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水槽の中のシーグラス  作者: すずき


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序章

「次はー、新居駅。新居駅に停車致します」

 アナウンスが聞こえて、愛奈は制服の長袖を手の甲まで伸ばす。ゴールデンウィーク真っ只中の車両には、他に制服を着ている子供の姿はない。誰もセーラー服姿の愛奈を目に留める様子に安堵すると同時に声をかけてほしい気持ちにもなる。どうして休日に制服を着ているのと聞かれれば、素直に答えるつもりだった。しかし浜松駅からまもなく目的地までの乗車中、誰にも声をかけられることはなかった。

「新居駅に停車致します」

 顔を上げると、電車がホームに入った。四両編成の電車はすぐに止まって、つばにほつれのあるキャップを被った男性と共に愛奈は駅に降りる。駅の中は競艇場に繋がっているようで、改札に着いたのは愛奈一人だった。切符を入れると、愛奈は白い運動靴で改札を抜ける。

 駅のロータリーには車が三台ほど停まっていた。目的地にはコーちゃんバスという市営のバスが近くで止まるが、ゴールデンウィーク期間中は午後の一便しかなく、門限を考えると乗ることはできなかった。降りたら二時間ほど歩くことになる。晴れていた太陽に雲がかかり愛奈の影を隠す。今更天気予報を気にしていなかったことに気が付く。どのみち雨でも、今日しかないと思っていた。今日は愛奈が住む養護施設の職員の中で、規則に対し一番緩い人が勤務だったからだ。

 灰色に汚れた白い立体駐輪場を横切り、トタンで出来た二階建ての建物を通過する。四車線を跨ぐ歩道橋を誰ともすれ違わず降りて、空き地の目立つ県道四百十七号沿いをひたすら歩く。

 掠れた白線の中を愛奈はひたすら進む。車ばかりは多く、歩行者の姿は少ない。やがて歩いているうちに古い作りの家ばかりだった住宅地は途切れ、畑やビニールハウスばかりが目に入るようになる。時折信号で立ち止まるものの、立ち止まらずに進んだ。車が並ぶ大きな交差点を通過すると国道四十二号線になる。所々交差点に立つ青い標識に、学校のインターネットで見たグーグルマップを思い出して自分の位置を確認した。コンビニの跡地を通り過ぎ、愛奈がやっと腕時計を見たのは、駅を出てから一時間半ほど経ってからだった。高い位置に掲げられているセブンイレブンの看板が目に入る。

 歩行者通路から二車線向こう側に見えるなんの店かわからない黄色い建物もグーグルマップで見た記憶がある。息を吸い込むと潮の香りをほのかに感じた。

 目的地はセブンイレブンを背に二つほど曲がったころだった。畑の中を通る道だ。十五歳になってすぐに取り寄せた住民票の住所は、番地まで思い出せる。潮の匂いが広がる畑の堆肥の匂いに消える。セブンイレブンはもう横断歩道を渡ったすぐだ。

 駅のコンビニを通り過ぎた以降休憩できるような店がなかった。目印にしていた店に立ち寄りトイレで身だしなみを整えることに決めて横断歩道を待つことにする。これで会えたら、初対面になる。乱れた髪で疲れた顔の自分を見せたくなかった。

 雲が動いて、太陽が顔を出す。一人分の影が道路に伸びた影が車に踏まれる。

 押しボタン式の信号の交差点は、交通量が多いわけではなかったが、赤信号で渡ろうかと悩む絶妙なタイミングで車が走ってきていたので、愛奈は歩行者ボタンを押した。信号を見上げた時だった。

「──と私、付き合えると思う?」

 足元に新しい影が伸びた。高さに差のある二つの影は、車に踏まれることはなく、愛奈の後ろに並んで同じように信号を待っている。

「思うわよ」

 聞こえた少女の声に、大人の女性の声が答えた。愛奈は俯いて、服の袖を手の甲まで伸ばす。

「お母さんも最初はお父さんと付き合う気なかったもの。それが結婚して、こうやってずっと暮らしてるのよ?」

「えーどうして付き合ったの?」

 きっとこれくらいの年のはずだ、と思った。自分が会いに行こうとしている二人は、きっと。

「お母さんが落ち込んでる時にお父さんが優しくしてくれてね……うん、そう、だから落ち込んでる時に告白するのがいいかもしれないわね」

 歩行者用の信号が青に変わった。

「弱みに漬け込んでない?」

 あはは、と笑い合う二人が動き出して、愛奈の影に重なった。

「けど絆されたおかげで、幸せな今があるのよね」

 追い抜かした親子の横顔に、愛奈の足が止まった。視界に信号の点滅が目に入り、慌てて向こう側に渡りきる。綺麗な茶髪をした母親の横には、愛奈より少し年下であろう私服姿の女の子がいた。笑い合う二人が、セブンイレブンの自動ドアの中に入る。

──なんで。

 しばらくそのまま、動けなかった。太陽に再び雲がかかる。潮の匂いを感じて鼻を擦った。慌てて横断歩道を渡り終え、そのまま足を止めて、自分が履いていた白い運動靴を見る。この靴こんな汚れてたっけ。

「雨降りそうだなあ」

「えーどうするー?」

 駐車場で店内から出てきた人たちの会話声が聞こえて愛奈は視線を前に戻した。車の扉が閉まる音を聞きながら、視線の先にガードレールが途切れている場所を見つける。もうセブンイレブンに立ち寄る気はなかった。

 セブンイレブンを通り過ぎ、バイパスの下の国道一号の横断歩道を左右さえ確認せずに渡った。

 ガードレールの切れ目は浜辺への入り口だったようで、壁にシャワーの取り付けられた公衆トイレを見つける。誰にも自分を見られたくなくて、愛奈はすぐに飛び込んだ。

 洗面所の鏡に映る自分の顔を嫌でも見た。大人らしいほっそりとした頬の輪郭ではないが、そのはっきりした目鼻立ちは確かに先ほど通り過ぎた女性に似ている、と自分の顔に思った。

 隣にいた少女のことを、愛奈は知っている。彼女の名前も、生年月日も。

 愛奈は鏡に映る自分の顔に触れた。

──けれどあの子は私の存在すらも知らないのだろう。

 愛奈は手首を強く押さえながら呼吸を整える。腕時計を確認する。何分前に入ったかわからない。

 胸元と手首で鼓動を抑えて、数分して外に出ると、空にかかった雲から雨粒が落ち、地面に染みができ始めていた。

 低い堤防の向こうには、鉛色の空と、激しく唸る海。

 荒々しく立つ白い波が、愛奈を追い払おうと威嚇しているように見えた。

──なんで。

 その声は一度掠れた。

「なんで、幸せになってるの」

 誰にも届かないよう履き捨てた言葉は、愛奈の耳さえに届かず先に雨の音に撃ち落とされる。

 セーラー服が濡れたところから冷たさが広がっていく。目に雨が入る。鼻に雨が流れる。この嗚咽は雨のせいだ。

 愛奈は駅を降りて初めてしゃがみ込んだ。体が重く、足が今更傷んだ。立てない、と愛奈は堤防の前で丸くなる。もう立てない。帰りたくない。

 ふと、雨の音の隙間から声が差し出された。

「これ使いなよ」

 少年の声だった。

「え?」

 振り向くともうそこには人はいなかった。開かれたままのビニール傘が、愛奈の後ろに置かれていた。雫を弾く傘を持ち上げず立ち上がると、道路に向かって自転車を漕ぐ少年の後ろ姿があった。

 雨の中自転車に乗る姿は、横断歩道を進んで道路の向こうにあっという間に消えて行く。

 愛奈が傘をさすと、前髪から垂れていた雫が落ちるスピードがゆっくりとしたものに変わった。戻らなけらば、と思った。靴が重たくても、ここまで一人で歩いてきたのだから、自分一人の足で戻らなければいけない。

 踏み出した雨に濡れた靴は、来る時とは違う足音だった。


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