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水槽の中のシーグラス  作者: すずき


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第二章

 三階に止まったエレベーターを降りる。ナースステーション前で湊が「おはようございます」ナースステーションに声をかけると、看護師が「おはよう」と声を返した。

「原付で来てるんだっけ。今日も暑くて大変だったでしょ?」

「俺なんて全然大変じゃないですよ」

 湊はそう答えて看護師に会釈をすると、談話スペースを通り過ぎて角を曲がり、奥の方の個室の前に立った。ネームプレートを確認する。明朝体フォントの『様』の前に手書きで書かれた名前を確認する。

『榧下 佳帆』

 ノックをして、返事を聞いてから扉を開ける。

「湊ぉ、おはよう」

 ベッドから間延びした声が投げられて、少し安心しながら歩み寄る。

「おはよう、佳帆」そう言って、湊はベッドの傍の丸い椅子に腰を掛けた。「寝てた?」

 湊の問いかけに、えへへ、と佳帆は笑った。

「寝るくらいしかやることなくて」

 そう言った佳帆の白い病衣の袖は両腕に分厚く巻かれた包帯で隠れており、指先だけが僅かに覗いている。その指先も青白く腫れ上がり爪の周りが赤黒く変色していた。

 十日前、浜辺で湊と別れた帰り道、佳帆は交通事故にあった。夏休みを迎える寸前での出来事だった。

 事故は、道路に飛び出した湊の祖母を庇ってのものだった。八時間に及ぶ大手術。

 俺のせいだ、と湊は佳帆からもらったシーグラスのネックレスを握りしめていた。俺のせいだ。いくら強く握りしめても傷つかない破片に、もどかしさを感じた。

 命を取り留めた佳帆への診断は、両側腕神経叢損傷と、右足の解放骨折。特に重症なのは利き腕である右腕だった。五日間面会謝絶の集中治療室で療養し、湊が会ったのは一般病棟の個室に入った二日目だった。

 事故に遭った日に貰ったネックレスを着けて面会に来た湊に、佳帆は怒らなかった。

──ごめん。俺のせいだ。

──湊のせいじゃないよ。

 全治三ヶ月。足の骨折はそれぐらいで治り歩けるようになるということだが、腕には後遺症が残るかもしれない。今後の手術や治療次第でどこまで回復できるかわからないが、腕には後遺症が残るかもしれないと言われた。

── 湊、それ着けてくれてるんだね。

 うん、と湊は頷いた。佳帆から送られたシーグラスのネックレス。曇った表面の青い欠片は窓からの日光を反射せず輝かない。

──ずっと着けるよ。

 決意を込めて言った湊に、佳帆は微笑んだ。

 それから三日、連日湊が通っているうちに最初は少し暗かった佳帆の表情もだんだんと明るくなってきたように思える。それでもまだ顔に残る額や頬の擦り傷が湊の胸を締め付ける。

「湊、タブレットテーブルに置いてくれるー?」

「はいはい」

 そう言われて、湊は立ち上がると、布団の下の足元にも包帯が巻かれていることが明らかな膨らみのベッドの足元を回る。窓側に置かれていたキャビネットの上からタブレットを手に取ると、ケースを使ってベッドテーブルの上に立たせた。

「ティーバー開いてー」

「はいはい。何見る?」

 湊がアイコンをタッチすると「うーん」と佳帆が唸りながら目を凝らす。

 佳帆の黒髪が邪魔そうに動いたので、湊はそっと手を伸ばし耳にかけてやる。

「あ、あー、これにしよっかな。それ、不便な便利屋ってやつ」

 湊は「わかったよ」と言って、バナーをタップしてドラマの再生画面を開いた。

「毎晩消灯時間にタブレット横に置かれて、朝は誰かにお願いしないとタブレット用意できないから、湊朝早いし助かるー」

 湊は読み込み中の画面を見ながらかけられた愛奈の言葉に「もちろんだよ」と答えると、丸い椅子に座り直した。病院のWi-Fiに繋がったタブレットはすぐに読み込み、CMが流れ始める。

「ちょうど受験であんまドラマ観れなかった時ので、気になってたんだよね」

「そうなんだ」

 清涼飲料水のCMが終わると本編が再生され、佳帆の視線がタブレットに戻った。

「俺漫画読むから、飲み物とか飲みたくなったら声かけて」

「うん。わかった……湊」

 静かな呼びかけに、湊が佳帆の顔を窺う。

「……湊がいてくれてよかった」

「当たり前だろ」

──俺はお前の彼氏になったんだから。

 湊はそこまで言わず、スマホからベッドの上の佳帆に視線を合わせた。

 冷房の効いた空間にいるせいか、胸元のネックレスを冷たく感じた。



 ヘッドライトを点けた原付で家に帰ってくると、リビングで母親が忙しなく仕事の用意をしていた。

「あっ湊、おかえりー」

 母親は鏡を見ずに髪の毛を結えながら湊に声をかける。

 うんただいま、と返した湊が冷蔵庫を開けると、飲もうとしてたお茶はなかった。シンクを見ると空になったピッチャーが置かれている。

 とりあえず水でも飲むか、と水道水をコップに入れたところで母親が髪を一つに結い終えた母親が声をかけてくる。

「明日榧下さんとこの畑の手伝い行く? 来れそうなら来て欲しいって連絡あったわよ」

「ああ、うん、行けるって言っといて」

 わかった、と返しながらスマホを取り出した母親を見て、コップの水を飲み干す。

「愛奈ちゃんの分、湊が手伝ってくれてるのを見ると助かるわ」

 スポンジに洗剤をつけてピッチャーを洗いながら、うん、と湊は返事をした。

 湊の母親と佳帆の母親である紗代子は同い年で、同じこの町で生まれ育った。子供の少ない学校だったため顔見知りではあったが当時はさほど仲が良かったわけではなく、母親が高校卒業後この町を離れる頃、気がつけば既に佳帆の母親もこの町を離れていたらしい。

 湊の母親はこの町を出た場所で結婚して生活していたが、湊が十歳の頃離婚することになった。湊の下に双子が生まれたばかりで、三人の子育ては母親一人の手には余った。祖父母を頼りにして十年以上離れたこの町に戻ってきた時には、紗代子は佳帆を育てていた。両親が亡くなったことに合わせて旦那と共に移り住み、佳帆を産んでいたと、お互い子供がいるきっかけで話すようになった。

 湊がここに来たときから身近にいた佳帆は、双子の妹がいる湊にとっては妹のような存在だった。なのに。

 湊はピッチャーを洗い終えて水を洗い流す。

──夏休みの始まりと共に全部ひっくり返った。

 綺麗になったピッチャーに新しい麦茶のパックを入れて水を入れていると、母親が仕事用のバッグを持ち上げた。

「お米炊いて、晩ご飯作っておいてくれる? 冷凍餃子あるから。今から夜勤だから、朝までよろしくね」

「はーい」

 湊の返事を聞いて、母親はドアノブに手をかける。扉を開くと「あ、そうだ」と言って再び湊を見た。

「三年の夏休みだけど、職場見学とか行かなくていいの?」

 その言葉に、湊はすぐに答えられなかった。冷たい水になかなか溶け出さない麦茶のパックを見つめる。

「ま、湊はしっかりしてるから大丈夫か。やっと働ける歳になったんだよね。ほんと私頑張ったわ」

 麦茶のパックは、水出しでも美味しいと書かれていたはずだ。なのにすぐには、飲めるようにならない。お湯で沸かして、冷ましたほうが早かっただろうか。ぬるいお茶に妹たちが文句を言う様を想像した。

「佳帆ちゃんのこともフォローよろしくね。それじゃ、行ってきます」

「いってらっしゃい」

 母親が扉を閉めて、一人になったリビングのソファに横になった。

──学生最後の夏休み。

 はあ、とため息ついてスマホを眺める。LINEの通知にトークルームを開くと、クラスの男子のグループラインだった。

『オーキャン行ってきたわ』

『俺明日。親と行った?』

 すぐに既読がつき、『俺も外出て〜。一日塾なんだけど〜』『やっぱうちの女子の制服ダサかったよな』『すでに過去形。男は学ランで救われてるとこあるよな』などとくだらない雑談が始まる。

『夏休みみんなで遊び行かん?』

『こっちは今彼女と東京なう』『インスタ載せとけて』『あり』

 それぞれの吹き出しが飛び交うのを報告に、湊がそろそろトーク画面を消そうとした時だった。

『湊は? 遊び行こうぜ』

 友人の放った吹き出しに自分の名前が表示され、空のテキストボックスに文字を埋める。

『妹たちの面倒見なきゃいけないから、無理』

 送信しようとしたその時、ドタドタと階段を降りてくる足音が聞こえた。

「お腹すいた!」

「ご飯食べたーい!」

 リビングの扉が開くと同時に、双子の小学生の双子の妹たちが飛び込んでくる。

『みんなでカラオケとかにする?』『シダックス?』

 送信できないまま増える吹き出しに、打ち込んだメッセージを消してからスマホの画面を暗くした。スマホをポケットに入れると、妹たちに「ちょっと待っててね」と言って立ち上がる。

 テレビを見始めた妹たちの隣で冷凍庫を開ける。子供の頃好きだった冷凍餃子に、今はなんの思いもない。フライパンに並べて、鍋ごとしまわれた昨日作った味噌汁を取り出す。

 冷凍餃子を置いたフライパンの蓋の内側に蒸気がつき始めたとき、控えめな音でリビングの扉が再び開いた。

「宏さん」

「おばあちゃん」

 見れば妹たちと同じくらいの大きさになった祖母がいた。おばーちゃん、と妹たちがテレビから視線を移して、それからまたテレビに視線を戻す。

 ああ、やだな。

 湊は穏やかな表情を崩さないように「どうしたの?」と現れた祖母に聞いた。

「あれ、私の留袖、どこに置いてあるか知ってる? 見当たらないのよお」

 宏さん。それは今は亡き祖父の名前だ。祖母が自分のことを宏さんと呼ぶときは、大抵調子が良くないときだ。

「……二階で干してあるよ、だから大丈夫」

「そうなの? そうよねえ、あれはあなたのお母さんから譲ってもらった上等な留袖なんだから」

 しまいっぱなしじゃいけないものねえ、と楽しそうに笑う祖母に、悲しいような気持ちを抱きながらリビングのソファに座ることを勧める。

「お茶飲む? あったかいの淹れるね」

「ありがとうねえ」

 お礼の後に呼ばれなかった名前に、自分を誰だと思っているのかは質問しない。

 湊はやっとそこに薄く色がつきはじめたピッチャーを横目に、祖母の湯呑みを手に取ると緑茶のティーパックを入れタイガーの給湯ポットでお湯を注ぐ。

 祖母は、昔のことははっきりと覚えている。

「おばあちゃーん、今日清香がヘアゴム貸してくれなくてさあ、ひどくない?」

「彩香がこの前ヘアピンなくしたからじゃん。買い直してくれるまで貸さないんだからね」

 双子の話を「はいはい」と聞き流す祖母は、二人のことをどう思っているのだろうか。

 お茶を祖母に差し出して、炊飯器の残り時間を確認する。あと十三分。

──遊びになんて行けるわけないだろ。

 湊は冷蔵庫の中の醤油の量を確認して、夕食の準備を進めた。妹と祖母が眠ってから風呂に入る。寝る前に見たクラスのグループラインはまだしょうもない会話をしていた。




 夏の太陽がまだ本領を発揮する前の時間、湊は磨りガラスが格子状に嵌められた玄関を横に開いた。そのまま中に入って後ろ手で確認せず閉める。

「こんにちはー!」

 佳帆の家。榧下家の玄関。靴箱の上にいくつかあった家族写真がなくなっているのに気が付いて、罪悪感のようなものを感じて目を逸らす。

 足元を見ると、視界に白い靴が目に入った。この家にあって当然のレディースのサイズ感だったが、このサイズを履くであろう持ち主が履くロゴのものではない、と湊は予想する。ハイブランドを意識したであろうアルファベット由来のロゴの白い厚底の靴。佳帆の趣味ではない。

 どこかの部屋の隙間から僅かに漏れ出る冷房の風。

 違和感を感じながら厚底の靴と玄関に置かれた他の靴を見ていると、じゃらりと珠のれんが上がる音が聞こえて湊は顔を上げた。同時に、扉一枚隔てた後ろから、蝉の声が雑音として鮮やかに飛び込んでくる。

「湊くん」

 玄関に入ってきた湊を出迎えた女性は、根元まで茶色に染髪された髪を一つにひっつめ、茶色の染みができた薄手の長袖のシャツを着ている。

「紗代子さん」

 佳帆の母親である紗代子は、湊が挨拶をすると、吊り目とも垂れ目ともつかない丸い目を優しげに細めた。自分の母親と同世代だが、見た目の若さにおばさんと呼ぶことは憚られて名前で呼んでいる。

「じゃあ畑行こっか」

 紗代子はそう言いながら、先ほど湊が見ていた靴よりひとまわり小さい汚れていた靴に足を入れた。

 家の隣にあるビニールハウスはミニトマトを育てている。

 ビニールハウスの入り口でコンテナを軽トラックから降ろしていたのは紗代子の夫──佳帆の父親だった。

「湊くん、おはよう」

「おはようございます」

佳帆ととよく似た垂れ目の父親の顔に、病室の佳帆を思い出して湊の胸が痛む。事故に遭った日から今日まで、一度たりとも責められなかった。

 いっそ責めてくれたら逃げ出してしまえるのに。彼らは大人だ。優しくされたら避けられない。檻は優しさで出来ている。

「今日もよろしくね、佳帆の分まで」

 コンテナの積み下ろしを再開した佳帆の父親に軽く頭を下げてビニールハウスの中に入る。

 入るとすぐ、湿度が体の内側から実体になって現れた。列に沿って植えられたミニトマトはちょっとした木のように長く、行儀良く支柱に沿ってまっすぐ上に伸びていた。

 湊は額の汗をこすると軍手を着け、紗代子に言われた列にしゃがみ込む。

 葉の茂ったトマトの苗に手を伸ばすと、ヘタの真下まで真っ赤になっているトマトを選び実を押さえて茎の曲がっている部分と反対側に折り収穫してはカゴに入れていく。

 ぷつっと小気味よく取れるが、案外手作業での収穫はコツがある。中学生で手伝い始めた頃にはヘタをもいでしまったり実を潰してしまうこともありハサミで始めた収穫も、今や考え事をしながら手作業で行えた。──佳帆のこと。

 出会ったばかりの小学生の頃はピアノがうまかった。図工と音楽が好きな女の子で、中学からは吹奏楽部、買ってもらったフルートを続けるのかと思いきや、高校生になると湊と同じ帰宅部を選んでいた。

──帰る時間同じになったら、湊に乗せてってもらえるでしょ?

──そんな理由? 見つかったら怒られるの俺なんだけど。

 湊と佳帆が住んでいる町は、駅まで行くのに自転車で四十分かかる。徒歩であれば一時間半はかかる通学の主な手段は自転車と電車で、同じ地域から通学しているのは湊と佳帆だけだった。

 三十人ほどいた中学の級友のほとんどは、隣の政令都市の学校に行く者が多い。皆そのまま離れる距離を広げて大学に進学し、もう帰ってはこないのだ。湊も先輩を見て知っている。

 好きで選んだ帰宅部ではなかった。小学生の妹たちと祖母だけでの留守番が不安で母親に頼まれて帰宅部になった。

──私は農家向いてるんだよねーこのままずっとここにいるんだろうなあ。

 学校に向かう原付の後ろで、佳帆がそう言ったのは、湊が三年生、佳帆が二年生に進級したこの春だった。

──湊は?

 俺は。

 なんと言っただろう。風の音で聞こえないふりをして、答えなかったかもしれないな。思い出しながら、トマトでいっぱいになったコンテナの上に新しいケースを置いた。


 二時間ほどの収穫作業を終えてビニールハウスの外から出た。バイト代を受け取るため、紗代子とともに榧下家の玄関に戻った。

「奥から取ってるから、待っててね」

「はい」

 そう言われて玄関先で立っていると、突然背後の引き戸が開いた。

「わっ」と女性の声が聞こえた瞬間、柔らかな衝撃が背中にぶつかってきた。湊が振り向いた瞬間、硬い物とビニール袋が落ちる音が玄関に広がる。

「えっ」

 振り向くとアッシュブラウンの長い髪の女性がしゃがみ込んでいた。土間には中身の入った雑誌が顔を出したビニール袋とスマホが落ちている。

「俺拾います」

 慌ててしゃがみ込んだ湊の視界に雑誌の名前と白い靴が目に入る。先ほど目に止めた靴だ。気が付いて目の前のビニール袋に伸ばした手が止まった。

「いいんで」

 湊の目の前に落ちるビニール袋が、冷たい女性の声と共にさっと手に取られる。黒いアームカバーをつけた女性の細い腕。同じ高さの目線にいたのは、少女といってもいい若い女性がいた。

──同い年、くらい?

 なんでこの家に。

 シャツを斜めに羽織り片方の肩だけを出すオフショルダーの服装の女性は、知る限り佳帆の交友録にはいない。

 そもそも友達が来るにしてはまだ早い時間だしそもそも佳帆は入院中だ。

 女性は湊の無遠慮な視線に気付いたようにやや顰めたような顔をしながらスマホも拾い上げると、玄関で我が家のように靴を脱ぎ目の前の階段を登った。

 オフショルダーで剥き出しになった肩とアームカバーがチグハグだな、と思った。──歳は同じくらいだろうが大人っぽい雰囲気が、佳帆にはまったく似ていない。

 立ち上がると玄関の棚の倒された写真立てが目に入る。正直好みのタイプだったが、今の自分には佳帆がいる。湊は被りを振る。

「お待たせえ、ごめんねー、これ、今日の分」

「あ、ありがとうございます、あの」

 戻ってきた紗代子が持っていた封筒を受け取ると、湊は一度白い靴を見て聞いた。

「さっき、二階に行った女の子とすれ違ったんですけど」

「親戚の子よ」キッパリと紗代子が言った。「色々あって、うちに来てるの」

 その口調が、なんだかそれ以上は聞いてほしくはなさそうに感じて「そうなんですね」とだけ湊は答える。

「佳帆のところには何時ごろ行くの?」

「あ、この後着替えて行こうと思います」

 打って変わって明るい声で紗代子に

聞かれて、湊はすぐに答える。風の止まった玄関内で汗を吸って重たくなった服に、改めて不快感を感じた。シャワーを浴びてから行こう。

「そう。じゃあ私たちは気を利かせて午後から行くわね」

 その言葉に、湊は笑って答えたつもりだった。


 原付を運転して病院に着いた湊が佳帆の病室に行くと、女子たちの声が聞こえていた。湊が扉を開けると、佳帆のベッドと隣の椅子に座っていた女子が振り返った。女子三人で盛り上がっていたのか。来ていた二人の女子たちには見覚えがあった。佳帆の友人で、湊からは学校の後輩だ。

「あ、湊先輩だー」

「こんにちはー」

 二人は湊の顔を見るとベッドに寝そべる佳帆に意味深な笑いを向けた。

「久しぶりだね。俺なんか買ってこようか?」

「いえいえ! 大丈夫ですよー!」

 湊の言葉を聞いて、ベッドに座っていた女子が立ち上がり、丸椅子に座っていた女子を小突いた。

「じゃあ私たちお邪魔になっちゃうんでー」

「そろそろバスの時間だしね」

 二人は顔を見合わせると「じゃーねえ佳帆」とベッドに寝そべる佳帆に笑いかける。

「来てくれてありがとう」

 そう言った佳帆に「また来るよー」と二人は笑いかけて、湊に会釈を残して通り過ぎる。

「やっぱ佳帆と湊先輩付き合ってたんだね」

「一年の子に教えてあげよー」

 二人の会話がまだ開いていた隙間から入り込んできた。わざわざ言うことないだろうとは思いつつ咎めることはできなくて、夏休み明けには佳帆との関係のことが広がっていることを予想した。音を立てて扉が閉まる。皆とは表情を変えずに佳帆に伺った。

「昨日のドラマの続きは観た?」

「まだ途中」

 楽しかったのだろう。笑みを浮かべて答えた佳帆に少し安心しながら「じゃあつけよっか」と言って立ち上がりタブレットを用意する。

「湊がなんか観たい?」佳帆が湊に聞く。「ユーネクスト入れてもらったけどアニメも多いよ」

「アニメそんな観ないし、漫画で充分派」

 今まで実際、アニメやドラマなどタイミングを合わせて毎週追わなければいけない映像作品は触れてこなかった。漫画だけは自由な時間に読めるので暇つぶしの専らは漫画だった。湊が答える。

「佳帆が好きなものでいいんだよ」

「えーじゃあ続き観よっかなあ」

 そうしなよ、と言って昨日と同じドラマの画面を開く。視聴済みエピソードは湊の記憶よりも多くなっていて、少し胸が痛んだ。──ほんと、観ることしか今はできないんだな。

 再生されるドラマの音声だけが室内に響く。

「宿題とかやんなくていいの?」

 好んでやらないを選び取っているわけではなかった。ただ宿題よりも回復を、と言われた佳帆の前で、原因を作った自分がのうのうとやるわけにはいかないと感じていた。

「……うーん」

「湊中学の時はわりと真面目な印象だったんだけのねえ」

「えー俺いつでも真面目だけど? 真剣真剣」

「はいはい」

 笑って視線をタブレットに戻した佳帆に安心して、スマホで漫画の続きを読み進める。最新の更新まで残り数話というところで、少し飽きてインスタグラムのチェックに移る。ストーリー欄には中学の友人たちの夏を満喫する動画が転がっている。湊はさ、と聞こえてインスタグラムを閉じる。

「湊は進学、しないんだよね? この町離れたりしないよね?」

 佳帆は湊を見ていなかった。垂れ目の中の瞳に四角い画面が映っている。湊はしないよ、と小さく答える。

「いきなりごめんね、けど卒業はちゃんとしなよね! 三年生んなってちょいちょい休んでたでしょ? 不良すぎ!」

「あはは、サーフィン疲れて寝落ちして休んだりしちゃったからね」

 嘘を言った。嘘に嘘を重ねた、と思った。肩が重く感じるのは、ネックレスなんて着け始めたからだろうか。──さほど重さもないのに。

「ま、俺不良だからさ」

 休んでいたのは、本当は、仕事が休めない母親に変わって体調が悪くなった妹たちの看病をしていたからだった。

「真面目なんじゃなかったのお?」

「男はちょっとくらい不良っぽい方がかっこいいでしょ?」

 湊がそういえば「そう言えなくもないかも」と佳帆が笑った。不良に至るまでの境遇はあれど、他人から見れば不良は不良なんだろうな。

 そう思って、また漫画のアプリを開いた。もう今日の無料分で読める話はなかった。

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