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水槽の中のシーグラス  作者: すずき


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第五章-2

 着替えてから病院に行く生活も三、四日繰り返せば慣れてきた。ナースステーションで誰が来ていないか聞く湊に、看護師が「恋人の両親と会いたくない気恥ずかしさはわかるよ」とばかりに目的の病室には誰も来ていないよと教えてくれた。

「佳帆」ノックをして呼びかける。「俺だよ」

「湊ぉ」

 聞き慣れた声に扉を開いて、おはよう、とベッドに歩み寄る。ベッドテーブルの上にはタブレットが置かれていた。

「今日も遅かったねえ」

 おはよう、ではなかった佳帆からの出迎えに内心冷や汗が湧いた。

「え? あ、そうかな?」

 時間は昼にはまだずいぶんまだあって、それでも今まで面会開始時間と共に来ていたのだから、確かにそうかもしれないと思った。──愛奈とサーフィンをするより前は、そうだった。

「最近畑やってないんだよね?」

「ああうん、まあ」

「湊って早起きじゃん。何してるの?」

 佳帆は自分が早起きなことをよく知っている。

 高校生になってからは学校最寄りの駅までは港は自転車で、佳帆は親の車で行くようになっていたが、家から徒歩で通っていた小学生から中学の間は、朝は佳帆を待っていた。いるのが当たり前のように、時間に遅れて現れたくせにおはよう、と笑うのだ。

 正直に佳帆に、サーフィンしているなんて言うことは出来なかった。後ろめたい。その感情は日に日に強くなった。明日はきっともっと口が重くなる。

 いっそ重さで二度と開かなければいいのに。

「学生最後だから……寝溜めしとこうと思ってね」

 なのに嘘は容易く、自分の口からいつもと変わらない軽い口調で出た。そんな自分が嫌になる、と湊は感じた。だからなんだって、どんなことだって、頼まれたって平気そうに思われるのだ。

「そっかあ、そうだよね、湊は三年生だもんね」

 大丈夫だ。この様子じゃ、両親から愛奈のことを聞いていない。

「ごめんねえ。なんか寂しくって、つい」

 自分が誰と過ごしてたかなんて、知らないはずだ。

 佳帆は善良で鈍い。だからこそ、妹のような親愛以上のことは覚えなかった。たったこれだけのやり取りで、ひどく疲れた気になる。サーフィンの疲れが今更来たのだ。わざと伸びをした肩が、重たく感じたのはネックレスのせいじゃない。

「そういえば、インスタチェックしてたら、佳帆が好きそうな店がオープンしてたよ。ガラス作り体験して、それから好きな飾りを選んでアクセサリーが作れるんだって」

 そうだなあ、退院したら行かない?

 そう、言おうとする前だった。

「できないよ」

 唯一自由に動く首を、動かせないとでも言うように湊のいない正面を向いたまま、佳帆が放った。

「動かないもん。痛いもん。傷だらけになっちゃったもん」

 しまった。硬い声に湊は間違いに気がつく。愛奈に対しては過去の話で、佳帆に対しては未来の話を──しないようにするべきだった。

「今まで好きだったことを言わないでよ。これからそんなの出来なくなったのに」

「ごめん」ベッドに寝そべる佳帆に向かって頭を下げる。「ごめん、俺……」

 俺のせいなのに。

 その言葉を発しようとすると、何かが刺さったように喉の奥が痛い。先程まで軽かった口が、途端に痺れたように重い。

「ううん、ごめんね。いーよお」

 途端に佳帆の首が湊を向く。白いシーツの上で束ねられていない黒い髪が動く。

「まあ休憩だと思ってゆっくりドラマとか見たりするんだ。知ってる? ツイッターでバズってるショートドラマ」

「……知らないなあ、教えてくれる?」

 湊がスマホを取り出すと、佳帆が「こっちで検索していーよお」と言って顎で示す。

 佳帆の指示通りに指を動かしながら、湊はこれでいいのだろうかと考えた。──仕方ないだろ。これでいいんだ、俺は。

 再生されるドラマは、ファミレスの中から始まった。彼らは同じ大学のサークル仲間のようだ。ファミレスでそれぞれが注文し始めると、佳帆が笑った。

「この抹茶ティラミスくださいってセリフを聞いた智子がさ、マッドサイエンティストどこ!? って聞き間違えたんだって」

「智子ちゃんが? 面白いね」

「なんの聞き間違いだよーて。ツイッターに書いたら地味にいいね結構もらったみたいで、これが一番なバズりとか嫌すぎる〜ってラインきた」

「それもそうだね」

「あ、ここでこの話してたんだあー」

 一度このドラマを見ていたのか話を聞いていたのか、気を遣って一話から再生したのだろうか、と呟いた佳帆に考える。主人公はどうやら一番地味に見える女の子のようだった。

 オムニバス形式のドラマは、二話でただの友達かと思っていた男が主役になった。笑顔で人間関係をそつなくこなしていた男が『生きるのが辛い』と吐露する。

「あー……この人」

 大変そうだなあ。そう呟こうとした湊の声を、佳帆が遮った。

「言えばいいのにねえ。あんな風に振る舞われてたら、わかるもんもわかんないじゃんねえ」

 湊の喉まで出かかった言葉が、佳帆の声に行き場をなくす。

「強いつもりだけど、弱いって言って、助けてもらう方が強いのにねえ」

 そうじゃない。きっと彼は、それを許されなかった。そう思うも、語る佳帆が意外だったと思ったことが重なって、上手く相槌を打てなかった。その間にあっという間に二話が終わり、三話に切り替わった。最初に登場した女の子の隣にいた、派手な女性が家で過ごすシーンに映る。

「この子好きなんだよねえ。朝ごはんやっぱ魚いいよねえ」

 パックの納豆を皿に出す丁寧さも、朝から魚の小骨を箸で丁寧により分けることも、あらゆる余裕の上のものだ。

「んー焼き魚時間かかるくない?」

「後から少し走ればいーんじゃん?」

 後から急げば短縮できる時間があると信じてる。そういえば佳帆は米をザルを使って研ぐタイプだったな、と湊は幼かった頃家に行き来する中で見た景色を思い出した。今まで引っ掛からなかったのに。

 今日はやけに、会話が耳につく。頭の中で斜線を引きたくなる。

 コンビニでパンを買っていた愛奈を思い出す。栄養バランスなんて考えてなさそうな甘いパンばかりチョイスしていた彼女は、きっと朝食に魚なんて焼かない。誰かを待たせるかもしれないときに、魚の小骨を丁寧に取らない。

「色んな人いて、面白いね」

「でしょー。なんか評判だった」

 湊の呟きに、佳帆は満足そうに画面を見た。一時間ほどしか経っていない。まだ昼まで余裕がある。

「このまま全話見れちゃいそうだねえー。私慣れたけど、湊大丈夫?」

「大丈夫だよ」

 大丈夫、が何の確認か分からず、それでも湊はそう答えた。そのままドラマを見進める。ポケットのスマホが振動した。ラインだ、と呟きながら開くとやっぱりクラスの男子のグループラインだった。

『祝卒業』『おまバキ童リスペクトどした』

 見えたやりとりに、しょうもねえな、と少し笑う。次々と増える白の吹き出しに参加はしない。そのまま佳帆とドラマを見進めた。ドラマの中の大学生たちは、それぞれが就活について意見を交わし合う。

 昼近くになると腰の辺りがそわそわして仕方なかった。佳帆の両親がいつ来るかわからないからだ。

 ショートドラマはもう、あと三話ほどで完結に向かっていた。

 時折スマホを覗く。ラインのグループトークはまだ同じ話題で盛り上がっている。だめだ、時間が長く感じる。画面を開いたまま、佳帆に切り出した。

「……ごめん俺、妹たちの面倒見なくちゃいけなくて、ちょっと帰らなきゃいけないんだ」

「おばさんは?」

 首を傾げた佳帆に、スマホの画面をロックして答える。

「あー、ばあちゃん連れて医者行くみたいで。それで、その間」

 笑い方はぎこちなくないはずだ。湊は邪魔な前髪を払い佳帆に答える。

「ふーん、そっかあ」

 佳帆が湊を見たが、目は合わなかった。顔のやや下に向いた目線は、多分ネックレスだ、と湊は気づく。

「寂しいなあ。けど、お母さんたちもお昼食べたら来てくれるはずだから、大丈夫」

 眉を八の字に下げてから、それでもにこりと笑った佳帆に、先ほど彼女が言っていた感想を思い出す。うん、と言って湊は立ち上がる。

「じゃあ、佳帆、ごめんね」

「うん。またね、湊」

 病室を出てすぐ、通路を歩む人たちの顔を見た。気を張り詰めたまま、エレベーターへ向かうと、湊くん、と声をかけられてナースステーションで立ち止まる。

「佳帆ちゃん、リハビリ受けてくれそう?」

 声をかけてきたのは、昨日湊に佳帆のリハビリの話をしてきた看護師だった。人の良さそうな顔に、困ったような笑いを浮かべている。

「あー……」湊は病室での佳帆の反応を反芻して答えた。「や、なんかまだ気分じゃないみたいでした、ね」

 看護師は「そっかあ」と分かりやすく肩を落とした後閃いたように顔を上げた。その仕草が佳帆に似ていて、それで先ほどの佳帆の放った言葉のいくつもを思い出したせいで、親しみを感じさせるその動作に、まったく親近感が湧かなかった。

「湊くんだけでも、リハビリルーム見てく? 怖いことないから、佳帆ちゃんに来るように言ってほしいの」

「ああ、けど、すみません、僕用事が」

「ちょこっと帰り道通ってくだけでいいから。ほら、いこ」

 扉から出てきた看護師に、せっかく放った否定が折られ、そのまま付き従うことにする。帰り道と言いながら、エレベーターは一つ上に上がった。

 エレベーターを降りてすぐ機能訓練室と表示された矢印の先に、一部分がガラス戸になっている大きめな造りの扉があった。

「ここここ、見て見て」

 透明になっている部分から中を覗くように言われて、扉に顔を近付ける。

 片足をギプスで巻いた少年が、バーに両手をつきゆっくりと前に進んでいた。中学生くらいだろう少年は、歯を食いしばりながら、ギプスで包んだ足を持ち上げて片足と腕の力でバーの間を進んでいる。

「あの人は……看護師さん?」

 湊は、その後ろに立つ、白い服を着た男性を目に留めた。青年といった感じの男性は、口を開いて何かを喋っているようだが、扉の外の湊には聞こえない。ただその明るい表情に、言っていることはポジティブなことだろうと判断した。

 ああ、と看護師が湊の視線の先を辿る。

「ああ、あの人は理学療法士さん。PTって言うの。病気や怪我で動けなくなった人のリハビリをしてくれる人なのよ」

「へえー……」

 片足にギプスを巻いた少年は、苦しい顔をしながらも、時折後ろの男性に答えるように口を開き、バーの間をゆっくりと進んでいた。

「看護師は女性比率高いけど、理学療法士さんは男性が多いわね。人の体支えたり、結構力いるのよ」

「へえー……」

 看護師の言葉を聞きながら、湊は彼らの姿をじっと見た。知らなかった。

「結構雰囲気明るいし、佳帆ちゃんより若い子もいるでしょ? ちょっとやんわり伝えて、それで来るように言ってみてよ」

「ああ……はい……」

 見ている視線に気が付いたのか、少年の後ろに立つ白い服の男性は、湊たちを見て笑顔を浮かべると軽く会釈した。湊も軽く会釈を返す。普通の人だ、そんじょそこらのお兄さんだ。

 それからエレベーターホールに、医療専門学校のポスターが貼ってあることに今更気がついた。高三生、社会人見学受付中。学費高いんだろうな。そう思って一瞥だけになった。

 家に帰ると、リビングには母親と祖母の姿があった。祖母はリビングでテレビを見ており、母親はソファに座ってスマホを開いている。帰宅だけ伝えて二階に上がると、扉越しに妹たちの声が聞こえていた。これだけ元気なら片割れの風邪もほぼ治っているのだろう。

 部屋に入り、ベッドの上に座る。

『リハビリ 交通事故』

 スマホでそんなワードで検索すると、事故の慰謝料や賠償金といった情報ばかりだった。

『リハビリ 専門学校』

 位置情報をオンにしているスマホは、検索結果の一番上に、病院の広告で見た専門学校の名前を表示した。何調べてんだ。行くわけでもないのに。そう思ってページを開かずに閉じる。

 思考を切り替えるようにインターネットのタブを閉じて、ホーム画面のアマゾンプライムを開いた。

 タイタニック。金ローでもやってたことがある気がするけれど、観たことはない。何も考えずに観ようと思って、吹き替え版を再生した。

 船の中で出会った身分に差のある二人は、短い時間の中で気持ちを重ねる。けれどもヒロインは婚約者がいるからもう会わない、と言って男を突き放す。

 別れを告げるヒロインに、戦うのはきみだ、と手を離す。きみが飛び込んだら僕も飛ぶと伝えて、ほっぽりだした。──いや、違う。彼女ヒロインが戻ってくると信じているんだ。自分が愛されていると信じている。

 同じ船の上だ。二人は容易く再会する。余計な言葉を言わなかった。ただ男は、僕を信じてと言って、甲板の先にヒロインを導く。

 そこで流れた管弦楽のメロディーに、聞き覚えがあった。歌詞がない音楽に、愛奈が小さな声で誦じた歌が重なる。

 男に信じてと言われて、ヒロインは柵を登り、男に支えられて両腕を広げた。

 私飛んでるわ。と。

──なら。

 湊はそこで画面を閉じる。結末は知っている。船は沈没し、二人は死別する。悲恋だ。

──きみは一人で飛べるのか。

 考えなければいけないことはこんなことではないのに、ただあの夜立とうとした愛奈の表情を想像することしかできなかった。



 帰ってなくてよかった。

 湊はそう思うと同時に、笑ってしまった。

 次の日の朝、愛奈は民宿の外に立っていた。湊の運転する原付は道路から今日も他に車のいない駐車場に入る。愛奈の前に止めた。

「メリーさんみたい」

 笑った湊の声は聞こえていたが意味は理解できないという顔をした。

「いや、一日一日近づいてくる感じが……」

 ヘルメットを渡そうと手を伸ばしているせいで口元が隠せない。湊の様子に、愛奈が顔を顰めた。

「……やめる?」

「あーごめん! うそうそ! 冗談だって!」

 お願いだから乗ってよ、と湊が下手に出ると愛奈はヘルメットを不精不精と言った様子で受け取った。それから黙って原付を見ているだけの愛奈に、湊が不安になって聞く。

「……乗らない?」

「乗るけど」

 そう短く答えて跨った愛奈と回された手に湊は安心する。出るよ、と言ってアクセルをまわす。

「私」

 風に紛れて小さな声が聞こえて、湊は耳を澄ませる。触れている愛奈の腕が、呼吸で小さく動く。

「私メリーさん。今あなたの後ろ」

「あはははっ」

 照りつける朝日に、アスファルトの中で星のような光がチラつく。坂の中腹から見えていたどこまでも広がる海が、坂を下るうちに小さく、そして近くなる。

「メリーさんじゃん」

 湊は大きな声で笑いながら原付を走らせる。二人乗りの原付の後ろに焦ったそうに走る車が並ぶ。まずはサーフショップに行って愛奈のウェットスーツを借り、それから海に行く予定だった。

「え、追いつかれたらどうなるんだっけ?」

「殺されるんじゃないの?」

「そっか」

「迎えに行ったら許してくれんのかな」

 湊の言葉に「なに言ってんの」と愛奈が言った声ははっきりと聞こえた。それから「案外そうかも」と小さく聞こえた声には、気付かなかったふりをして、サーフショップの入り口に止めた。

「昨日一人で立てれたし、今日はサーフボード借りてもいいかもね。は俺のボードで立てたんだから、借りたやつの方なら余裕で立てるし、もっと上手くできるかもしれないからさ」

 湊の言葉に愛奈が頷いたのを見て、とりあえず財布いつものように挨拶を交わした店主に声をかける。

「店長、今日はこの子にボードもお願いします」

「ミディアムは全部レンタル出てるからロングでいいかー?」

「おっけーです」

 湊がそう言うと、店主は連日愛奈に貸していたサイズのウェットスーツをラックから取り出し、レジに愛奈を促した。湊はその間店内に並んだ商品のラックを眺める。

「愛奈って、いい名前だね」

 湊が店内のラックにワックスやリムーバーを見ていると、レジから聞こえた店主の声が聞こえた。

「え?」

 聞き返す愛奈の声が聞こえる。愛奈はウェットスーツのレンタルの手続きで書類を書いている。

「ハワイ語だよ」店主の声が聞こえた。「サーファーはねハワイが好きなんだよ」

 まあ否定するわけではないが。それでも英語の単位帳で必死なのにハワイ語までは覚える余裕はない。湊の傾けた耳に、店内のBGMのデフテックの歌声に混ざって二人の会話が入ってくる。

「ハワイ語ってね、アメリカ化が進む中で使用が禁止されていた時期があるんだ。それでもハワイアンの中で口承で受け継がれて大切にされてきて、伝統として復活させようってことになって、今に至るんだけど」

 聞こえる店主の声に目を向ければ、いつものように穏やかな顔で話している。湊のいる場所から、レジに向かい合う愛奈の顔は見えない。

「アイナはハワイ語で大地って意味があるんだ。ハワイ語は自然を表す言葉の中に祝福や感謝が含まれてる。……アイナは土地への感謝と、命の繋がりって意味が込められてるんだよ」

 へえ、そうなんですか。と言った愛奈の声は驚きにも感動も含まれていないようだった。

「書き終わりました」

 そう言った愛奈の声は、都市伝説を名乗った時よりも硬い気がした。

 ウェットスーツに着替えた愛奈と店を出ながら、「知ってた?」と湊が聞く。

「何の話?」

 そう言って笑わなかった愛奈に、湊はこの話をやめた。

 浜辺での軽いストレッチと動きの復習を終えて愛奈にサーフボードを渡す。足首に巻くリーシュコードももう湊が巻くまでもなく、愛奈が波に向かう。

「慣れてきた?」

「そこそこ。親しみが湧く、ってほどでもないけど」

「そっか。パドルも上手くなったしね」

 一人でやってみなよ、と砂浜から見ているだけでも大丈夫な気がしたが、それでも同じように沖に入り、愛奈が乗る波を選びタイミングを教えたかった。

「今だよ!」

 そう言って愛奈が腹這いになるボードを押し出すと、愛奈は両手をついて立ち上がり、風を受けて波の上に立った。

 愛奈と湊が立つ場所から波打ち際まではボードに乗ってしまえば数秒だ。波に乗り、砂浜につくまでの直線は本当に一瞬。サーファーなら、うなりに乗り少しでも長く波に乗りたい。

 スマホの画面を見なくても、波が時間を可視化する。砂時計に入るような砂が湊の間に入って、前髪を上げて目を擦る。

 愛奈は回数を重ねるごとにしっかりと立てるようになり、基礎動作を覚えてきた様子だ。直線だけの一瞬で終わる物足りなさを感じる頃だろう。

 そろそろ砂浜に向かうだけではなく、波のフェイス(斜面)に沿って大地と並行にライディングすることを教えた方がいいだろうか。考えながら、愛奈がボードを持ち沖に向かう後ろ姿を見る。

 濡れたアッシュブラウン髪は、光ってところどころ白く見えた。

「俺も乗ってくる」

 湊の声に愛奈が振り向く。戻ってきた愛奈にそう言って、自分のボードと足首をリーシュコードで繋ぐ。それから沖に向かってパドルした。

 水平線から押し寄せる波が大地に向かう。オンショアは波が崩れやすく、サーファーにとって理想的ではない。それでも何年もこの海に乗っている湊は嫌と感じない。こういう風の日もある。

 湊はパワーの波を選ぶと白波に乗り、サーフボードをコントロールして崩れる波に背を向け、新しい波に乗った。

 カットバックで頭に浴びた水飛沫を振り払いながら砂浜に戻ると、愛奈が驚いた顔をしていた。

「すごい。上手いね、気持ちいい?」

 波打ち際に戻ってきた湊に、愛奈が聞いた。

「うん。気持ちいいよ。だからね」

 湊はリーシュコードを外し、立ち上がりボードを愛奈に向ける。

「タンデムサーフィンしてみようよ。二人でボードに乗るんだ。タイタニックだよ」

 理解できない、という顔をする愛奈に、湊は笑いかける。

「沈ませないよ。新しい技だ。俺も頑張らないとね」

 俺はずるい。愛奈にリーシュコードを渡しながら、湊は馬鹿みたいだと自分を省みる。こんな方法で──繋ぎ止めようとするなんて。

「タンデムサーフィンってのは、ボードに二人で乗ること。今までサーフィン仲間もいなかったし、挑戦してみたいんだよね」

「全部やってくれるってこと?」

「や。そういうSUP的なのじゃないから、きみのバランス感覚も必要。とりあえず一回やってみよう? 愛奈が立つボードに、俺が横から近づいて飛び乗るから」

「まじで言ってる?」

「俺いつも冗談言ってると思ってる?」

 湊は真顔の愛奈に真顔で返して、それから笑う。

「ほら行ってみよう。ボード持って、とりあえず普段通りにしてみて」

 湊が先に波を踏むと、遅れて愛奈が水を踏む音が聞こえた。

 タンデムサーフィンのテイクオフには二つの方法がある。一つは最初から同じボードに乗りパドリングして波に乗り、同じボードでタイミングを合わせて立ち上がる方法と、湊が言った途中で飛び乗る方法だ。リーシュコードは二メートルほどの長さがあるので、飛び移っても愛奈と進む波打ち際までの距離なら問題はない。

 飛び移り着地することが一番の難関だ。愛奈が立ち上がったボードで、港が飛び乗ってもバランスを取ることができるか。乗れてさえしまえばなんとかなると湊は思っていた。

──愛奈がボードで立ち上がり、湊が横に並び飛んだ。湊の足がついたそのとき、ボードはバランスを崩して、二人はひっくり返って落水した。

 ガラスが割れるような水面を砕く音が響いて、破片の内側からのような水中の景色に、湊は目を瞑って顔を上げた。

「っはあ!」

 顔が水面の上に出た瞬間、湊が深く息を吸い込むと愛奈が既に顔を出していた。びしょ濡れになったむっつりとした顔で。

「二人乗り、無理でしょ」

「そうだね」

 予想通りだ。湊は笑って答えた。愛奈は何か言いたげだったが、湊は自分を落としておいて消える波を見つめた。

「けど、思ったよりできそうな気がする」

 二人でサーフボードを持ちながら浜辺に進む。波を掻き分け進みながら、愛奈が呟いた。

「……近いし」

「今さら? 俺ら原付二人乗りしてんじゃん」

 同じ波の中では愛奈の小さな声もよく聞こえた。まるで聞こえたことが、返事をされたことが不服なように愛奈は黙って答えなかった。砂を踏むと、波の音が二人の間に入ってきた。

「よしっ、もう一回やろうよ」

「……わかった」

 先に湊がボードを持って進む。愛奈が後を追い、濡れた足音が二人分重なる。

「あ」

 湊が振り向くと、愛奈がしゃがみ込んでいた。

「見てこれ。シーグラス」

「ん?」

 愛奈が足元で何かを拾い上げた破片を、太陽に向かって翳した。海と同じ色の小さな欠片は、湊がつけているシーグラスよりも深い青色をしていた。

「あなたも着けてるよね、シーグラス。これ、」

 それは太陽の光を浴びて、素直に青く光った。

「ずっと着けてると、願いが叶うんでしょ?」

 湊は強い光に目を眇めた。そうなんだ、と発した声は少し掠れていた。

「知らなかったの?」

「うん」

 知らなかった。ネックレスを渡した佳帆から聞いた話は、満月に翳すと願いが叶うというものだったから。胸元のネックレスが、熱く感じたのは太陽の光をずっと浴びていたからだろうか。

「……じゃあ行こっか」

 直視し続けることができず、湊はそう言って歩き出す。

 かけていなかったネックレスは、ただ首にかけていただけで願いをかけていなかったのに。

「ほんとは広い世界を見たいの」

 砂浜で、足を止めた。強めの風だが、愛奈の濡れた髪は水の重みに靡かない。

「あなた、高三だっけ」

「……うん、そう」

 ただの年齢の確認。それが湊には、自分たちの間を線引きしているように聞こえた。

「いつまでも夢はとどめを刺さないと、ずっと自分の首を絞めてくるから、だから。考えられるなら考えた方がいいよ。考えられるなら、だけど」

「きみは?」

 愛奈が言い終えてすぐ、湊は聞いた。聞かずにはいられなかった。薄く微笑んだ。大人びた静かな笑みに、余計に線が濃くなったと感じた。

「自分じゃとどめがさせなくて、誰かに介錯してもらうのを、ずっと待ってる」

 どんな夢を見てたんだよ。

 聞きたくても、引かれた線が色濃くて聞けなかった。

 晒しあったふりをして、お互いの抱えているものには触れ合っていない気がする。触れさせてしまったら、傷つけてしまうことがわかっている。波さえあればお互い言いにくいことを聞ずに済むけれど、聞きたくないわけじゃない。

 やっと口をついて出たのは、行こうか、という逃げの言葉だった。けれどそれも明日を信じて言った。

「オンショアだったけど、明日も晴れるといいな。そしたら明日も挑戦しようよ」

 明日も会えるだろう? と言外に意味を込めた。

 ずっと着けている胸元のシーグラスのネックレスに触れて、同じ海の中に浸かった。

 それからもう一度タンデムサーフィンに挑戦したが、同じように転覆し、今日はもう帰ろうかと話して、愛奈を原付の後ろに乗せた。



 家でシャワーを浴びた後ドライヤーまで済ませた髪は、ヘルメットを脱ぐと汗ばんでしっとりとしていた。エレベータの鏡に映った自分の髪を見る。こんなに茶色くなってたんだ、と湊は手櫛で髪を整えてエレベーターを降りた。

「おはよう湊」

 湊が病室の扉を開けると、すぐに佳帆の声がかけられた。歩み寄って見ると佳帆の顔の傷がだいぶ薄くなっていることに気がついた。枕に広がる黒髪がいつもより艶があるように見える。調子がよさそうでよかった、と思いながら丸椅子に座ると、自分の顔を注視する佳帆と目が合った。

「なんかいいことあった?」

「え? いや」

 顔の傷よくなったね、と言っていいものか。逡巡した末に怪我のことは言わないことにする。

 なんでもないよ、と答えた湊に、佳帆はそうなんだ、と首を傾げ、それから顔を明るくした。

「そういえば昨日湊が帰ってから原センがお見舞いに来たよー!」

 新しく出された話題に、その場にいない人間に助けられた気持ちになる。

「あー原先生。やっぱあの人優しいね」

「うん、そう。子供ちゃん連れてきててさあ、めっちゃ可愛かった」

「そういえば俺の担任の時奥さん妊娠してるって言ってたもんなあ。生まれたんだ」

「ねー! ほっぺすっごいもっちりだったよ!」

「へー、俺も見たかったな」

「あの人結婚したって言ってたのうちら中学生の時だったよね」

 そうだね、と湊が頷き、そうそう、と佳帆が芋蔓式に過去の話を引っ張り出す。過去の話なら大丈夫なのか、と話しながら湊は頭の中のトピックを整理する。未来の話は地雷になる。

 未だ来ぬ佳帆の両親がいつくるかを想像しながら、ソワソワと佳帆の選んだドラマを見始めると、内容が頭に全く入らなかった。

 時計の針は、まったく悪気などないようになかなか頭を下げない。一分でさえ重たい。

 昼前になって、座り直した椅子の尻に当たる感触が心地悪くなったきて、昼近くになっていることを確認した。切り出そう、と思ったのは、佳帆との会話が途切れなかったからだ。ずっと病室にこもっているだけの佳帆を看護師たちは心配していた。

「リハビリルーム、この前帰りちょこっと見てったんだけどさ、佳帆より小さい子もいるし、怖くなさそうだったよ」

「私より小さい子が頑張ってるから私も頑張らなきゃいけないの? 再手術したって、右腕の神経は治らないかもしれないのに?」

 間があって、ドラマの笑い声が空虚に響いた。

 画面から顔を動かさず言われた佳帆の声に、湊が内心で怯む。

「……ごめん」

 そう言いかけて、分針の音が耳に届いた。湊は椅子から立ち上がろうとする。

「俺」

「帰らないでよ」

 佳帆がタブレットの画面から目を逸らす。

「お願い湊、帰らないでよ」

 見開かれた佳帆の瞳が大きく、揺らいで見えて、蜃気楼のようだ、と湊は思う。その中に映る自分ごと。

「お母さんたちとバイトでなんかあった? お母さんもお父さんも、今日は来ないから」

「……なんもないよ」

 佳帆の言葉に、湊は顔を一度背けて、それから笑顔を作り直す。

「わかった、大丈夫、大丈夫だよ。ここにいるよ、あ」

 息を呑んだ。胸元のネックレスの冷たさに気が付いて、過ちは形になる前の一文字で済んだ。

「佳帆」

 間違えた。間違えなかった。佳帆が首を傾げる。

「……湊?」

「なんでもないよ。ああそうだ、映画観るのどう? ユーネクスト開いていい? この前観せてくれた映画面白かったな。サーフィンものないのかな」

 わざとらしく饒舌に語って、話題を画面の中に移した。

 現実じゃない話なら、佳帆ともいくらでも喋ることができる気がした。

 青一色だった空に他の彩りが加わり、空の名前が変わり始めてやっと湊は部屋を出ることができた。どっと疲れた気がした。夏休みに入ってから、朝以外はこうしてずっと病院にいてばかりだ。

 行き先ボタンを押さないまま、エレベーターの前に立つ。

 息苦しいと思ってしまう。朝はあんなに息がしやすかったのに。脳裏によぎるべきは佳帆の顔であるべきはずなのに、愛奈の顔がよぎった。

 エレベーターのボタンを押せないままでいると、エレベーターの到着音が響いて目の前の扉が開いた。入れ違いにこれから面会であろう親子が出てくる。すれ違った視線を交わすようエレベーターに乗り込む。行き先階ボタンを押す前にエレベーターは動き出した。

 エレベーターは三階で止まった。開いた扉に迷って、エレベーターを降りる。見知った矢印の表示に進んで、リハビリルームの前まで歩いた。リハビリルームのガラス戸を覗き込むと、バーの間で立つ人はいなく、隅のベンチで入院着を来た男性と白い服を着た短髪の男性が談笑していた。

──佳帆は来ないって言ってたのに、なんで俺。

 ここまで無心だったことに今更気が付いて、踵を返そうとしたその時、白い服の男性と目が合った。後ろに引いて、それ以上は引けない湊の前で、扉が開けられる。

「誰か見てるの?」

 短髪の黒髪の男性が湊に声をかけた。湊より少し背の高い男性は、胸ポケットに入れていたネームタグを取り出して湊に見せる。

「理学療法士の佐原です。どうも」

 ネームタグと違わぬ名乗りに、どうも、と湊も返事を返す。

「この前も覗いてたよね? 知り合いがいるなら入っても……」

「あ、いや、ここには来てなくて」

 湊は顔の前で手を振る。佳帆のことを話したほうがいいだろうか、と考えて曖昧に笑う。

「あー、彼女、入院してるんですけど。リハビリ、今はまだやる気がないみたいで……」

「やる気出させるのが俺の仕事だよ」

 悩みながら言葉を切り取った湊に、短髪の男性ははっきりと言った。やや断定的な、それでも強い言い方ではないその口調に、湊が目の前の男性の顔を見た。

「リハビリやらない人っていうのは、やる気じゃなくて、勝負の仕方とその先が見えないんだよ。敵を知り己を知れば百戦危うからず。知ってる? 諸葛孔明」

「え、はあ、まあ……」

「……やる気じゃない、必要なのは知ること」

 そう言って佐原と名乗った理学療法士は、湊の肩を叩いた。

「きみは彼女に共感して、寄り添ってあげるだけで十分なんだ。それ以上は大人の領分」

 湊は肩に置かれた手を一瞥する。

「きみの彼女も、きみも。大丈夫、若いだけで諦めることが一つ減らせるんだよ」


 夕方帰宅して、夜勤に向かう母親を見送った。

 麦茶を飲むと、そのままリビングのソファに横になる。天井越しに、双子の妹たちの騒がしい音が聞こえていた。

 スマホでSNSを開かず、ウェブの検索ページを開く。空白の検索窓をタップすると表示されるキーボードに、指先をどこに置こうか迷う。

 ポスターに貼ってあった専門学校の名前までは思い出せない。湊の緩慢に、予測変換はすぐに文字を出した。

──理学療法士

 予測変換に従って、検索ボタンを押す。無限にスクロールしそうな検索バーのウェブ画面は、一番上に広告を表示した。

『理学療法士 なるには』

 勝手に思考を見抜いたワードの下には、専門学校の文字があった。浜松市、という電車ですぐ行ける隣の市の検索結果をを出した位置情報がオンの検索結果に、気が利いてるな、と皮肉を感じる。──近くだとしても自由に行けないのに。無感情にタップして表示した。

『人を幸せにする医療のスペシャリストに』

 キャッチコピーが表示され、学校の様子の画像に切り替わる。学生たちがノートを取る様子や、談笑し合う画像が流れていくと、画面の麓にバナーが表示される。

『次回オープンキャンパス9/18』

 間に合う。未来の日付にほっとした。

 思った直後に気が付いた。何を言ってるんだ自分。 

 そのままバナーの麓の文字を見た。

『当日予約歓迎。ライン申し込みはこちら。』

「……日曜日、なのか」

 母親が仕事なら自由に出かけることはできない。交通手段は原付があるが、妹たちと祖母のことを考えた末、難しいだろうな、と思った。夏休みはもう半分を過ぎている。宿題だってろくにやっていない。

 どこまでも低くされたハードルなのに越えられない。

 溜息を吐いて、それでも画面をスクロールする手を止められなかったその時、リビングの扉が開いた。

「あー、あー」

「おばあちゃん?」

 身を乗り出した湊の視線の先で、悲しげな目をした祖母が立っていた。

「どうした、の……」

 ソファから身を起こしてリビングの入り口に立った祖母を見ると、下半身が濡れていた。失禁だ、と気が付く。

「ああ、えーっと……ちょっと歩かないでよ!」

 湊は持っていたスマホをソファに放り出すと、慌てて洗面所にタオルを取りに行く。しゃがみ込んで床をある程度拭くと、顔を上げて祖母に声をかけた。

「おばあちゃん、お風呂場行ける?」

「……ごめんねえ」

 祖母の震える声に、湊は答えない。

「ごめんねえ、ごめんねえ……」

「……いいよ、泣かないでよ」

 湊がそう言うと、やっと祖母が足を動かした。風呂場に向かう足取りに、一人で大丈夫そうだ、と思う。これ以上どういう対応をすればいいのかもわからなかった。

 ただ祖母が残した濡れた足跡を拭いて、それからはスマホで未来を検索することも、宿題を進めることもしなかった。



 漏れる光はいつもより弱い。代わりに窓を叩く雨音が湊を起こした。寝ぼけ眼の湊に、スマホが現在の状況を正確に教える。午前五時五十四分。静岡県、雨。

「あー……」

 視線をやった窓の外には灰色の空が広がっている。目を凝らせば細く白い雨が降っているようだった。

 これはサーフィンできないな。

 ラインの通知が四十件来ていて、どうせグループラインだろうと開かずに画面を暗くする。残念だ、と思ってベッドの中に転がり直した。息抜きをしたかった。

 疲れた。昨日愛奈には晴れていたらと言っているから、いっそ今日は気楽なもんだと寝ているかもしれない。帰ってしまうだろうか。そう考えると不安になって、疲労が焦燥を追い越した。

 俺が本来考えるべきは、佳帆のことだけのはずだ。なのに愛奈のことも、おこがましいことに自分のことも考えてしまう。 

 どうすればいい。自分のことさえ何も決められないのに。このまま生きるしかないのに。

 俺はあの子が好きだ。けど。──けど。

 考えちゃいけない。俺のせいで事故にあった佳帆以外の人間のことを。

 無理やり目を閉じた瞼の裏に、海の上で光る明るい髪の色を思い出してなかなか眠りにつけず、やっと自分の感情を自覚した。クソ、と悪態をついて髪を掻きむしる。

 このまま愛奈に帰られてたらたまらない。

 まだ面会時間開始の九時までは余裕がある。とりあえず体を起こして、サーフィンはできなくても愛奈が帰らないか見に行こうと決めた湊は、寝巻きから着替えてリビングに降りる。

 珍しく起きていた双子の妹たちがテレビを見ていた。寝巻き姿のままの妹二人が、そろってリビングに入ってきた湊を見た。

「お兄ちゃん、朝ごはんはー?」

「母さんは?」

「まだ帰ってきてなーい」

 二人の揃った声を聞いてスマホのラインを開くと母親からのメッセージが入っていた。

「早番の人遅刻〜夜勤なのに八時までやってきます。帰るの遅くなるからご飯よろしく」

 汗マークが多用されたメッセージに返信をせず画面を閉じて、ご飯作るよ、と妹たちに言うと湊は台所に向かう。米は炊飯器の予約機能で炊いてあった。

「卵かけご飯でいーい?」

「チーズウインナー添えてー!」

「えー? しょうがないなー」

 妹たちに答えながら冷蔵庫の中を探していると、リビングの扉が開く音がして一度冷蔵庫を閉じる。

「ばあばおはよー」

「おはよー」

 祖母は妹たちの挨拶に返さず、首を傾げた。

「財布はどこか知ってる?」

 湊の口から溜息が漏れた。それから笑い直して歩み寄る。

「ばあちゃん、じいちゃんの仏壇に置いてるんじゃないの?」

 そう言うと、そうだったかなあ、と言って再び首を傾げた。

「ほら、見に行こ」

 そう言って祖母をリビングの外に導く。

 朝からこれでは、今日の祖母のコンディションは最悪だ。すぐに家から出られないことを歯痒く思いながら、祖母を宥めると朝食を用意した。

 母親が帰ってきたのに合わせて外へ出ると、路面が濡れていた。

 一時的な雨が降ったようだ。

 今から向かって、佳帆の病院の面会時間に少し早いくらいだ。

 佳帆の両親は雨の日は朝から来るだろうか。畑のほとんどはハウス作業だからいつもと変わらないはずだ。行きたくないけれど、行かなきゃいけない。──佳帆のために。

 俺は佳帆の彼氏なんだから。

 喝を入れるようにそう思うと、原付に取り付けたままだったサーフボードを室内に入れてエンジンをかけた。

 古い長屋の造りばかりの住宅街の平坦な道を通り、灰色の海を背に、潮見坂を登った。

 佳帆の入院する病院に行く道は民宿の前を通る。坂の中腹の民宿が近づいて、湊は気が付いた。

 民宿の入り口前に立つ、明るい髪色の細い立ち姿に。

 慌ててウインカーを出して道路から逸れて敷地内に入った。視界の端で揺れる邪魔な前髪をかきあげる。

「なんで」

 湊の声に、民宿の心許ない軒下に立つ愛奈は気が付いたようだった。またいつ雨が降るかわからないような重たい空模様だ。湊は原付のエンジンを止めて降りる。

「来るかわからなかったから」

 歩み寄った湊に、愛奈は顔を上げて答えた。

「……連絡先交換してなかったもんね、ごめんね」

 そうだよね、と続ける。一体いつ外に出ていたというのか。原付のエンジン音はさほど大きくないのに。

「今日、どうするの?」

 そう言った愛奈の服の、肩の色が変わっていることに、湊が気が付く。

 一体いつから待ってたんだ。

 わざわざ外に出て。どうして、こんなにも。

「今日、どうするの」

「俺は──」

 病院に行かなければならない。

 そうでなければ、帰って寝不足の母親の代わりに家族の面倒を見なければ。

 そう思うのに、腕の中に収まる温度に、出た言葉は違った。

「……どっか行きたいとか、ある?」

 どこかに行きたい。行かせてくれ。

 願いを込めて、聞いてしまった。言ってしまってからハッとする。良心が咎めないわけじゃない。胸元のネックレスは、破片ではないからいくら握っても傷つかない。

「映画」

 即答されて、無意識に握っていたネックレスを離した。思考が逃げる。映画館。

「去年冬に公開した映画が、今豊橋の映画館で復刻で上映されてるんだって」

「なんて映画観たいの?」

「世界一嫌いなあなたに」

 思わず腕を伸ばして、愛奈の顔を見た。

「タイトルよ、タイトル」

「ああそう、よかった」湊はもう一度自分の胸元に抱き寄せた。「びっくりした」

 馬鹿じゃないの、と言われないことに安心して、愛奈の髪を撫でた。映画館がこの町にないことに安心する。遠くへ行く理由になる。

「じゃあ豊橋行こっか。それ、浜松の映画館じゃなくてよかった。うっかりきみがもう戻ってこなくなりそうだから」

 腕の中の体温を覚えたおかげで、冗談さえ言えた。

 一日だけ。

 神様、今日一日で、俺は満足してみせるから。

 湊は愛奈の体を離すと、サーフボードをしまっておいてよかった、と今から運転する三十分ほどの道のりのことを考えた。




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