第九章 美々津 船出
秋。風は北から。
美々津の湊に——十二隻が並んでいた。
多芸志美美が作った船だ。半年かけて。杉を切り、板を割り、乾かし、組んだ。浜の漁師の船より大きい。遠くに行くための船。——帰るためではなく、着くための船。
大きいのが五隻。人が乗る。荷物用が四隻。飯と水と弓を積む。速いのが三隻。先に行って、先を見る。
朝日が船の横腹に当たっていた。杉の板が光っていた。——良い船だった。
浜に人が並んでいた。八百と少し。
日向の男たち。漁師と猟師と田の男。弓を持っている。櫂を持っている。飯の包みを持っている。
阿多の海人たち。腕が太い。漕ぐために来た男たち。
見送りの女たちがいた。子供を抱いた女。手を振る女。泣いている女。——泣いていない女もいた。泣いていない女の方が怖い顔をしていた。泣けないくらい怒っているのか、泣けないくらい覚悟しているのか。——たぶん、両方だ。
出航の前に——丘に登った。
一人で。最後に。
あの木の下。花が少しだけ咲いていた。毎年減っている。しかし——まだ咲いている。根があるから。
祖父がここにいた。毎日。海を見て。
父がここに眠っている。静かに。名前だけが長い男。
妻がここに眠っている。波打ち際で消えた女。
三人の温かさが——足の裏にある。丘の土を通して。
「……行ってくる」
声に出した。木に向かって。三人に向かって。
「東に行く。——何があるか分からない。分からないから行く。祖父上と同じだ。分からないから海に沈んだのと同じだ」
「…………」
「聞こえたことを言う。やっと。——四十五年かかった。遅くてすまない」
風が吹いた。花びらが一枚散った。——海の方角ではなく、東に。東に飛んでいった。
初めてだった。この木の花びらは、いつも海の方角に飛んでいた。祖父が見ていた方角に。——今日は東に飛んだ。
偶然かもしれない。風の向きが変わっただけかもしれない。——しかし、俺は聞く男だ。偶然の中の意味を聞き分けるのが、俺の耳だ。
花びらが東に飛んだ。——行け、と読む。
「行く」
丘を降りた。振り返らなかった。
浜に戻った。母が立っていた。
玉依姫。白銀の髪。淡い青の目。内側の光が——今日は少しだけ表に出ていた。送り出す光。
「狭野」
「母上」
「お元気で」
「……ああ」
「海の音を、忘れないように」
「忘れない」
「足の裏だけ聞いていると——上を忘れる。波の音も聞きなさい。空の音も聞きなさい。全部聞いて、全部使いなさい」
「…………」
「あなたには天の血と地の血と海の血がある。——お祖父様は見るだけだった。お父様は何も聞こえなかった。あなたは全部聞こえる。全部聞こえるなら——全部使える」
「全部使って——何をする」
「あなたが決めなさい。聞いて、歩いて、着いた場所で。——そこで何をするかは、着いてから決めること」
母が手を伸ばした。俺の頬に。冷たかった。海の人の手。——ずっと冷たかった。子供の頃から。布をかけてくれたときも。
「行ってらっしゃい」
「……行ってきます」
母の手が離れた。
背を向けた。船に向かって歩いた。——振り返らなかった。振り返ったら、四十五年に戻ってしまう気がした。浜で聞いているだけの末の子に。
船に乗った。
五瀬命が舳先に立っていた。旗を持って。白い布に日の丸。朝日が旗を透かしていた。
「遅いぞ狭野! ——最後に乗るな!」
「……最後でいい。聞く係は最後に乗る」
「なぜだ!」
「出る前に——湊の音を最後まで聞いておきたかった」
「…………」
「澄んでいた。——出て良い音だった」
五瀬命が笑った。笑って——旗を掲げた。
「出るぞ!」
声が湊じゅうに響いた。海の底まで届いたかもしれない。——五瀬命の声は、海の底まで届く。吾平津媛が生きていたらそう言った。
兵が声を上げた。八百の声が重なった。
櫂が水に入った。船が動いた。
稲飯命は二番目の船にいた。弓を立てて。無口のまま。——しかし背中が真っ直ぐだった。この人の背中の後ろに、百人の弓兵がいた。黙って並んで。
三毛入野命は三番目の船にいた。声が高い。「おい、あっちの船の方が速いぞ! 漕げ!」と叫んでいた。兵が笑っていた。——笑いながら漕ぐ船は速い。暗い顔で漕ぐ船より速い。
多芸志美美は速い船の先頭にいた。物見の長。母に似た顔で、海を見ていた。——見て、測って、手を上げて合図を出した。「左の潮が速い。右に寄せろ」。的確だった。海人の血が操っている。
俺は大きい船の真ん中にいた。舳先でも艫でもない。真ん中。——一番よく聞こえる場所だ。船の前の音も後ろの音も、左の波も右の波も。全部聞こえる。
日向が小さくなった。
浜が細い線になった。丘が見えた。——あの木が見えた。花が咲いている。小さく。遠く。
浜に白い点が立っていた。母だろう。白銀の髪の、小さな点。
見えなくなるまで——見ていた。聞く男が、最後に見ていた。聞くべき音がなかったからだ。母の声は届かない。波の音に消えている。だから見ていた。見えなくなるまで。
見えなくなった。
浜が消えた。丘が消えた。木が消えた。母が消えた。——四十五年が消えた。
海だけになった。
前にも後ろにも。左にも右にも。水と空。船と兵。——それだけだ。
足の裏が温かかった。船底を通して。海の上にいるのに——地の温かさが届いている。海の下にも大国主命の道があるのか。あるいは——足が覚えているだけか。四十五年分の温かさの記憶が。
どちらでもいい。温かければいい。
懐に四つのものがある。花びら。歪んだ針。潮の珠。——そして目に見えないものが一つ。吾平津媛の最後の息の音。波に混じって消えた、あの音の記憶。
四つ持って、東へ行く。
五瀬命が舳先から叫んだ。
「狭野! 波はどうだ!」
「——澄んでいる」
「良し!」
「ただし——」
「ただし何だ!」
「いつか濁る。——濁ったとき、俺が言う。今度は遅れない」
「…………」
「聞こえたら言う。聞こえたことは全部言う。——それが俺の仕事だ」
五瀬命が旗を高く掲げた。風が旗を鳴らした。
「良い! ——行くぞ!」
東へ。
ここから先は——数える。
兵を。船を。日を。死んだ者の名を。
聞くだけでは足りない。聞いて、言って、記す。全部。
四十五年、末の子は黙っていた。黙って聞いていた。——ここからは、言う。全部言う。
記す。——全部。
〈第九章・了〉




