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第二章 祖父の遺品


 十五の年だった。

 あの日の朝も——波の音で目が覚めた。低い波。穏やかな音。晴れる日の波だ。

 ただ一つだけ違った。足の裏が——いつもより温かかった。

 寝ていて気づいた。布の下の床板の下の、地面の奥から。丘のてっぺんにいるときと同じくらいの温かさが、家の中まで来ていた。こんなことは初めてだった。

「……何だ、これ」

 誰にも言わなかった。いつも通り。起きて、水をんで、まきを割って、飯を炊いた。

 五瀬命いつせのみことが浜に出ていった。稲飯命いなひのみことが山に入った。三毛入野命みけいりぬのみことが寝ていた。いつもの朝だ。

 飯を持って丘に登った。祖父の分。

 木の下に——祖父がいた。いつも通り。海を向いて座っている。

 ただ——姿勢が違った。

 いつもは背中が曲がっている。今日は——まっすぐだった。腰が伸びている。若い頃はこうだったのかもしれない。弓を引いていた頃は。

「祖父上。飯を——」

 近づいて、止まった。

 祖父の膝の上に——三つのものが並べてあった。

 一つは花びら。薄桃色の、小さな花びら。いつもふところにしまってあるやつだ。曾祖母そうそぼ——木花之佐久夜毘売命このはなのさくやびめのみことの花びら。

 一つは針。骨でできた釣り針。ゆがんでいる。返しが内側に曲がっていて、明らかに失敗作だ。使えない形をしている。

 一つは——たまが二つ。布に包まれている。布の隙間から、青い光と白い光が微かに漏れていた。

 三つとも、祖父のふところにあったものだ。花びらは知っていた。針とたまは——初めて見た。

「祖父上」

「……ああ。来たか」

 祖父の声が——澄んでいた。いつもより。枯れた声の奥に、若い頃の声が混じっている気がした。

「飯を持ってきました」

「ああ。——食う前に、話がある。座れ」

 座った。隣に。

 祖父は海を見ていた。水平線を。いつもと同じ方向を。

狭野さの。——お前に聞きたいことがある」

「はい」

「聞こえるか」

「……何が」

「何でもいい。——今、お前に聞こえているものを言ってみろ」

 言ってみろ、と言われた。初めてだった。聞こえたことを聞かれたことはある。母に。でも「言ってみろ」は初めてだった。

「……波の音。低い。今日は穏やか。風は北東から。——昼過ぎに南に変わる」

「他には」

「……鳥。丘の東側にたかが一羽いる。鳴いてないけど——羽音が聞こえる。遠いけど」

「他には」

「……足の裏が温かい。いつもより。今朝から。丘だけじゃなく、家の中まで温かかった。初めてだ。——何かが変わっている」

「…………」

 祖父が俺を見た。——初めて、ちゃんと見た気がした。

 いつも祖父は海を見ている。俺と話すときも、海を見ながらだった。今日は違う。海から目を離して、俺の顔を見ている。

たまの音は」

たま?」

 祖父が膝の上の布を指した。青い光と白い光。

「触ってみろ」

 手を伸ばした。布を開いた。

 たまが二つ。

 一つは青い。深い青。海の底の色だ。持ち上げると——手のひらが冷たくなった。重い。石より重い。水を固めたような重さ。

 一つは白い。波の泡の色。持ち上げると——軽い。何も持っていないくらい軽い。手の上で浮いているような感覚。

「……聞こえるか」

 聞こえた。

 ——音がする。

 青いたまから。低い音。海の底の、水が動く音。潮が満ちていく音。地の奥から水が押し上げてくる音。

 白いたまから。高い音。波が引いていく音。砂が乾いていく音。海が遠ざかる音。

 二つの音が——手のひらの上で重なっている。満ちると引くが同時に鳴っている。

「聞こえる」

「…………」

「聞こえます。——二つの音がする。片方は満ちる音。片方は引く音」

 祖父が——笑った。小さく。穏やかに。

「やはりな。——お前だけだ」

「俺だけ?」

五瀬いつせに持たせた。何も言わなかった。稲飯いなひにも。三毛入野みけいりぬにも。三人とも、ただの石だと思った。——お前だけだ。音が聞こえたのは」

「これは何です。このたまは」

潮満珠しおみつたま潮干珠しおふるたま。——海を動かす力だ」

「海を動かす」

「青い方を使えば潮が満ちる。白い方を使えば潮が引く。海の神——綿津見わたつみからもらった」

綿津見わたつみ。——海の底の」

「ああ。俺が若い頃に行った。海の底に。……長い話だ」

「…………」

「長い話だが——短く言う。俺は海の底で女に会った。その女の父が、このたまをくれた。帰るときに」

 祖母のことだ。豊玉姫とよたまひめ。海の底にいる人。

「使ったことがあるのか」

「一度だけ。——兄を従わせるために。力で」

「…………」

「後悔している。力で人を従わせた。同じことを兄にされて嫌だったのに——同じことをした」

 祖父の声が静かだった。後悔の声だ。でも——落ち着いている。何十年も持ち続けた後悔は、もう暴れない。静かに底に沈んでいる。たまの音のように。

「この針は」

「ワニが作った。海の底の案内役だ。……骨を削って釣り針を作ってくれた。二本作って、一本は兄にやった。もう一本がこれだ」

ゆがんでいる」

「削りすぎた。失敗作だ。使えない」

「使えないのに持っていたのか」

「……捨てられなかった。あいつが作ったものだから」

 あいつ。ワニ。海の底の案内役。名前を呼ばずに「あいつ」と言った。——近い呼び方だった。

「返しが内側に曲がっているだろう。——ゆがんでいるが、引っかかる。まっすぐな針より、ゆがんだ針の方が引っかかる場所がある」

「…………」

「使い道のないものにも——使い道はある。いつか。どこかで」

「花びらは——知っています。曾祖母そうそぼの」

「ああ」

「まだ乾いてない」

「乾かない。——何十年経っても。俺が生きている間は、乾かないらしい。……俺が死んだらどうなるかは、分からない」

「…………」

「乾いてもいい。乾いても——花びらだったことは変わらない。形が残っていれば」

 祖父が花びらを持ち上げた。指先で。風に透かした。薄桃色。光が通る。

「母の匂いがする。——俺はこの花びらで母を覚えている。海の底でこれを見せたら、あの女が『きれい』と言った。海の底には花がなかったから」

 あの女。豊玉姫とよたまひめ。——祖母。

 祖父は豊玉姫とよたまひめを「あの女」と呼ぶ。名前を言わない。近すぎて言えないのか、遠すぎて言えないのか。——たぶん、両方だ。

「三つとも、お前に渡す」

「——なぜ俺に」

「言っただろう。お前だけがたまの音を聞いた」

「聞こえただけです。聞こえたからといって——使えるとは限らない」

「使えなくていい。——聞こえることが大事だ」

「…………」

「俺は見る男だった。見ていただけだ。見ているだけで手を伸ばさない男だった。——一度だけ手を伸ばした。産屋うぶやで。見るなと言われたのに見た。それで——あの女を失った」

 産屋うぶやの話。母から少しだけ聞いていた。祖父が約束を破った話。見ないでと言われて、見てしまった話。

「見る男はこうなる。——見えるだけで、見たあとのことは分からない。見えたものに引きずられて、間違える」

「…………」

「お前は聞く男だ。——聞こえるだけで、聞いたあとのことは分からない。俺と同じだ。聞こえたものに引きずられるかもしれない」

「…………」

「だが——見るより聞く方がましだ。見る者は一人で見る。聞く者は——誰かの声を聞ける。声が聞こえるなら、一人じゃない」

 祖父が俺の手を取った。三つのものを、手のひらに載せた。花びら。針。たま

 軽かった。全部合わせても——片手に収まる軽さだった。

「持っていけ。——どこに行くか分からないが、持っていけ」

「どこにも行かない。俺はここにいる。末の子だから」

「…………」

「末の子は家にいるものだ。兄たちが出て——」

「お前はどこかに行く」

 祖父が言った。断言だった。穏やかな声のまま、断言した。

「どこかに行く。——聞こえる者は、聞こえる場所に行く。足の裏が連れていく。止められない」

「……祖父上も、行ったのか」

「行った。——海の底まで。止められなかった。止めようとも思わなかった」

 風が吹いた。

 花びらが——木から散った。曾祖母そうそぼの木の花びら。一枚。二枚。海の方角に飛んでいく。毎年少しずつ減っている花。でもまだ咲いている。根があるから。

 祖父が海を見た。——久しぶりに。俺と話している間は俺を見ていたのに、また海を見た。

「あの海の底に——あの女がいる。道は閉じている。俺が見てしまったから、あの女が閉じた。何十年も前に」

「…………」

「見えないのに毎日見ている。馬鹿だと思うだろう」

「思わない」

「馬鹿だ。——しかし、馬鹿にしか出来ないことがある。見えないものを見続ける。聞こえないものを聞き続ける。——それだけで、根は枯れない」

 祖父が目を閉じた。

「飯、食うか」

「……ああ。食う」

 握り飯を渡した。祖父はゆっくり食べた。歯が少ない。時間がかかる。半分食べて、半分残した。

「もう食わないのか」

「腹が減ってなかった。——顔が見たかっただけだ」

「…………」

「良い顔だ。母に似ている」

 母。曾祖母そうそぼ木花之佐久夜毘売命このはなのさくやびめのみことのことか。祖母の豊玉姫とよたまひめのことか。——聞けなかった。

 丘を降りた。振り返ったら、祖父は木にもたれていた。目を閉じて。

 そのまま降りた。

 夕方、飯を持ってまた登った。

 祖父は——朝と同じ姿勢だった。木にもたれて。目を閉じて。背中がまっすぐで。

 花びらが肩に一枚乗っていた。

「祖父上」

 返事がなかった。

 手を握った。——冷たかった。

 足の裏が——温かかった。朝よりもっと。丘の土から、熱いくらいの温かさが上がってきていた。

 ——祖父が、地面の側に行ったのだと思った。

 体が冷たくて、足の裏が温かい。上が消えて、下が増えた。祖父だった温かさが——地面に混じった。大国主命おおくにぬしのみことの道に。曾祖父そうそふのニニギの温かさに。全部の温かさの中に。

 泣かなかった。

 ——聞こえたからだ。

 足の裏から。何かが。声ではない。言葉でもない。温度が——少しだけ揺れた。「大丈夫だ」という意味に揺れた気がした。

 気がしただけかもしれない。でも——足りた。

 兄たちが登ってきた。五瀬命いつせのみことが泣いた。声を上げて。三毛入野命みけいりぬのみことも泣いた。稲飯命いなひのみことは泣かなかった。俺も泣かなかった。——稲飯命いなひのみことと俺は、泣き方が似ている。黙る方の泣き方だ。

 父が最後に来た。

 鵜葺草葺不合命うがやふきあえずのみこと。静かな父。祖父の前に座って、長く黙っていた。

 何か言ったのかもしれない。聞こえなかった。——いや、聞こうとしなかった。父と祖父の間の音は、俺が聞くものではない気がした。

 夜。

 ふところに三つのものがある。花びら。ゆがんだ針。しおたま

 花びらから——匂いがする。祖父のふところにあった匂いと、その奥の、会ったことのない曾祖母そうそぼの匂い。

 針はゆがんでいる。返しが内側に曲がっている。使えない。——でも、手のひらに収まる。ちょうど握れる形をしている。失敗した形が、手に合う。不思議だった。

 たまが——鳴っている。

 布に包んでいても聞こえる。青いたまの低い音。白いたまの高い音。満ちると引くが、ふところの中で重なっている。

 聞こえる。俺にだけ。

 ——なぜ俺にだけ聞こえるのかは、分からない。聞こえたことが何の役に立つのかも、分からない。

 祖父は「どこかに行く」と言った。足の裏が連れていくと。

 今は——行かない。十五だ。末の子だ。聞こえるだけの子供だ。

 だけどふところが重い。片手に収まる軽さのはずなのに——重い。三つのものを持った人間の重さがある。祖父の重さ。ワニという知らない誰かの重さ。海の神の重さ。曾祖母そうそぼの重さ。

 聞こえる。持っている。——だが使い道が分からない。

 分からないまま、持っていく。祖父がそう言ったから。

 どこに。——分からない。

 分からないことだらけだ。いつも通り。末の子には分からないことしかない。

 ——ただ、足の裏が温かい。今日から、少し多く。祖父の分だけ。

〈第二章・了〉

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