表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
5/45

第五章 花のように


 吾平津媛あひらつひめの体が変わり始めたのは——多芸志美美たぎしみみが走り回るようになった頃だった。

 海に潜る時間が短くなった。

 朝、岩場から入って、いつもならあわびを三つって上がる。三つ分の時間。それが——二つになった。一つになった。

 浮いてくるのが早い。——早くなったのではない。深く潜れなくなっていた。

「今日は浅かった?」

「……うん。ちょっと息が続かなくて」

「休めばいい。無理に潜ることはない」

「無理じゃないよ。——ちょっとだけ。ちょっとだけ短くなっただけ」

 ちょっとだけ。——それが続いた。

 海人あまは海で生きる。潜って、って、食って、また潜る。潜れなくなった海人あまは——何になるのか。

 吾平津媛あひらつひめは何も言わなかった。潜る時間が短くなっても、毎朝海に行った。腰まで入って、胸まで入って——首まで入ったところで、止まった。潜れない。息が持たない。

 浜に上がって、岩場に座って、海を見ていた。

 ——祖父と同じだった。海の底に行けなくなった人間が、浜から海を見ている。

「潜れなくても——海は見られるから」

「…………」

「大丈夫だよ。見てるだけでも気持ちいい」

 嘘だ。

 嘘だと——聞こえた。声が嘘をついているときは、息の音が変わる。吸う音と吐く音の間が短くなる。吾平津媛あひらつひめの息の間が——短かった。

 言わなかった。嘘だと分かっていることを。——聞く男は、聞こえたことを全部言う必要はない。嘘を暴くために耳があるのではない。

 母に聞いた。

「あの人は——何の病ですか」

 玉依姫たまよりひめは答えなかった。すぐには。淡い青の目が——遠くを見た。姉を思い出す目。いつもの。

「病ではないかもしれません」

「病じゃないなら——何です」

「この家の血です」

「……血」

「あなたのお祖父様のお母様——木花之佐久夜毘売命このはなのさくやびめのみこと。花のように短い命の血が、この家には流れている。男にも。——男に近い女にも」

吾平津媛あひらつひめは俺の妻になっただけだ。血は——」

「近くにいれば影響するのです。花のそばにいれば——花と同じ速さで散る」

「…………」

「姉もそうでした」

 姉。豊玉姫とよたまひめ。——海に帰ったのは、見られたからだけではなかったのかもしれない。近くにいれば花の血に触れる。海に帰ったのは——逃げたのではなく、散る前に離れたのかもしれない。

 母は——離れなかった。この浜に残った。姉の代わりに子を育て、その子の妻になった。花の血のそばに——ずっといた。

「母上は——大丈夫なのか」

「私は海の者です。海は深い。花の血が届くのに時間がかかる。——でもいつかは届く」

「…………」

「心配しなくていい。私はまだ長い。——あの子の方が先です」

 あの子。吾平津媛あひらつひめ。——母は分かっていた。最初から。

 吾平津媛あひらつひめは歩けなくなった。

 海に行けなくなった。家の中にいた。布の中で。多芸志美美たぎしみみが隣で寝ていた。

 痩せた。潜っていた頃の腕は太かった。海人あまの腕だ。水をく腕。——それが細くなった。指が白くなった。

狭野さの

「ああ」

「聞こえる?」

「何が」

「私の音。——まだ聞こえる?」

 聞こえた。息の音。弱いが——ある。

「聞こえる」

「良かった。——聞こえなくなったら教えてね」

「……なぜだ」

「聞こえなくなったときが——たぶん終わりだから。自分では分からないから。あなたに聞いてほしい」

「…………」

「最後まで聞いてて。——それだけでいいから」

 最後の日の朝。

 波の音で目が覚めた。低い波。穏やかな日。——隣の音が変わっていた。

 息の音が——薄かった。吸う音と吐く音の境目が消えかけていた。波の音と混じり始めていた。人の息と海の波の区別がつかなくなっていた。

「……吾平津媛あひらつひめ

「……ん」

「聞こえるか」

「……聞こえるよ。あなたの声は——最後まで聞こえる」

「…………」

「ねえ」

「ああ」

「海に——連れてって」

 抱き上げた。軽かった。あわびより軽かった。——そんなはずはない。人間があわびより軽いはずがない。しかしそう感じた。

 浜に出た。朝日が出ていた。波が低かった。

 波打ち際に座らせた。——多芸志美美たぎしみみを初めて海に入れたときと同じ場所に。

 波が足に触れた。吾平津媛あひらつひめが——笑った。

「冷たい。——気持ちいい」

「…………」

「ねえ。最後にひとつ聞いていい」

「ああ」

「あの六日間。——浜で黙って突っ立ってたとき。何を聞いてたの。本当は」

「……潜る音」

「潜る音?」

「お前が水に入る音。静かだった。波を割らずに入る音。——聞いたことのない音だった。もう一回聞きたくて、毎朝来た」

「…………」

「それだけだ。——それだけで六日立ってた」

 吾平津媛あひらつひめが笑った。最後の笑い方だった。波が消える笑い方。あの笑い方。

「変な人」

 三度目だった。——最後の。

 波が足を洗った。引いた。また来た。引いた。

 その繰り返しの中で——吾平津媛あひらつひめの息が止まった。

 静かだった。波の音に混じって、消えた。いつ止まったか分からないくらい静かに。海人あまは海で生まれて海で終わる。——波打ち際で。水に足をつけたまま。

 聞こえなくなった。

 隣の音が。波より近かった音が。波より温かかった音が。

 ——聞こえなくなった。

 泣かなかった。

 嘘だ。泣いた。——声は出さなかった。稲飯命いなひのみことと同じ泣き方で。黙って。波の音に混ぜて。

 多芸志美美たぎしみみが走ってきた。母を見た。揺すった。返事がない。

 泣いた。多芸志美美たぎしみみは声を上げて泣ける子だった。——五瀬命いつせのみことと同じ泣き方。声が大きい。浜じゅうに聞こえた。

 五瀬命いつせのみことが来た。三毛入野命みけいりぬのみことが来た。稲飯命いなひのみことが来た。母が来た。

 兄たちが泣いた。母が吾平津媛あひらつひめの手を握って、何か小さな声で言った。——聞こえなかった。聞こうとしなかった。

 丘に埋めた。祖父と父のそばに。

 曾祖母そうそぼのコノハナ。花のように散った。祖母の豊玉姫とよたまひめ。海に帰った。父の母は生まれた日にいなくなった。——そして妻が死んだ。

 この家系は——女が先に消える。

 男が残る。見ているだけの男が。聞いているだけの男が。消えていく女を——引き留められないまま。

 祖父は見るなと言われて見てしまって、あの人を失った。俺は最後まで聞いていた。聞いていろと言われて、聞いていた。——それでも、いなくなった。

 見ても失う。聞いても失う。——何をしても消えるものは消える。

 なら——聞いていた方がましだ。最後の音まで。波に混じって消えるその瞬間まで。聞いていた方が。

 家に帰った。多芸志美美たぎしみみが寝ていた。泣き疲れて。

 母の顔をしている。吾平津媛あひらつひめの顔。海人あまの顔。——この顔が、形見だ。

 ふところに三つのものがある。花びら。ゆがんだ針。しおたま

 隣に——一つ増えた。多芸志美美たぎしみみ。四つ目の形見。祖父の三つと、妻の一つ。

 聞こえるものが一つ減って、持っているものが一つ増えた。

 ——それが、三十の俺の全部だった。

〈第五章・了〉

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ