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第四十二章 婚礼


 母が来た。

 日向ひむかから。——海を越えて。山を越えて。橿原かしはらまで。

 使いを出したのは多芸志美美たぎしみみだった。「祖母に知らせる。——父が嫁を取ると」。俺が頼む前に、息子が動いた。

 玉依姫たまよりひめ橿原宮かしはらのみやの前に立った。

 白銀の髪。淡い青の目。——光が薄くなっていた。内側にしまってある光が、もう奥の奥にしかない。しかし——立っていた。背がまっすぐだった。海の女は背が曲がらない。

「母上——」

「遠かったです。——しかし、間に合いました」

「無理をした」

「無理ではありません。——息子の婚礼に遅れたら、お父様と同じになってしまう。間に合わない名前の人に」

 父。鵜葺草葺不合命うがやふきあえずのみこと。間に合わなかった名前の男。——母は父を持ち出して笑った。笑えるということは、まだ大丈夫だ。

 母がイスケヨリヒメに会った。

 二人が向かい合った。白銀の髪の老女と、黒い目の娘。海の女と、山の女。

「あなたが——」

伊須気余理比売いすけよりひめです。——お母様」

「…………」

 玉依姫たまよりひめがイスケヨリヒメの手を取った。——冷たい手が、温かい手を握った。

「温かい手ですね」

「はい」

「あの子の——前の奥方は、冷たい手でした。海の人でしたから」

「聞きました」

「今度は温かい手なのですね。——良かった。あの子には温かい手が合っている。聞こえすぎる子は——冷えやすいから」

 母が何か小さな声で言った。イスケヨリヒメにだけ聞こえる声で。——俺には聞こえなかった。聞こうとしなかった。母と嫁の間の言葉は、俺が聞くものではない。二度目だ。吾平津媛あひらつひめのときも聞かなかった。

 婚礼は——簡素だった。

 橿原宮かしはらのみやの前で。畝傍山うねびやまが見える場所で。

 酒を出した。飯を出した。——大久米命おおくめのみことが歌を歌った。久米歌ではない。新しい歌。婚礼の歌。畑の歌を作った男が、今度は婚礼の歌を作った。歌う声が——澄んでいた。忍坂おしさかの歌とは違う声で。

 椎根津彦しいねつひこが酒を運んだ。「海の男が陸で酒を運ぶ日が来るとは」と言った。

 道臣命みちのおみのみことが外を見張っていた。婚礼の席でも見張る男。——先鋒の長は休みを知らない。

 弟宇迦斯おとうかし弟磯城おとしきが並んで座っていた。——兄を失った弟と、兄を生かした弟。二人は似た者同士だった。隣で静かに酒を飲んでいた。

 石押分之子いわおしわくのこが——尾を揺らしながら、隅で魚を食っていた。吉野よしのから来てくれた。「飯を食った相手の婚礼には出る。——寝覚めが悪いから」と。同じ理屈で来てくれた。

 全部の血が——集まっていた。

 天の血。ニニギの血。俺の中に。

 地の血。コノハナの血。花の血。短い命の血。俺の中に。

 海の血。豊玉姫とよたまひめの血。玉依姫たまよりひめの中に。俺の中に。

 幽冥かくりよの血。大国主命おおくにぬしのみこと和魂にぎみたま大物主おおものぬしの血。イスケヨリヒメの中に。

 天と地と海と幽冥かくりよ。——四つの血が、一つの家に集まった。

 俺とイスケヨリヒメの子が生まれれば——四つ全部が一人の体に入る。シリーズの——いや、この家系の全部の血が、一つになる。

 多芸志美美たぎしみみが——末席にいた。

 末席。——俺がかつて末子だったように。多芸志美美たぎしみみは息子だ。父の婚礼の席にいる。新しい母を迎える席に。

 嫁がそばにいた。安芸あきの船大工の娘。温かい手の女。多芸志美美たぎしみみは嫁の隣に座っていた。

 複雑な顔をしていた。

 怒りではない。悲しみでもない。——しかし笑ってもいなかった。測る目が——何かを測っていた。父と新しい妻の間の距離を。父の顔を。新しい妻の顔を。——自分の位置を。

 息子の目が——何を測っているのか、俺には分からなかった。聞こえなかった。足の裏でも、耳でも。多芸志美美たぎしみみの心の音は——俺には聞こえない。息子の心は、父には聞こえない。

 気にはなった。——しかし今日は聞かなかった。今日はそういう日ではない。

 夜。

 母が——俺の隣に来た。

「良い婚礼でした」

「ああ」

「良い娘です。——温かい手の娘」

「ああ」

「あの娘の父が——大物主おおものぬしだと聞きました」

「ああ。——三輪山みわやまの」

大国主命おおくにぬしのみこと和魂にぎみたま

「ああ」

「…………」

「母上。——何か」

「いいえ。——ただ、不思議だと思いました」

「何が」

「あなたの足の裏の温かさが——最後に、家族になるのですね。温かさの主の娘が、あなたの妻になる。——道を辿っていったら、道の主の家に着いた」

「……ああ。——そういうことなのかもしれない」

「お祖父様の花びらが——あなたをここまで連れてきた。花びらと、針と、たまと。——そして、足の裏。全部が——ここに着くために」

「…………」

「海の音を覚えていますか」

「覚えている」

「忘れないでくださいね。——山に嫁を持っても。海の音を。お姉様の海を」

 姉。豊玉姫とよたまひめ。——海に帰った女。父を産んで、帰った女。

「忘れない。——波の音は、ここにいても聞こえる。遠いけれど」

「遠くても聞こえるなら——十分です」

 母が笑った。——光が少しだけ表に出た。送り出すときの光ではない。受け取るときの光。息子が幸せになるのを見る光。

 宮に帰った。イスケヨリヒメと。

 隣に——音がある。息の音。山の音。温かい音。

 波の音ではない。川の音でもない。——人の音。隣にいる人の音。

 六十三歳の男の隣に、音が戻った。

〈第四十二章・了〉


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