後編
進んでいくうちにどんどんと瘴気が濃ゆくなり、人がいなくなる。
狼煙が上げられた場所に到着した。いまだに桃の煙が漂っている。
あたりには掘立小屋のような簡素な作りではなく、住居群が立ち並んでいた。店屋よりも食堂や娼館が多い。赤い幕が垂れ下がったままの見世物小屋のなかには、足の不自由な少女が虚ろな目をしてこちらを眺めていた。檻の中から逃げたのか、野獣どもの唸り声がどこからか聞こえてくる。
男の話しでは先に数人、赤都の使徒がやってきているはずだ。アオ達はあたりを警戒しながら使徒を探した。
目に見えるほど、色濃く瘴気が漂い始める。魔獣の放つ瘴気は喉を焼き、体を蝕み、理性を蕩かす。なるべく吸い込まぬように身を屈め、口をおさえる。
そんな対策をしてもユーマの顔色がよくない。水の加護を与えたはずだが、効果がないのだ。あふれかえる瘴気に浄化が追いつかない。自分のために張っていた水の膜を広げ、応急措置を施すが、戦闘となればそうはいかない。もっと水を浴びさせておくのだったと後悔する。気丈に振る舞っているが、体に負担がかかっているはずだ。
中心部をぐるりとまわってみたが、仲間の使徒は誰一人見当たらなかった。中級以上を相手取っているといえ、どこにもいないのはおかしい。それに、あたりの建物に被害がない。気性の荒い使徒達が暴れまわった場所が、こう綺麗な外観を保っていられるはずがない。
「アオ、この瘴気、なんだか紫色じゃあありませんか」
渋面でユーマが囁く。
紫国では紫が数ある色のなかで最も貴い色とされている。代々の王も紫の髪と瞳を持つ。件の現王は歴代で最も美しい紫を持つと言われている。
アオは純度の高い青い瞳を持った術師だ。青は紫に次ぐとされていて、魔力が高く、しかるべきところに行けば相応の地位を与えられる。
魔獣も放つ瘴気によってアオの瞳と同じように位が決められている。瞳の順と同じく、赤、黄、緑、青、紫と順に高くなる。中級以上と呼ばれるのは緑色の瘴気からで、低級は赤以外の濁った色を出す。
「これは、もしかすると珍しい人型かもしれないよ」
「人型?」
「魔獣にもいろいろな姿はある。人型はほかの姿に比べ、一際魔力が高いという。それに智能も高い。私も、人型を見たことがない」
人型がいるとしたらますます注意せねばならない。先に来ていたはずの使徒達がいない理由は、その人型にあるのかもしれない。紫の瘴気、いったいどんな魔獣がいるというか。
悩み込んでいたせいで、ユーマの怒鳴り声に反応が遅れてしまった。
気が付いたとき、すでに後ろから首を掴まれていた。褐色の指が視界の端で動く。
ぞわりとした。これは魔獣の指だ。分厚く長い爪の先が肌に食い込んでいる。
水に触れたような寒気が走る体温だ。まず人のぬくもりではない。
「アオ!」
声とともにユーマが腰に下げていた退魔の剣を振う。
後ろにいた魔獣はすぐに飛びのき、剣をすれすれで避けた。
完全に油断していた。ユーマがいなければどうなっていたことか!
未熟な自分が腹立たしい。驕っていた。
ここは戦場だというのに!
咳をしながらついユーマをきつく睨みつけてしまう。
「礼はあとで。油断されると困る。貴女の加護がなければ俺も死ぬ。この瘴気のなか、守護がなければ耐えられまい」
「分かっている! あとでいくらでも願いを叶えてやろうとも。ああ、女でも服でも食事でもなんでも賄ってやろう」
ユーマは片目をつぶり、唇に指をあててアオへと投げた。心憎い。
死にそうになったというのに軽薄に許そうとする。まるで信用されているかのようだ。つがいといっても肉親ではない。気を許し過ぎてはいけないのに。悶々となりながら、絶対に借りは返すと心に誓う。
――それにしても、どうやって私の術を。
魔獣には毒となる清潔な水を用いて作った膜結界だ。膜の先に触れただけでも肌が爛れる、強い術。術の構成には絶対の自信がある。でなければ、術師であると堂々と名乗りはしない。
人型の魔獣には効かないのか。それとも、この強い瘴気のせいなのか。
「面妖な術。我の指がこのように爛れるなど。面白い。この術は、ぬしの術?」
場にそぐわぬ、おっとりとした声が後方から発せられた。二人揃って慌てて飛びのき、声の主を探す。
「おや、その雲のように白き髪。術師か」
「だったら、なんだというの」
力の強い術師はみな白髪だ。さらに目の色の純度が高いほど、紫に近いほど秘めた力を授かっている。
「そう邪険にするでないよ。ぬし、美しいなあ」
そういって頬を高揚させる魔獣は美しかった。砂漠と同じ滑らかな乳色の髪と透き通る紫の瞳。褐色の肌で、唇は娼婦のように艶っぽい。中性的な体つきをしていた。
なぜか顔半分を獣の面で隠しており、厳めしい角が二本生えている。一目で異形と分かる出で立ちだ。
だが、強そうではない。穏やかな口調がそうさせるのか。妙に人間らしい仕草が警戒を緩めるのか、弱弱しく映る。忌々しい瘴気を放っていなければ、さきほどの見世物小屋から逃げてきた子供だと誤認していただろう。どう見えても人に害をもたらす魔獣には見えない。
「美しく、淫らな汚れの業だ」
「なにをわけの分からぬことを」
「なに、人とは浅ましいと再確認しただけのこと」
魔獣はじいとアオを見つめている。アオの青い瞳を紫の瞳が。足元から火に炙られるように熱くなる。恥ずかしがるように顔を背けた。どくんと心臓が高鳴っている。なんだ。あまりにも自分らしくない反応に戸惑う。
「ふふ、どうしたの。照れている?」
「アオ」
窘めるように名を呼ばれた。弾むような気持ちを殺し、咳払いをする。
「違う! お前、私に魅了の術をかけようとしたな? 小賢しい真似を」
楽しそうに魔獣が笑う。術師のアオに導師が使うような魅了の術は通用しない。それなのにその術を使うということはからかわれているのだ。
「そう憤らなくてもよいだろう。ただの遊びではないか」
「……お前、我らの仲間はどうした?」
「うん? 殺しつくしてしまったよ。あれはだめだ。弱すぎた」
くつくつと笑みを浮かべていた魔獣があっけらかんと言い放つ。
ユーマがぴくりと体を揺らす。アオも眉を顰めた。
「ぬしらはどう? 我を楽しませてくれる?」
魔獣の手から赤い閃光が飛び出す。ユーマの前に出て、水の膜を広げる。赤い閃光は水の膜に触れ、眩い光となって弾ける。虹のように七色に光り、目が眩んだ。場にいる誰もが瞬きをする一瞬の間にユーマが飛び上がり、魔獣の首に剣を振り降ろす。
だが、なぜか魔獣の肌に触れる前に跳ね返った。突然のことに体制を崩したユーマに魔獣がさきほどの閃光を叩きこんだ。
石がぶつかったような鈍い音がした。
「ユーマ!」
頭をしたたかに打ったのか、頭を抑え蹲る。
目を凝らしてみてみると魔獣の周りに紫の膜が張ってあった。何者の攻撃も跳ね返す術だ。強力な呪い返しのようなもの。恐ろしいほどの魔力を消費するはず。それを張り、閃光まで放つことができるのか。魔獣の奥に眠る無尽蔵とも言える魔力に絶望感を覚える。アオ一人どころか、ユーマと一緒でも敵うまい。
一度、撤退しなくては。
外見で惑わされてはいけない。これは化け物だ。
この魔獣は二人だけでは倒せぬ。立ち向かった使徒がどれほどいるか分からないが、すべてが息絶えたわけではあるまい。運よく逃げおおせたものもいるはずだ。彼らと結託し、再度攻撃を仕掛けたほうが勝機は高い。
そうと決まればやることは一つ。ユーマを連れてここから脱出するのだ。
だが、先回りされてしまった。魔獣がユーマの頭に足を置き、アオを見遣ったのだ。みしりと頭蓋骨が軋む音がした。
「そう無下にするでないよ。術師の女。我が声をかけているのだ。愛想をみせてもよいのでは」
「人間にも振りまいておらぬものを魔獣に振りまけとは、土台無理な話だ」
「なあ、女よ。これはぬしの男では? 過ぎた口は災いしか呼ばぬよなあ」
「……涙など知らぬ。仇を討つくらいの甲斐性なら持ち合わせているが」
けたけたと魔獣は笑った。さきほどからなにがそんなに面白いのか。上質な絹でできた衣を揺らし、尖った歯をみせる。
「女とはよく泣き、笑う、けたたましい生き物だと思っていたが。雷のような癇癪を起し、聖母のごとく慈悲深くなる」
「お前に人間の女が分かると? 魔獣風情が、知った口をきく」
「砂の歴史にはこう記されておるからなあ。我ら、人を生み、人から生まれた。人とは我らであり、我らとは人なのだ。かつて兄と呼ばれたものが人であり、弟と呼ばれたものが我ら魔獣であるだけ。神がつくりし我らは、ゆえに殺戮を好み、慈愛を持ち合わせる。我らは同じ血を分け合う兄弟だと」
陰書に並ぶ三大禁書のひとつである砂起聖書の一節だ。原初の記憶が書かれており、その内容は過激だ。一部修正が施され出回っている陰書に比べ、断片的な情報しか開示されておらず、いまだに秘匿されている部分が多い。人伝に聞いた話だと人と魔獣の誕生が書かれており、なんと人と魔獣は元はひとつの種族だったといのだ。人間と魔獣が同じ種であると肯定してしまえば同族殺しとなる。だからこそ偽書扱いされ日の目をみることがないのだ。
また、この聖書では、やがて訪れる審判の日に魔獣の襲来により国は亡び、魔獣は人と名乗るだろう、と記されているという。一部、陰書の予言とかぶる箇所があり、審判の日は今年来るのではないかという声もある。
なぜこの魔獣がそのことを知っている。
智能の高い人型だからできることだというのか。
「魔獣の女も変わらぬ。煩わしいことこの上ない。我に擦り寄り喘ぐ。人より理性がないものだからはしたなく、すぐに股をひらき、子をと希う」
心底、鬱陶しそうにぼやいた。人のような悩みだ。
もとは同じ種であった。それは真のことであるかもしれない。人型は表情が読め、声質で感情が伝わってくる。
アオにとってそれは抜き差しならぬことだった。今まで心かわせぬと無情に屠ってきた魔獣と対話できるなど、誰が思おうか。
いずれ魔獣が人となる日が克明に描ける。そのとき、人はどうなっている?
寒気と明確な拒絶が頭を支配した。
それはならない。魔獣が人になりかわるなど許せるものか。
「魔獣が甘言を弄し、誘惑したところで無駄だ。魔獣は魔獣らしく、おとなしく人に滅されよ」
「おや、反撃を考えぬ人らしき考えよな? 傲慢だ。だが、そこが愛い」
「舐めたことを!」
水の術式を展開する。敵わぬと頭では分かっている。
だが、このまま魔獣と会話しているとそのまま唆されてしまいそうだ。
水が体の周りを踊る。空中に漂う瘴気を浄化しながら、魔獣へ矢のように飛んでいく。
「おや、ぬし、生意気だ。我に術は通用せぬというのに刃向かうとは。お仕置きして欲しい?」
やはり、魔獣の前で術が跳ね返る。水同士で打ち消し合わせ、矢を相殺する。
「ねえ、女。ぬしは魔獣は魔獣らしくと言ったね。では、人間は人間らしくわれの下に侍っては」
「誰が! お前らは女を襲い、種を植えつけることもあるときく」
魔獣はいたずらに女を襲い、魔獣の子を産ませることがある。這い出てきた魔獣は母親を食べ、骨さえ残さない。
「魔獣とは口が上手いのか。初めて知った!」
「我がぬしらの築いた文明の書物の内容を知っておるから怯えておるのか」
「魔獣が文字を読めるなどきいたこともない。お前達は人間に害を為す生き物だ。だからこそ、魔獣は処分されるべき」
「人はそういい獣も殺してきたなあ。ぬしらは脅威という仮面をかぶらせ殺戮する。我らが人を選ぶのは享楽をそちらが望むため」
「魔獣と交わりたいものがいるとでも?」
「我らと交わりたがらないものがいるとも?」
「少なくとも、私は違うのでね」
魔獣は嘲笑した。小賢しいとばかりに片目が細められる。
「術師はとくに享楽を呼びやすいと思うが。なあ、ぬし、名をなんというの?」
「だれが馬鹿正直に答えると?」
「名を、なんというの?」
のどかな声色から発せられる言葉は引力があった。言葉に魔力がともっているのだ。月に魅入られるように、一気に引き込まれていくのが分かる。抗うように頭を振ると魔獣は驚いた。
「我の力に抗うとは。珍しき女よ」
魔獣は口元を緩めた。梅色を基調とした衣ですぐに隠されたが、うきうきとたのしげだ。
「我が名はジャバ。魔獣達の王。ぬしらの不幸の種。人に変わるもの。我はぬしを気に入った。力はこの世の全て。力で支配できぬものはなし。力を持つぬしはこの世を支配できる」
「王だと、お前が?」
魔獣は理性を持たぬけだものだ。人が勝手につけた強さの位はあれど、野生の奴らに位という制度はないはずだ。だが、魔獣の王だと。では、魔獣どもは意志の疎通ができ、崇める対象がいるのか。それでは本当に人と変わらぬのではないか。
いや、待て。魔獣はその名の通りケモノの姿をしている。人にとって変わるなどできぬはずだ。偽典の言葉を信じてどうするのだ。
「いずれ人世の王ともなろう」
ユーマの髪を足先で弄んだ。指先で髪をすくい上げ、その髪をひいて持ち上げる。
「そのときには人は奴隷にでもしようか。この男など見目好い。女達にはこのまれような」
「その男を離せ」
「ぬしの男ではないのだろう。そう怒るな。さっきは泣かぬと言っておったのに」
「言ったはずだ、仇は取ると。それ以上の狼藉は許さない」
「では、ぬしの名を寄越せ」
アオは舌打ちしながら自らの名を吐き捨てた。
「それは仮名であろう。華名があるはず。それをきかせよ」
華名は術師にとって心臓と同義だ。生まれつき与えられた華名は術師を世に繋ぎとめる杭。他人に知られれば、術師はたちまちその者に縛られ、支配される。奴隷よりも酷い。死ねと言われれば恍惚と死なねばならぬのだ。
だからこそ術師は自らの名を隠し、仮名を名乗る。他者に取られぬため、親が華名を教えぬこともある。
ーーどうする。
華名を教える危険を考えるとユーマを見棄てたほうがよい。アオは上位の術師だ。もし魔獣に華名を取られてしまえば取り返しのつかないことになる。
だが、ユーマを見棄てるのか。
髪を掻き毟りたい。ユーマは仲間だ。一年以上、仲間として活動してきた。それに、人を見殺しにしてまで逃げていいのか。親に捨てられた子が、人を踏み台してまで生きたい理由はあるのか。
品なく悪態をついてしまう。
「この男を醜女たちに捧げるならばそれでもよい。どうせ我はこの男が生きようと死のうと知らぬ」
げほげほとユーマが咳き込む。瞼が開き、血のように赤い瞳が驚愕に見開かれる。
魔獣にいたぶられそうになっているとすぐ分かったのだろう。
アオと目が合うと唇の端をひくつかせた。
「なにをやっている、アオ! 早く逃げろ!」
荒々しい言葉遣いだ。怒鳴り散らすように必死の形相で逃げろと繰り返す。
「ユーマ、だが」
「なにを躊躇っているんです、逃げろといっている! この魔獣はすぐに倒して、追い付くので心配無用です」
ユーマ一人で敵うはずがない。死ぬ気なのだ。心臓を掴まれた気がした。誰のために死のうとする。私を逃がすためにか。
「逃げたらこの男の首を落とそう。そしてぬしをすぐに捕まえようか」
ジャバがくすくすと残酷に笑う。爪の先でユーマの首先をなぞり、アオに問い掛ける。
それでも逃げるのか、と。
首筋に汗が流れ落ちる。早く逃げろと催促するユーマと試すように問い掛けるジャバ。聖人か悪人かを決める審判でも受けている気分だ。
アオは首を振り、汗を払った。覚悟を決める。
「くれなゐだよ、私の華名は」
「さようか!」
「ユーマから手を離せ。その男は殺していい男ではない」
「おや、その言いよう。なんだか妬けてしまうね?」
上機嫌なジャバはユーマの頭を押してアオの近くに転がした。痛みに呻き、ユーマはぎゅっと目を閉じる。地面に積もった砂でも目の中に入ったのだろう。
水の術で体に入り込んだ瘴気を取り除く。後遺症を残さないためにも念入りに瘴気を吐き出させた。
「くれなゐ、よい名前だ」
名を呼ばれた瞬間体がズドンと重くなる。鉛を足に巻きつけた奴隷にでもなったようだった。
華名の拘束は恐ろしいものだ。
アオはいつの間にか王に傅くように膝を折っていた。屈辱で体が火をつけたように熱かった。
「魔獣を王に見立てるなど、躍起が回った」
「言うたであろう。人世の王に、いずれなると。では今のうちに我を王としておくのは賢きこと」
「だれがお前などに忠誠を誓うものか」
「うんうん、ぬしは我に忠誠など誓わぬでよいよ。ぬしには忠誠など望まぬ。屈辱と辛酸だけをあげる」
アオの白髪を持ち上げ、ジャバは顎を掴んだ。そして力任せに唇を合わせた。
噛みつくような口づけ。獣が本能でやる行為そのものだった。唇を吸われ、齧られる。このまま食われてしまうのではないか。反撃しようにも、華名を取られてしまっている。舌を噛むことすらできなかった。
至近距離でみた紫の瞳は不謹慎にも美しかった。人を惹きつける眩惑の色。
口づけは通り雨のように唐突に終わりを告げた。
「慣習にならい期間は三百日、つまり半年待ってあげよう。猶予期間を与えてあげる、花嫁様」
「どういうこと」
唇をごしごしと手の甲で擦りながら、アオは詰問した。ジャバがなそうとしていることがわからない。
「人間の女を番とするのもよいと、そう思ってね? 感謝するべき。命も救い、愛でてやってもいいといっている」
「お前の番になるだと? その前に死と番になっているよ」
「華名の呪縛はそう断ち切れるものではあるまい。我が死ぬことを許可しなければ、なにもできぬはず」
では、半年、魔獣の番になることに怯えて暮らせというのか。並みの女ならば発狂する。魔獣と交わらなくてはならないのだ。産むのは人ではなく化け物。生んだあとは蜘蛛のようにその化け物に骨までむしゃぼられる。アオでも正気を保っていられるかわからない。死ぬこともできぬというならなおさら。
嫌味な魔獣だ。屈辱と辛酸だけをあげると言った口で愛でるなど軽々に口にする。
負けたくない。
この魔獣の思い通りになることは許せない。
「では半年のうちにお前を殺す計略でも考えよう。次会ったとき、その唇に死をくれてやる」
「それは楽しみだ。では半年後、また迎えにこよう。ではね、花嫁様。その美しい業が磨かれるのを期待している」
ぶわりと砂が瘴気をまきこみ空へと浮かび上がる。
砂が入らぬよう目を瞑り、開いたときにはジャバの姿はどこにもなかった。
髪をくしゃくしゃにまぜる。
魔獣の花嫁だと、ふざけている!
あのようなケダモノに身を捧げるなどあってたまるものか!
苛立ちを発散させながら我にかえる。苛ついている場合ではない。
ユーマに駆け寄り、体を触れ合わせ、アオの体内から水を送り込む。瘴気はなんとか取り除けた。だが、ユーマの肩は骨が折れているし、足は変に曲がっている。すぐさま治癒術を使い、処置を行う。
「痛いが、我慢しなければならないよ」
「痛いのは、嫌なんですけどね」
外見はひどいありさまだが、まだ意識は保てるらしい。痛い痛いと声をあげながら、懸命にアオを見上げてくる。
「なんで見棄てなかったんですか」
「見棄てても捕まえるとあの化け物が言っていたろう。それなら見棄てても意味はない」
「華名ってなんです?」
「お前は知らなくてもよいこと」
「花嫁って言われてませんでした?」
「うるさい」
「口づけをされていました」
「黙れ」
やれやれと首が小さく振られた。この男、余裕があるな。自力で壁内へ帰らせようか。
考えなくもない真実をむしかえされた腹いせに邪悪なことを考えてしまう。
「俺は助けてもらったというのに、なにも教えてもらえぬ」
「恩に着せるつもりはない。助けたつもりもない」
「だが、俺は確かに助けられたのでね。まあ、いいですよ、何も教えられぬからといって拗ねるのも大人げない。アオ、赤都に戻りましょう」
「分かっているよ」
瘴気が消えた市場の中心には水のない泉があった。からからに干からびている。水の気配はない。この泉は枯れてしまったのだ。途中で、見世物小屋の檻の中にいた少女が檻から出て行く姿を見つけた。足を引きずり、懸命にもがいている。
アオはなんとなく側に近寄った。体はへとへとだが、興奮しているせいか頭はすっきりしていた。呪文を構築し、足をさする。
アオを警戒していた少女は、やがて信じられないとばかりに立ち上がり、転けた。その姿に、微笑ましくなる。
「自由におなり」
髪の毛を撫でて、アオはその場を離れる。
ユーマは出ている店から林檎をくすねて、一口かじるとアオに投げ渡してきた。砂をかぶった林檎は見るからに美味しそうではない。かぶりつくと見た目と反してみずみずしい果実の甘みが口いっぱいに広がった。
赤都の使徒のなかでも上位の強さを持っていた十二人が土葬された。粛々とした静謐な葬式だった。アオとユーマ以外、参列者はいなかった。赤都の使徒は貧民街の憧れであっても、魔獣を倒せなかった屍は英雄などではない。使徒にとって、死とは無価値と同意義だ。魔獣に倒されたとなれば、娼館で身を売る女よりも汚らしく罵倒される。もっともだ、彼らにとって魔獣の到来は英雄によって退かれるものであり、その逆は認められない。認めてしまえば、そのときは自分も死ななければならないのだから。
清潔な水で育てた花を砂の上に置く。キジュと言われる赤い花だ。花弁から茎、根に至るまで真っ赤で出来ている。死者への手向けに使われる由緒あるものだ。
埋まっている使徒達にはろくに喋ったことがないような奴もいた。それどころかアオに悪態を吐くものまで。だが、不思議なもので、死んでしまうと愛惜の念がわく。偽善だと嘲笑した。付き合いもない者に傾ける情などいっときの気紛れに過ぎない。見世物にされていた少女への慈悲さえ。
ジャバ一人を倒すために十二人も死に、結局、狩ることはできなかった。赤都の危機は去ったが、それだけだ。いつまたジャバがやってくるとも限らない。
目を瞑り、黙礼する。
口内に砂が入りこみざわりとした。
「どこいくんですか」
星降る夜。静寂の中に響いた低い声の問いかけに舌打ちした。
砂漠特有の高低差に負けぬ黒駱駝に荷物をくくりつけ、いざ行かんとしていたアオを止めたのは、ユーマだ。
髪に金の髪紐をつけ、紺の長衣を黒の腰紐で結んだ姿をしている。とても星空見たさの散歩ではない。昼間のように着飾りはしないが動きやすい実用的な格好だ。
赤々とした瞳は星空の光を浴びて怪しく煌めいている。
「お前には関係ないこと」
「俺はあんたの相棒でしょう」
「私は赤都の使徒を辞める。故にお前とはなんの関わりもなくなる」
「赤都の使徒を辞める? どういうことです?」
尋ねれば答えると思っているのか。
ユーマの言葉を無視して駱駝に乗ると、手綱を持って静止された。どけと目で命令しても、頑なに拒まれた。
「……紫都に行く」
「あの魔獣のこと、調べにですか?」
あの魔獣は偽典を知っていた。そして、そこに書かれているように魔獣が人となると。
偽典は写しが出回っている。だが、写しゆえ訂正が行われ、規制で章ごとなくなっている部分も多い。紫都にある原本の偽典を調べれば解決策が見つかるやも知れぬ。
アオはこのまま狂い死ぬことは嫌だった。せめて、一矢報いたい。魔獣に投げた言葉は偽りなき本音だったのだ。
だが、それにこの男は関係ない。
答えてやる気はなかった。
口を固く閉ざしたアオにユーマはむっとした。
「なぜ教えてくれぬのか。そんなにあの魔獣に負けた俺が疎ましい?」
「……」
「足手まといになったことは謝ります。俺の力不足だった。舐めていたというのもある。実戦を積み、自信過剰だった」
「私はお前の懺悔室ではないよ。退くことだ。でなければ、関係のないお前などどうしてやろうかね?」
「では理由を」
「言えば退く?」
「言わなければ地の果てまで追いましょう」
アオは深く息を吐いた。
ユーマの性格は理解している。この男は飽きやすく見られがちだが、とことん強情で自分を曲げない。追うというのならば追ってくるだろう。
「私は魔獣の花嫁になるつもりなどない」
「紫都にはあの魔獣を倒すなにかがあると」
「紫都は紫国の首都だ。なにかしらの手がかりがあるだろう」
「紫都までこの駱駝で行く気ですか? 一人で?」
「私の強さならば、お前も知っていると思うが? 今ここで示してやっていい」
「あんたは強いが、女一人旅ってのは危ないです」
「私より強い護衛がいれば雇ってもよかったのだがね、残念なことにままならない」
「では、俺を雇っちゃあくれませんか」
一瞬、耳を疑った。
「俺、それなりに有能物件だと思いますよ。どうです? 知り合い価格で安くしておきますよ」
「馬鹿な。お前、とうとう頭までお気楽になったの?」
「酷い言いようだな」
赤都の使徒は確かに放り出したくなるほど苦難なものだが、見返りは大きい。一生不自由のない生活を赤都の壁内でおくれるのだ。望むものは全て手に入り、魔獣さえこなければ身の危険はない。
ジャバの一件で揺らいでいる概念であるが、今まで通り暮らしに不自由することはないはずだ。
「赤都の使徒はどうするつもり」
「あんたが辞めるってなら俺も辞めますよ」
「そんな、なにを考えているの。別に私に付き添う必要はないはず。纏わりつくな、迷惑だ」
辛辣に言葉を放ってもどこ吹く風。ユーマは駱駝の頭を叩いた。駱駝が嫌そうに首を振る。
「紫都に行くなんて今までの俺では考えもしなかった」
「そのまま考えないままでいるといい。私は一人で行く。お前など不要」
「女一人ではなにかと危ない。保険と思い連れて行ってください」
「くどい。退け」
「そうはいきません。俺はあんたに借りがある。あんたも俺に借りがあるはずだが。金でも人でも願いを叶えてやると誓ってくれたはずだ」
それはそうだが。すっかり忘れていたがジャバとの戦闘でそんな約束をしたのだった。
アオは深く息を吐いて、駱駝から飛び降りた。
「なにが欲しい。約束したのだから果たさねばな。金でも女でもくれてやる。だから私につきまとうな」
「ではあんたの護衛にしてください」
「おい」
「願いを叶えてくれるというなら俺を連れて行ってください」
待て待て待てとアオはユーマに突っ込みを入れたくなってきた。
「魔獣狩りもあんたと組むのに慣れているし、腕っ節もある。愛想のないあんたのかわりに人に溶け込むことも容易い。役に立ちますよ、俺」
たしかに私には愛想はないさ。だが、だからと心配される必要は。
くどくどと関係ないことを考え込んでしまう。
「アオ」
懇願するように呼ぶな。もう、どうしろというのか。
頭をくしゃくしゃとかき混ぜる。なんなのだ、この男。私など構わなければ良いのに。
借りなど貸したつもりはない。華名を名乗ったのはそれが最良だと考えたからだ。情けをかけられるためではない。
赤玉のような瞳。月光を浴び、血のように煮詰まった色をしている。じっと見つめる視線に、とうとう折れてしまった。
「馬鹿が」
ユーマの顔がぱあと明るく輝いた。口の端を上げて笑う。
「ありがとう、アオ」
「知らぬ。準備するなら早くしてくるといい。遅ければ置いていく」
「はーい」
駆け出したユーマはアオを振り返り、腕を前に突き出した。
「俺はあんたの護衛です。だから、あんたは安心して命を預けて下さい」
ユーマはすぐに戻ってきた。黒駱駝に荷物を括り付け、夜着の上に漆黒の外套を羽織ってきた。遅くなったら本気で置いていこうとしたのに。やはり、ままならない。
赤都の石壁を越える頃には地平線から太陽が顔を出していた。
夜明けを告げる鳥の鳴き声が高らかに響いた。