其之玖 1月5日 鏡と七草粥と ー死生有命ー
俺は幽霊だ。
名前はもうある。
加賀美漱石。
それとあと、もうひとつある。
文鏡院殿古道漱石寂照大居士。
長いことこの上ないけど、俺の苗字と名前にちなんで、ヤスの親父さんが付けてくれたんだ。
康成の方の成分も入っているのは、親父さんの悪ふざけか、それとも祈りか。
さすがに、わからないけどね。
でも二つも名前があるなんて、ちょっとかっこいいでしょ。
「ヤス、七時だよ。勉強するから起こせって、言ってたよね」
「もう、起きてる。なんか熱いんだよ」
もう。コタツでそのまま寝たからだよ。一緒に布団で、寝ればよかったのに」
俺は課題なんてないから、昨日は先に寝ちゃったんだ。
ヤスは俺に遠慮したのかな。
そんなことする必要、ないのにね。
なんで幽霊なのに寝たりするのかって?
だって、疲れるでしょ。
ずっと見てるしか出来ない、なんてさ。
「そう何回も、同じ布団で寝れるか! クソ。怒鳴ったら上がってきたな……」
ポコッ。ポコッ。ポコッ。
「その愛刀を振る元気があるなら、大丈夫だと思うけどね。
待ってて、おばさんに何か持ってきて貰うから」
「……そんなこと、できるのか?」
「さあ、どうだろうね」
襖も壁も何もかもすり抜けて、ヤスのおばさんを探す。
お風呂場に脱衣所。
おっと、ここはいても困るか。
すぐ引き返そうとした時、洗面所の鏡を見てしまった。
まあ、映るはずないよね。
俺は幽霊、なんだから。
すり抜けは正直、あんまりいい気分じゃない。
背中がぞわぞわする感覚に、似てるかな。
「おばさん、すみません。ヤス、熱があるみたいで。
体温計とか色々、持ってきてもらえませんか」
おばさんは台所にいた。
俺の声には答えない。
でも、なんだか安心した。
火にかけた土鍋を気にかけながら、食器を出したり洗い物をしたりと忙しそうにしている。
「さて、もういいかしらね」
おばさんが火を止めて、濡れ布巾を添えて土鍋の蓋をゆっくり持ち上げると、白い蒸気がふわっと立ち昇った。
そして、中のものを空いている器にたっぷりとよそう。
この季節に欠かせない、七草粥だった。
「ヤスナリ。七草粥作ったから、食べなさい。ってアンタ、何やってるの!?」
「へっ。勉学の神が降臨して、知恵熱を呼んだぜ」
「バカなこと言ってないで、早く横になりなさい! 体温計と薬、今持ってくるから」
お盆を持ってヤスの部屋に入ったおばさんは、コタツに突っ伏している息子を見て、顔色を変えた。
手際よく散らかった教科書や飲みかけの湯呑みなんかを片付けて、世話を焼く。
おばさんが看病に必要なものを取って戻ってくると、あとは俺の仕事だ。
「アンタが元気じゃないと、ソウ君も心配するわよ。まだ冬休みなんだから、ゆっくりしてなさい」
「ありがとう、母さん」
スーッ。パタン。
「ありがとな、ソウ。母さん呼んで来てくれて」
「俺は何も、してないよ。ヤスは前にもこうやって、急に熱出したことあったよね。
じいちゃんが亡くなって、少し後にさ」
「そうだったか? 覚えてねえな」
「俺は覚えてるよ。ヤスは寝てるから、こっちで遊ぼうって。
ばあちゃんが言ってくれたから」
ヤスは布団の中でぼんやり天井を見つめている。
俺は隣に座って、触れるはずもないヤスの手を握った。
ギュッ。
「なんか、変な音しなかったか?」
「気のせいじゃない? 心細いなら、子守唄でも歌おうか?」
幽霊は冷たいらしいから、こうしていればヤスの熱は下がるはず。
これできっと、大丈夫だよね。
ねえ、じいちゃん。ばあちゃん。
「いらねえよ、そんなもん! それにお前オンチじゃねえか。黙ってそこにいろ」
ポコッ。ポコッ。ポコッ。
「ははは。じゃあ、そうするね」
ギュッ。
横光利一は、川端康成と一緒に新感覚派を立ち上げた人なんだけどね。
康成の方が有名すぎて、知る人ぞ知る作家なんだ。
でも二人は、本当に仲が良かったんだよ。
康成が引越をしたら、利一も追いかけるように引越してさ。
小説の構想を思いついたら家まで押しかけて、寝ている康成に夜通し聞かせたりしたんだって。
昔はゲームなんてなかったし、ただ話してるだけの時間がとっても楽しかったんだろうね。
まるで俺とヤスみたい、でしょ。
俺もヤスもこんな名前だからさ。
今まで色んな人に、由来とかウンチクを聞かれたり聞かされたりして、困ったこともあったんだ。
自分の名前なのに知らない。説明出来ない。
それって何だか、恥ずかしいでしょ。
いじられたりすることもあったしさ。
だから二人で一緒に、調べたんだ。
子供の頃の話、だけどね。
「……ヤス、眠れそう?」
「おお。お前にツッコんでたら。だんだん、力が。抜けて、きたぜ……」
「そっか、よかった。おやすみ、ヤス」
ギュギュッ。
ヤスが目を閉じると、そのうち小さな寝息が聞こえてきて俺も力が抜けてきた。
でも手はずっと離さずに、俺も隣で一緒に寝た。
康成と利一の本当の関係は、俺にはわからないけど。
でも現代だったら、こう呼ばれると思うんだ。
たぶんきっと、魂の伴侶ってやつ。




