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第四十五章 神武


 朝が来た。

 波の音ではなく。川の音でもなく。——子供の声で目が覚めた。

 日子八井ひこやいが庭で叫んでいる。何を叫んでいるか分からない。声がでかい。宮の壁を突き抜けてくる。——五瀬命いつせのみことの声が帰ってきたようだった。

 神沼河耳かむぬなかわみみは——静かに座っている。庭の隅で。目を閉じて。首を少し傾けて。何かを聞いている。

 隣で——イスケヨリヒメが起きた。

「……朝ですよ」

「ああ」

「今日は——天気が良さそうですね」

「ああ。——風が穏やかだ」

「聞こえますか」

「全部聞こえる」

 宮の前に出た。

 コノハナの木が——育っていた。

 日向ひむかから持ってきた若枝。橿原かしはらの土に植えた枝。——根を出し、幹を伸ばし、枝を広げていた。まだ若い木だ。しかし——花が咲いていた。

 薄桃色の花。小さい。一輪だけ。——一輪だけ咲いていた。

「咲いた」

 日子八井ひこやいが叫んだ。

「咲いたぞ! 花が!」

 神沼河耳かむぬなかわみみが見ていた。静かに。——花を見ながら、何かを聞いている顔で。

 木の下に立った。

 足の裏が温かい。——いつも通り。大国主命おおくにぬしのみことの道の温かさ。大物主おおものぬしの温かさ。そして——昨夜から一つ増えた温かさ。ヒサメの温かさ。淡いが——ある。

 ふところに手を入れた。

 三つのものがある。——ずっとあった。日向ひむかの丘で祖父に渡されてから。六十三年。

 花びら。

 曾祖母そうそぼの花びら。木花之佐久夜毘売命このはなのさくやびめのみことの花びら。薄桃色。——まだ乾いていなかった。六十三年経っても。祖父が死んでも。父が死んでも。妻が死んでも。兄が三人死んでも。——乾かなかった。

 今、木に花が咲いた。曾祖母そうそぼの木に。大和やまとの土で。——もう、一枚の花びらだけで覚えていなくてもいい。木が咲いた。花びらは——根に返していい。

 ゆがんだ針。

 骨の釣り針。ワニが作った失敗作。返しが内側に曲がっている。——帆柱を留めた。魚を釣った。命を繋いだ。腹を満たした。

 ゆがんだ形のまま——全部やった。まっすぐではない形で。失敗した形で。——俺と同じだ。聞こえるのに言えなかった男。言えるようになっても遅れた男。汚い手を使った男。——ゆがんでいる。しかし引っかかった。引っかかって、ここまで来た。

 もう——引っかからなくていい。根に返す。

 しおたま

 青いたまと白いたま潮満珠しおみつたま潮干珠しおふるたま。海の神・綿津見わたつみが祖父に渡したたま

 青いたまだけが応えた。白は——最後まで応えなかった。半分の力。半分しか使えなかった。——しかし半分を繋いで渡った。渦を。海を。山を。

 右手が——少し痛んだ。たまの代償。指が完全には戻っていない。小指がまだ少しだけ曲がりにくい。——代償の跡。しかし記せる。はしも持てる。子供を抱ける。——十分だ。

 たまも——根に返す。海の力を、地の根に。

 木の根元にしゃがんだ。

 土を掘った。両手で。右手の小指が少し痛んだが——掘れた。浅い穴を。根のそばに。

 三つを——入れた。花びら。ゆがんだ針。しおたま

 土をかけた。埋めた。

「返す。——全部、根に」

 祖父の形見。曾祖母そうそぼの匂い。ワニの失敗作。海の神の力。——全部、六十三年持ち歩いた。全部、この木の根元に返す。

 持ち物が——なくなった。ふところが軽い。六十三年間ずっとあった重さが。

 軽い。——しかし寂しくはない。根に返したものは消えない。根を通して木に上がり、枝に渡り、花になる。花びらは花びらに。針は幹の硬さに。たまは水を吸い上げる力に。——形を変えて、残る。

 風が吹いた。

 東から。朝の風。——橿原かしはらの朝の風。

 花びらが——散った。咲いたばかりの一輪から。一枚だけ。

 飛んだ。——西に。

 日向ひむかの方角に。

 来た道を——戻っていく。花びらが。風に乗って。畝傍山うねびやまを越えて。山を越えて。海を越えて。——日向ひむかの浜まで届くかどうかは分からない。しかし西に飛んだ。来た方角に。

 丘の上にまだ木があるだろうか。祖父が座っていた木の下に。花がまだ咲いているだろうか。——もうないかもしれない。あるかもしれない。分からない。

 分からなくていい。——花びらは飛んだ。帰る場所があってもなくても。飛ぶものは飛ぶ。

 目を閉じた。

 聞こえた。——全部。

 足の裏の温かさ。大国主命おおくにぬしのみことの道。大物主おおものぬしの温め。ヒサメが着いた温かさ。——全部が足の裏から上がってくる。

 遠い波の音。——海はここにはない。しかし聞こえる。母が言った通りだ。「海はどこにでもある。浜が変わっても海は同じです」。遠いが——聞こえる。豊玉姫とよたまひめの海。吾平津媛あひらつひめが潜った海。稲飯命いなひのみことが入った海。——同じ海。

 風の歌。——三毛入野命みけいりぬのみことが波の穂を踏んで渡った風。面白い波だと笑った声が、風の中にまだ残っている気がする。気がするだけだ。しかし——聞こえる者には聞こえる。

 花の匂い。——コノハナの花。曾祖母そうそぼの花。祖父のふところの匂い。根に返した花びらの匂いが、もう木から新しく匂っている。

 子供たちの声。——日子八井ひこやいの叫び。神沼河耳かむぬなかわみみの沈黙。多芸志美美たぎしみみが板を削る音。

 イスケヨリヒメの息の音。——近い。一番近い。山の音。温かい音。

 椎根津彦しいねつひこが水路の水をる音。大久米命おおくめのみことの新しい歌。道臣命みちのおみのみことの足音。弟宇迦斯おとうかしの走る音。弟磯城おとしきの声。石押分之子いわおしわくのこの尾が揺れる音。

 畑を耕す音。水路を流れる水の音。くわが土を掘る音。

 ——ここにいる者たちの音が。全部。

 目を開けた。

「ここにいる」

 言った。——声に出して。小さな声で。

 「ここにする」と言ったのは即位の日だ。場所を選んだ日だ。——今日は違う。選んだ場所で暮らして、子供が生まれて、花が咲いて、流された子が着いて。——全部が揃った朝に。

 「ここにする」は——選ぶ言葉だった。

 「ここにいる」は——留まる言葉だ。

 選んだ場所に、留まる。聞いて、歩いて、選んで——留まる。もう歩かない。もう探さない。——ここにいる。ここに、いる。

 五人目が言った。

 最初で最後の、自分で選んだ場所で。

 風が吹いた。花びらがもう一枚散った。——今度は飛ばなかった。足元に落ちた。

 拾わなかった。——もう拾わなくていい。根に返した。花びらは木が持っている。俺がふところに持つ必要はもうない。

 木が持つ。土が持つ。この土地が持つ。——俺が持っていたものは、全部この土地のものになった。

 軽い。

 何も持っていない。——六十三年で初めて。何も持っていない。

 持っているのは——耳だけだ。聞こえる耳。全部が聞こえる耳。

 それだけ持って——ここにいる。

神武天皇——完


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