第一章 浜の子
波の音で目が覚める。——生まれたときから、そうだった。
寝ている間も聞こえている。波が岩に当たる音。引く音。砂を削る音。全部違う。朝の波は低い。夜の波は重い。嵐の前は——音が濁る。澄んだ水と濁った水では、音が違う。
目を開けた。朝だ。波は低い。今日は晴れる。
「おい狭野! 水を汲んでこい!」
五瀬命。長兄。声がでかい。朝から。
「……ああ」
「返事が遅い! それと薪! 飯の前に浜の魚も見てこい! 夜のうちに網にかかってるはずだ!」
「……ああ」
「返事が二回とも同じだ!」
「……ああ」
「三回目も同じだ!」
長兄はいつもこうだ。朝が来ると声が大きくなる。鳥より先に起きて、鳥より先に喋る。
俺は四人兄弟の末だ。
一番上が五瀬命。声がでかい。何でも先に立ちたがる。旗があれば持つ。飯があれば先に食う。——しかし弟たちの分は必ず残す。そういう長兄だった。
二番目が稲飯命。無口。弓がうまい。四人の中で一番うまい。——それだけでなく、立っているだけで周りが静かになる男だ。この人が黙っていると、兵でもないのに浜の男たちが自然と並ぶ。理由は分からない。本人も分かっていないと思う。
三番目が三毛入野命。声が高い。何でも面白がる。虫を見つけて面白がる。雲の形を見て面白がる。兄に怒鳴られて面白がる。——この人がいると、周りが明るくなる。五瀬命が怒鳴っても、三毛入野命が笑えば怒鳴り声ごと明るくなる。
四番目。俺。狭野。
末だ。一番下。一番後ろ。
何が得意か。——何も。弓は稲飯命に負ける。声は五瀬命に負ける。面白いことは三毛入野命に負ける。
聞こえるだけだ。波の音が。風の向きが。足の裏の温度が。——聞こえるだけで、それが何の役に立つかは分からない。
水を汲みに行った。山の湧水まで。
道の途中で——丘が見えた。
あの丘。てっぺんに木が一本ある。花が咲く木。花は少しだけ残っていた。毎年減っている。けど——まだ咲いている。
木の下に——人がいた。
祖父だ。
山幸彦。座っている。海の方を向いて。今日も。昨日も。一昨日も。俺が覚えている限り——祖父はあの丘のあの木の下にいて、あの海を見ている。
毎日。ずっと。
海の底には何も見えない。俺の目には。水平線があって、空があって、雲があるだけだ。
祖父には——何かが見えているのかもしれない。海の底に。昔、海の底にいた頃の何かが。
「……おはようございます」
声をかけた。丘の下から。祖父はこっちを見た。——目が合った。
穏やかな目だ。しかし奥が深い。海の色がある。母と同じ色。——いや、母が祖父と同じ色なのか。海の色は、どっちが先か分からない。
「狭野か」
「水を汲みに」
「ああ。……行け」
それだけだった。祖父はいつもそうだ。短い。言葉が少ない。俺と同じで——聞く側の人だ。ただし祖父は「見る」人だった。俺は「聞く」。似ているけど違う。
家に戻った。水を置いた。薪を割った。浜の網を見に行った。鯛が三匹かかっていた。
五瀬命はもう浜に出ていた。漁師たちに声を張り上げている。「そっちの網を引け!」「先に岩の向こうを見ろ!」。朝から全力だ。
稲飯命は弓を持って山に入っていた。いつも一人で行く。
三毛入野命は——寝ていた。
「起きろ。飯だ」
「……もう朝か」
「朝だ」
「……まだ夜の続きが見たい」
「夢の話なら飯を食いながら聞く」
「飯があるのか。——起きる」
この兄はこうだ。飯と言えば起きる。
飯を炊いた。鯛を焼いた。四人で食った。——いや、五人だ。父がいる。
父の名は鵜葺草葺不合命。
——長い。名前が長い。生まれたときに産屋の屋根が葺き終わらなかったから、この名前になったと母が言っていた。葺き終わらない屋根の下で生まれた子。名前の中に「間に合わなかった」が入っている。
父は——静かな人だった。
祖父より静かだ。祖父は海を見ている。見ている以上、何かを探している。父は何も見ていない。何も探していない。ただ——いる。飯の席にいる。浜にいる。家にいる。いるだけだ。
声を聞いたことが少ない。怒鳴ったことは一度もない。五瀬命がどれだけ暴れても、父は黙って見ている。
悪い人ではない。むしろ——優しいのだと思う。ただその優しさが、どこに向いているのか分からない。壁に向かって優しくしているような感じがする。
なぜこうなのか。
母が——少しだけ教えてくれた。
「お父様は、お母様を知らないの。生まれた日にお母様は海に帰ったから」
父の母。祖母。豊玉姫。
海の底の神の娘だったという。祖父と出会い、地上に来て、父を産み——海に帰った。父が生まれた日に。産屋の屋根が葺き終わる前に。
生まれた瞬間に母がいなくなった男。それが——父だ。
名前の中に「間に合わなかった」が入っている理由が、分かる。全部、間に合わなかったのだ。屋根も。母も。
父は飯を静かに食い、静かに席を立った。「うまかった」と小さく言った。——それが今日の父の言葉の全部だった。
昼。浜を歩いた。
足の裏が——温かい。
砂の温度じゃない。砂の下から来る温度だ。地面の奥の、もっと深いところから。
これは——生まれたときからある。
足の裏が温かい場所と、そうでもない場所がある。浜は温かい。山はもう少し温かい。丘の上の、祖父がいる木の下が——一番温かい。
何の温かさか。聞いたことがある。母に。
「それは——道です」
「道?」
「昔、この土地に道を作った方がいます。山に水を通し、田を耕し、国を作った方。その方が歩いた道が——まだ温かいの」
「誰です」
「大国主命。この国を作って——目に見えない世界に行った方。いなくなっても、道だけが残っている。足の裏で分かる人と、分からない人がいます。あなたは——分かる子」
分かる。確かに分かる。だが——何に使えるのか分からない。
温かい場所を踏んで歩ける。それだけだ。温かい場所を踏んだところで、魚は捕れない。弓はうまくならない。兄たちの声は大きくならない。
聞こえる。足の裏で。波の音で。風の向きで。全部聞こえる。——だが「聞こえた」と言ったことがない。言ったところで何になる。末の子が「足の裏が温かい」と言って、兄たちが何と答える。「だから何だ」と言われて終わりだ。
だから黙っている。聞いて、黙る。末の子はそれでいい。
夕方。丘に登った。
祖父がまだいた。朝と同じ場所に。海を見ている。
「……祖父上」
「ああ」
「飯を持ってきました」
「ああ」
隣に座った。握り飯を渡した。祖父はゆっくり食べた。歯が少ない。時間がかかる。
隣にいると——聞こえるものがある。
祖父の体から。音ではない。温度でもない。——匂いだ。花の匂い。かすかに。祖父の懐から。
「祖父上。その匂いは——」
「ああ。花びらだ」
祖父が懐から出した。一枚の花びら。薄い。古い。——しかしまだ色がある。薄桃色の、小さな花びら。
「母上の——花びらだ。俺の母の」
曾祖母。木花之佐久夜毘売命。花の名前を持つ女。祖父が子供の頃に——散った人。
「まだ乾いてないのか」
「乾かない。——ずっと」
「すごいな」
「すごくはない。……ただ、乾かないだけだ」
祖父は花びらを懐に戻した。大事に。——何十年も、ああやってしまっているのだろう。
海を見た。祖父と同じ方を。
何も見えない。水平線と空。雲が赤い。夕日で。
「祖父上。海の底に——何が見えるんです」
「…………」
「毎日見ている。何が見えるんですか」
「……何も」
「何も?」
「何も見えない。——道が閉じている。あの人が閉じた。あの日から」
あの人。祖母。豊玉姫。
「見えないのに——なぜ毎日見るんです」
祖父が黙った。長く。
風が吹いた。花びらが——木から一枚、散った。曾祖母の木の花びら。海の方角に飛んでいった。
「……見えなくても——見る。それだけだ」
「…………」
「お前は聞こえるんだろう。波の音が」
「……聞こえます」
「俺は見える。見えないものを見ている。お前は聞こえる。聞こえないものを聞いている。——似ているな。俺たちは」
「…………」
「お前は俺よりましだ。聞こえているうちは——まだ通じている」
通じている。何と。——聞けなかった。
祖父が立ち上がった。膝が鳴った。腰が曲がっている。昔はもっとまっすぐだったと母が言っていた。弓を引けばどんな獣も射たと。——今はもう弓を引けない。
「降りるか。——暗くなる前に」
「ああ。降りましょう」
丘を降りた。祖父の手を引いて。
足の裏が温かかった。丘の上が一番温かい。降りるにつれて薄くなる。——しかし消えない。浜まで降りても、消えない。
夜。
波の音が変わった。
低い波が——少しだけ重くなった。嵐ではない。嵐の前は音が濁る。これは濁ってない。ただ——重い。遠くから何かが来ている。何かは分からない。大きな魚か。潮の流れが変わったのか。
聞こえる。聞こえている。
——言わない。
言ったところで何になる。「波が重い」と言って、兄が何と答える。「で?」と言われる。その先がない。聞こえたものの意味が分からないのに、聞こえたとだけ言っても仕方がない。
黙っておく。末の子は聞く係だ。聞いて、黙って、明日もまた聞く。
それでいい。——たぶん。
眠る前に。
母が来た。
玉依姫。海の血を持つ人。豊玉姫の妹。白銀の髪。淡い青の目。海の色。——ただ、光が薄くなっていた。母の光は外に出ない。内側にしまってある光だ。昔はもう少し明るかったらしい。年を重ねるごとに、しまう場所が深くなっている。
「今日はよく聞こえましたか」
母はいつもそう聞く。俺にだけ。兄たちには聞かない。
「……普通です」
「波は?」
「晴れ。明日も晴れ。——夕方から少し重くなった。けど嵐じゃない」
「足の裏は?」
「丘が温かい。いつも通り」
「……そう」
母が少し笑った。どこが面白いのか分からない。
「あなたは——聞こえすぎる子ですね」
「聞こえても、使い道がない」
「今はね。——でもいつか、聞こえたことを言わなければいけない日が来ます」
「来ない。たぶん」
「来ます。——あなたのお祖父様も、ずっと見ているだけの方だった。見ているだけで手を伸ばさない方だった。でも一度だけ——見ているだけではいられなくなった」
「…………」
「そのときのことは——お祖父様に聞きなさい。私が話すことではないから」
母が布をかけてくれた。冷たい手だった。海の人の手はいつも冷たい。——しかし布は温かかった。
「おやすみなさい。よく聞こえる子」
「……おやすみなさい」
目を閉じた。
波の音が聞こえる。低い。まだ重い。——何かが来ている。
分からない。何かは分からない。分からないから——聞いておく。聞いて、覚えて、黙っておく。
末の子は、それでいい。
——たぶん。
〈第一章・了〉




