第三章 阿多の海の女
祖父が死んでから——季節が何度か変わった。
丘の木は花を減らしながら、まだ咲いている。兄たちは変わらない。五瀬命が怒鳴り、稲飯命が黙り、三毛入野命が笑う。父は静かに飯を食う。俺は水を汲み、薪を割り、波を聞く。
変わったのは懐だけだ。三つのものがある。いつも。
浜で——女を見た。
朝だった。飯の前。網を見に行く道の途中で。
浜の端。岩場の近く。女が立っていた。裸足で。髪を後ろで束ねて。腰に貝殻の紐を巻いて。
海を見ていた。——見ていたのではない。海に入ろうとしていた。
入った。
歩いて。波を越えて。腰まで。胸まで。——肩まで。頭まで。消えた。
潜った。
——静かだった。波を割る音がほとんどしなかった。水に体を差し込むように入っていった。音がしない潜り方だった。
俺は浜に立って見ていた。——いや、聞いていた。水面の下から、かすかに音がする。水を掻く音。体が深くなっていく音。耳を澄ませば——底の方で貝を剥がす音まで聞こえた。
長かった。息が続くのか心配になるくらい長く潜って——浮いてきた。
水面が割れて、頭が出て、息を吸った。大きく。それから——笑った。手に何か持っていた。鮑だった。大きい。
岩場に上がって、鮑を岩に置いて、また潜った。
三度繰り返した。三度目に上がったとき、俺はまだ同じ場所に立っていた。
——声をかけられなかった。
なぜだ。別に怖くない。女が一人、海で貝を獲っているだけだ。声をかけるだけのことだ。「おはよう」でいい。「良い鮑だな」でいい。何でもいい。
——何も出てこない。
祖父と同じだ。見ているだけ。聞いているだけ。手を伸ばさない。口を開かない。血だ。これは——血だ。
逃げた。網だけ確認して、逃げるように家に帰った。
次の日も——いた。
同じ場所。同じ時間。朝の浜。裸足で海に入って、静かに潜って、鮑を獲って上がる。三度。
俺は——また同じ場所に立っていた。
声をかけなかった。
三日目もいた。四日目もいた。五日目もいた。
俺も五日とも同じ場所にいた。五日とも声をかけなかった。——情けない。ニニギの曾孫が。天孫の血が。花の前で声が出なかった曾祖父と同じことをしている。
血は争えない。——こういうとき使う言葉だろう。
六日目。
潜って、浮いて、岩場に上がって——こっちを見た。
目が合った。
逃げようとした。——遅かった。
「あなた。毎朝いるでしょう」
声が飛んできた。岩場から。波の音を越えて。——よく通る声だった。海の上でも届く声。海人の声だ。波の中で仲間に合図する声。
「…………」
「聞こえてないの?」
「……聞こえてる」
「じゃあ返事してよ。六日も黙って突っ立ってたでしょう。数えたよ」
「……数えてたのか」
「数えた。——気味が悪いかと思ったけど、目が怖くないから泥棒じゃないなと思って。泥棒じゃないよね」
「泥棒じゃない」
「何してるの」
「…………」
「…………」
「……網を見に来てる」
「網はあっちでしょう」
「……ああ。あっちだ」
「こっちを見てたでしょう」
「…………」
「——聞いてたんでしょう」
驚いた。——「見てた」じゃなく「聞いてた」と言った。
「なんで分かる」
「あなた、私が上がってくる前に必ず浜にいる。潜ってるときは見えないのに、上がる前にはもういる。——音で分かるんでしょう。私が浮いてくる音が」
「…………」
「当たり?」
「……当たり」
「変な人」
笑った。岩場の上で。鮑を三つ並べて。濡れた髪から水が落ちて。
——笑い方が良かった。何が良いのか分からないが、良かった。波の音が全部消えて、笑い声だけ聞こえた。そんなことは物の道理としてありえない。波は消えない。消えないが——消えた気がした。
これも血か。曾祖父のニニギも、こうなったのか。花の前で声が出なくなったとき。
「鮑食べる? 一つ余ってるよ」
「……もらっていいのか」
「六日も突っ立ってた人への駄賃。——明日からもいるんでしょ」
名前を聞いた。鮑をもらったあと。
「吾平津媛。——阿多の浜の者。みんなはアヒラって呼ぶ」
「……俺は狭野。あの丘の下の家の」
「知ってる。四兄弟の末でしょう。声の大きい兄がいる家」
「……声は浜じゅうに聞こえてるのか」
「海の中まで聞こえるよ。潜ってても聞こえる。すごいよねあの声」
五瀬命の声は海の底まで届くらしい。そっちの方がすごい。
七日目から——朝の浜が変わった。
網を見に行く。途中で岩場に寄る。吾平津媛が潜っている。上がってくるのを待つ。上がったら話す。少しだけ。
話す、といっても俺はあまり喋らない。吾平津媛が喋る。俺が聞く。——いつも通りだ。聞く係。
「今日は潮が速いよ。底の砂が流れてた」
「ああ。——昨夜、沖の波が変わった。南から押してきてる」
「分かるの?」
「音で」
「便利だね。——私は潜らないと分からない」
「潜れる方が便利だろう。俺は潜れない」
「教えようか」
「……いい」
「なんで」
「水の中は——聞こえすぎる。たぶん」
「聞こえすぎて困ることがあるんだ」
「ある」
「変な人」
また言われた。二度目だ。——嫌な気はしなかった。
通い始めて——季節が変わった。
吾平津媛は毎朝潜る。俺は毎朝聞いている。浮いてくる前に浜にいる。上がったら鮑を一つもらう。それだけの朝が重なった。
母が気づいた。
「最近、朝が早いですね」
「……網を見に行ってる」
「鮑を持って帰ってきますね。網に鮑はかかりません」
「…………」
玉依姫は海の人だ。海のことは全部分かる。嘘をついても無駄だ。
「阿多の海人の娘さんですか」
「……はい」
「良い子?」
「……潜るのがうまい。声が通る。笑い方が——」
「笑い方が?」
「……良い」
母が笑った。——吾平津媛の笑い方とは違う、静かな笑い方で。
「お祖父様に似ていますね。あの方も——海の女の前で言葉が足りなくなる人でした」
「……血ですか」
「血です。——でも、悪い血ではないですよ」
秋の終わりだった。
朝の浜。吾平津媛が上がってきた。鮑ではなかった。手に何も持っていなかった。
「今日は獲れなかったのか」
「獲らなかった」
「なぜ」
「話があるから」
岩場に座った。隣に座れと手で示された。座った。
「狭野」
「ああ」
「あなた、いつまで聞いてるだけなの」
「…………」
「毎朝来て、毎朝聞いて、毎朝鮑をもらって帰る。それをもう——数えるのをやめるくらい続けてる」
「…………」
「私から言わなきゃいけないの?」
「……何を」
「——何をって言うなら帰るよ。明日から別の浜で潜る」
「待て」
声が出た。——出てしまった。「待て」が。
自分でも驚いた。聞く係が、先に声を出した。
「……待ってくれ」
「待ってる。——ずっと待ってた」
「…………」
「六日黙って立ってた人だもんね。言葉が出るまで待つのは慣れてるよ」
「…………」
「……でもそろそろ何か言ってほしいかな」
波の音が聞こえている。低い波。穏やかな朝。——言葉を探した。聞く係は言葉の持ち合わせが少ない。少ない中から——探した。
「……ここに来てくれ」
「どこに」
「丘の下の家に。——俺のところに」
「…………」
「俺は聞くだけの男だ。弓もうまくない。声も小さい。面白いことも言えない。——聞こえるだけだ」
「知ってる」
「知ってて——来てくれるか」
吾平津媛が立ち上がった。岩場の上で。濡れた髪から水が落ちた。朝日が当たって、水の雫が光った。
「遅い」
「……すまない」
「遅すぎる。——でも来た。だからいい」
笑った。あの笑い方で。波が消える笑い方で。
婚礼は簡素だった。
五瀬命が酒を運び、三毛入野命が歌い、稲飯命が黙って座っていた。父は静かに飯を食った。母が吾平津媛の手を取って、何か小さな声で言った。聞こえなかった。——聞こうとしなかった。母と妻の間の言葉は、俺が聞くものではない。
「末の弟が嫁をもらうとはな!」
五瀬命が叫んだ。酒が入ると声がさらにでかくなる。
「しかも向こうから来たらしいな! お前から声をかけたんじゃないんだろ!」
「……うるさい」
「聞いてただけで嫁が来るなら——俺も黙ってようかな!」
「兄上は黙れない体質だろう」
「それは——そうだ!」
吾平津媛が笑った。兄たちも笑った。父も——少しだけ口の端が動いた。
母だけが笑っていなかった。笑っていないのではなく——別の顔をしていた。何かを思い出す顔。淡い青の目が、少し遠くを見ていた。
姉のことを思い出しているのかもしれない。豊玉姫。海の底で——地上の男のところに来た女のことを。
夜。
隣に吾平津媛がいた。初めて。同じ屋根の下に。
「狭野」
「ああ」
「聞こえる?」
「何が」
「何でもいいよ。——今、聞こえてるもの」
祖父と同じことを聞く。あの丘の上で祖父に聞かれたのと同じことを。——不思議だった。
「……波の音。低い。明日は晴れる。風は——止まった。静かだ」
「他には」
「足の裏が温かい。——いつもより少しだけ」
「少しだけ?」
「……人が一人増えたからかもしれない。この家に」
「私が来たから?」
「……分からない。分からないけど——温かい」
吾平津媛が俺の手を握った。冷たかった。海人の手は冷たい。母と同じだ。海の女の手は冷たい。
「私は聞こえないよ。波の音は分かるけど、足の裏は分からない」
「分からなくていい」
「でも——あなたが聞いてるものを、隣で見ていたい。聞いてる顔が好きだから」
「……聞いてる顔?」
「目を閉じて、少し首を傾けて、黙る顔。——最初に浜で見たとき、変な人だと思った。でも良い顔だった」
「…………」
「変な人で、良い人。——それでいいでしょ」
「……ああ。それでいい」
波の音が聞こえている。低い。穏やかだ。
隣に——音がある。吾平津媛の息の音。波とは違う。波より近い。波より温かい。
聞く男の隣に、聞かれることを気にしない女が来た。
——それだけで、浜の夜が変わった。
〈第三章・了〉




