。使っていないのに、先ほどよりもバッテリーが一%減っていた。時刻は七時前だ。この辺には駅まで行くバスがないことを今日までの短期間の白須賀の生活で知っていた。子供に優しくない車社会。いや、自分は子供と呼べるのか、と愛奈は自嘲する。──もう二十一になるのにね。

 視線を海に戻すと湊はサーフボードの上に立っていた。

 湊は波に乗りながら腰を落とし、サーフボードを捻ると、落ちてくる波を助走をつけるように低い腰で避け波の上で跳ねる。ボトムターンとリッピングという技だったが、愛奈は名前までは知らない。

 水面を駆け波の上で自由に跳ねる姿に、上手いんだな、と愛奈はぼんやりと湊の姿を眺める。光に素直に反射する水面と、風に素直に揺れる海。自分もこの場所で育っていたら、海を好きになっていただろうか。

 砂浜には目立つようなごみもなく、綺麗にされているんだな、と思った。いや、人が来ないだけかもしれない。湊が原付を止めた場所には公衆トイレなどもなく、砂利と雑草だけの場所は整備されているような感じはなかった。人が来ないから綺麗な場所でいられるのか。

 強く吹いた風に、愛奈は髪を押さえた。湊がパーカーの裾を乗せたビニール袋が激しく揺れる。

 目の中に砂が入って目を閉じた愛奈の隣で、羽が広がるような音をした。ビニール袋の中のパンの空になった袋が舞い飛ぶ。

「あっ」

 浮かび上がった透明が透ける。一瞬、目の前のビニール袋が日光を反射して眩しく映った。愛奈は立ち上がり手を伸ばすが、その手は宙を掴んだ。

 この海を、汚したくないと思った。

「待って」

 煌めく海の上に、ゴミの一つを自分のせいで置きたくないと思った。

 砂浜に足を取られて思うように走れない愛奈の前でビニール袋は絶えない風に宙に踊る。

 ばしゃん、と波を踏む音が鮮やかに耳に届いた。遅れて足元が海水に浸かった。

「あっ」

 愛奈の手が空袋を掴んだ。その時

「危ないよ」

 両肩をぐっと掴まれた。

「大丈夫?」

 波打ち際に入った愛奈の肩を湊が掴んでいた。目の前に現れた男の上半身と肩の熱に時が止まった錯覚をする。絶えず聞こえていた波の音が強く跳ねる鼓動の前に遠ざかった。

「……だい、じょうぶ」

「袋追っかけてきたの?」

 湊はまだ愛奈の肩を掴んでいる。首筋に張り付いた茶色の髪の毛から垂れた水が、ネックレスに伝う。鎖骨の下で、濡れたネックレスが透明を帯びているのを見た。

「ありがとうね。ごめんね、俺が置き方悪かったから」

 パッと肩を離されて、愛奈は顔を背ける。やっと手に掴んだ空袋を握った。

「背、高いね」

「そう? そんなことないよ」湊が喉の奥で笑う。「まあ確かにクラスじゃ高い方ではあるかな」

 愛奈の足元は波に浸かっている。靴下の上にも、波の動きがよくわかった。

「学校、ブラジルハーフとかの奴が多くて。やっぱあいつら背ぇ高いし顔整ってるからずるいよなー。それで優しいから俺まじで取り柄ないよ」

「学校?」

 愛奈が尋ねると、湊がうんと頷いた。

「俺高三」

「……年下じゃん」

 愛奈の言葉に、湊がおかしそうに目を細めた。

「あ、やっぱ年上だよね。髪染めてるからどうかなーと思ってたけど」

 だから宿泊先に一緒に入ろうなどと言ってくる度胸もなかったのか、と愛奈は思う。それを度胸と言っていいかはわからないが。

「俺十八。何歳? 敬語使った方がいい?」

「別に」

 どうせこれ以上会うことはないんだから。そんな意味を含めたぶっきらぼうな返事だったが、湊は気分を害した様子もなく「濡れちゃったね」と愛奈の足元を見た。

「その服じゃ電車には乗れないし、一度民宿に戻ってシャワーでも浴びに行ったら?」

 そう言われた時に愛奈は、やられた、という気分になった。やられた、言い訳を作られてしまった。

 この町から、離れなきゃと思っていたのに、そんなふうに言われたら、離れられない。

 何も答えられずにいる愛奈の前で、湊は波打ち際に投げ飛ばしていたサーフボードを拾った。

 素肌の透けていた湊の胸元の青いネックレスが、再び曇った色に戻っていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ