第1話:確率の檻と、投げ続けられるボール
7月の西大島。駅前ロータリーの湿度を孕んだ風が、アスファルトの熱を巻き上げて顔に当たる。18時を告げる電子音が響くと同時に、私たちのスマホが一斉に震えた。全国一斉、水曜日のレイドアワー。駅前のジムに伝説のポケモンのタマゴが孵化し、巨大な影が舞い降りる。
「……始まったな。案の定、人が集まってる」
友人が顔をしかめた。画面上のレイドロビーには、すでに12人の参加者が表示されている。実際に駅前の広場を見渡しても、スマホを操作しているのは5人ほどだ。残りの7人は、近隣のマンションや駅の改札内からリモートでアクセスしているのだろう。これが今の、西大島という街における「集団」の正体だ。物理的に集まっているわけではない。だが、システムという名の見えない糸で、全員がこの瞬間に同期させられている。
「なあ、これってさ、マジで反吐が出るな」
私は画面をタップしながら、毒づいた。私たちは、この街のどこにレイドが出るかを事前に選んだわけじゃない。システムが強制的に指定した場所へ、18時の号砲とともに誘導されている。
「文句言っても始まらないだろ。やるか」
私たちはロビーに飛び込んだ。20人の枠は一瞬で埋まる。バトルは、ただの作業だ。伝説のポケモンが放つ技を避け、ひたすらこちらのポケモンをタップする。感情など介在する余地はない。あるのは、効率的にダメージを与えるという数値上の義務だけだ。
「……倒した。あとは捕まえるだけだ」
レイド勝利の報酬画面。私たちはプレミアボールを手に、捕獲チャンスへと移行する。ここからが、システムとの真の戦いだ。私は「ナナのみ」を投げ、ポケモンの動きを落ち着かせた。続けて、いわゆる「サークル固定」を使う。投球直前に狙ったサイズでリングを止め、あえてボールを回転させて待機する。
「ナイス、グレート、エクセレント……。評価が高いほど、捕獲率に最大で1.8倍近い補正がかかる。今の俺はエクセレント一択だ」
私は自信を持って親指を振った。カーブを描いたボールは、固定された最小のリング、その中心へと吸い込まれる。パシッという小気味よい音が鳴り、画面に『Excellent』の文字が浮かび上がる。
よし、決まった。
ボールが完全に閉じ、ポケモンを飲み込んだ状態で、画面上で左右に揺れる。1回、2回……。成功の予感が背筋を走る。だが、3回目の揺れが終わる直前、ボールが内側から突き破られるように激しく震え、ポケモンが飛び出してきた。
「はあ!? ……ふざけんなよ!」
私はスマホを強く握りしめた。弾かれたボールは、空中で虚しく霧散する。今の投球は完璧なエクセレントだった。システムが要求する最高難度の技術を叩き込み、確率上のボーナスを最大まで乗せたはずだ。なのに、ポケモンはまるで最初から捕まる気などなかったかのように、悠然と定位置に留まり、次のボールを投げる私を冷酷に待ち構えている。
「おい、エクセレント何回目だ? 3回連続だぞ。捕獲率の理論値じゃ、今のでかなり捕獲率は上がってるはずだろ! 確率論的にどうなってんだよ!」
友人も顔を真っ赤にして、隣で連打を繰り返している。彼のボールもまた、無慈悲に弾き出されている。
「乱数だか何だか知らねえけど、このゲーム、明らかに俺たちの技術をバカにしてるだろ。ナイスやグレートを出すまでもなく、エクセレントを重ねてるのに。どれだけ理論武装して確率を高めても、最後はシステムが『捕まらない乱数』を吐き出したら終わりかよ。これのどこが冒険なんだ? ただの苦行だろ」
私たちは完璧な技術を以て、システムが提示した「最も成功確率が高い方法」を遂行している。それなのに、最終的な決定権は、こちらがコントロール不能な乱数にある。この理不尽さが、仕事帰りの疲れた神経を逆なでする。理論値という名の希望を、システムは平然と踏みにじっていく。
「……逃げた」
最後の一球でも捕まらなかった瞬間、画面の中のポケモンは光とともに消え去った。
「くそっ、マジでやってらんねえ!」
広場から、何人かのトレーナーがスマホをポケットに突っ込み、足早に立ち去っていくのが見える。彼らの中にも、私たちと同じように「乱数」に裏切られた者がいるのだろう。
「帰るぞ。システムに踊らされるのはもうたくさんだ」
友人の言葉に、私は何も答えず、ただ街灯の下でスマホを乱暴に操作して閉じた。結局、私たちはこの日も、システムが指定した場所で、システムが用意した確率の壁に挑み、そして敗北した。画面の中の地図だけが、明日にはまた新しい座標を刻む。その地図に従って動く限り、私たちはこの街のどこにいても、システムという名の鎖から逃れることはできないのだ。




