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第四章 阿多の子


 子が生まれた。

 男の子。小さかった。——当たり前だが。生まれたばかりだから小さい。

 泣き声が大きかった。——五瀬命いつせのみことが「俺の子か?」と言ったくらいでかかった。俺の子だ。残念ながら。

「名前は」

 吾平津媛あひらつひめが汗だらけの顔で聞いた。産んだばかりなのに、もう目が開いている。海人あまは強い。

「……多芸志美美たぎしみみ

「たぎしみみ。——多い。音が」

「文句あるか」

「ない。——良い名前だよ。この家は名前が長い方が普通なんでしょう」

 普通だ。父の名前は鵜葺草葺不合命うがやふきあえずのみこと。祖父は火遠理命ほおりのみこと曾祖父そうそふは天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇邇芸命(あまにきしくににきしあまつひこひこほのににぎのみこと)。——長い。曾祖父そうそふが一番長い。この家系では名前の長さは気にしたら負けだ。

 多芸志美美命たぎしみみのみこと。——俺の息子。

 母に似ていた。

 目の形。鼻の形。口元の、少し上がった感じ。吾平津媛あひらつひめの顔だ。海人あまの顔。潜る女の顔。

「この子、海が好きになるよ。たぶん」

「なぜ分かる」

「顔が海向き。——潜る顔してる」

 潜る顔というものがあるのか分からないが、吾平津媛あひらつひめが言うなら、ある。

 子供が育った。早かった。

 多芸志美美たぎしみみは——泣かない子だった。生まれた日だけ泣いて、あとは黙っていた。目を開けて、じっと周りを見ている。何かを測っているような目。——俺の目とは違う。俺は聞く。この子は見て、測る。誰の血だろう。俺でも吾平津媛あひらつひめでもない目だった。

 吾平津媛あひらつひめが海に連れて行った。まだ歩けないうちから。波打ち際に座らせて、水をかけた。

 泣かなかった。水を見て、手を伸ばした。

「ほら。——海向き」

「…………」

「あなたは山向きでしょう。この子は海。私の血だ」

 俺は山向きか。——考えたことがなかった。弓は下手だ。山で獣を追うのは苦手だ。ただ、山の音は好きだった。鳥の声。風が木の葉を鳴らす音。獣が草を踏む音。——静かな音が多い。海より静かだ。

 山向き、かもしれない。

 父が——少しだけ変わった。

 多芸志美美たぎしみみが生まれてから。

 鵜葺草葺不合命うがやふきあえずのみこと。静かな父。何も言わない父。——その父が、孫を見に来るようになった。

 何もしない。抱かない。声もかけない。ただ——見に来る。入口に立って、寝ている多芸志美美たぎしみみを見て、しばらくして帰る。

 ある日、聞いた。

「父上。見に来るだけで——抱かないのか」

「…………」

「抱いてやったらいい。孫だ」

「……抱き方を知らない」

 驚いた。——驚いた、というより、分かってしまった。

 父は、抱かれたことがないのだ。

 生まれた日に母が去った。豊玉姫とよたまひめ産屋うぶやで子を産んで、海に帰った。父を抱いたのは——玉依姫たまよりひめだ。母の妹。育ての親。後の妻。

 だが最初の——生まれた瞬間の抱擁は、なかった。母は海に帰った。父の産屋うぶやは屋根がき終わる前に母がいなくなった。間に合わなかった。名前の通りに。

 抱かれたことがない人間は、抱き方を知らない。——当たり前だ。

「こうやるんです」

 多芸志美美たぎしみみを持ち上げて、父の腕に置いた。

 父の腕が——固まった。どうしていいか分からない。棒を持つように、まっすぐに。

「もう少し曲げて。——頭を支えて。そう。そのまま」

「……こうか」

「そう。——それでいい」

 多芸志美美たぎしみみが目を開けた。父を見た。じっと。測る目で。

 泣かなかった。

 父が——少しだけ、腕を曲げた。自分から。ぎこちなく。しかし——合っていた。抱き方として。

「…………」

「……重いな」

「赤子は重い」

「……ああ。——重い」

 それだけだった。父は多芸志美美たぎしみみを俺に返して、静かに出ていった。

 ——その夜、母が教えてくれた。

「お父様は——あの後、浜に行って泣いていましたよ」

「泣いた?」

「声は出さずに。——波に足をつけて。海に向かって」

 海に向かって泣いた。海の底にいる母に向かって。——抱かれなかった子供が、初めて抱いた日に。

 父が死んだのは——その年の冬だった。

 朝。母が起こしに行って、返事がなかった。

 布の中で目を閉じていた。静かに。——いつもと同じ顔だった。目を閉じて黙っている顔。生きているときと死んでいるときの差が——ほとんどなかった。静かな人は、静かに死ぬ。

 病ではなかった。怪我でもなかった。何か理由があって死んだのではない。——ただ、終わった。終わるように出来ている命が、終わった。

 コノハナの血だ。曾祖母そうそぼ木花之佐久夜毘売命このはなのさくやびめのみことの血。花のように短い命。天孫てんそんの血には——短命が混じっている。曾祖父そうそふのニニギがもう一人の姫をめとらなかったから。石のように長い命の姫を。

 その話は母から聞いた。祖父からも聞いた。——この家系の男は、花の分だけ短い。

 父はその中でも——短かった気がする。数えていないから分からない。ただ——早かった。まだ、と思った。まだ死ぬ歳ではないだろう、と。

 間に合わなかった。——最後まで。

 名前の通りだった。産屋うぶやの屋根がき終わる前に母が消え、名前に「間に合わなかった」を入れられ、何も出来ないまま生きて、孫を抱くのにも間に合わなかったかのように——抱いて、すぐ死んだ。

 ——いや。

 間に合った、のかもしれない。

 抱いた。一度だけ。ぎこちなく、短く。「重いな」と言った。——あれが父の、間に合ったものだったのかもしれない。最後に一つだけ。

 父を埋めた。祖父のそばに。丘の上の、あの木の近くに。

 花びらが散った。少しだけ。毎年減っている。でもまだ咲いている。

 五瀬命いつせのみことが泣いた。また。この兄は泣ける男だ。声を上げて泣ける。——それは強さだ。泣けない男の方が弱い。

 三毛入野命みけいりぬのみことは泣いた。

 稲飯命いなひのみことは泣かなかった。

 俺も泣かなかった。

 母が——父の上に花を置いた。木から散った花びらではなく、どこかでんできた野の花を。小さな白い花。名前は知らない。

「お父様は——聞こえない方でした」

 母が言った。俺にだけ聞こえる声で。

「波も、足の裏も、風も。何も聞こえなかった。何も見えなかった。——だからこそ、静かだったの」

「…………」

「聞こえない人は——聞こえる人の気持ちが分からない。でもお父様は、分からないことを怒らなかった。分からないまま隣にいてくれた。——それだけで十分な人だった」

「…………」

「あなたは聞こえすぎる子だから。聞こえない人の隣にいることの大事さを——忘れないでね」

 忘れない。——たぶん。

 足の裏が——また温かくなった。

 祖父のときと同じだ。上が消えて、下が増える。体が冷たくなって、足の裏が温かくなる。

 ただ——祖父のときほど大きくなかった。祖父は海の底まで行って帰ってきた男だ。温かさの量が違う。父は——日向ひむかの浜から一歩も出なかった男だ。温かさは少ない。少ないが——ある。

 ある。確かにある。

 静かな人は、静かな温かさを残す。大きくはない。強くもない。——しかし消えない。消えないものは消えない。量の問題ではない。

 鵜葺草葺不合命うがやふきあえずのみこと

 名前が長い。事績がない。声が小さい。——この家系の中で、一番地味な人だった。

 しかし——一度だけ、孫を抱いた。「重いな」と言った。海に向かって泣いた。分からないまま隣にいた。

 それだけの男だ。——それだけで、十分な男だった。

 多芸志美美たぎしみみが泣いていた。

 祖父の死が分かったのかどうか——分からない。まだ小さい。分かるはずがない。しかし泣いていた。

 吾平津媛あひらつひめが抱き上げた。泣き止まない。俺が抱いた。——泣き止んだ。

「……あなたの方が良いみたいだね」

「……そうか」

「聞いてるんでしょ。泣き声の中の何かを。だから止まるんだよ」

 聞いていたのかもしれない。泣き声の奥にある、泣いている理由を。理由が分かれば——安心する。聞いてもらえたと分かれば、泣き止む。

 父にはこれが出来なかったのだろう。聞こえなかったから。聞こえない人は抱き方も分からない。——しかし父は、分からないまま抱いた。一度だけ。

 俺は聞こえる。聞こえるから抱ける。聞こえるから止められる。——聞こえることの使い道が、一つだけ分かった。

 子供を抱くこと。泣き声を聞くこと。——それだけだが。

 それだけ、で始まるものがある。

〈第四章・了〉

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