第四十章 狭井河のほとり
狭井河。
細い川だった。三輪山の麓から流れ出ている。水が澄んでいた。底の石が見える。——日向の海とは違う透明さ。海は深くて見えない。川は浅くて見える。
川のそばに——家があった。
小さかった。古かった。壁が傾いている。屋根の草が伸びている。——しかし潰れてはいなかった。誰かが時々手入れをしている。
「母が住んでいた家です。——母が亡くなってからは空いていますが、時々来て、掃除をしています」
「…………」
「粗末な家ですみません」
「粗末ではない。——温かい」
「温かい?」
「足の裏が。——この家の床が。三輪山に近いからだ。温かさの源に一番近い」
「……また足の裏ですか」
「また足の裏だ。——俺にはこれしかない」
中に入った。
狭かった。大人が二人座れば、それで一杯になるくらいの広さ。——橿原宮の半分もない。宮と比べるものではないが。
床に菅が敷いてあった。新しい菅。——今日のために敷いたのだろう。青い匂いがした。草の匂い。
「今朝、敷きました。——古い菅は捨てて、新しいのを」
「…………」
「粗末ですけど——清いものを敷きたかった」
清いもの。——新しい菅。粗末な小屋に清いものを敷く。それだけのことが——十分だった。
二人で座った。向かい合って。
狭い家だった。膝が触れるくらいの距離。——これ以上離れられない。壁があるから。これ以上近づけない。——近づく理由がまだないから。
川の音が聞こえた。細い川の音。石の上を水が滑る音。
「静かですね」
「ああ。——静かだ」
「宮は静かではないですか」
「宮は人がいる。人がいると——音がある。足音。声。鍬の音。全部聞こえる。聞こえすぎると——疲れる」
「聞こえすぎると疲れる」
「聞く係の欠点だ。——耳を閉じられない」
「ここは——疲れませんか」
「疲れない。——川の音と、虫の音と、あなたの息の音だけだ。三つだけなら疲れない」
「私の息の音まで聞こえるのですか」
「聞こえる」
「…………」
「嫌か。——聞かれるのは」
「いいえ。——聞いていてください」
日が傾いた。夕日が小さな窓から差した。菅の床が赤く染まった。
「狭野さま」
「ああ」
「前の奥方のことを——聞いてもいいですか」
「……吾平津媛」
「海に潜る方だったと」
「ああ。——阿多の海人だった。毎朝潜って、毎夕上がってきた。潜る音が静かだった。水を割らずに入る音。——あの音を聞きたくて、毎朝浜に行った」
「…………」
「手が冷たかった。海人の手は冷たい。——しかし布は温かかった。冷たい手で温かい布をかけてくれた」
「……良い方だったのですね」
「良い人だった。——笑い方が良かった。笑うと波が消えた」
「波が消える笑い方」
「あなたの笑い方は——逆だ。笑うと音が増える。全部の音が聞こえるようになる」
「どちらが好きですか」
「…………」
「意地悪な質問でしたね。——答えなくていいです」
「答える。——どちらも好きだ。波が消える方も、音が増える方も。別のものだ。比べるものではない」
「…………」
「吾平津媛は——海の音だった。あなたは——山の音だ。海の音を失って、山の音に出会った。失ったものの代わりではない。別のものだ」
「……嬉しい」
「嬉しいか」
「代わりではないと言ってくれたのが」
夜になった。
帰らなかった。——帰れなかった。足の裏が張り付いていた。温かさに。三輪山の温かさに。この家の床の温かさに。——この娘の隣の温かさに。
「泊まっていきますか」
「……いいのか」
「菅は二人分敷きました。——最初から」
「…………」
「粗末な家ですけど。清いものは敷いてあります」
「十分だ。——清ければ十分だ」
並んで横になった。菅の上に。
天井が低い。手を伸ばせば届く。壁が近い。——小さな家。粗末な家。しかし——今まで寝た場所の中で、一番温かかった。
橿原宮より。日向の家より。船の上より。山の中より。——この粗末な小屋の菅の上が、一番温かかった。
「聞こえますか」
「何が」
「川の音」
「聞こえる」
「虫の音」
「聞こえる」
「私の息の音」
「聞こえる。——近いから。今まで一番近い」
「近いですよ。——壁が狭いから」
「壁のせいか」
「壁のせいです。——壁が狭いから近いのです。私が近づいたのではありません」
「…………」
「…………」
「……嘘だ」
「嘘です。——近づきました。私から」
イスケヨリヒメの手が——俺の手に触れた。左手に。
温かかった。
吾平津媛の手は冷たかった。海人の手。——イスケヨリヒメの手は温かかった。山の手。三輪山の手。大物主の娘の手。
温かい手が——温かい。当たり前のことなのに。当たり前のことが——泣きそうになるほど温かかった。
「……泣いていますか」
「泣いていない」
「声が震えています」
「……震えてない」
「聞く係が嘘をつくのですか」
「……少しだけ。震えている。少しだけ」
「少しだけなら——いいです」
手を握られた。温かい手に。——六十三年分の冷たさが、少しだけ溶けた。少しだけ。
眠った。——波の音ではなく、川の音で。
隣に音があった。息の音。波より近い。波より温かい。——久しぶりだった。隣に息の音があるのは。
久しぶりすぎて——何年ぶりか数えなかった。数えない。もう数えない。記す係の仕事は終わった。
数える代わりに——聞いた。隣の音を。全部。朝まで。
〈第四十章・了〉




