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第三十九章 丹塗矢の娘


 通った。

 二日目。三日目。四日目。——毎日通った。散歩として。大久米命おおくめのみことは二日目から付いてこなかった。「もう一人で行けるでしょう」と。行ける。行けるが——声は出ない。

 イスケヨリヒメは毎日いた。高佐士野たかさじのに。花を摘んでいた。——七人の乙女は日によって数が変わったが、イスケヨリヒメだけは毎日いた。

 話した。——俺が聞いて、イスケヨリヒメが喋る形で。吾平津媛あひらつひめのときと同じだ。聞く係は聞く側に回る。

狭野さのさま。——今日の花はこれです」

「……ああ」

「名前を知っていますか」

「知らない。——花の名前は詳しくない」

「覚えてください。——この土地で暮らすなら」

「……覚える」

「これは竜胆りんどう。秋に咲く。青い花。——あちらは女郎花おみなえし。黄色い。細い。風に揺れる花です」

 花の名前を教わっている。——六十三歳の国の主が。花を摘む娘に。

 五日目。

 二人で野を歩いていた。他の乙女たちは少し離れたところにいた。——気を遣われているのだろう。六十三歳の男と娘が二人で歩いている姿は、気を遣うに値する光景だ。

狭野さのさま」

「ああ」

「今日は——聞いてもいいですか」

「何をだ」

「あなたのこと。——日向ひむかから来たと聞きました。十八年かけて」

「ああ。——長い話だ」

「長い話は好きです」

 話した。——少しだけ。浜で育ったこと。祖父がいたこと。兄が三人いたこと。妻がいたこと。息子がいること。東に来たこと。——全部は話せなかった。忍坂おしさかの話はしなかった。長髄彦ながすねびこの話もしなかった。

「お兄様は——三人とも」

「三人とも亡くなった。道の途中で」

「…………」

「一人は矢に射たれて。一人は海に入って。一人は波の向こうに行った」

「……波の向こうに?」

「笑いながら行った。——面白い波だ、と言って」

「……不思議なお兄様ですね」

「不思議な兄だった。——いなくなってから、もっと不思議に思える」

「私のことも——聞いてくれますか」

「聞く。——聞く係なので」

「聞く係?」

「……昔の癖だ。何でも聞く」

 イスケヨリヒメが話した。

「私の母は——勢夜陀多良比売せやだたらひめ三輪山みわやまの麓に住んでいました」

三輪山みわやま

「あの山です。——盆地の東に見えるでしょう。丸い山」

 見える。畝傍山うねびやまの向こうに。丸い山。——あの山のことだ。

「母は川のそばに住んでいました。狭井河さいがわという川の。——ある日、川を流れてくるものがあった」

「何が流れてきた」

「矢です。——赤い矢。で塗った矢。きれいだったので拾い上げた。家に持って帰った」

「…………」

「その夜——矢が男になった」

「矢が男に」

「母がそう言っていました。赤い矢を枕元に置いて眠ったら、朝になると矢がなくなっていて、代わりに男がいた、と」

「…………」

「その男が——私の父です」

「男の名は」

大物主おおものぬし三輪山みわやまの神。——矢に姿を変えて、川を流れて、母のもとに来た」

 大物主おおものぬし

 足の裏が——ざわついた。

 大物主おおものぬし三輪山みわやまの神。——大国主命おおくにぬしのみこと和魂にぎみたま

 母から聞いたことがある。遠い昔に。日向ひむかの浜で。

大国主命おおくにぬしのみことは——目に見えない世界に行きました。しかし魂の半分は地上に残った。和魂にぎみたま。穏やかな方の魂。——三輪山みわやまに宿っている、と聞いています」

 大国主命おおくにぬしのみこと和魂にぎみたまが——三輪山みわやまにいる。大物主おおものぬしとして。

 俺の足の裏の温かさは——大国主命おおくにぬしのみことの道だ。国を作った神が歩いた道が、まだ温かい。その温かさが——大和やまとの盆地で一番濃い。

 その温かさの——主の娘。大物主おおものぬしの娘。大国主命おおくにぬしのみこと和魂にぎみたまの娘。

 足の裏の温かさが、この娘の前で一番強くなる理由が——分かった。

「どうしました。——顔色が変わりましたよ」

「……いや」

「何か聞こえましたか」

「……聞こえた」

「何が」

「……あなたの前だと、足の裏が——」

「足の裏が?」

「——何でもない」

「何でもなくないでしょう。足の裏が、何ですか」

「…………」

狭野さのさま。——聞く係なのに、言わないのですか」

「……温かい。足の裏が。あなたの前だと——一番温かい」

「…………」

「今まで歩いてきた場所で——一番。日向ひむかの丘より。畝傍山うねびやまの麓より。——あなたの隣が、一番温かい」

 イスケヨリヒメが——俺を見ていた。黒い目で。奥に別の色がある目で。——あの色は何だろう。見たことがない色だと思っていた。

 大物主おおものぬしの色だ。大国主命おおくにぬしのみことの色だ。——温かさの色。足の裏で感じていた温かさが、この娘の目の中にある。

「足の裏が温かい、というのは——褒め言葉ですか」

「……分からない。褒め言葉かどうか」

「私は——褒め言葉だと思います」

「…………」

「足の裏で選ばれるのは——初めてですけど」

 笑った。音が増える笑い方で。——全部の花が一斉に音を出した気がした。気がしただけだ。花は音を出さない。出さないが——聞こえた。この娘の笑い声と一緒に。

 六日目。七日目。

 通った。七回通った。——散歩の口実はもう要らなかった。六日目からは「会いに来た」と言った。大久米命おおくめのみことが「やっと正直になりましたね」と言った。殴りたかったが殴らなかった。

 七日目の夕方。イスケヨリヒメが言った。

狭井河さいがわのそばに——母の家があります。今は空いています。——来ませんか」

「……行く」

「明日?」

「明日。——明日行く」

「足の裏で選んでくれた人と——母の家で会いたいと思いました」

「…………」

「父の矢が流れてきた川のそばで」

〈第三十九章・了〉


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