第十章 地勢と敵情
記す。
ここから先は全部記す。聞いたことを。数えたことを。決めたことと理由を。死んだ者の名を。飛ばさない。順に。
美々津を出た日の数を記す。
船、十二隻。大きいのが五。荷物用が四。速いのが三。
人、八百と少し。漕ぎ手を兵に数えるか——数える。漕ぎ手が止まれば船は潮に流され、乗っている人間は弓を抱えたまま全員沈む。漕ぎ手は兵だ。
飯、三月分。干した魚と粟。水、十日分。水は重くて腐ってこぼれる。三月分は積めない。湊ごとに汲む。
道は瀬戸の海。真ん中の道。軍議で決めた。島が多く、波が低く、湊が並ぶ。——理由は水だ。全部、水の話。
総帥、五瀬命。舳先の旗持ち。
弓の長、稲飯命。百張の弓を預かる。
士気の柱、三毛入野命。笑い声で八百人の空気を持たせる。
物見の長、多芸志美美命。速い船三隻。海人の目で潮を読む。
記す係。聞く係。狭野。——俺。
豊国、宇沙。最初の湊。
浜に人が並んでいた。武器は持ってない。だが全員立っていた。座ってない。——値踏みだ。
土地の長が二人出てきた。宇沙都比古と宇沙都比売。兄妹らしい。柱一本で床を持ち上げた宮に通されて、飯が出た。食い切れないほど。
五瀬命は喜んだ。「天の子を土地が迎えた」と。
俺は宇沙都比古の目を見ていた。船を数え、兵を数え、弓を見ている目。計算する目。八百人と戦うか飯を出すか——飯の方が安いと判断した目。
——多芸志美美と同じ目だった。測る目。あの子が生まれたときから持っていた目。世の中にはああいう目をした人間が何人もいるらしい。
構わない。損得で動く相手は損得が合ううちは裏切らない。俺がやるのは——損得を切らさないことだ。
水を汲み、飯を買い足し、出た。
筑紫、岡田宮。
ここで冬を越す。理由は三つ。
一つ。冬の瀬戸は渡れない。海人も漁師も「風が三日で変わる」と言う。天気と喧嘩しても勝てない。
二つ。大きい船一隻の底に水が染みていた。板の継ぎ目が緩んでいる。多芸志美美が見つけた。「海の上で気づいたら沈む。——母上の言う通りだ」と言った。母の言葉を息子が使っている。吾平津媛は死んでからも船を守っている。
三つ。兵が並ばない。
一人ずつは強い。弓がうまい。——だが百人並ばせて引かせると、隣の肘がぶつかる。前の男の頭をかすめる。船と船で旗を振ると、見てる者と見てない者と、見てるけど意味が分からない者に分かれる。
浜の猟は一人でやる。一人で追って一人で射る。だから強い。——だが軍は一人じゃない。一人の強さは並んだ瞬間に半分になる。ぶつかるからだ。
冬じゅう、毎朝並ばせた。弓は引かせない。立たせて、座らせて、歩かせて、止まらせて、また並ばせる。それだけ。
「弓を引かせろ。俺たちは弓の者だ」
分かる。——だが並べない弓兵は並べる槍兵に負ける。今は退屈しておけ。退屈で死んだ人間はいない。並べなくて死んだ人間は——これから出る。
旗の話を記す。
旗は三色作った。赤は進め。白は止まれ。青は退け。
五瀬命が嫌な顔をした。
「退く旗は要らん」
「要ります」
「なぜだ」
「退くときに合図がなければ崩れる。崩れた退却は敗走で、合図のある退却は立て直しです。差は旗一枚です」
「…………」
「人が一番死ぬのは退くときです」
兄は黙った。旗を増やした。——この人は嫌な顔をするが、理屈が通れば飲む。それが出来る総帥はそう多くない。記す。良いところも嫌な顔も全部。
冬の夜。湊に出た。船の綱を確かめに。
三毛入野命が後ろから来た。
「また聞いてるのか」
「ああ」
「何が聞こえる」
「まだ何も。澄んでる」
「良いことだろ」
「良いことだ。——けど濁る日は来る。水はいつか濁る」
「お前って本当に面白くないこと言うよな」
「記す係なので」
三毛入野命が笑った。高い声で。離れた焚火のそばで兵が振り向いた。——この笑い声が八百人の空気を持たせている。俺が記すことで残せるものと、この人が笑うことで残せるものは違う。どっちも要る。
敵情を記す。——分からない。
知っていることは塩椎の翁が言ったことだけだ。東に美しい国がある。先に天磐船で降りた者がいる。名は邇芸速日。
それ以外は何も分からない。兵の数。味方か敵か。——全部、着いてから分かること。
五瀬命は「同じ天の血だ、話は通じる」と言う。
——かもしれない。俺は黙っておいた。通じるかどうかは会えば分かる。会う前に決めるのは、聞く前に答えることだ。俺はそれをやらない。
春。数を取り直した。
船、十二。底は直った。多芸志美美が板を張り替え、松脂で塞いだ。
人、八百と少し。冬のあいだに三人死んだ。病で二人。酒に酔って湊の岩から落ちた男が一人。名は記した。三人とも戦で死んだのではない。戦はまだ始まってない。
始まってないのに三人減った。矢だけが人を殺すのではない。病と酒と岩も殺す。記す。
飯、二月分に減った。宇沙都比古の筋から買い足した。損得の目は裏切らなかった。
並び。百人が横一列で弓を引いて、隣とぶつからなくなった。旗は三色、通るようになった。冬の退屈は無駄じゃなかった。
岡田宮、一年。
得たもの。冬を越す形。並べる兵。退く旗。損得の合う湊。
失ったもの。三人。それと——一年。
四十五から数えれば惜しい。だが急いで冬の海に沈めば残りの年は全部消える。惜しみながら待つ。両立する。——四十五年待った男が記すのだから、間違いない。
出航の朝。五瀬命が舳先に立った。旗を掲げた。兵が声を上げた。朝日が旗を抜けて、兄の背中に影が落ちた。
眩しかった。——何度見ても、眩しい人だった。
俺は最後に船に乗った。乗る前に海に手を入れた。
澄んでいた。まだ。
——濁る日が来る。分かっている。来たときに聞き落とさないために、今の澄んだ音を体に入れておく。耳に。手に。足の裏に。
東へ。
〈第十章・了〉




