第七章 塩椎の翁
四十五の年の春だった。
朝。浜。網を見に行く道の途中で——老人がいた。
波打ち際に。裸足で。小さい体だった。腰が曲がっている。髪が白い。——白銀ではない。母の白銀とは違う。ただの白だ。人間の白。歳を重ねて白くなった髪。
潮の匂いがした。
海の匂いではない。潮の匂い。——塩を焼く匂い。浜で塩を焼いている小屋から流れてくる、あの匂い。しかしここには小屋がない。老人の体から匂っていた。
懐かしかった。——なぜだ。この老人に会ったことはない。会ったことのない人間に懐かしさを覚えるはずがない。
だが——懐の中の何かが反応していた。潮の珠。布に包んだ二つの珠が、かすかに鳴った。青い音と白い音が。老人の潮の匂いに——応えるように。
「…………」
老人がこっちを見た。目が細い。皺だらけの顔。——しかし目の奥は澄んでいた。波の底のように。
「お前さん。——花の匂いがするな」
花。
「懐に何か持っておるだろう」
「…………」
「花びらか。——覚えがある。昔、同じ匂いのする男がおった」
「……誰だ」
「お前の祖父だ」
岩場に座った。向かい合って。
「塩椎。——塩を焼く老人だ。塩の神、と呼ぶ者もおるがな。大袈裟だ」
「……名前は聞いたことがある。祖父から」
「ほう。あの男、わしの名を孫に話したか。——律儀な男だ」
「律儀かどうかは分からない。ただ——海の底に行く前に、浜で老人に会った、と」
「会った。——四日も浜の端で海を睨んでおった。鬼のような顔で。放っておけなくてな」
「祖父は——鬼の顔をしていたのか」
「しておった。兄の釣針を失くして途方に暮れる男の顔は——鬼に見える。必死だからな」
祖父の若い頃の顔を、この老人は知っている。俺が知らない顔を。
「籠の舟を編んでやった。竹で。海の底に沈む舟を。——あの男は乗った。沈んだ。底まで行った。帰ってきた。嫁を連れて」
「…………」
「送る、というのがわしの仕事だ。行くべき場所がある者を——そこに送る。舟を作るなり、道を教えるなり」
「送る」
「そうだ。——で、お前さんだ」
「四十五だったかな」
「……なぜ分かる」
「勘だ。——送り時の顔をしておる」
「送り時」
「行くべき場所がある者は——顔に出る。祖父もそうだった。四日間浜を睨んでおる顔。お前さんは——四十年浜を聞いておる顔だ」
「……聞いてると分かるのか」
「耳がこっちを向いておる。目は海を見ておるのに、耳が——東を向いておる。面白い男だ」
耳が東を向いている。——自分では分からない。しかし塩椎の翁には見えるらしい。送る者には、行く者の向きが見える。
「東に——何がある」
「美しい国がある」
「…………」
「青い山が四方を囲む国だ。盆地、と言えば分かるか。山と山の間の、平らな土地。水が良い。田が作れる。——国の真ん中に当たる」
「……行ったことがあるのか」
「行ったことはない。——しかし潮は知っておる。潮は全部の浜を繋いでおるからな。東の浜も西の浜もわしの塩を通っておる。塩を焼く者は——海の全部を少しだけ知っておる」
塩は海水を焼いて作る。海水は全部の海と繋がっている。——だから塩を焼く老人は全部の海岸を知っている。理屈としては通る。通るが——普通の理屈ではない。
「その国に——もう一つ、知っておくことがある」
「何だ」
「先に降りた者がおる」
「先に——降りた」
「天磐船で天から降りた者だ。お前さんの曾祖父のニニギと同じように——天の血を持って、地上に降りた者が。先にあの国にいる」
同じ天の血。先に降りた者。
「名前は」
「邇芸速日。——天の神の命で降りた男だ」
「……味方なのか」
「分からん」
「敵か」
「分からん。——会えば分かる」
「会えば分かる、か」
「祖父にも同じことを言った。海の底に何があるか、と聞かれて。会えば分かる、と」
「……祖父は行って、分かったのか」
「分かった。——分かりすぎて、帰ってきてから四十年海を睨んでおったがな」
笑った。翁が。皺だらけの顔で。——悪意のない笑い方だった。からかいでもない。「そういうものだ」という笑い方。送る者は——送った先で何が起きるかを、笑って見ている。
「足の裏が温かいだろう」
驚いた。——聞かれたのではない。言い当てられた。
「東に向かって。年ごとに」
「……なぜ分かる」
「お前さんの祖父は足の裏が温かいと言っておった。曾祖父のニニギも言っておったそうだ。——地に降りた者は、地の温かさを踏む。温かさの濃い方に引かれる」
「温かさの濃い方」
「大国主。——あの男が歩いた道は、まだ温かい。道は東に向かって太くなっておる。あの男が一番長くいた場所が——一番温かい」
「一番長くいた場所」
「出雲か。大和か。わしは塩焼きだから詳しくはないがな。——ただ、お前さんの足が東に引かれるのは、道が東に向かって太いからだ」
大国主命の道。母が教えてくれた道。足の裏で分かる道。——その道が東に太くなっている。東に行くほど温かくなる。
だから足の裏が引っ張る。東へ。東へ。
「わしの仕事は送ることだ。舟を作るか、道を教えるか。——今回は道を教えた。東に美しい国がある。先に降りた者がいる。足の裏が引いている。三つだ。あとは——お前さんが決めることだ」
「…………」
「決めるのに——何年かかってもいい。四十五年待てた男だ。もう少しくらい待てるだろう」
「……翁はどうする」
「わしか。わしは浜にいる。塩を焼いておる。——送り終わったら次の送り時を待つ。それだけだ」
翁が立ち上がった。小さい体。曲がった腰。——しかし足の裏がしっかり砂を踏んでいた。浜に根を張るように。
「最後に一つ」
「何だ」
「その花びら。——大事にしろ。海の底でも枯れなかった花だ。東に行っても枯れないだろう。花の匂いがする者は——どこに行っても嫌われない。花がない場所でも」
「……祖父にも言ったのか。同じことを」
「言った。——同じ花びらだからな。言うことも同じだ」
翁が笑って、歩いていった。浜に沿って。潮の匂いを残して。
振り返らなかった。送る者は振り返らない。送ったら、それきりだ。
浜に一人で立っていた。
足の裏が温かかった。東に。いつもより濃く。
懐の珠が鳴っていた。青い音と白い音。翁の潮の匂いに触れて、まだ鳴り止まない。
東に美しい国がある。先に降りた者がいる。足の裏が引いている。
三つ。——三つ揃った。
あとは俺が言うだけだ。四十五年溜めた言葉を。聞いてきたものの全部を。
——言うのか。本当に。末の子が。聞く係が。
祖父が言った。「お前はどこかに行く」。母が言った。「いつか言わなければいけない日が来る」。翁が言った。「お前さんが決めることだ」。
兄が言った。「お前が言うときを待つ」。
——待たせた。十分に。
明日。明日言う。——たぶん。
たぶん、をつけるのは今日が最後だ。明日からは——たぶんを捨てる。
〈第七章・了〉




