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第四十一章 三輪山


 イスケヨリヒメをめとる前に——やることがある。

 娘の父に会いに行く。

三輪山みわやまに登る」

 イスケヨリヒメに言った。

「父に——会いに?」

「ああ。……会えるかどうかは分からない。声が聞こえるかどうかも分からない。——しかし、娘をもらうのに父に挨拶しないのは筋が通らない」

「父は——山にいます。山そのものです。姿はありません。声もありません。——母も一度も聞いたことがないと言っていました」

「声は聞こえなくていい。——俺は足の裏で聞く」

「…………」

「あなたの父が温めてくれた道を、六十三年踏んできた。——その道の源に行く。踏んで、聞いて、挨拶する」

「……変な人」

 三度目。——いや、イスケヨリヒメには初めてだ。吾平津媛あひらつひめが三度言った言葉を、別の女が言った。同じ言葉で。

 一人で登った。

 朝。三輪山みわやまの麓。狭井河さいがわのそばから。裸足で。

 山は——低い。畝傍山うねびやまと同じくらいだ。しかし空気が違った。木が太い。古い。苔が生えている。——人が入っていない山だ。熊野くまのの山とは違う暗さ。熊野くまのは毒の暗さだった。ここは——静けさの暗さ。誰もいない場所の暗さ。

 足の裏が——熱かった。

 温かいのではない。熱い。麓から一歩登るごとに温度が上がる。畝傍山うねびやまの麓が温かかったのは——ここから道が通っていたからだ。ここが源だ。源に近づくほど——熱くなる。

 登った。木の間を。獣道を。

 道はなかった。——しかし足の裏が道を知っていた。温かい場所を踏めば、それが道になる。六十三年間そうしてきた。ここでも同じだ。

 汗が出た。——坂が急なのではない。足の裏の熱が体に上がってくる。地面の温度が——体温に混じる。自分の体温なのか地面の温度なのか分からなくなる。

 山頂に着いた。

 小さな空き地があった。木に囲まれた平らな場所。石が一つ。古い石。苔が生えている。——誰かが置いた石ではない。最初からここにある石。山の骨。

 足の裏が——動けないほど熱かった。

 立っているのがやっとだった。膝をつきたかった。——つかなかった。立ったまま。父に会いに来たのだ。膝をつくのは挨拶ではない。立ったまま——踏む。

 聞こえた。

 声ではなかった。言葉でもなかった。

 温度が——揺れた。足の裏の温度が。今まで一定だった温かさが——波のように揺れた。満ちて。引いて。また満ちて。——潮のように。

 しおたまの音に似ていた。潮満珠しおみつたまの音。満ちていく音。——しかし海の音ではない。地の音。地面の底から上がってくる温度の波。

 意味が——分かった。

 初めてだった。六十三年間、足の裏の温かさを感じてきた。温かい場所を踏んで歩いてきた。しかし——意味は分からなかった。「温かい」としか分からなかった。なぜ温かいのか。何が温めているのか。温めている者が何を思っているのか。——分からなかった。

 今——分かった。

 温めていたのだ。——ずっと。道を。

 大国主命おおくにぬしのみことが国を作って、幽冥かくりよに去った。去ったが——魂の半分を地上に残した。和魂にぎみたま大物主おおものぬし三輪山みわやまに宿って、道を温め続けた。

 誰のために。——降りてくる者のために。

 天から降りてくる者が、地上で迷わないように。冷たい場所で凍えないように。——足の裏で聞ける者が一人でもいれば、その者が道を辿れるように。

 温め続けた。ニニギの代から。山幸彦やまさちひこの代から。父の代から。俺の代まで。——何十年も。声は届かなくなった。天孫が降りてから、天と地の間の声が通りにくくなった。しかし温度は残った。声より温度の方が長持ちする。声は風に消えるが、温度は地面に残る。

「……ずっと、温めていてくれたのか」

 声に出した。山頂で。石の前で。

日向ひむかから——ここまで。ずっと」

 温度が——揺れた。答えの形に。肯定の形に。満ちて——少し引いて——また満ちる。

「聞こえていた。——全部。足の裏で。四十五年間、浜で。十八年間、歩きながら。ずっと聞こえていた。——意味が分からなかった。分からなかったが——頼りにしていた。あんたの温かさだけが——一度も嘘をつかなかった」

 温度が——強くなった。一瞬。脈打つように。

「娘を——もらう」

 言った。山頂で。大物主おおものぬしの山で。足の裏が熱い石の上で。

「あんたの娘を。イスケヨリヒメを。——あんたの血と、俺の血を、ここで一つにする」

 温度が——

 止まった。

 一瞬。止まった。満ちも引きもしない。——考えている。大物主おおものぬしが。大国主命おおくにぬしのみこと和魂にぎみたまが。

 長かった。——短かったのかもしれない。足の裏の時間は普通の時間と違う。温度の波が一つ来るのが一瞬なのか一日なのか分からない。

 温度が——戻った。

 温かかった。——熱くはなくなっていた。穏やかに温かかった。怒りではない。拒否でもない。——受け入れの温度。

 良い、と言っているのだと思った。思っただけかもしれない。温度に意志があるかどうか、俺には分からない。——しかし六十三年間、足の裏は一度も嘘をつかなかった。この温かさが「良い」と言っているなら——良いのだ。

 山を降りた。

 足の裏が——穏やかだった。登りの熱さが消えて、降りるほどに温かさに変わった。いつもの温かさ。大国主命おおくにぬしのみことの道の温かさ。——しかし今日からは意味が分かっている。

 温めてくれていた。——ずっと。誰のためでもなく。降りてくる者のために。歩く者のために。

 道を温めるのは——根を張ることに似ている。見えない。目に映らない。しかし——地面の下で、ずっと続いている。

 麓に降りた。狭井河さいがわのそばに。

 イスケヨリヒメが待っていた。

「会えましたか」

「……会った。声は聞こえなかった。しかし——温度で話した」

「温度で」

「足の裏で。——あんたの父は、良いと言った。たぶん」

「たぶん」

「たぶんだ。——温度に意志があるかどうか分からない。しかし温かかった。穏やかに。俺はそれを良いと読んだ」

「…………」

「間違っているかもしれない」

「間違っていません。——父は温かい方です。母がそう言っていました。姿は見えない。声は聞こえない。しかし——この山にいると、足元が温かい。それが父だ、と」

「……同じだ。俺が感じていたのと」

「同じです。——あなたが六十三年感じていたのは、父の温かさです」

 六十三年——この娘の父に温められて歩いてきた。その娘をめとる。

 血が一つになる。天と地と海と——幽冥かくりよの血が。

〈第四十一章・了〉

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