第一章
開きっぱなしのカーテンから白い日差しが入ってきて目を覚ました。男にしては少し長めの、毛先に向かって茶色になっている髪を掻き上げて、充電ケーブルからスマホを抜いて時間を確認する。
スマホの壁紙はワンオクロックのアルバムジャケット。表示された時間は、午前四時三十二分。ガジェットの天気予報は住んでいる静岡県の晴れを表示している。スマホの画面を暗くすると、体を起こし着ているTシャツを脱いでハンガーにかけていた薄手の黒いパーカーを素肌に羽織った。そのまま下半身もサーフパンツに履き替えると、薄明るく照らされた部屋を出て耳を澄ませる。
向かいの扉の奥では、小学生の双子の姉妹が健やかに寝ている証拠のいびきが聞こえて、ゆっくりと階段を降りる。そっとリビングに入ると、テレビの近くのソファで横になって毛布をかけている母親の頭が僅かに動いた。
白髪混じりの頭がそれ以上動かないことに胸を撫で下ろしながら、そのまま冷蔵庫を開く。今日は日勤か遅番らしい。寝ている母親の変動シフトを予想しながら、麦茶を飲んでコップをシンクの中に置いた。
用を済ませ玄関に向かおうとした薄暗い廊下で、足元が何かに当たる。やっちまった。息を止める。ぼすっと衝撃を柔らかな音で吸収した物を確認すると、袋に入った介護用オムツだった。
息を潜めたまま、廊下に面した襖の奥の祖母の様子に耳を立てる。起きた気配がないとわかって、喉元に当てていた手を放した。
よかった。最近の祖母は日没後や夜明けに家族が不安になる言動をすることが多い。こんな時間に起こしてしまったら、目的の一人での外出は難しくなる。
倒れていたそれをまっすぐ立たせると胸を撫で下ろし、再び音を立てないように歩きながら玄関でサンダルを履き、細心の注意を払ったまま外に出た。
「っしゃー……」
顔を上げると、真っ青な空に厚い白い雲が浮かんでいる。もう夏だが、まだ蝉の声は聞こえない。
ヘルメットを被り、玄関の傍に停めていた原付に跨る。
原付には側面に取り付けられたキャリアに白いサーフボードが載っていた。
静岡県湖西市。なんの特徴もない田舎だが、 太平洋に面した海を目当てに夏だけは多く人が集まる。
国道一号線沿いに広がる湖西市の白須賀海岸には、平日だというのに朝早くから広い砂利の駐車場にちらほらと車が止まっていた。
公衆シャワーとトイレが一体になっている建物の横に原付を停めると、パーカーを脱いでポケットの中のスマホとのバランスを考慮しながら原付のハンドルにかける。それからキャリアに取り付けたショートのサーフボードを持ち上げ、剥き出しの上半身で進む。
海にところどころ浮かぶオットセイのようなサーファーのシルエットがない場所を選ぶと、波打ち際から離れた場所でサンダルを脱いだ。まだ熱を持たない柔らかな砂。吸い込まれそうになる足を上げて波打ち際に進んだ。
ざぶざぶと水を掻き分け進むと、抱えていたサーフボードを水面に寝かせてその上に跨った。ノーズ(先端)が水面に上がるよう腰深く海の中に入り足を浮かせた。
それから遠くの太陽をを見つめると、繰り返し訪れる波の一つを選んだ。
手でサーフボードの向きを変え腹ばいになると、腕で水を掻き分け波に向かった。
ひとしきりサーフィンを終え、サーフボードを携えて頭を振って水気を飛ばしながら波打ち際から離れると、名前を呼ばれた。
「湊」
自分の名前を呼んできたその姿を認めて、湊は名前を呼んだ。
「ああ、佳帆」
砂浜に置いた湊のサンダルの近くには、黒髪をひとつに結ったTシャツとスウェットパンツというラフな姿の少女がいた。湊と目があうと垂れ目を細くして手を振った。
「見つけた?」
湊が目を細めて聞くと、佳帆は一つに結んだ髪ごと髪を横に揺らす。
「今日は見つからなかった!」
やや嬉しそうに聞こえた高音の返事に、湊は呆れるような顔する。波打ち際を背に人の増えた砂浜を進み出す湊に、佳帆がついていく。
「都会の海じゃないとないでしょ、シーグラスなんて」
波打ち際から離れたところで、湊は持っていたサーフボードを寝かすと、片膝を立ててリーシュカードで繋がっている足首のカフを外した。
「けど見つけたこともあるよ? 前だって見つけたじゃん」
追いかけるように歩いてきた佳帆が笑うのをテープが外れる音を聞きながら、そうだどさあ、と相槌を打ち、そのままサーフボードに結ばれていたリーシュコードを外す。
「ほぼ毎日探すことないんじゃない? しばらく開けてから来た方が、貝とかその破片とか見つかるんじゃないの?」
「だって湊は毎日来てるじゃん」
紐を纏めて一度髪をかきあげると、佳帆からタオルが差し出された。湊はありがと、と言って受け取ると、雫の垂れていた前髪を顔ごと拭った。
「サーフィンはシーズンが限られるの。……今、お母さん病気で大変なんだろ?」
「……ああ、うん」
「どうしたの?」
湊は剥き出しの上半身の水気を拭うと、タオルを首にかけて見下ろした。急に歯切れ悪くなった顔を見ると、視線が重なって佳帆は笑顔を作った。
「これ! 前に見つけたシーグラスで作ったの!」
そう言うと、佳帆はスウェットのポケットから取り出した物を湊に見せた。
「へえ、すごいじゃん」
銀色のチェーンが通る穴の空いた石は、青と緑の中間色をしていて、雫の形をしていた。誰も傷付かない破片になったシーグラスの表面は磨りガラス状で、太陽の下に掲げられても向こう側は透けて見えない。
「佳帆は器用だもんね」
湊が湖西市に引っ越してきて十年。元々こっちが地元であった母親は佳帆の母親とも仲が良く、一つ年下だが会う機会が多かったせいで、佳帆の手先の器用さを湊はよく知っていた。
「これ、湊にあげる」
「え? まじで? いいよ、もったいない」
湊が高校三年生になり、春からサーフィンをしていると顔を出すようになった佳帆が、ゴールデンウィークに見つけた物だった。湊はそのシーグラスを見つけた時の佳帆の喜びようを覚えていたから遠慮した。
「いいの! もらって!」
「えー……じゃあ、うん」
すぐに着けるのも気が引けて、返せと言われる可能性も検討した上でとりあえず手の中に握り締める。
湊が受け取ると、佳帆は満足したように笑って歩き出した。湊はサーフボードを持ち上げて、数歩遅れて歩き出す。
「……お母さんなんだけどね、手術で治るかもしれなくて」
「え? そうなの? よかったじゃん!」
横に並んで佳帆に笑いかけると、ペディキュアを塗ったサンダルの歩みが止まった。
「私の肝臓を移植すれば、元気になるかもしれないんだって」
波の音のせいだろうか、うまく聞こえなかった。
湊は半歩遅れて足を止めて、佳帆を見た。
「生体肝移植っていうんだって。健康な人の肝臓の一部を切って、病気の人の肝臓に取り替えてあげるんだって」
湊は聞こえた言葉を脳内で変換すると、何も持っていない手を薄手のTシャツの胸元に当てた。
「ここから、ここまで」
佳帆は胸下したからみぞおちまで人差し指で線を引く。膨らみの下から添えられた指に、湊は一度視線を逸らす。
「お腹開くから、傷ができるし、その傷は一生消えないんだって」
お母さんが治るからいいんだけどさあ、と言うと、佳帆は再び手を脇に戻して歩き出し、立ち止まったままの湊に振り返る。
「みーなーとー!」
呼びかけられた湊は顔を上げて、朝日を浴びて、頭の先が茶色に透けた一つ年下の女の子を見た。
「傷跡がある女なんて、湊の彼女にはなれないかな?」
緊張すると、困ったことように眉毛を下げる佳帆の癖を、湊はよく知っている。
「……え?」
それでも、その口からこれから放たれる言葉を、知らない。
「私、湊のことが好きだったの。好きなの。だから考えてほしいの」
佳帆は笑って続けた。
「私の手術が成功したら、付き合ってほしい!」
「ちょっと待って。佳帆、それ」
「あー恥ずかしい! 今日は送らないで! 私、先に帰るからっ」
湊が一歩踏み出すと、佳帆は湊に背を向けてサンダルで駆け出した。
砂浜を蹴るように進む背中に、これからどんな顔をすればいいんだと、湊は残された足跡を辿りながら、シーグラスのネックレスをサーフパンツのポケットに押し込む。
堤防を越えて、剥き出しの公衆シャワーでサーフボードを洗いながら、佳帆の後ろ姿を思い出す。すぐ横に留めていた原付のキャリアに濡れたサーフボードを乗せると、ハンドルの上にかけていたパーカーを見つめてじっと考え込んだ。
「あーっ!」
唸りながら振り払った髪から飛び立ったのが汗か海のどちらかわからない。どちらにしろ塩水だ、潮で漂白されて茶色になった髪を掻き上げた。
取り付けたサーフボードを再び手に取る。
「いきなり! どんな顔すればいいんだよ!」
もう一度波に乗ろう。そう決めて、サーフボードを持って来た道を走り出そうとした時、スマートホンの通知音が聞こえた気がしたが、湊の注意は足元のサーフボードに逸れる。
「やべっ、溶ける」
ワックスを塗っていた表面を地面に置いてしまっていた。慌てて持ち上げると、ポケットの中の重みを思い出して、先ほど佳帆からもらったネックレスをスマホが入っているパーカーのポケットに捩じ込んだ。
それから冷静になろうと飛び込んだ海の波にはうまく乗れず、すぐに帰ることを決めた。
原付を乗るときに確認したスマホのメッセージは母親からだった。
『今から早出することになったから、おばあちゃんとみんなのことお願いします』
送信時間は二十分前だった。佳帆のこと悩んでる時間もないな、そう思いながらエンジンをかけた湊の原付を、パトカーと救急車がサイレンの音で潮騒を掻き消しながら追い越した。




