表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
6/45

第六章 四十年の浜


 年が経った。

 多芸志美美たぎしみみが走った。浜を。毎日。朝から夕方まで。

 走って、転んで、起きて、また走った。海に入って、波に押されて、笑って、また入った。母に似ている。水を怖がらない。頭まで波に沈んでも、笑って浮いてくる。

 弓は——下手だった。俺と同じで。稲飯命いなひのみことが教えたが、矢が真っ直ぐ飛ばない。

「筋が悪い」

 稲飯命いなひのみことが言った。この人が「悪い」と言うのは珍しい。本当に悪いのだろう。

「父と同じだな」

「……すまない」

「謝るな。——弓は向き不向きがある。あの子は海向きだ。弓は山の道具だ」

 海向きの子に山の弓は合わない。——母が生きていたら、潜り方を教えたのだろう。俺には教えられない。水に入ると聞こえすぎるから。

 年が経った。

 多芸志美美たぎしみみが船に乗るようになった。浜の漁師に混じって。まだ子供なのに、船の上で一番落ち着いている。揺れても平気だ。波の上にいることが自然な体をしている。

「あの子、船乗りになるね」

 三毛入野命みけいりぬのみことが言った。

「船乗りか」

「この浜じゃ勿体ないよ。——もっと遠くに行く船に乗る子だ」

「遠くに行く船なんか、この浜にはない」

「今はね」

 三毛入野命みけいりぬのみことは時々、こういうことを言う。今の話をしているのに、今じゃないどこかを見ている。面白がる目で。

 年が経った。

 五瀬命いつせのみことの髪に白いものが混じった。

「見るな」

「見てない」

「見ただろう。——白いのが混じっているのを。見ただろう」

「……少しだけ」

「少しだ。少しだけだ。——俺はまだ若い」

 若くはない。——しかし声はまだでかい。声がでかいうちは五瀬命いつせのみことだ。声が枯れたら心配するが、まだ枯れていない。

 稲飯命いなひのみことは変わらない。無口で、弓がうまくて、背中に人がついてくる。白髪が混じっているのかどうかも分からない。見せないからだ。

 三毛入野命みけいりぬのみことは——変わらない。声が高くて、何でも面白がる。年を取っても面白がる量が減らない。むしろ増えている。面白がるものの種類が増えているのだ。昔は虫と雲だったのが、今は人の顔を面白がる。「あいつ怒ってる顔が面白い」とか言う。——成長なのか退化なのか分からない。

 年が経った。

 母の光が——また薄くなった。

 玉依姫たまよりひめ。白銀の髪。淡い青の目。内側にしまってある光。——それが、年ごとに深くなっていく。しまう場所が深くなって、表に出てこなくなっていく。

「母上。体は」

「大丈夫。——海の者は長い。花のそばにいても」

「花のそばにいたから——吾平津媛あひらつひめは」

「あの子は人間だったから。——私は違います。もう少し持つ」

 もう少し、がどのくらいか分からない。母は数字を言わない。海の者は数えないのかもしれない。海にはこよみがない。潮の満ち引きだけで時間が動いている。

 年が経った。

 足の裏が——偏っている。

 前から気づいていた。温かさが。東に。

 浜に立つと、右足の方が温かい。東を向いて立てば右も左も同じだが、南北に立つと右側——東側が温かい。

 丘に登ると分かりやすい。丘の東の斜面が温かく、西の斜面がそうでもない。木の下は相変わらず一番温かいが、木の下でも東に足をずらした方が——濃い。

 東に何があるのか。——知らない。

 東には山がある。山の向こうには海がある。海の向こうには——知らない。行ったことがない。

 足の裏だけが知っている。東に向かって温かさが流れている。温かさの源が東にある。——あるいは、東に呼んでいるものがある。

 呼んでいる、という言い方を俺はしない。温度に意志があるかどうか分からないからだ。分からないことは言わない。四十年そうしてきた。

 ただ——年ごとに偏りが強くなっている。それは事実だ。事実として、足の裏が東に引っ張られている。

 ここは——根を張る場所ではないのかもしれない。

 この浜は。この丘は。祖父が座っていた木の下は。

 考えたことがなかった。ここは家だ。ここにいるものだ。末の子はここにいる。兄たちが出ていっても、末の子が家を守る。そういうものだ。

 ——そういうものだと、四十年思ってきた。

 足の裏は別のことを言っている。ここじゃない、と。ここは途中だ、と。

 言わない。兄に。息子に。母に。誰にも。——四十年黙ってきた。もう少し黙れる。もう少し。

 年が経った。

 四十を過ぎた。

 多芸志美美たぎしみみは青年になった。測る目はそのままだった。船に乗せたら浜で一番うまかった。波を読む。風を見る。——聞くのではなく、見て測る。俺とは違う。俺の血ではないものが、あの子を動かしている。

 弓は相変わらず下手だった。——俺と同じ。笑えないが、笑った。

「父上、俺、弓を諦めた」

「賢い判断だ」

「父上も下手だもんな」

「……否定はしない」

稲飯いなひの叔父上が嘆いてたよ。この家系の弓は俺の代で終わるって」

稲飯命いなひのみことが嘆く姿を——俺は見たことがないが」

「心の中で嘆いてた。あの人、心の中がちょっとだけ背中に出るんだよ」

 息子は——人を見る子だった。背中の奥にあるものまで見える。俺が音で聞き分けるものを、あの子は目で見分ける。母の血か。海人あまは水の中で目を使う。耳は使えない。——だから目が育つ。

 ある夜。浜に出た。

 月が出ていた。波が光っていた。風がなかった。

 足の裏が——今日はひどく温かかった。東に。引っ張るように。

 東の空を見た。星がある。月がある。——何も見えない。普通の空だ。

 しかし足の裏が言っている。あっちだ、と。あっちに行け、と。

「……うるさいな」

 足の裏に言った。初めて。声に出して。

「分かってる。——分かってるが、まだ言えない」

 誰に言えない。何を。——分からない。分からないが、言うべきことが溜まっている。四十年分。聞こえたものの全部が、喉の奥に溜まっている。

 波の音。風の向き。潮の匂い。土の温度。人の息。——全部聞いた。全部覚えている。全部の意味が分からないまま、全部持っている。

 いつか言う日が来るのか。祖父が言った。「お前はどこかに行く」と。母が言った。「いつか言わなければいけない日が来る」と。

 ——まだだ。まだ来ていない。

 しかし足の裏は——もうすぐだと言っている。

 四十四の秋。

 浜で。夕方。日が沈みかけている。

 五瀬命いつせのみことが隣に来た。珍しく。兄と二人で浜に立つことは——あまりない。

狭野さの

「ああ」

「お前、最近——東ばかり見ているな」

 気づいていたのか。

「……見てない。聞いてる」

「同じことだ。——東に何がある」

「分からない」

「分からないのに、聞いてるのか」

「……聞こえるから」

「…………」

 五瀬命いつせのみことが腕を組んだ。夕日が兄の横顔を照らしていた。白いものが増えた髪。太い腕。——しかし背はまっすぐだった。この人の背は曲がらない。声がでかいように、背もまっすぐだ。

「俺もな」

「……何が」

「俺も——思っていた。ここは狭い」

「…………」

日向ひむかは良い土地だ。海がある。山がある。飯が食える。——しかし狭い。西の端だ」

「…………」

「お前が聞いている東に——何があるか分からない。しかし、ここにいて分からないなら——行って確かめるしかないだろう」

「……兄上」

「俺は声がでかいだけだ。聞く耳はない。——しかし声のでかい男がいて、聞く耳がある男がいたら、何かできるだろう。たぶん」

「…………」

「まだいい。——今すぐじゃなくていい。お前が言うときを待つ」

 兄が去った。声がでかいまま。背がまっすぐなまま。

 ——待つ、と言った。お前が言うときを。

 末の子が先に言うのを、長兄が待っている。順番が逆だ。——しかし五瀬命いつせのみことは、聞こえない人間には聞こえる人間を待つしかないと、分かっているのだ。声がでかい男は——聞く耳がない代わりに、聞く耳を持つ者を信じる耳がある。

 四十四年の夕暮れ。

 まだ言わない。——しかし、もうすぐだと分かっている。

 足の裏が。喉の奥が。全部が。

〈第六章・了〉


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ