第四十四章 流された子
ある夜。
子供たちが眠り、イスケヨリヒメが眠り、宮が静かになった夜。
目が覚めた。——波の音ではなく。川の音でもなく。何の音でもなく。
足の裏が——冷たかった。温かいはずの橿原宮の床が、一か所だけ冷たかった。冷たくも温かくもない、別の温度。——覚えがある。
熊野の夜。あの木の下で感じた温度。
宮の外に出た。
庭に——黒い炎が揺れていた。
闇の中に闇より暗い炎。——月の光の中で、光を吸い込んでいる炎。
そばに——いた。
小さな姿。灰白色の肌。目のない顔。笑顔。
ヒサメ。
「お久しぶりです」
声が聞こえた。——声ではない。空気の震え。
「——いいえ。お約束通りです。着いたのですね」
「……ああ。——着いた」
「分かります。——着いた者の顔をしています。前にお会いしたときとは違う」
「前は——途中だった」
「途中でした。迷いと痛みと穴を全部持っていた。——今も持っていますね。しかし——足元が違う。足元が定まっている」
「ここに、する——と言った。自分で選んだ場所に」
「はい。——聞こえました。あなたが言ったとき」
「聞こえた?」
「聞こえました。——私には耳がないのですが。あなたが『ここにする』と言った声は——聞こえました。不思議ですね」
「あなたで——五人目です」
「五人目」
「『ここにいる』と言った者を見るのは」
「…………」
「最初は——遠い昔。嵐の男。天から追い出されて地上に降りた男。嵐そのもののような男でした。あの方は——嵐ごとここにいると言いました。荒々しく。激しく。地上を壊しながら」
「…………」
「二人目は——国を作った方。大国主命。あの方は——何度死んでも、何度砕かれても、『ここにいる』と言い続けました。穏やかに。静かに。最後に幽冥に入って——そこでも『ここにいる』と」
「大国主命——足の裏の温かさの」
「はい。あの方の温かさを、あなたはずっと踏んでいましたね」
「……ああ。六十年以上」
「三人目は——あなたのお祖父様のお父様。ニニギ。天から降りてきた方。降りた場所で花に出会って、花のそばで『ここにいる』と言いました。——花びらが、まだ乾いていませんね」
懐に手を入れた。花びらがある。——まだ乾いていない。匂いが残っている。
「四人目は——あなたのお祖父様。山幸彦。海の底に行って帰ってきた方。帰ってきた丘の上で、後悔ごと『ここにいる』と言いました。見てしまった者がここにいる、と」
「祖父は——丘の上で。海を見ながら」
「はい。——そしてあなたが五人目です」
「あなたは——他の四人とは少し違う」
「違う?」
「四人は——『ここにいる』と言いました。場所が先にあって、そこにいると言いました。嵐の中に。国の中に。花のそばに。丘の上に。——場所がまずあって、そこに留まった」
「…………」
「あなたは——『ここにする』と言いました。場所を自分で選びました。聞いて、歩いて、足の裏で選んで——『ここにする』と。五人の中で——あなただけが、場所を選んだ」
「……たまたまだ。足の裏がそう言っただけだ」
「たまたまではないと思います。——四十五年聞いて、十八年歩いて、たまたまの場所に着く者はいません。全部の時間が、ここを選んでいた」
「あんたは——どこにいる」
聞いた。熊野の夜にも聞いた。同じ問いを。
「どこにも」
同じ答えだった。
「私は——葦の舟で流されました。生まれて。形が出来る前に。まだ骨も固まらないうちに——葦の舟に乗せられて、流されました」
「…………」
「着く場所がなかった。どこにも着かなかった。——流されたまま、世界が出来ていくのを見ていました。天が出来て。地が出来て。海が出来て。国が出来て。——全部、きれいでした。しかし私のものではなかった」
「…………」
「五人の方が——『ここにいる』と言うのを見ました。美しかった。根を張る者は美しい。——私には根がない。流されたまま。どこにも着かないまま」
黒い炎が揺れた。——穏やかに。怒りではなく。悲しみとも少し違う。——諦めに近い穏やかさ。
「本当の名を——言います。今まで言いませんでした。あなたが着いたから——言えます」
「…………」
「蛭子」
「蛭子」
「最初の子です。——天と地を作った二柱の神の、最初の子。形が出来なかった子。骨が固まらなかった子。葦の舟に乗せて——流した」
「…………」
「最初の子が——流された。着く場所がなかった。——それ以降、すべての者が『ここにいる』と言えるのに、最初の子だけが言えなかった」
黒い炎が——小さくなった。消えかけている。
「見届けました。五人。——もう十分です。着く者を見るのは、美しい。美しいものを見られたのだから——十分です」
「待て」
「…………」
「待ってくれ」
「……何ですか」
「ここに着け」
「…………」
「あんたが着く場所がないなら——ここに着け。この国に」
「…………」
「この国は——聞いて、歩いて、選んだ場所だ。俺が選んだ。誰に与えられた場所でもない。俺が選んだなら——俺が決められる。誰を迎えるかを」
「…………」
「流された者が着く場所として——この国を作る。最初に流されたあんたが着けない国なら、作る意味がない」
ヒサメが——動かなかった。目のない顔が。笑顔が。——笑顔のまま、止まっていた。
「……着いて、いいのですか」
「聞こえただろう。——二度は言わない」
黒い炎が——変わった。
黒かった。ずっと。闇の中の闇。光を吸い込む炎。——どの作品でも。どの場面でも。黒い炎だった。
色が変わった。
黒が——赤くなった。いや。赤ではない。橙。暖色。焚火の色。人が囲む火の色。——冬の夜に手をかざす火の色。
暖色の炎。
初めてだった。——ヒサメの炎が暖色になったのは。
「…………」
ヒサメの笑顔が——変わった。
目のない顔の笑顔。口元だけの笑顔。——それは同じだ。しかし——笑い方が変わった。穏やかな笑顔から。——嬉しい笑顔に。
嬉しい。——ヒサメが嬉しそうな顔をしたのを、見たことがない。穏やかはあった。静かはあった。きれいだと言った。美しいと言った。——しかし嬉しいはなかった。
嬉しい顔をしている。目がないのに。——嬉しいと分かる。
「……ありがとうございます」
「礼は要らない」
「要ります。——生まれてから一度も、誰にも言われなかった言葉です。『ここに着け』。——一度もなかった。流してから。誰も。一度も」
「…………」
「着きます。——ここに。あなたの国に」
暖色の炎が——大きくなった。宮の庭を照らした。温かかった。黒い炎は温度がなかった。暖色の炎は——温かい。焚火のように。
「着いた場所で——根を出せるか分かりません。私は骨が固まらなかった子ですから。根を出す体を持っていないかもしれない」
「根が出なくてもいい。——ここにいればいい。ここにいるだけで十分だ」
「…………」
「五人見てきたんだろう。『ここにいる』と言う者を。——六人目は、あんただ」
暖色の炎が——ゆっくり消えた。
消えた、のではない。——地面に沈んだ。炎が地面の中に入っていった。温かさが——地面に染みた。
足の裏が——温かかった。ヒサメの炎が沈んだ場所が。大国主命の道の温かさとは違う。もっと古い。もっと淡い。——しかし確かにある。
流された子が——着いた場所の温かさ。
宮に戻った。
イスケヨリヒメが寝返りを打った。
「……どこに行っていたのですか」
「庭に。——客が来ていた」
「客?」
「昔からの知り合いだ。——やっと、着いた」
「…………」
「何でもない。——寝てくれ」
「足の裏が——温かいですね。いつもより」
「……ああ。一人分増えた」
「一人分?」
「……何でもない。——寝る」
〈第四十四章・了〉




