第六章 四十年の浜
年が経った。
多芸志美美が走った。浜を。毎日。朝から夕方まで。
走って、転んで、起きて、また走った。海に入って、波に押されて、笑って、また入った。母に似ている。水を怖がらない。頭まで波に沈んでも、笑って浮いてくる。
弓は——下手だった。俺と同じで。稲飯命が教えたが、矢が真っ直ぐ飛ばない。
「筋が悪い」
稲飯命が言った。この人が「悪い」と言うのは珍しい。本当に悪いのだろう。
「父と同じだな」
「……すまない」
「謝るな。——弓は向き不向きがある。あの子は海向きだ。弓は山の道具だ」
海向きの子に山の弓は合わない。——母が生きていたら、潜り方を教えたのだろう。俺には教えられない。水に入ると聞こえすぎるから。
年が経った。
多芸志美美が船に乗るようになった。浜の漁師に混じって。まだ子供なのに、船の上で一番落ち着いている。揺れても平気だ。波の上にいることが自然な体をしている。
「あの子、船乗りになるね」
三毛入野命が言った。
「船乗りか」
「この浜じゃ勿体ないよ。——もっと遠くに行く船に乗る子だ」
「遠くに行く船なんか、この浜にはない」
「今はね」
三毛入野命は時々、こういうことを言う。今の話をしているのに、今じゃないどこかを見ている。面白がる目で。
年が経った。
五瀬命の髪に白いものが混じった。
「見るな」
「見てない」
「見ただろう。——白いのが混じっているのを。見ただろう」
「……少しだけ」
「少しだ。少しだけだ。——俺はまだ若い」
若くはない。——しかし声はまだでかい。声がでかいうちは五瀬命だ。声が枯れたら心配するが、まだ枯れていない。
稲飯命は変わらない。無口で、弓がうまくて、背中に人がついてくる。白髪が混じっているのかどうかも分からない。見せないからだ。
三毛入野命は——変わらない。声が高くて、何でも面白がる。年を取っても面白がる量が減らない。むしろ増えている。面白がるものの種類が増えているのだ。昔は虫と雲だったのが、今は人の顔を面白がる。「あいつ怒ってる顔が面白い」とか言う。——成長なのか退化なのか分からない。
年が経った。
母の光が——また薄くなった。
玉依姫。白銀の髪。淡い青の目。内側にしまってある光。——それが、年ごとに深くなっていく。しまう場所が深くなって、表に出てこなくなっていく。
「母上。体は」
「大丈夫。——海の者は長い。花のそばにいても」
「花のそばにいたから——吾平津媛は」
「あの子は人間だったから。——私は違います。もう少し持つ」
もう少し、がどのくらいか分からない。母は数字を言わない。海の者は数えないのかもしれない。海には暦がない。潮の満ち引きだけで時間が動いている。
年が経った。
足の裏が——偏っている。
前から気づいていた。温かさが。東に。
浜に立つと、右足の方が温かい。東を向いて立てば右も左も同じだが、南北に立つと右側——東側が温かい。
丘に登ると分かりやすい。丘の東の斜面が温かく、西の斜面がそうでもない。木の下は相変わらず一番温かいが、木の下でも東に足をずらした方が——濃い。
東に何があるのか。——知らない。
東には山がある。山の向こうには海がある。海の向こうには——知らない。行ったことがない。
足の裏だけが知っている。東に向かって温かさが流れている。温かさの源が東にある。——あるいは、東に呼んでいるものがある。
呼んでいる、という言い方を俺はしない。温度に意志があるかどうか分からないからだ。分からないことは言わない。四十年そうしてきた。
ただ——年ごとに偏りが強くなっている。それは事実だ。事実として、足の裏が東に引っ張られている。
ここは——根を張る場所ではないのかもしれない。
この浜は。この丘は。祖父が座っていた木の下は。
考えたことがなかった。ここは家だ。ここにいるものだ。末の子はここにいる。兄たちが出ていっても、末の子が家を守る。そういうものだ。
——そういうものだと、四十年思ってきた。
足の裏は別のことを言っている。ここじゃない、と。ここは途中だ、と。
言わない。兄に。息子に。母に。誰にも。——四十年黙ってきた。もう少し黙れる。もう少し。
年が経った。
四十を過ぎた。
多芸志美美は青年になった。測る目はそのままだった。船に乗せたら浜で一番うまかった。波を読む。風を見る。——聞くのではなく、見て測る。俺とは違う。俺の血ではないものが、あの子を動かしている。
弓は相変わらず下手だった。——俺と同じ。笑えないが、笑った。
「父上、俺、弓を諦めた」
「賢い判断だ」
「父上も下手だもんな」
「……否定はしない」
「稲飯の叔父上が嘆いてたよ。この家系の弓は俺の代で終わるって」
「稲飯命が嘆く姿を——俺は見たことがないが」
「心の中で嘆いてた。あの人、心の中がちょっとだけ背中に出るんだよ」
息子は——人を見る子だった。背中の奥にあるものまで見える。俺が音で聞き分けるものを、あの子は目で見分ける。母の血か。海人は水の中で目を使う。耳は使えない。——だから目が育つ。
ある夜。浜に出た。
月が出ていた。波が光っていた。風がなかった。
足の裏が——今日はひどく温かかった。東に。引っ張るように。
東の空を見た。星がある。月がある。——何も見えない。普通の空だ。
しかし足の裏が言っている。あっちだ、と。あっちに行け、と。
「……うるさいな」
足の裏に言った。初めて。声に出して。
「分かってる。——分かってるが、まだ言えない」
誰に言えない。何を。——分からない。分からないが、言うべきことが溜まっている。四十年分。聞こえたものの全部が、喉の奥に溜まっている。
波の音。風の向き。潮の匂い。土の温度。人の息。——全部聞いた。全部覚えている。全部の意味が分からないまま、全部持っている。
いつか言う日が来るのか。祖父が言った。「お前はどこかに行く」と。母が言った。「いつか言わなければいけない日が来る」と。
——まだだ。まだ来ていない。
しかし足の裏は——もうすぐだと言っている。
四十四の秋。
浜で。夕方。日が沈みかけている。
五瀬命が隣に来た。珍しく。兄と二人で浜に立つことは——あまりない。
「狭野」
「ああ」
「お前、最近——東ばかり見ているな」
気づいていたのか。
「……見てない。聞いてる」
「同じことだ。——東に何がある」
「分からない」
「分からないのに、聞いてるのか」
「……聞こえるから」
「…………」
五瀬命が腕を組んだ。夕日が兄の横顔を照らしていた。白いものが増えた髪。太い腕。——しかし背はまっすぐだった。この人の背は曲がらない。声がでかいように、背もまっすぐだ。
「俺もな」
「……何が」
「俺も——思っていた。ここは狭い」
「…………」
「日向は良い土地だ。海がある。山がある。飯が食える。——しかし狭い。西の端だ」
「…………」
「お前が聞いている東に——何があるか分からない。しかし、ここにいて分からないなら——行って確かめるしかないだろう」
「……兄上」
「俺は声がでかいだけだ。聞く耳はない。——しかし声のでかい男がいて、聞く耳がある男がいたら、何かできるだろう。たぶん」
「…………」
「まだいい。——今すぐじゃなくていい。お前が言うときを待つ」
兄が去った。声がでかいまま。背がまっすぐなまま。
——待つ、と言った。お前が言うときを。
末の子が先に言うのを、長兄が待っている。順番が逆だ。——しかし五瀬命は、聞こえない人間には聞こえる人間を待つしかないと、分かっているのだ。声がでかい男は——聞く耳がない代わりに、聞く耳を持つ者を信じる耳がある。
四十四年の夕暮れ。
まだ言わない。——しかし、もうすぐだと分かっている。
足の裏が。喉の奥が。全部が。
〈第六章・了〉




