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第八章 軍議


 翌朝。

 飯の前に——言った。

「東へ行く」

 家の中だった。兄たちがいた。息子がいた。母がいた。全員が飯の支度をしている途中だった。五瀬命いつせのみことまきを持っていた。稲飯命いなひのみことが弓の弦を張り直していた。三毛入野命みけいりぬのみことが寝ていた。多芸志美美たぎしみみが魚をさばいていた。

 全員が止まった。

 三毛入野命みけいりぬのみことも起きた。——この人は面白いことが起きると起きる。

「…………」

「…………」

「…………」

 五瀬命いつせのみことまきを下ろした。静かに。この人が静かに物を置くのは珍しい。いつもは投げるように置く。

「……もう一度言え」

「東へ行く」

「…………」

 長い沈黙だった。——五瀬命いつせのみことが黙るのは、声がでかい分だけ長く感じる。黙っていても存在が大きいのだ。

「お前が言うなら——本物だ」

「…………」

「お前は聞こえたことしか言わない男だ。四十五年、聞こえないことは一度も言わなかった。——お前が東と言うなら、東に何かがある」

「ある。——たぶん」

「たぶん?」

「……いや。ある。たぶんは——昨日捨てた」

 五瀬命いつせのみことが笑った。腹から。声がでかい笑い方で。まきを蹴飛ばした。——今のは蹴らなくてよかったのではないか。

「行こう。——俺が旗を持つ。お前が耳を持て」

 稲飯命いなひのみことが弦を張り終えた。弓を一度引いて、戻した。

「弓は何張り要る」

「……分からない。どのくらい人が集まるかによる」

「百は要るだろう。——百張ならある。この浜の男に声をかければ」

 もう計算している。稲飯命いなひのみことは——こういう男だ。行くと決まれば、次の瞬間には数を数えている。感情の前に手が動く。

 三毛入野命みけいりぬのみことが両腕を伸ばした。

「面白くなってきた」

「……面白い話ではない。戦になるかもしれない」

「戦は面白くない。——しかし、東に何があるか分からないのは面白い」

「…………」

「分からないことは面白い。分かっていることは退屈だ。——俺はこの浜に四十年以上いて、退屈で死にかけていた」

「死にかけてはいないだろう」

「心が死にかけていた。——お前が東と言ってくれて生き返った」

 大袈裟だ。——しかし三毛入野命みけいりぬのみことの目が光っていた。本気だった。この人は面白いことのために生きている。面白いことがなければ——本当に枯れる。

 多芸志美美たぎしみみが魚の手を止めた。

「父上」

「ああ」

「船は要るだろう」

「要る」

「何隻だ」

「……まだ分からない。人の数が決まってから」

「俺が作る」

「……お前が」

「この浜で一番船を知っているのは俺だ。漁師の船は小さい。東まで行く船は——もっと大きいのが要る。俺に任せてくれ」

 息子が——初めて、俺に「任せてくれ」と言った。

 測る目が光っていた。あの目だ。生まれたときから何かを測っていた目。——今、初めて測るべきものを見つけた顔をしていた。船の大きさを。板の厚さを。水の深さを。

「……任せる」

「ああ。——任せろ」

 母に似た顔で笑った。吾平津媛あひらつひめの笑い方ではなかった。——多芸志美美たぎしみみ自身の笑い方だった。初めて見た。

 母が——立っていた。入口に。

 みんなが動き始めた中で、一人だけ動いていなかった。淡い青の目で。内側にしまった光で。

「母上」

「…………」

「聞こえていたか」

「聞こえていました。——ずっと、聞こえていました」

「ずっと?」

「あなたの足の裏が東を向いたときから。——もう何年も前から。言うのを待っていました」

 母も——待っていたのか。兄と同じように。

「行きなさい。——聞こえる子は、聞こえる場所に行くものです」

「母上は——」

「私はここにいます。この浜に。——姉が海に帰ったように、私はこの浜にいる」

「…………」

「あなたのお祖父様を海に送った浜です。あなたのお父様が生まれた浜です。——私はこの浜を守る。送り出す側は、いつでもここにいる」

 母の目が——少しだけ明るくなった。内側にしまってある光が、一瞬だけ表に出た。送り出すときの光だ。豊玉姫とよたまひめの妹として——送ることを知っている人の光。

「海の音を、忘れないように」

「……忘れない」

「足の裏だけでなく——波の音も聞きなさい。海はどこにでもある。浜が変わっても、海は同じです」

「…………」

「あなたには天の血と地の血と海の血がある。全部使いなさい。——一つだけに頼ると、偏る」

 一つだけに頼ると偏る。——祖父は「見る」だけに頼って見てしまった。俺は「聞く」だけに頼っている。偏るな、と母は言っている。

「分かった。——全部使う」

「はい。——行ってらっしゃい。まだ出発ではないけれど」

「まだだ。船がない。人もいない。——支度がいる」

「支度は長い方がいい。急いで作った船は沈む」

 海の人の言葉だった。——覚えておく。

 軍議をやった。——軍議と呼べるほど大したものではない。家の中で、飯を食いながら話しただけだ。

「人はどのくらい集まる」

 五瀬命いつせのみことが聞いた。

日向ひむかの浜で声をかければ三百は来る。——俺の名前で」

 稲飯命いなひのみことが言った。

「三百か。——もっと要る」

「もっと集めるなら、西都さいと都万つまにも声をかけなければならない。時間がかかる」

「時間はある。——船を作る間に集めればいい」

「船は何隻作る」

 多芸志美美たぎしみみが聞いた。

「大きいの五つ。荷物用に四つ。速いの三つ。——合わせて十二」

「十二。——材はあるか」

「山にある。杉がいい。——切って乾かして組むのに、季節二つはかかる」

「半年か」

「急いでもそのくらいだ。——急がない方がいい。急いで作った船は」

「沈む。——母上にも言われた」

 母の言葉が、もう使えた。——早い。

「人の話をもう少しする」

 俺が言った。——聞く係が、言う側に回っている。まだ慣れない。喉が痛い。四十五年使っていない喉を使っている感じがする。

「三百では足りない。東に何があるか分からない。味方がいるかもしれないし、敵がいるかもしれない。——塩椎しおつちおきなが言った。先に降りた者がいる、と」

「先に降りた者——とは」

天磐船あまのいわふねで天から降りた男だ。俺たちと同じ天の血を持つ者が——先にあの国にいる」

 五瀬命いつせのみことの顔が変わった。

「同じ天の血? ——味方ではないのか」

「分からない。おきなは『会えば分かる』と」

「……会うまで分からないということは——敵の可能性もある」

「ある」

「天の血同士が敵になるのか」

「……天の血は旗にはなるが、味方の証にはならない。同じ旗を持っている者同士が殴り合うことは——ある」

 言ってから気づいた。——これは聞いた言葉ではない。俺が考えた言葉だ。聞こえたことを言っているのではなく、考えたことを言っている。

 初めてだった。四十五年で。

 五瀬命いつせのみことが俺を見た。長く。

「……お前、変わったな」

「変わったか」

「聞いたことを言うのではなく——考えたことを言った。初めてだ」

「……そうかもしれない」

「良い。——そっちの方が、使える」

 使える。兄に使えると言われた。——悪い気はしなかった。

「もう一つ。——船の道を決めなければならない」

 多芸志美美たぎしみみが言った。

「北の山道か。南の海回りか。真ん中の瀬戸せとの海か」

「……お前はどう思う」

「真ん中だ。——島が多い。みなとが並んでいる。水がめる」

「なぜ水が大事か分かるか」

「水は重い。腐る。こぼれる。——三月分の飯は積めるが、三月分の水は積めない。みなとごとにむしかない」

 俺が考えていたことと——同じだった。息子が、同じ答えに先に着いている。

「……お前に船を任せたのは正しかったな」

「当たり前だ。——この浜で一番船を知っているのは俺だ」

 母の顔で笑った。自信のある笑い方で。——この子は聞く男ではない。見て測る男だ。俺の耳の代わりに、この子の目がある。

 季節が変わった。

 船を作った。山から杉を切り出し、浜で板に割り、乾かし、組んだ。多芸志美美たぎしみみが仕切った。漁師たちが手伝った。浜が造船所になった。

 人が集まった。日向ひむかの浜から三百。西都さいとから二百。都万つまから百と少し。阿多あたから——百。吾平津媛あひらつひめの故郷の海人あまたちだった。漕ぎ手として。

 阿多あた海人あまの長が言った。「あの娘の夫の船なら漕ぐ」と。——吾平津媛あひらつひめは死んでから人を動かした。生きていたときより多くの人を。

 五瀬命いつせのみことが声を張って人を集め、稲飯命いなひのみことが黙って人を並べ、三毛入野命みけいりぬのみことが笑って人の士気を持たせた。

 俺は——聞いていた。人の声を。波の音を。風の向きを。木を割る音を。板を組む音を。全部聞いていた。

 聞いて——記した。頭の中に。まだ文字にはしていない。しかし聞いたことを全部覚えていた。

 船、十二隻。大きいのが五。荷物用が四。速いのが三。

 人、八百と少し。

 飯、三月分。水、十日分。

 ——足りるか分からない。足りなかったらみなとで足す。足りるかどうかは行ってみなければ分からない。分からないことだらけだ。——いつも通りだ。

 一つだけ確かなことがある。

 足の裏は東を向いている。——四十五年間、一度も嘘をつかなかった温かさが、東を指している。

 それだけで——行く理由には足りる。

〈第八章・了〉

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