第五章 花のように
吾平津媛の体が変わり始めたのは——多芸志美美が走り回るようになった頃だった。
海に潜る時間が短くなった。
朝、岩場から入って、いつもなら鮑を三つ獲って上がる。三つ分の時間。それが——二つになった。一つになった。
浮いてくるのが早い。——早くなったのではない。深く潜れなくなっていた。
「今日は浅かった?」
「……うん。ちょっと息が続かなくて」
「休めばいい。無理に潜ることはない」
「無理じゃないよ。——ちょっとだけ。ちょっとだけ短くなっただけ」
ちょっとだけ。——それが続いた。
海人は海で生きる。潜って、獲って、食って、また潜る。潜れなくなった海人は——何になるのか。
吾平津媛は何も言わなかった。潜る時間が短くなっても、毎朝海に行った。腰まで入って、胸まで入って——首まで入ったところで、止まった。潜れない。息が持たない。
浜に上がって、岩場に座って、海を見ていた。
——祖父と同じだった。海の底に行けなくなった人間が、浜から海を見ている。
「潜れなくても——海は見られるから」
「…………」
「大丈夫だよ。見てるだけでも気持ちいい」
嘘だ。
嘘だと——聞こえた。声が嘘をついているときは、息の音が変わる。吸う音と吐く音の間が短くなる。吾平津媛の息の間が——短かった。
言わなかった。嘘だと分かっていることを。——聞く男は、聞こえたことを全部言う必要はない。嘘を暴くために耳があるのではない。
母に聞いた。
「あの人は——何の病ですか」
玉依姫は答えなかった。すぐには。淡い青の目が——遠くを見た。姉を思い出す目。いつもの。
「病ではないかもしれません」
「病じゃないなら——何です」
「この家の血です」
「……血」
「あなたのお祖父様のお母様——木花之佐久夜毘売命。花のように短い命の血が、この家には流れている。男にも。——男に近い女にも」
「吾平津媛は俺の妻になっただけだ。血は——」
「近くにいれば影響するのです。花のそばにいれば——花と同じ速さで散る」
「…………」
「姉もそうでした」
姉。豊玉姫。——海に帰ったのは、見られたからだけではなかったのかもしれない。近くにいれば花の血に触れる。海に帰ったのは——逃げたのではなく、散る前に離れたのかもしれない。
母は——離れなかった。この浜に残った。姉の代わりに子を育て、その子の妻になった。花の血のそばに——ずっといた。
「母上は——大丈夫なのか」
「私は海の者です。海は深い。花の血が届くのに時間がかかる。——でもいつかは届く」
「…………」
「心配しなくていい。私はまだ長い。——あの子の方が先です」
あの子。吾平津媛。——母は分かっていた。最初から。
吾平津媛は歩けなくなった。
海に行けなくなった。家の中にいた。布の中で。多芸志美美が隣で寝ていた。
痩せた。潜っていた頃の腕は太かった。海人の腕だ。水を掻く腕。——それが細くなった。指が白くなった。
「狭野」
「ああ」
「聞こえる?」
「何が」
「私の音。——まだ聞こえる?」
聞こえた。息の音。弱いが——ある。
「聞こえる」
「良かった。——聞こえなくなったら教えてね」
「……なぜだ」
「聞こえなくなったときが——たぶん終わりだから。自分では分からないから。あなたに聞いてほしい」
「…………」
「最後まで聞いてて。——それだけでいいから」
最後の日の朝。
波の音で目が覚めた。低い波。穏やかな日。——隣の音が変わっていた。
息の音が——薄かった。吸う音と吐く音の境目が消えかけていた。波の音と混じり始めていた。人の息と海の波の区別がつかなくなっていた。
「……吾平津媛」
「……ん」
「聞こえるか」
「……聞こえるよ。あなたの声は——最後まで聞こえる」
「…………」
「ねえ」
「ああ」
「海に——連れてって」
抱き上げた。軽かった。鮑より軽かった。——そんなはずはない。人間が鮑より軽いはずがない。しかしそう感じた。
浜に出た。朝日が出ていた。波が低かった。
波打ち際に座らせた。——多芸志美美を初めて海に入れたときと同じ場所に。
波が足に触れた。吾平津媛が——笑った。
「冷たい。——気持ちいい」
「…………」
「ねえ。最後にひとつ聞いていい」
「ああ」
「あの六日間。——浜で黙って突っ立ってたとき。何を聞いてたの。本当は」
「……潜る音」
「潜る音?」
「お前が水に入る音。静かだった。波を割らずに入る音。——聞いたことのない音だった。もう一回聞きたくて、毎朝来た」
「…………」
「それだけだ。——それだけで六日立ってた」
吾平津媛が笑った。最後の笑い方だった。波が消える笑い方。あの笑い方。
「変な人」
三度目だった。——最後の。
波が足を洗った。引いた。また来た。引いた。
その繰り返しの中で——吾平津媛の息が止まった。
静かだった。波の音に混じって、消えた。いつ止まったか分からないくらい静かに。海人は海で生まれて海で終わる。——波打ち際で。水に足をつけたまま。
聞こえなくなった。
隣の音が。波より近かった音が。波より温かかった音が。
——聞こえなくなった。
泣かなかった。
嘘だ。泣いた。——声は出さなかった。稲飯命と同じ泣き方で。黙って。波の音に混ぜて。
多芸志美美が走ってきた。母を見た。揺すった。返事がない。
泣いた。多芸志美美は声を上げて泣ける子だった。——五瀬命と同じ泣き方。声が大きい。浜じゅうに聞こえた。
五瀬命が来た。三毛入野命が来た。稲飯命が来た。母が来た。
兄たちが泣いた。母が吾平津媛の手を握って、何か小さな声で言った。——聞こえなかった。聞こうとしなかった。
丘に埋めた。祖父と父のそばに。
曾祖母のコノハナ。花のように散った。祖母の豊玉姫。海に帰った。父の母は生まれた日にいなくなった。——そして妻が死んだ。
この家系は——女が先に消える。
男が残る。見ているだけの男が。聞いているだけの男が。消えていく女を——引き留められないまま。
祖父は見るなと言われて見てしまって、あの人を失った。俺は最後まで聞いていた。聞いていろと言われて、聞いていた。——それでも、いなくなった。
見ても失う。聞いても失う。——何をしても消えるものは消える。
なら——聞いていた方がましだ。最後の音まで。波に混じって消えるその瞬間まで。聞いていた方が。
家に帰った。多芸志美美が寝ていた。泣き疲れて。
母の顔をしている。吾平津媛の顔。海人の顔。——この顔が、形見だ。
懐に三つのものがある。花びら。歪んだ針。潮の珠。
隣に——一つ増えた。多芸志美美。四つ目の形見。祖父の三つと、妻の一つ。
聞こえるものが一つ減って、持っているものが一つ増えた。
——それが、三十の俺の全部だった。
〈第五章・了〉




