第2話:ジム防衛の檻と、ルートに縛られた夜
七月の西大島は、昼間の熱をアスファルトにいつまでも溜め込んでいる。太陽が沈んでようやく訪れる夜風の涼しさは、外に出るための数少ない免罪符だ。私たちは、茹だるような昼間の暑さから逃れるように、19時を回った頃合いを見計らってアパートを飛び出した。
「……やっとだな。少しはマシになった」
友人がそう言って、首にかけたタオルを直す。しかし、私たちの目的はただの散歩ではない。画面には、西大島の住宅街に居座る、あるジムのアイコンが表示されている。私が何度も攻撃を仕掛け、相手のモンスターの体力を残りわずかまで削りきった。次の一撃で脱落するはずだ。しかし、その瞬間、私の画面に「ジムにポケモンを追加しました」という赤いテロップが虚しく流れた。
「は? ……もう10分経ったのかよ! くそッ、また入れやがった!」
私は思わず声を荒らげた。ジムバトルで防衛側のモンスターをすべて倒して空席を作ると、10分間は他のプレイヤーがポケモンを配置できなくなるはずだ。それなのに、今のこの状況はどうだ。私が必死にタップを繰り返している最中に、まるで私の動きを予測していたかのように、相手が隙間を突いて別の個体をねじ込んできたのだ。
「おい、また入れやがった! こいつ、絶対近所だぞ! 窓の隙間から見てやがるんだ!」
友人も興奮し、早口でまくしたてる。画面の向こう側の相手は、この近くの住民に違いない。配置されたモンスターのトレーナー名は、末尾の数字だけが違うIDの羅列だ。「〇〇_01」、「〇〇_02」……明らかに同一人物が操作する複垢(複数アカウント)だ。
「おい、01の次は02かよ! どんだけ端末持ってんだよ、この粘着野郎が!」
「マジでムカつく! 今度こそ絶対追い出してやる!」
私たちは街灯の下で声を張り上げ、激しくスマホを操作しながら罵声を飛ばし合う。深夜の住宅街、静寂を切り裂くように私たちの興奮した声が響き渡る。自分たちがどれほど異様な光景を晒しているかなど、この時は欠片も考えていなかった。
2時間近くが経過していた。モンスターを倒しては、また別の個体が出現する。そのたびに私たちは「ふざけんな!」と声を上げ、執念深くタップを繰り返す。その時だった。路地の角から、ゆっくりと近づいてくる一台の白い車があった。地域の防犯パトロールか、あるいは警察の巡回か。回転灯が青白く光り、私たちの足元を照らす。車が目の前で停車し、窓から中年の警察官が顔をのぞかせた。
「こんばんは。……ちょっといいかな。近隣住民の方から『深夜に大声で騒いでいる人たちがいる』と通報があってね」
警察官の視線は、私たちの手の中にあるスマホに鋭く突き刺さる。私たちは言葉に詰まった。自分たちの声がどれだけ街に響いていたか、ようやく自覚した瞬間だった。
「……すみません。ゲームで、つい……」
友人が小さく呟く。警察官は厳しい目で私たちを見据え、「迷惑をかけないようにね」と言い残し、車を走らせた。その場に漂う気まずい沈黙の中で、私たちの長い夜は強制的に幕を引かれた。
警察官の車が去った後、私たちは逃げるようにその場を離れた。ようやく諦めてその場を離れた後、私たちは「ルート」機能に従って歩き始める。指定されたコースをなぞるように歩くと、ポケモンが湧きやすくなり、報酬も増える。
「このルート機能、結局は『画面を見ながら歩け』って言ってるようなもんだろ」
画面の地図には、キラキラと輝く線が引かれている。私たちは、路面のアスファルトの亀裂も、近づいてくる自転車の気配も、本来なら目に入るはずの「現実」を無視して、スマホの画面に釘付けになる。システムに指定された光の筋を外れないように歩く姿は、周囲の人間から見れば、何かに憑りつかれたゾンビのようだ。
「俺たち、何のために歩いてるんだろうな。ルートを完成させて微々たる報酬を得るために、警察に通報されてまで、画面の中のピクセルを追いかける」
街灯の光が、私の影を長く引き延ばす。画面の中のトレーナーは、私と同じ速度で歩き、同じ場所で立ち止まる。私は現実の街を歩いているつもりでいたが、気づけば、このゲームという「仮想の迷宮」の底を歩かされているだけなのかもしれない。
この機能は、私たちを街の風景から切り離し、スマホという小さな画面の中にのみ、世界を縮小させる。そして、私たちはそれを「効率的だ」と喜びながら、自ら進んで不審者として夏の夜の街を彷徨うことを選んでいるのだ。
「……次のチェックポイントだ。あと100メートル」
友人は、画面の角にあるキラキラとした光だけを見ている。その足元で、何かが転がった。彼は気づかない。彼は今、ルートの完遂という名の「成果」だけを求めている。西大島の湿った夜気の中で、私たちはシステムに歩かされる、歩くマリオネットとして、今日もまた画面の中の地図を塗りつぶしていく。そこに意味などないことを、誰よりも分かっていながら、私たちはその場所を歩いたという事実だけを、記憶の片隅に刻み込んでいく。




